いつか生まれた叡智、他(31−33)

 



 
 [本稿は、書評エッセイの頁「ダニエル・デネット著『ダーウィンの危険な思想』の周辺」からの転載です。(04/03/21 up)]




31.いつか生まれた叡智

32.叡智 はるかに

33.美女と野獣と叡智と




31.いつか生まれた叡智




 いつかしれない遠い昔、宇宙が生まれたように、いつか知れない遥かな昔、銀河 が生まれ太陽系が生まれたように、遥か数十億年の昔、原初の生命が生まれたのだ という。
 それはウイルスのごときものから始まり、やがて一個の原始的な細胞へと進化し た。
 そしていつか複数の細胞が寄り集まった細胞の群れとなり、寄り合わさって内部 構造を持つ細胞へ、さらには光を食することで自立できる植物細胞から植物細胞に 依存する動物細胞が分化した。
 そうした時からさえも時は流れ、目も眩むような多様な生物相を示すようになっ たのである。
 今、ウイルスから植物群から動物群まで相互依存しつつ共生しているなかで、人 類に一番近い動物種というと、チンパンジーになるらしい。なかには鯨やイルカに 親近感を抱く向きもあるが、遺伝学的には僅か数百万年前に共通の枝から分枝した 仲間ということになっている。
 確かにテレビや動物園で見ると、チンパンジーの仕草や表情は、時に愛くるしい。 極めて<人間的>に映るのも事実だ。
 が、そのチンパンジーは、別に敢えてダニエル・デネットの『ダーウィンの危険 な思想』から引用しなくても、動物園などで馴染みのライオンもチンパンジーも、 「同種間での死闘に加わることが知られるようになったし」「ラングール(ヤセザ ル)のオスは、メスのラングールの生殖的アクセスを得るために、他のオスから生 まれた子供たちを殺してしまうことが多い。だから、私たちに最も近い親類たちで も恐ろしい振る舞いに加わっているわけである」。
「ウイリアムズの指摘によれば、これまで注意深く研究されてきた哺乳類のいか なる種においても、そのメンバーが同種の個体殺しに加わる割合は、アメリカの どんな都市で測られた最高の殺人発生率よりも数<千>倍も大きいのだという」 (p.640)
 こうした観察というのは、テレビではほとんど触れないか、さっさと通り過ぎる し、ましてそんな<残虐な>映像を流すことなどまず考えられない。
 だからといってチンパンジーに抱く親近感は必ずしも薄らぎはしないが、ともす れば<平気で>同種殺しをし、且つ<平然>としている存在なのだとしたら、そう した<仲間>とわれわれが遺伝子的に極親しいのだとわかっていても、心情的には かなり遠く隔たったのだとは、冷静に考えると理解せざるを得ない。
 母なる自然に抱く人間の情というものは、深く熱い。が、その<自然なるもの> は、当然のことながら、われわれが勝手に思い入れる優しい自然像なのである。そ のいい気な自然像を描きがちなわれわれに対しニーチェは、痛烈に皮肉を放ってい る(以下は、デネットの同書に引用されているニーチェの言葉『善悪の彼岸』信太 正三訳、ちくま学芸文庫より):

 君たちは<自然に従って>生きようと欲するのか? それにしても何という言 葉の嘆きであることか! 自然といわれるものの何たるかを、考えて見るがいい。 それは、きりもなく浪費するもの、はなはだもって無頓着なもの、意図もなけれ ば顧慮もないもの、慈悲もなければ正義もないもの、豊饒かつまた荒涼として、 しかも同時に不定なもの、である。その無関心そのものが権力であることを考え てみるがいい、――君たちは、こうした無関心に従って生きることなど、どうし てできようぞ!(デネット同書p.641)

