[ 昨年の10月、あるネット上のアイドルが亡くなった。才能も人気もある女性作家だった。「Contact Me」の頁にキリ番のコーナーがあるが、そこに小生も一時は交流の機会に恵まれたその方の名が書いてある。互いにキリ番をゲットし合っては、相手に小説のテーマを提示し、掌編を書き合ったものだった。年齢も、小生とほぼ同じだった。その方が、ますます才能が花咲き、あれこれやりたいという意欲満々の盛りに、惜しくも亡くなられたのである。その追懐の意味もあり、葬送(埋葬)関連の文章を載せる。直接は、彼女に関係ないが、書きながら、その方を脳裏に浮かべなかったわけではないのだった。いずれも、メルマガにて公表済みであり、その再掲である。 (04/10/17 up時記す) ]
48.葬送のこと、祈りのこと
49.葬送のこと、祈りのこと……後日談
50.埋葬について、あるいは死の形
48.葬送のこと、祈りのこと
正月早々、葬送の話など縁起でもないと思われるかもしれない。
でも、たまたま正月に田舎で見たテレビ番組で、死を間近にしたり、あるいは
強烈に意識したり、そうでなければ、死去という悲しい別れを体験したりといっ
た話が扱われていたので、ついつい、では、もし自分が死んだらどうなるのだろ
うなどと、チラッとだけれど考えてしまったのである。
といっても、死とは何かという重いテーマを扱うつもりなどない。ちょっと小
生には荷が重い。まあ、せいぜい死の形、もっと表面的には埋葬の形・方法とい
うことであれこれ見てみたいと思うだけである。
自分が死ぬ時、どんな形式が一番、望ましいか。折に触れて考えたことがある
ような気がするが、今一つ、現実的に考えたことはなかったように思う。逆に切
羽詰っていて、本当に死に直面した時は、埋葬の形どころではなくて、死に物狂
いの苦しみに七転八倒するばかりだった。
結局のところ、埋葬の形は、必ずしも慌しくないしかるべき時に、つらつら思
いをめぐらしておくのが、いいのかなと思う。で、正月など、年も改まったこと
だし、思いを新たにする意味でも、そんなことを考えるには最適ではないにしろ、
そんなに見当違いでもないと思ったわけである。
埋葬の形としては、それこそ千差万別とまではいかないにしろ、大まかに分け
ても数種類のものがある。水葬に、風葬に、火葬に、空葬、土葬である。こう並
べていくと、ちょうど、宇宙の根元が列挙されているようである。
つまりは、人間(に限る必要はないのだろうが)が還るべき場所は、土(地)、
水、風(火、または空)、以外にはないということなのだろうか。尤も、近い将
来は、宇宙葬なんてのも加わりそうだが、まあ、これは、大きな意味での風(火、
または空)葬ということになるのかどうか。
さて、別に殊更に説明などする必要もないだろうが、土葬、水葬、風葬、火葬、
空葬などについて、簡単に見ておくほうがいいだろうか。
今でこそ葬送の在り方としては日本においては火葬が当たり前になっている(土葬なども行われているが)。というか、都会
の人、あるいは若い人にとっては、火葬以外の葬送の方法など目新しいか、不思
議な光景に映るかもしれない。特に、土葬というと、何か不気味な印象さえ受け
かねない。
小生にしても、火葬が葬送の方法としては当たり前だと思い込んできたので、
土葬など、何か時代錯誤のものか、そうでなければ山間僻地か離島での消えつつ
ある野蛮な風習くらいに思っていた。
死骸が土の中で段々に腐って、やがて蛆や細菌どもの餌食となり、ついには土
に還るのだとしても、何処かやはり不気味なのだ。この不気味さという感覚は、
胸のどこかに死骸など早くこの世から消えてなくなって欲しい、できればそもそ
も人間の死体など目にしたくないという嫌悪感さえなくはないように思える。悲
しいが、正直な感覚なのだ。
けれど、この土葬は、一世代か二世代前までなら、当たり前の葬送だったこと
