37.十三夜の月と寒露の雫と
38.真冬の満月と霄壤の差と
37.十三夜の月と寒露の雫と
(04/04/27 up)
寒露という言葉を耳にする頃となった。誰しも知る言葉なのだろうけれど、念
のため、『広辞苑』でこの言葉の語義を調べてみた。
「かんろ」で引くと、冒頭には、「甘露」が出てくる。お目当ての言葉ではない
のだが、嫌いな言葉ではないので、せっかくなので「甘露」を引いてみる。
「甘露」とは、『広辞苑』によると、「(1)中国古来の伝説で、王者が仁政を
行えば、天がその祥瑞(しょうずい)として降らすという甘味の液。(2)(梵
語)ヴェーダでは、ソーマの汁を指す。神々の飲料で、不死の霊薬とされる。仏
の教法をたとえる。」とあり、「(3)転じて、美味なること。「ああ甘露」」
と書いてある。
グルメに深入りしすぎた連中の使うような、ちょっと気取った表現である。
小生だと、甘露というと、ガキの頃によく舐めた「甘露飴」を思い出す。よく
舐めたというのは、早まった言い方かもしれない。よく舐めたのは、ミルクキャ
ラメルのほうだったかもしれない。
甘露飴というのは、何処か琥珀っぽい色合いをしているし、半透明なところも
似ている。その甘露飴も誕生から半世紀を過ぎたとか:
http://www.kanro.co.jp/yokoso/
どうやら会社としての、また、商品としての正式名称は、カンロ(飴)のよう
である。
さて、肝腎の寒露である。同じく寒露とは、『広辞苑』によると、「(1)二
十四節気の一。太陽の黄経が195度の時で、9月の節。太陽暦の10月9日に当る。
(2)晩秋から初冬の間の露。」とある。
ちょうど、今日のことなのだ。どうも広辞苑の説明では味気ない。あるサイト
を覗いてみた。すると、「毎年10月8日頃に迎える寒露(かんろ)は,“露が
冷気にあって凍りそうになる頃”という意味」だとか:
「寒露と霜降」
http://www4.airnet.ne.jp/mira/month/200110.html
そういえば、今日の夕方、テレビで寒露の光景を映していた。カーナビのテレ
ビで、アンテナ事情も悪く、画面にはまさに霜が降っていたが、それでも、月明
かりの下、未明の時、露が凍っている鮮烈な様子を察することが出来た。
小生は、仕事柄、都内だけではなく、都下にもしばしば赴く。お客さんに導か
れるまま、住宅街を抜け、路地を曲がっていくと、街灯も疎らな郊外の一角に辿
り着く。お客さんを下した後、たとえば、昨夜など、都会の光の類いには惑わさ
れることのない十三夜の月を愛でることができた。
一人ぼっちで暮らす小生には、悲しみも喜びも分かち合うことのできる相手も
いない。すべての情を、たとえば、何処かの夜の浜辺で砂遊びに興じた挙げ句に
できた城を、打ち寄せる波に掻き消されるように、時の流れに漂わせていく。一
度流れた笹の舟とは、二度と出会うこともない。
十三夜の月は、霄壤の月のように、直上にあって、足下の小生を見下ろすわけ
ではない。だから、天と地にあるしかない我との差を痛く感じることもない…は
ずである:
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/essay/wintermoon.htm
が、雲をも貫き通す月の光は、地上を照らし出し、我の心をも裸に晒すような
気がする。
月も太陽も、この地球も、宇宙に浮かぶ星の一つに過ぎないことは、小生だっ
て知らないわけではない。けれど、そんな付け刃な知識にも関わらず、今、自分
が、ひたすらに掛け替えのない時を生きているのである、そのはずなのだという
ことを感じる、なのに、その時をこの手に瞬時たりとも握ることも出来ずに、た
だただ見送っているだけという痛切な悔恨の情に囚われないではいられなくさせ
る。
月の光にはそれだけの力がある。たとえ、理屈の上では、月の光が太陽の光を
反射しているに過ぎないのだとしても、それは天文学上の説明に過ぎず、この我
が心の隅々をも炙り出すような、逃げ場のない感覚だけは、どうしようもない。
きっと、月の光を眺めたなら、今、恋をしている人なら、恋をしている喜びと、
その掛け替えのない時の貴重さをしみじみと味わうのだろう。
逆に、太陽の光、月の光に対して、長く背を向けたような生活をしてきたりす
ると、空しく見送った日々が思いやられ、それ以上に、これからも甲斐なく捨て
去る時を思って、道の先の救いようのない闇の深さに愕然とさせられてしまう。
遠い昔、哲学に目覚めた頃、一瞬という時の不可思議さに、居ても立ってもい
られないような切迫する思いを抱いていたものだった。恐らくは自然の事象の全
ては、その原理も機構も、今ではなくとも、遅かれ早かれ説明が付くのだろう。
しかし、そもそもあるということ自体が、不思議なのではないか。何があるか
どうかではなく、とにかく、何もないのではなく、何かしらがある、そのあると