 天変地異に人間同士の争いという悲劇。その理不尽のゆえに、<神>を招来せざ るをえなかったのではなかろうか。われわれはありのままの自然の<無関心・沈黙> には到底耐えられないのである。
 その人類がこの世に生まれて、いつ、慈悲の心を抱き始めたのだろうか。同類の 死を哀れむ気持ちを身のうちに覚え始めたのだろうか。まさか人類の誕生と同時で はないだろう。チンパンジーと枝分かれして数百万年の月日の果てに、気が付いた ら身を捩り、あるいは身悶えしたくなるほどの、胸の張り裂けるようなわけの分か らない感情に、ある日、突き動かされたのではなかったのか。
 近年は、が見出されたと聞く。イラクのシャニダール遺跡で見つかった、約6万 年前のネアンデルタール人の遺跡から、仲間を弔うような宗教心(葬送)の芽生え を示すような痕跡が発見されているとされるが、それをどれほどまで遡れるか、分 からない。旧人類とされる人類に葬送の観念のせめて萌芽でも、あったのだろうか。
 いずれにしても、チンパンジーからは我々は遺伝学的にはほぼ隣り合わせなのだ としても、心情の面では、あまりに離れてしまったし、離れていきつつあるのだ。
 その人類にしても、せめてネアンデルタール人や少なくともクロマニヨン人の頃 には、死を悼む観念があったのだろうが、しかし、現実には、人肉食のようなおぞ ましい風習が、つい数百年の昔までは(前世紀まではとは言わないにしても)あっ たことは否めないのだ。
 叡智とか知恵とか、それは一体何かなど小生に答えられるはずもない。が、人類 の誕生から何百万年もかけて、さまざまな経緯を経て生まれてきたものだとは言っ ていいのではないか。それは天からの贈り物のように、ある日、人類のなかのほん の一握りの孤独なる魂の中に生まれたのだろう。
 きっと、隣りにいる誰とも分かち合うことの出来ない悲哀とか慈悲とか諦念のよ うな、しかし、(話し)言葉には表現しようのない得体の知れない観念として、誰 か偉大なる人物の脳裏か心中に胸の張り裂ける思いと共に生まれたのではないか。  それは、たとえば、雷の直撃を受けて大木が真っ二つに割れてしまうほどの衝撃 で、その誰か知らない最初の叡智の人の胸にある日不意に落ちたのではないか。
 だから、その<感情>は、最初、誰とも共有することなどありえない不可思議な 情念の疼きだったのだろう。その感情を知った日から、その人は魂の彷徨を強いら れたに違いない。何処から来て何処へ譲り渡せば誰も知らない、その焼け滾る叡智 は彼の魂を、肉体を、そして心をも焼き尽くしたのに違いない。
 誰に胸のうちを語りようもなく、我々の最初の心の先祖は、倒れ伏したのだろう。 一体、いつ、その得体の知れない生の情を分かち合う日がやってきたのだろうか。 一体、いつ、その情が、熱いか醒めているか、深いか浅いかは別にして仲間の多く と分かち合える日が、この世において見られたことだろう。
 その情がやがて、仲間の死に際し、花輪を捧げたり、石を組んだり、何か儀式め いた形に実現したのには(仲間たちの目に見える形に顕在化したのには)、最初の 叡智の人からでさえも、何十万年という月日を要したろうことは、想像に難くない (余談ついでだが、そうした儀礼というのは、葬送をせずにはいられないという感 情と同時に、誰か知恵のある人の、仲間への教育手段だったのではなかったろうか)。
 心は、本能の疼き(食欲・性欲・睡眠欲・攻撃欲)から魂の疼き(共感・同情) まで巾が広がり深まるのに、何万年も要したのに違いない。原始的な宗教感情から (孤立した、言葉に表現しようのない閃きに近い感情から)、もっと深く共感を持 たれる高度な心情に至るのに、長い歳月を要したと考えるよりないのではないか。
 心は生まれるものなのだろう、天から降ってくるようにある日、生まれるものな のだろう。しかし、決して最初から成熟して生まれてくるものではなく、この世の 艱難と辛苦との果てに揉まれ練られ重荷を背負わされ、少しずつ成熟していくもの なのだ。何処かに抽象的にポンと浮いている、一生形も深みも熱さも変幻しない、 不可触の何かではなく、この世であってこそ生まれ育ち苦しみ、時には疲弊するも の、すぐ隣りの誰彼の胸のうちに存在し形成され、切磋琢磨の中、今も鍛えられて いる最中のものなのである。