も事実である。そもそも火葬に付すなど、ちゃんとした火葬場が整い、かつ、そ
の火葬場に葬送を依頼できる経済的余力も必要で、貧しい時代には、宗教的には
既に常識の範疇に入り込んでいたとしても、大方の庶民には縁遠い方法だったの
かもしれない。
しかし、その土葬にしても、ただ、死骸を穴を掘って放り込むわけじゃなく、
ご遺体はちゃんと棺桶に収まっていて、何処の所定の場所に埋葬するにしろ、そ
の棺桶がきちんと土の下に隠れるほどに掘る必要があり、なかなかの労力が必要
だったはずなのである。
恐らくは、棺桶が一般化する前は、死骸が何かに巻かれたりして、そのまま葬
られたのではないかと推測される。この辺りは、また別の機会に調べてみたい。
容易に想像が付くように、この棺桶のままに土葬するという方法は、狭い日本
においては、用地確保の面からもなかなかに困難が伴っただろうと思われる。早
晩、死骸が土に還るまで余り人は近づけないことを考えると、棺桶を収める土地
だけではなく、衛生上の問題も含め、一定以上の近付き難い領域を確保しておく
必要があるのだし、土葬は現実的な方法ではなくなる宿命にあったのだろう。
さて、昭和のある時期、埋葬法の改正もあって、土葬が火葬に切り替わってい
ったという:
http://yasurakaan.main.jp/st1-2.htm
このサイトにもあるように、土葬だと、人が死ぬと土に還るということがつく
づくと実感されたことだろう。それが火葬になると、火葬場の煙突から煙が出て、
ああ、人が死んだら煙になるんだな、残るのは灰と骨だけなんだなと思うしかな
くなってしまった。人が死んだら、煙と灰と骨。土に還るというのは、幾分、遠
い感覚になってしまったわけである。
水葬というのは、多くは海での葬送である。といっても、さすがにご遺体がそ
のまま海に流されるのではなく、火葬に付された遺骨が流されるわけである:
http://yasurakaan.main.jp/st1-3.htm
空葬に移る前に風葬に触れておこう。風葬というのは、遺骸を山のどこかに置
き、鳥などに処理を任せることになる。つまりは鳥葬ということだろう。仏教で
は鳥葬を風葬と呼び慣らしているのではなかろうか(誰かご教授願いたい)。
鳥葬というと、誰しもチベットを思い浮かべるに違いない。何かの写真集で鳥
葬を、つまりは鳥が死骸の腸(はらわた)などを啄ばむ様子を見て、ショックを
受けた覚えがある。なんて残酷な風習だろうと思ったものだったが、鳥に死骸を
食わせるというのは、つまりは風に還らせるという意味合いらしいのである。
この鳥葬(風葬)の様子を実見した記録を以下で読むことができる:
「チベット旅行記(下)」(河口慧海)
http://www.gutenberg21.co.jp/tibet2.htm
さて、空葬は風葬に近いように聞こえて、実際はまるで違う。ヘリコプターや
セスナをチャーターし、空に散骨するわけである:
http://yasurakaan.main.jp/st1-4.htm
このように見てくると、少なくとも日本に関しては、埋葬(葬送)の場所は、
空や海、土といろいろあっても、基本的には火葬が葬送の根本にあることには変
わりがないようである。
つまり、まず、ご遺体を荼毘に付す、イコール、火葬にする。その上で、本人
の希望で遺骨が海か空か土に散骨されるわけである。
ということは、遺骨にこそ、亡くなられた方の魂なり思い出なり思い入れなり
があるということなのだろう。が、幾度も参照しているサイトを改めて参照する
と、「骨には魂は付着してい」ないのであり、「よく考えてみれば、水や火・風・
空の要素は完全にお返しして何とも思わないのに、骨だけにこだわるのはおかし
なこと」なのである:
http://yasurakaan.main.jp/ss1-5.htm