いうことの不可思議さに圧倒されたのだ。
未だ小生が若い頃、夜の町を歩くのだ好きだった。当てもなく仙台の町を歩き
回った。職質を受けたこともあったものだった。東京などに比べれば、小規模な
町かもしれないが、それでも、人が一人、足だけで歩き回るには、たっぷりすぎ
る世界を与えてくれた。
小生がアパートに篭ることができず、炙り出されるようにして外に出るのは、
決まって月の晩だったのだと、今にして気が付く。
月を背にして、あるいは月を斜めに、時には月を追うようにして、どこまでも
歩いた。夜の町には、人影など一つとしてない。月を追いかけて歩くと、自分の
影さえ、ないも同然である。
そんな時、例えば小生は、自分の手を匕首か何かのように感じる。その匕首を
眼前の茫漠たる闇の海に突き立ててみる。勿論、何の手応えもあるはずはない。
しかし、刃は時には、紺碧の闇に擦れて焔を上げるような気がしたのだ。
あるいは、月夜に誘われ彷徨ったそんな時、例えば、小生はそっと手を杯の代
わりに差し出す。すると、その手の平に月の光が注がれる。その光をグイッと飲
み干す。命の光が自分の中に取り込まれたような気になる。
そうだ、オレが欲しいのは命なのだ。誰からも孤立して、誰彼と心を分かち合
う能もなく、これから何十年、恐らくは死ぬまで無為な時を過ごすであろう自分
に欲しいのは、命、それが叶わぬなら、せめて、命の影。
そう思っていた、あの頃。
あれから既に四半世紀という時を見過ごしてきた。案の定、無為な時を遣り過
してきた。物心付いた時に、ボクの人生は徒労に終わるんだろうな、という直感
を得て、その早すぎた、そして軽薄すぎた判断は、やがて第二の皮膚感覚、第二
の皮、つまりは殻となって身に張り付いてしまった。
臆病者だったのだと、つくづく思う。自分には逃げ場のない世界に恐怖してし
まったのだ。世界が鏡張りで、自分の心が、そのどんな微細な動きさえも世界に
炙り出される、無数の視線の刃に切り刻まれる、自分の存在が限りなく殺ぎ落と
されていく。削り殺がれた自分は、此の世から消えていく。波に浚われる砂の城
より呆気なく、消えていく。
命となるはずだった自分の心の芽は、芽吹かないままに大地の下で、いじけた
ように縮こまっていた。全てが通り過ぎ、全てが終わることを、ひたすらに待つ
のが自分の人生なのだと直感し、その固い殻に閉じ篭ることを選んだ。
人生に対して敵前逃亡したようなものだ。
街灯のない畑か野原か分からない郊外の一角で、夜の底で月の光を浴びながら、
時の不思議を思う。不可思議を感じる。何もないはずだった自分の人生にも何か
があるのかもしれないと思う。
草露が月の光を浴びてキラキラ輝いている。もう少し寒ければ凍りついてしま
うのだろうが、今の時期は、丸っこい露は、やがて朝の光の到来と共に水滴とな
って葉裏を伝い流れ、地に染み込んでいくのだろう。
月の光。そして寒露の雫。
昔、月の光を酒盃に受けたように、今度は、葉裏に手を差し出し、月の滴を受
けてみたいと思う。
そう、命の影じゃいけないんだと思う。命に触れること。恐る恐るではなくて。
どんなに怯えきった心であっても、それは地上においては一個の存在であり、
決して何物でもないものではなく、なにかしらの位置を占め、この世界の一員な
のだという単純極まる事実から目を背けてはならないのだろう。
乾いた大地に命を芽吹かせること。それだけのことができたなら、きっと素晴
らしいことなのだろうと思う。そんなことを思わせた、十三夜の月だった。
03/10/09 記
38.真冬の満月と霄壤の差と
(04/05/14 re-up)
昨夜の月はほぼ天頂にあった。そして小生はまさに天底にある。首が痛くなるほどに見上げないと月を真正面に眺めることができない。それほどに高く月は照っていたのだ。天頂にあってこの自分を見上げさせている月は、小生に影さえも与えてくれない。
真冬の夜の満月は何か恐ろしいものを感じる。まして昨日は、日中、冷たい風が吹いていたし、冬ということもあって湿度も極端に低い。冴え冴えとした月を実感する条件が揃っていたのだ。
満月が煌煌と照っていたにもかかわらず、星々も東京の空とは思えないほどに
煌いていた。
霄壤(しょうじょう)の差という言葉がある。広辞苑によると、「天と地ほどの大きなへだたり。雲泥の差」と説明されている。
昨日の夜の光景こそ、天と地との差を実感させるものだった。我々は既に人間があの月の世界に立ったことを知っている。なのに、それが夢の中の出来事のように思われてくる。本当にあの世界へ足を踏み入れたのだろうか。
しかも、人間は月よりはるかに離れた天体にも足跡を印そうとしている。火星に人類の痕跡を残す日も遠くはないらしい。そしていつかは今の我々にははるかにはるかに遠い星の彼方にも向っていく…のだろうか。