02/04/01記




32.叡智 はるかに





 愚かなるもの、それは人間、という言葉があるらしい。その意味するところは、 知る人ぞ知るなのだろう。
 が、一人の静かなる夜の底に佇みながら思いを巡らし始めると、自分がいかに何 も見えないかが痛感されて、怖いくらいだ。
 ただ、年の功とやらで、荒波をかぶらないようにうまく逃げ隠れするわざだけは、 少しは身に付けたように感じる。だから、ガキの頃のように道端の石ころに躓くこ とはないし、振り返りざまに柱に顔をぶつけるドジも、めったにしない。
 ちょうどそのように、知恵モドキくらいは学び取ったものだから、今では人とぶ つかることだって、めったにない。それとも、ここ久しくなくなってしまっている とさえ、言える。
 ちょっとぶつかりそうになっても、ああ、このままいったら衝突だと、心の片隅 に黄色信号が点滅し始め、用心深く、泥濘を避け、通り過ぎる車の風圧をかわし、 さっさと何処かの安全地帯へ身を潜める。
 そして遠く離れた場所から、正直な人が真っ直ぐに進んだが故に困難な事態に遭 遇しているのを、さすがに高見の見物はしないまでも、しかし、チラチラと覗き見 ているのである。
 そんなずるがしこい習性を獲得したのは自分だったはずなのに、さて、では、こ のようにして誰とも関わりのない安穏たる世界にヌクヌクしていると、この寂しさ や静けさは気に食わないなどと、不平を漏らしてしまう。
 一体、自分は何をしたいのか。何を求めているのか。そもそも、どうあったら満 足するというのか。自分だけは安全圏に身を置きながら、でも、一方では人の不幸 や悲しみや不遇に同情を寄せたいだけなのか。このウダツの上がらない人間でも、 それなりに共感の心は持っていることを誰かに示したいのか。
 そうか。それはそれでいい。じゃ、一体、お前に何ができる?
 敢えて、面と向かってそう問われると、やっぱりスゴスゴと尻尾を巻いて逃げ隠 れるんじゃないか。
 結局のところ、体(てい)のいい引きこもりと同じなのである。
 ただ、生計を自分で成り立たせているから、誰にも文句は言われないし、目立た ないように用心深く息を潜めているから、後ろ指も指されない。
 ああ、でも、何かが心の中で燻っている。神とか仏とは信じないけれど、しかし、 ここにだって一個の魂があり、自ら落ち込んでしまった穴倉だとはいえ、その中で もがいている。今では風さえ通らないものだから、空気のこの澱みようはどうだ。 壁には黴。天井には沁み。床にはゴミ。机には紙屑。窓には曇り。心には雨だ。
 町を行くと、時折、擦れ違う人がいる。足を引き摺って、ひょこたんひょこたん と、歩いている。遠慮を知らないガキなら笑いたくなるような、何処か滑稽な歩き 方だ。えげつないコメディアンなら、その恰好を真似て笑いを取りたくなるような ひょうきんささえ、ある。
 顔の表情を歪めて、観客の笑いを取って、それで芸をしていると思っているらし い。
 では、自分はどうか。さすがにその人を見て、笑ったりはしない。じゃ、心の中 では。神様さえ見詰めていない心の闇の中では、どうか。心が痙攣しているのは、 実は笑いを押し殺しているんじゃないのか。ただ、世間体があるから、素知らぬ風 を装っているだけじゃないのか。
 可笑しかったら、笑えばいいじゃないか。
 だって、ひょこたんひょこたんと歩いている当人だって、実は自分で可笑しいっ て笑っている可能性だって、ないわけじゃない。そうだろ?
 ああ、でも、もし、自分の心が何処か、歪で、素直で正直な人の目から見たら、 自分の心こそがひょこたんひょこたんとしているとしたら。
 もしかして、自分が何も見えない。何も感じない。何にも感動しないのは、自分 の心が何処かでフン詰まりを起こしているからではないのか。そして、ただ、自分 には自分の心が見えないから、笑う心さえないのではないか。
 私という人間は一体、何を失ったのだろうか。今更、何を求めているだなんて贅 沢は言わない。せめて心の空白を埋めることができればと思うだけだ。が、それも、 実は、贅沢の極みなのかもしれない。
 街の片隅には無数の闇がある。無数の死角が隠れている。そのどの心の裏側のよ うな限局された世界にも、人がいる。もう、そのニッチにうまく嵌り込み過ぎて、 どうにも身動きが取れなくなっているのだ。
 遠い昔、何かの漫画の本で数々の拷問の絵を見たことがある。水地獄、石地獄、 火地獄、飢餓地獄、孤独地獄。
 その中で、ガキの俺が一番、怖いと思ったのは、狭苦しい空間に身を思いっきり 屈めた状態で押し込められるという拷問だった。
 もしかしたら、図らずも自分は、そして街の片隅に転がる石ころのようにゴロゴ ロいる、無数の行き場のない連中は、そんなニッチ地獄に嵌り込んでいるんじゃな いか。しかも、当人は、これはこれで快適だと感じていたりして。
 でも、魂は飢える。魂とは、太陽へと手を差し伸べる心のこと? 死んでも殺し きれない怒りのこと? それとも、刃で胸を突いても流しきれなかった悲しみのこ と?
 自分に青春がなかったとは言えないのかもしれない。が、それは水溜まりに沈ん だ石ころだった。心が石になった。この世に目覚めた瞬間、浴びた日の光に耐え切 れなかったんだ。
 転がる石もあるけれど、俺の石は、道端で埃に埋もれていく情ない砂利石の欠片 だ。
 俺の中に欠ける一番、肝腎なものは、生への盲目的なばかりの意志。
 だけど、そんなことは気恥ずかしくて、とても言えないから、石ころをただ、黙 って心に思い浮かべている。
 そうして、人には、昔の賢人の生への盲目的な意志への傾倒を語る。が、実は、 それがないからこそ、心底から感銘を受けたなんて、もっともっと気恥ずかしくて 公言などできるはずもない。
 生への盲目的な意志は、宇宙の命の洪水は、この世の誰をも分け隔てなく、その 奔流に巻き込んでくれる。それこそ、草木や木石や土埃や虫けらや哺乳動物や人間 や、そして俺をも、だ。
 地震が起きると、誰もが不安がる。けれど、俺は内心は喜んでしまう(実害は別 として)。何故なら、俺の心の中はいつも揺れているからだ。心が揺れ惑って定ま ることがない。心の拍動が止んだことがない。地震は、その俺の心の不安の万分の 一を誰もが感じるめったにない機会だから、俺は喜んでしまうのだ。何ていう奴な んだろうって?
 ちょうどそのように宇宙を流れる闇の河は、というより宇宙とは何処から来て何 処へ去るともしれない闇の大河そのものなのだが、その河は流れ澱んで果てること はない。その河のほんの気まぐれな細波が地震に過ぎないのだ。大地の拍動に他な らないのだ。俺の心は、その絶えることのない微動に真っ正直に呼応しているだけ なのだ。
 無数のニッチ地獄に呻く奴等がいる。そうした奴等は、もう、とっくの昔に闇の 世界の流れに身を委ねてしまった連中なんだろう。
 そうした連中は、永遠の相の中で胸の中の魂を切り拓いてみせることしか願って いないのだろう。俺も、もうすぐ、そんな奴等の仲間入りを果たすのだろうか。
 ああ、叡智は、遥か彼方だ。