ただ、そうはいっても、肉も血も髪も(遺髪を残せば別儀だが)爪も皮も内臓
も全て灰燼に帰してしまい、残るのは遺骨だけという現実からしたら、そしてお
墓も小さくなる一方なのだとしたら、僅かな遺骨を大事にするしかないというこ
となのだろう。
遺族がいて、遺骨を多少なりとも大事にしてくれるなら、また、そうされるこ
とを望むなら、その慣習の流れに乗るのが心の平安に繋がることでもあるのだろ
う。
が、宇宙から見たら、海だろうが空だろうが土だろうが、大した違いなどない
ということも事実に思える。それだったら、どうせ遺骸は火葬されるのだし、遺
骨が空葬されようがどうしようが関係ないということでもあるのかもしれない。
それとも、遺骨などではなく、DNAを遺しておこうか。
一体、この世に何が残るのだろうか。そもそも何か残したいのだろうか。この
掛け替えのない自分。確かに自分というのは一人しかいないし、段々自分のこと
を気遣うのは自分しかこの世にないのだと、しみじみと感じてきている。
だから、その意味で世間に迷惑を掛けないよう自分のことは自分で始末をつけ
たいとは思うけれど、さて、それも生きている間のことで、その後のことは、ど
う思えばいいのだろう。
ここで思うのは、一頃流行ったカオス理論でのバタフライ効果って奴である。
まあ、正確さなど一切、度外視して説明すると、逐一の些細な差異が、継続し
て加算・加重されると、後に至っては非常に大きな違いとなる、という理屈であ
る。
で、敢えて卑近にも自分のことを思うなら、ここ、この世の片隅に一個の平凡
なる人間がいる、それは極小の小宇宙に過ぎない。そして、その取るに足りない
人間のささやかな思いや願いや祈りや期待など、それこそ蝋燭の焔であって、気
紛れな風の一吹きで掻き消されるような、存在自体があやうい、あれどもなきが
如きものでもある。
けれど、そのちっぽけな存在者の小さな窓からは、その気になれば宇宙だって
見えるし感じることもできる。窓の隙間からは、隙間風だって吹き込む。その風
は、宇宙の隅々に吹き渡るものであり、無辺大の宇宙のどんな片隅をも吹き渡り
撫で来り、その臭いを嗅ぎ、そして運ぶ。
ここにいる<わたし>が思うことは、つまり、決して消えることなどありえな
いのだ。一滴の血の雫が海に溶ければ、限りなく拡散し、海の青に染まり行くの
だとしても、だからといって血の一滴が消え去ったわけでもなければ、まして無
くなったわけでは決してないのだ。
形を変え、色を変え、結びつく相手を変えて、永遠に生きる。一旦、この世に
生じたものは決して消えない。消すことは叶わないのだ。一旦、為した善事も悪
事も無かったことに出来ないように。
だから、自分というちっぽけな人間が、世の片隅に生きて、平平凡凡と生きよ
うと、その心と体の中に何事かを祈念する思いがあるなら、既に永遠の命が約束
されたも同然なのだ。なぜなら、一旦、この世に生じたものは、なかったことに
することなど人間には不可能なのだから。
だからこそ、祈り、というのは、奇跡の営みなのであろう。祈りを知る人こそ、
人間の究極の業(ごう)を知る人なのだろう。人間とは、つまるところ、祈りな
のだと小生は思っている。
この世のどこかに何かが萌す。それは命の賛歌なのか、生への盲目的な意志な
のか、その正体など誰にも分からない。
ただ、一旦、萌した命の芽吹きは踏みつけにされ命を断ち切られたとしても、
この世からは消えることは無い。消えたように見えても、また、どこかに生まれ
る。踏み躙られた苦悩と恨みと望みとが、生まれいずることのなかった命への執
念を以って、再びどこかに萌す。
そしていつかはどこかで大輪の花を咲かす。萌し、やがては芽吹き、花が咲く
というのは、夢物語ではなく、宇宙の摂理なのだと小生は思っているのだ。
04/01/05 記
49.葬送のこと、祈りのこと……後日談
