(04/10/01 up)
あの日、ボクはとうとう、姉ちゃんの日記を読めずに終わった。実は、日記を
読もうとした途端、ネロが騒ぎ出したのは、何かの警告みたいに感じてしまって、
ボクは、屋根裏部屋へは数日間というもの、一切、登らなかった。
でも、やっぱり、我慢ができない。あそこに姉ちゃんの秘密がある。秘密への
扉が口を開けて待っている。そんな誘惑に勝てるはずもない。
今度は、姉ちゃんはもちろん、母ちゃんもいない或る日、こっそり、屋根裏に
登っていったんだ。
でも、ない! あるはずのものが、ない!
そりゃそうだよね。姉ちゃんだった、それほどバカじゃない。あの部屋の散ら
かりようを見たら、誰かが来て、荒らしていったと思うだろうし、ボクも慌てて
日記を元に戻したものだから、もしかしたら頁の何処かが折れ曲がったりしてい
たのかもしれない。
姉ちゃんは、見られた! と思ったんだろう。
ボクは見ちゃいない。一頁だって、見ちゃいないんだって、弁解したかったけ
ど、そんなことをわざわざ姉ちゃんのところに言いに行くのも、変で、ボクは知
らん顔を通すことにした。姉ちゃんの冷たい視線は、ボクにはつらいものだった。
いいんだ。見なかったけど、見ようとしたことは間違いないんだし。
すっかりめげてしまったボクは、それからしばらく、保育所から真っ直ぐにウ
チに帰る気になれなくて、近所をブラブラするようになっていた。ボクの遊び相
手になってくれる兄ちゃんたちも、まだ、学校が終わらないので、一人で、過ご
すしかなかったのだ。
保育所を出ると、すぐに小学校の校庭のフェンスが見えてくる。とっても高く
て、野球の試合などでボールが簡単には周囲の民家に飛び込まないようになって
いる。
もっとも、しょっちゅう、フェンスを飛び越えてしまっていたけれど。
その高くて長い金網の続く校庭に沿って歩いていくと、他所の人の庭に差し掛
かる。ウチまでには、まだ、数分の距離にある。
ボクには巨大な、どこか謎めいた屋敷だった。さほど大きくもない住宅街を抜
けると、その先には田圃が広がるボクの町には珍しいようなコンクリートの壁と
いうか塀で囲まれた、城のような家なのだった。
が、その家の裏手には、巾にしたら一メートルもないような川なのか、ドブな
のか分からない水流があった。その水の流れに面しては、生垣になっている。小
川を挟んで生垣の反対側は、緩やかな傾斜になっていて、野原というか、雑草の
原になっていた。その藪を越えると、田圃が広がっているというわけだった。
兄ちゃんに教えられて、ボクは、野原の中の秘密のルートを辿ると、竹垣の真
ん前に立つことができると知っていた。竹矢来の一部は、家の主人も誰にも見ら
れないとでも思っているのか、腐ったり折れたりして、その気になれば、屋敷の
広い庭に入り込むことができるのだった。
で、実際、その屋敷の邸内に、幾度となくボクラは入ったものだった。目当て
は、屋敷の庭に生る、季節ごとの果物で、栗やら柿やら無花果などが取り放題だ
った。
というか、せっかく生っているのに、その家の人は、ホッタラカシにしている
のだ。柿はやがて熟して落ちていくに任せていた。無花果だって、鳥や昆虫の食
い荒らすばかり。だったら、ボク達が、代わりに食べてやる、というわけだった
のだ。
兄ちゃんの話だと、家の主は、年寄りの夫婦なので、仮に見つかっても、追い
かけられる心配は無い、簡単に逃げられるという。
日記騒動があった頃、ちょうど無花果が生り始めていた。いつもなら、臆病者
のボクは、一人では入り込んだりしないのに、その日は、ボクはどうかしていた
んだと思う。別に餓えていたわけじゃないのだけれど。
母ちゃんに、無花果のことを聞いたからだったろうか。毎日、一個は熟するか
ら、一熟でイチジクだとか、漢字では、花が無い果実と書くとか、だけど、果実
そのものが花と言ったのか、それとも、中の粒粒がみんな花だと母ちゃんが言っ
たのか、説明がボクに理解できたかどうか、危ういけれど、とにかく、妙に無花
果に興味を持ってしまったのだった。
そういえば、知ったかぶりして、兄ちゃんにイチジクのことを喋ったら、何日
かして、「これがイチジクだよ」と、なにやらスポイトのようなものを見せられ
たっけ。その時、兄ちゃんの顔がニヤ付いていたので、なんとなく怪しい気がし
たものだった。
そうだ、今、思い出したけど、兄ちゃんったら、ボクに使い方を教えてくれた
ような気がする。「大人になったら、みんな、使ってるんだぜ」なんて、言いな
がら。
ボクは母ちゃんがそのイチジクの形をしたスポイトを使う光景がつい、浮かん
で、頭の中がもやもやしてしまったことを思い出す。
ある、ある。無花果だ。前の年だったかに、兄ちゃんに無花果をもいで、パカ
ッと割って、ツブツブグジュグジュしたピンク色の中身をムシャムシャと食べる
喰い方を教わっていた。幾つかは、鳥になのか、突付かれ喰われて無慙な姿を晒
していたけど、でも、ボクの餌になりそうな無花果がたくさん、残っていた。
ここから、ちょっと当時の記憶が曖昧になる。もしかしたら無花果の実が、ボ
クには届かない高さだったからなのかもしれないけど、とうとう食べられなかっ
たのだった。
それとも、いよいよ食べようとした瞬間に邪魔が入ったのかもしれない。
邪魔……!