02/02/26記




33.美女と野獣と叡智と





 前回、「われわれはありのままの自然の<無関心・沈黙>には到底耐えられない のである」と述べた。それゆえにこそ我々は逆に神を考え出し(神による創造とい う考えを生み出し)、時には無慈悲であるほどの沈黙する自然の優しさに救いを読 み取ったりする。
 さて、ダニエル・デネット著の『ダーウィンの危険な思想』を横目にみながら叡 智について思いを巡らしてきた。そのささやかな瞑想の旅路も終わりに近づいてい る。決してこの私が叡智をせめてその片鱗にでも触れえたからではなく、むしろ、 その旅の果て知れなさを思い知らされたがゆえに、底知れぬ崖の深さ、それとも絶 壁の高さに立ち往生してしまったに過ぎないと見なすべきかもしれない。
 それでも最後の悪足掻きくらいは試みておきたい。
 デネットの上掲書のほぼ末尾に、デネットが大好きだというオーデンの詩が引用 されている。それは、かのブリューゲルの絵画「イカロスの失墜」がオーデンをし て鼓舞せしめ書かせた詩なのである。
「イカロスの失墜」は、「前景の丘の辺りに一人の農夫と一頭の馬が、そしてはる か前景には、立派な帆船が一隻と、ほとんど見分けのつかない二本の白い脚が小さ なしぶきをあげて海中に消えていくのが描かれている」(p.700 以下、特に断らな い限り上掲書の引用頁を示す):
 http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/bruegel/icarus.jpg