表題の雑文を書いたのは、4日の夜。年初のメルマガに何か記事を載せるに当
って、何がいいか考えた。で、正月の間に書いた文章を載せるのもいいけど、せ
っかくなので何か書き下ろしたいと思った。
ふと、土とか水とか風とか宇宙というキーワードが思い浮かんだ。で、この目
出度さの気分も覚めやらぬ松の内ではあるが、葬送について調べながら、何か書
こうと思い立った。なんといっても、地水火風と直結しているのは葬送なのだか
ら(強引?)。
7日の朝日新聞にチベットの鳥葬の記事が載っていることにびっくり。しかも、
8日の朝日の「天声人語」では、同じくメルマガで紹介した河口慧海の「チベッ
ト旅行記」までが引用されている。
偶然だろうけれど、ちょっとびっくり。ただ、記事にもあったが、ハゲタカが
遺体を敬遠する理由として、人体に蓄積する化学物質が影響しているという見方
は、無理があると思う(ハゲタカさんたちには申し訳ないが、化学物質の混入を
味などで識別できるとは到底、思えないし)。
それとも化学物質が含まれていると味が不味くなるのか…。
記事を読んでも、人体に蓄積する化学物質とハゲタカが遺体を敬遠することと
の相関が説得力のある形では示されていない。そもそも、チベットの方たちの体
に化学物質が蓄積していることについての科学的なデータなり根拠も示されてい
なかったような。
「文明」について考えるのは結構だが、化学物質というより、もっと単純に、チ
ベットでも飽食の波が押し寄せており、ハゲタカにとっては、餌は他でも確保で
きるということなのだと思う。但し、この見解も推測である。
さて、ネットでチベットの鳥葬を検索したら、以下のようなサイトが見つかっ
た:
http://now.ohah.net/amala/tibet1.html
観光としての鳥葬事情が分かって興味深い。というか、鳥葬がツアーのスポッ
トになっている、それも日本人の観光客が主な目当てらしいことには、何か寒々
しいものを感じてしまった。
04/01/08 記
50.埋葬について、あるいは死の形
ちょっと陰気な話題で申し訳ない。寄る年波もあるのでつい、よしなし事を思ってし
まうのか、それとも暑さにやられたせいかもしれない。
もっとも、直接的な切っ掛けは、過日、友人連と熱川で温泉泊と洒落た際、つもる話
題の中で、何故か死の形について話が及んだせいもある。
それに昨日、車を利用した仕事をしている小生なのだが、世の大方の人は三連休とい
うことなのか、暇と退屈のあまり、車中で『看護婦は家族の代わりになれない』(宮内
美沙子著、角川文庫刊)を読み込んでしまったせいもあるようだ。
その中では別に主題がターミナルケアというわけではないのだが、その著者である看
護婦の宮内女史が著書の中で、院内で数々、見送ってきた死の形を語っていて、身につ
まされる感があったのである。
それというのも、友人連のそれぞれが父の死を最近看取り、あるいは兄弟の自殺を経
験し、身近な親族のあまりに長い寝たきりの生活云々と、あまりに考えさせられること
が多かったからである。
『広辞苑』によると、埋葬とは「死体を土中に埋め葬ること。遺骨などを埋め葬ること
」とある。
とするとタイトルとして埋葬という言葉を選んだのは適切ではなかったかもしれない
。
が、そんなことはいい。土中というのを広く解釈してもらえばいいのだ。所詮は、こ
の世は土と風と水の世界なのだし。
宮内女史の本の中では多くの末期の患者が、家庭での(家族に囲まれての)死に恵ま
れず、多くは病院での密室の中での死を迎えることを余儀なくさせられていることを、
語っていて、現代の在り方を考えさせられたのである。
末期ガンやエイズで延命治療を施されて、苦しみぬいての死を全うすることほどに悲
劇はない。特にエイズ(薬害ではなく東南アジアでの感染などによるもの)の方の場合