そうだ、なんと、家の奥から、真っ白の犬が駆け出してきたのだ。ワン、ワン
って、吼えて、ボクは怖くなって、逃げることもできなかった。足が竦んでしま
ったのだ。
家に犬がいるなんて、聞いたことが無い。それに、幾度となく、忍び込んだけ
ど、犬の姿を見かけたことは、まして犬に襲われたことは、一度もなかったのだ。
いつの間にか、犬を飼い始めたのだろうか。
ボクが一人でいる、こんな時に犬が駆けてくる。ボクは立ち往生するしかなか
った。ああ、万事休す、だ!
と思ったら、館の庭の端っこから黒い影が物凄い勢いで飛び出してきた。ネロ
だ! 首に巻いてある青いリボンでも分かった。
「ネロ!」
ネロの奴、ボクのことは全く無視だった。でも、ボクよりネロの勢いに圧倒さ
れた奴がいた。それは、ボクを襲い掛かろうとした白色の犬の奴だった。
その犬、落ち着いてよく見ると、なんてことはない、ただの子犬だった。そう、
当時、何処の家にも飼われていたスピッツだった。首には真っ赤で綺麗な首輪が
白いふさふさした体毛に見え隠れしつつも、燦然と輝いている。鳴き声も、最初
に思い込んだワン、ワンじゃなくて、キャン、キャンで、悲鳴に近いのだった。
ネロの、フーーーーというような、それとも、カーーーとでもいうような唸り
声に怯えて、勢いよく駆けて来たのが嘘のように、スピッツの奴、今度は、直角
に折れて、家のほうではなく、竹垣のほうへ逃げていった。
が、なんと、ネロの奴、そのスピッツを追いかけていったのである。ボクは直
感した、その白い犬は雌犬に違いない、ネロは可愛い女の子だと思って、追っ駆
けを始めたのだと。姉ちゃんに、このネロったら、色気づいちゃって、なんて、
愚痴られたことがあるけど、実際にその光景を目の当たりにしたのは初めてだっ
た。
ボクは、無花果のことなど、すっかり忘れて、二匹の姿が消えた辺りを呆然と
眺めていた。すると、しばらくして、スピッツがまた、こっちへ走ってくる。後
ろには鼻の穴を膨らませて追っ駆けるネロの姿が見える。いつもの、漫然とした
ネロとは大違いだった。興奮振りは、洗濯機の音でグルグル回転する時のネロよ
りも凄いのだった。
二匹は、今度は広い庭園の中で追い掛けっこを始めた。ネロは、どうしてもス
ピッツに追いつけない。スピッツは子犬といっても、ネロよりは、ちょっとばか
り育っている。なんとなく、俊敏さに掛けても、ネロが劣っているような気が
する…。ネロはドジにも、無花果の木の幹にぶつかったりして、とうとう、スピ
ッツに逃げられてしまった。
消え去った白い犬の消えた無花果の木の並ぶ植え込みの周辺を未練たらしく嗅
ぎ回った挙げ句、やっとネロは、なんだ、お前、そこにいたのかとばかり、チラ
ッとこっちを見た。
でも、また、知らん顔をして、悠然と去っていったのだった。
そのとき、ボコッという音がした。見ると、紫色に熟した無花果の実が一個、
落ちているではないか。
せっかくなので、無花果の実を拾い上げた。と、後ろに足音が。家の人が騒ぎ
を感じたものか、今ごろになって出てきたのだった。ボクは、植え込みに潜み、
おじいちゃんが見当違いの方角を伺っている隙に、竹垣の破れ目から、まんまと
逃げだした。手には、しっかり、無花果の実を握ったまま。
そういえば、おじいちゃんの足元に、あのスピッツもいたような。こちらを見
てキャンキャンと吼えていたっけ。
04/09/12 作

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