 ちなみにイカロスの失墜の話はギリシャ神話に由来する。
 イカロスとは、「ギリシャ神話の工匠ダイダロスと、クレタ王ミノスの女奴隷ナ ウクラテの間に生まれた子。ダイダロスは、アリアドネに、迷宮ラビリントスから 英雄テセウスを救い出す方法を教えた。そのためテセウスが怪物ミノタウロスを退 治したことを知って怒ったミノス王は、ダイダロスとイカロス父子を迷宮ラビリン トスに閉じ込めた。しかし、ダイダロスは翼を考案してそれを自分と息子の肩に蝋 で固定し、迷宮からの脱出に成功した。ところが息子イカロスは、天高く飛んでは ならないという父親の忠告を忘れて得意になって高く飛翔したため、太陽の熱で翼 の蝋が溶け、海中に落下して溺れて死んだ。彼の落ちた海はその後イカロス海とな った」(「NIPPONICA 2001」より)

 つまり「イカロスの失墜」という話は、俗っぽく解釈すると、真理へのあくなき 追求というイメージ、神(権威・権力)への無謀な挑戦、同時に、にもかかわらず その<挑戦者>を取り巻く周囲のあまりの無関心さ・沈黙という際立った対比とい う意味合いを示している。
 さて、オーデンの詩を以下に再引用する(p.700-1):

 昔の巨匠たちは、受難について決して間違わなかった、
 その人間的位置を、彼らは何とよく理解していたことか、
 ほかの連中が食べたり窓を開けたり、ただのろのろ歩いている間に、
 どんなふうに受難が起こるかを知っていた、
 老人たちがうやうやしく熱心に、奇跡的な誕生を待ち構えているとき、
 それをとくには望まぬ子供らが常にいて、
 森の端の池ですべっているに違いない次第をも、
 彼らはよく理解していたのだ。
 彼らはまた、決して忘れなかった、
 恐ろしい殉教者の道でさえ、とにかく片隅の、
 取り散らかしたところを行かねばならぬことを、
 犬が犬の暮らしを続け、
 拷問者の馬がその無実な背中を木にこすりつけているところを。

 たとえば、ブリューゲルの「イカロス」だ。
 何もかもまったくのんびりして、彼の災難を顧みようともせぬ、
 農夫は、ざんぶという墜落の音や絶望の叫びを聞いただろうが、
 重大な失敗だとは感じなかった。
 太陽も相変わらず、碧の海に消える白い脚を照らしていた。
 ぜいたくで優美な船も、驚くべきものを見たのに、
 空から落ちる少年を見たに違いないのに、
 行くところがあって、静かに航海を続けたのだ。 

               (沢崎順之助訳『オーデン詩集』思潮社)