けれど、それは人類がいつかは、ということであって、決してこのちっぽけな自分がということではない。この自分は地上世界を離れることはできない。地上世界どころか、東京の片隅で取り留めのない夢を抱えてうろついているだけなのだ。壮大な夢を抱く優れた知性の持ち主達とはまるで縁のない生活をしている。明日の生活さえ、覚束ない。
生活が貧しくとも、花や鳥や月や星を愛でる心があればと思うが、他の人はいざ知らず、小生には少々無理がある。花を美しいとは思う。素敵な音楽を耳にして感動もする。清流のせせらぎを目に耳に沁みるようにして受け止める。
でも、所詮は無粋な小生には、花鳥風月に生きられるわけもない。別に明日のパンが心配だからというだけではなく、パンのみにて生きるほどに愚かではないと思うものの、しかし、何かもっと実のあるものに縋らないと生きることの喜びを実感できないのだ。そんな平凡な人間に過ぎないのだ。
老いているわけではない。が、若くもない。課せられた責任がないわけではないが、静かにさりげなくその荷を下ろしても、別に何の波風も立つ懸念はない。心を分け持つ相手もいない。小生が掻き消えていっても寂しいと思う人間もいそうにない。自分でさえ惜しいとは思えない。そんな半端な状態に苛立つほど若いというわけでもないのだ。
若い頃は、自分なりに切迫するような、湧き立つような情念があるような気がしていた。時には生きる意味を追い求めたことさえもある。尤も、何かに夢中になり全てを忘れ去るということはなかった。家族や人間関係を壊してまで何かをするということはなかった。所詮は自分はこの程度の情熱しかなかったのだ。
初めに持っていたものが強烈でないなら、失った悲しみも薄い。失望感も淡く漂うだけなのだ。社会の底辺を彷徨うほど地獄を流離っているわけではない。一人の平凡な人間として、籠に担がれる人間でも、籠を作る人間でもなく、時折籠を担ぐ役割を許されているだけである。自分はこのために生きてきたわけではないはずなのだが、他に能がないのだ。
天頂の月は何かを小生に伝えようとしている…、そんな予感はある。
けれど、感性の窓が曇ってしまった小生は、もしかしたらドアを叩いているかもしれない誰かの問いにさえ応じることが出来ない。億劫なのだ。立ち上がるのも面倒臭いのである。魂という言葉に格別な感を覚えた昔が夢のようだ。
光は、地上世界を照らす。けれど、照らしているのは地上世界だけではない。光は四方八方を遍く照らし出している。なのに、若い頃は、己の魂を光が直撃しているかのような錯覚を覚えていた。我が魂のうちを眩しほどに浮かび上がらせて、誰の目にも己の無力さが露になっているかのように感じて恥じるばかりだった。天は我を見下ろしているのだと思った。
そして思いたかったのだ。
が、天は、光は遍くその輝きを恵んでいる。己をも彼をも海をも山をも、あの人をも。空を舞い飛ぶ鳥をも、地を這う虫けらをも、そしてやがては地の底に眠る命のタネたちをも。
照らし出されているのは自分だけではない。だから、自分は主役ではないのだ …と思えばいいのか。思ってもいいのか。
きっと、今こそ、今度は自分が輝く番になっているのだろう。今の今までたっぷり光を浴びてきたのだ。光は体の中にさえ有り余るほどに浸透している。60兆もの細胞の全てが光の恩寵を受けている。光が形を変えて血肉となっている。形を変えて脳となり、あるいは脳や腸を突き動かしている。命の源となっている。命の源から溢れ出す光の泉となっている。瀑布の飛沫さえ光を浴びて煌いている。
きっと、地上の全てが光の塊なのだ。魂とは光の塊のことなのではないか。だとしたら、今度は己が己の力で輝きだす時に至っているということではないのか。体と心の肉襞深くに集積した光の塊に、迸るための出口を指し示す時に至っているということではないか。
この平凡とさえ思えない自分にも、月は、天の光は今も呆れることなく恩恵を
与えている。
人は死ぬと塵と風になるだけなのだろうか。魂とか情念の類いも消え果るのだろうか。もしかしたら塵となって風に舞うだけ、というのもある種の信仰、ある種の思い込みに過ぎないのではないか。死んでも死に切れなかったら。最後の最後の時になって、その末期の時が永遠に続いたとしたら。時間とは、気の持ち方で長さがいかように変容する。死の苦しみの床では、死の時がもしかしたら永遠に続かないと、一体誰が保証できよう。アキレスとカメの話のように、死の一歩手前に至ったなら、残りの一歩の半分は這ってでも進めるとしても、その残りの半歩も、やはり進まないと死に至らない。で、また、半分の半分くらいは何とか進むとしても、結局は同じことの繰り返しとなる。
永遠とは、死に至る迷妄のことかもしれない。最後の届かない一歩のことかもしれない。だからこそ、天頂の月は自分には遥かに高く遠いのだろう。
03/01/19 記

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