、家族にも見放されて孤独な死を迎えることが多いという。今も偏見に苦しめられてい
るのだ。
薬害ではなく性的交渉によって感染したということは、論を待たずに浮気か遊びかは
別にして妻以外の女性との性的接触があったことを意味する(治療の際、輸血の血液が
エイズ汚染されていたケースもあるが)。
妻でなくとも、汚らわしいと思うことだろう。
が、人間として男として夫として完璧な男など、一体どれほどいることだろう、なん
て思いが脳裏を掠めても、弁解にも何にもならない。
さて、エイズのことは今はさておき、この日本では埋葬の場所が非常に限られてきた
ようである。とうとう都会(に限らず)では、団地風の墓地も登場している。駅にある
コインロッカーを多少、豪華な化粧を施したような、巨大で高層の墓地団地である。
あと、ホンの僅かすれば、選択の余地なく、ああした墓地に埋骨(というより整骨)
されるわけである。
今、その一方で、従来の埋葬法ではなく、風葬や鳥葬(これはさすがに日本では少な
い)水葬、散骨葬などが人気を得ている。
何処かの土地に埋葬するのではなく、実際、故郷に拒否感を抱いていたり(あるいは
拒否されていたり)して、あるいは従来の宗教的風習や土壌そのものに対して拒否感を
抱いていたり、更には、自らの存在そのものへのニヒリスティックな感覚に忠実だった
りして死後は、火葬にした後、焼け残った骨は何処ぞの空か海か森か谷にで吹き飛ばし
てもらえればそれでいいという形もある。
日本という国は、いつからか非常に息苦しい世界になってしまった。それはつまりは
、生き苦しい世界であることの裏腹なのだろう。
生きている以上は何かをするし、何かの役割を果たす。それは三つ子の魂の中に刷り
込まれた倫理か論理か性癖か意地か分からないが、ともかく自殺には逃げられないし、
かといって今更、精神的に豊かな生活など論外であることを重々自覚している中で、さ
て、わずかに自分の自由になることといえば、死んだ後に、灰を空中に撒き散らし、骨
を粉々にして吹き飛ばしてしまえること、それくらいしか思い浮かばないのである。
死に至るまで、生きている生活の中の不可視の監視に縛られ、息が出来ず、結局は死
さえもがままならない。従って、せめて死んだ後、灰と骨は中空に散布することを夢見
ているのである。その日の来ることだけが楽しみなのだ。
自分らしく生きること、それは至難の業である。
それは、言葉を変えて言うと、自らを知る、というのに等しい。
更に突き詰めて言うと、悟りを開くにも似ている。
つまり、不可能だと言っているわけである。
森の中で禁断の木の実であるリンゴを齧った記憶もないのに、気が付いたら楽園を追
い出されていて、普段の衝迫心にひたすら駆り立てられている。かといって、老いを迎
えるに至る今も何らの方向性を、その予感すら見出すことが出来ずにいる。
小生にしてもそうだが、友人連も団塊の世代から半世代、遅れた世代である。中途半
端な世代なのだ。高度成長経済の波に一時だって乗ったことはない。かといって、その
後の反省の世代でもなく、中途半端な乗り切れない波の悪戯に彷徨う世代だったのであ
る。
決して醒めているわけではない。が、熱さを覚えたこともない。
さて、今の日本に何があるのだろう。改革を叫ぶのもいい、不良債権の処理も必要な
のだろう。が、その後が見えない。何のための改革なのか、改革した後、一体どうなる
のか何も見えない。改革の果てに、結局、富を持つものが一層、富を増し、貧しきもの
は一層、貧困の底を這う。そんな悪夢の日がやってきそうで怖い。
地域が破壊され、家族がバラバラに分断され、死と悲しみは一人で抱え、喜びは富者
に吸い上げられ、さて、生きている中に語るべき何があるというのか。
01/07/23 記

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