 この壮大で淡々とした日常。何処かで若者が訳の分からぬ情熱に浮かされて無謀 なる自棄的な行為に走る。それがために自らを、あるいは他人を傷つけ、時には死 に至らしめる。それは路上でかもしれないし、どこかのアパートの一室かもしれな いし、学校の体育館の裏なのかもしれない。衆人環視のもとでかもしれないし、誰 も目撃者のいない闇の中でのことかもしれないし、もしかしたら誰か一部始終を見 ていたのに、見てみぬふりをされたために誰が犯行を行ったのか真実は闇に葬り去 られたのかもしれない。
 マンションの隣りの部屋で今にも首を括ろうとしている誰かがいるのかもしれな い。一人きりの部屋。それこそ、神さま以外の誰も目撃者はいない。が、神はあく まで沈黙を守り通す。もしかしたら、神の目からしたら平凡すぎる光景に過ぎない がゆえに、つい欠伸をして見逃してしまっただけのことかもしれない。いずれにし ても、初めから最後まで見守るだけなのである。むしろ、部屋の片隅に密かに巣食 っている蜘蛛くらいは、ほんの一瞬、その誰かの苦悶の濁った末期の叫びを音波の 響きとして感じたかもしれないが、その奴にしたって、すぐに再びダニを追う仕事 に没頭したのに違いない。
 闇の世界へある日、生れ落ちて、物心が付いて、愚かな心根ゆえに、狭い根性の ゆえに賢明なる者には短慮とした思えない行為をなす。人生をこうだと決め付けて、 勝手に躍り上がり、勝手に興奮し、勝手に闇に向かって突っ走り、勝手に他人をあ るいは自分を追い詰め、早すぎる決着をつけてしまう。
 その一方での大多数の晴れがましいリクルートスーツの群れ。
 あるいは街の何処かで事故が起きて一瞬にして命が奪われ、あるいは病室の壁に 向かって病の重さに耐えかねている。
 その傍らで商店街は昨日に変わらぬ姿を今日を繰り広げる。
 その脇には、これが世間だというしかない社会が、金属的なまでの悲鳴には無頓 着に日々の営みを続ける。店の売上げを嘆く人、化粧のノリの悪さを愚痴る人、あ るいは道端に咲く花を愛でる人、空の青さに心を奪われている人…。
 世界のあまりの広さと変幻の豊かさ。何が悪いとかいいとかなど、論外の淡々と 続いてく世界。浮かんでは消えていく泡沫の命。須臾に結んでは解れていく形。
 命を預かる生物たちの多様さはどうだろう。眩暈のするほどではないか。ライプ ニッツが、現実の世界を最善なものと見なしたのは、何故なのだろうか。
 恐らくは、世界の多様性を、この上ない多様性を可能にしているからこそ、にも かかわらず世界が存立しえているからこそ、この世を至上の世界と考えたのだろう。 何故なのか分からないが、<モノ>がこの世にあり、その<モノ>たちは、個々バ ラバラに粒子状に散在し終わるのではなく、水素と酸素がガッチリ結びついて水と なり、炭素がその鎖を無数に連鎖させてやがては命の原初の土壌となる、まさに彼 には予定調和としか考えられない神秘な仕組みを直感したのだろう。
 創発し自己組織化し、自己増殖する命の、あるいは分子の可能性の膨大さ。
★ライプニッツ(の予定調和)については:
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/german/mydeutsch2/meindeut1973c.htm

 目に見えないほどの微なる生物から数十メートルを越す巨体を誇る生き物。遺伝 子の忠実なる受け継ぎ手たる平凡でまともな大多数の存在者たちから、あまりに気 まぐれな遺伝子の悪戯に生まれながらに<運命>に翻弄される少数者たち。
 ただ、世界の想像を絶する多様さと豊饒とは、人間を圧倒し去るのである。個々 の<私>であることでしか生きられない人間には、全体としての豊饒さは、必ずし も慰めとはなりえなかったりするのだ。この世が豊か? だからって、それがどう したの、この私に何の関係があるの?! というわけだ。神が存在する? あ、そ う。それがどうしたの、それが私に何の関係があるの。この世が神即自然だとした って、そんなの言葉の言い換えに過ぎないのではないの?!
 実は、デネットによると、この世の多様性、つまりは「神」が自然界の隅々にま で及んでいることの説明を与えた人物こそ、ダーウィンだと言うのだ。

「生命の系統樹」を通して、一つのまったくもってユニークで、まったくもって かけがえのない創造物が創造されることで、言い換えるなら、「デザイン空間」 の広大無辺な広がりのうちに、そのもろもろの細部まではそっくり正確に複製し えないようなパターンが現実に創造されることで、「デザイン」が自然界の全域 に及んで行くプロセスを通じてである、と。ではデザイン・ワークというのは、 どのようなものなのだろうか。それは、相異なる無数の場所で相異なる無数のレ ベルを通じて一斉に生じている、偶然と必然の、かの驚くべき結婚である。それ ではそうした結婚はどのような奇跡から生じたのか。どのような奇跡から生じた のでもない。それはただ、時の充実を通してたまたま生じたにすぎない。ある点 では、「生命の系統樹」がみずから自己を創造したのだと言うことさえできるだ ろう。ただしそれは、一陣の奇跡によってではなく、かえって何兆年にもわたる、 きわめて緩慢なプロセスによってではあるが。
 この「生命の系統樹」は、ひとがあがめたり、祈りを捧げたり、恐れたりする ことのできるような「神」なのだろうか。多分、そういうものではないだろう。 しかしそれは、ツタを<嘘偽りなく>双葉にしたり、空を<本当に>こんなにも 真っ青にしたり<してくれた>のだから、私の大好きな例の歌も、きっと一つの 真理を教えてくれてはいるのだろう。「生命の樹」は、時間においても空間にお いても、完全なものでもなければ無限なものでもないが、少なくともそれは現実 のものであって、アンセルムスの「それより偉大なものは何一つ考えられないよ うな存在」ではないにしても、その細部というにふさわしい細部においては、私 たちの誰もが決して思いつけないほど偉大な存在であることは間違いない。それ は何か聖なるものであるのだろうか。ニーチェとともに、私は「その通りだ」と 言おう。それに向かって祈ることはできないにしても、その壮麗さを確信して立 つことならできるからだ。この世は聖なるものであるのだ(p.704)。
[アンセルムスについは:
  http://www.sal.tohoku.ac.jp/~shimizu/medieval/anselm1.html  
 生命の系統樹については:
 http://www.sakura.cc.tsukuba.ac.jp/~kimu/imanishi/auto.html  ]

 一人であることの持て余し気味の孤独。一人一人、形の違う心。平凡極まりない ことは自分でもうんざりするほど分かっているのに、でも自分が亡くなると、心底 からかけがえのないものが失われるという絶望感。それは、むしろ正しい自覚であ り直感なのである。正に、この世のありとあらゆるものがユニークであるように、 ウイルスからゴキブリの一匹一匹に至るまでユニークであるように、それ以上に、 人は一人一人がこの世の過去・現在・未来を通じて、決してコピーなどなかったし、 ありえない存在たちなのだ。遺伝子が二つに裂け、その裂けたそれぞれが連れ合い を求め合体することで、完璧ならざるコピーを永遠に繰り返す。その完全ならざる コピーという方途を選んだ時から、そしてそのようであることを知った時からは尚 のこと、人は誰もがユニークであることを選択されているのである。
 叡智は、時には眩しい、時には漆黒の闇夜の海の澪を誰もが孤独に辿って探り出 すしかないのだ。
 ただ、闇の海には無数の孤独なる泳ぎ手が漂っている。誰もがきっと手探りでい る。誰もが絶えず消えてしまいそうになる細く短い白い帯を生じさせている。否、 須臾に消えることを知っているからこそ、ジタバタさせることをやめない。やめな いことでそれぞれが互いに闇夜の一灯であろうとする。無限に変幻する無数の蝋燭 の焔の中から自分に合う形と色と匂いのする焔を追い求める。あるいは望ましいと 思う焔の形を演出しようとする。
 たとえでき損ないの惨めな泡しか立てられないと自分で感じていたとしても、そ の泡が芳しいかそれとも貧相であるかは、自分では実は決して分からないのだ。だ から、命の標(しるし)は孤独のなかにあっても、取りあえずは自分で守り育み芽 吹かせることが大切なのだ。
 いずれにしても、叡智は、感じ考え悩み思い巡らす、その日々の営みの中に芽生 え育まれ熟していくしかないものなのだろう。

   ところで最後に、本書のタイトルである『ダーウィンの危険な思想』という時の 危険とはどういう意味なのか、簡単に触れておきたい。それは誰しもが既に気がつ いておられるように、ダーウィンの「進化思想」と「アルゴリズム」なるものを使 えば、生物の多様なる世界を説明し尽くせるかのような、その結果として生命の豊 饒さという<幻想>が、所詮は一片の数式モドキに還元され雲散霧消してしまうと いう安易さに陥りやすいを示している。過去もそうした歴史は無数にあった。これ からも、そうした使われ方をすることが多いのだろう。
 むしろ、デネットは、ダーウィンの思想というのは、この生命の豊饒さを、多様 さを、あるいは更なる豊饒さ多様さへの可能性を示唆する、その豊かさを確保する ことにこそ命があると述べているのである。つまり進化を安易に説明できるという 触れ込みの、しかし実はただの無味乾燥な決定論的思想、デネットの選んだ言葉を 使えば<羊の衣を着た狼>ではなく、<美女と野獣>で言うところの<野獣>なの だというのだ。
 つまり「野獣」というのは、一見すると危険なようだが、実はわれわれが大事に している価値という「美女」の味方であって、また実際、野獣というのはそれはそ れで、その魁偉な容貌のままに(何故ならその怪物ぶりがこの世に許容されている という現実こそが、生物の多様性のこの上ない証拠なのだから)、立派に美しい存 在でもあるのだ、とデネットは結論するのである。

02/04/13記