(03/08/13 up)
我輩は猫である、なんて野暮なことは猫は言わない。
我輩は我輩なのである。
というより、我輩はただひたすらに無念夢想なのだ。思うが侭に生き、思うが
侭に死ぬ。他に何を求めようか。
我輩も老いを感じる頃となった。動くのが億劫なのだ。ただ、その分、我輩の
脳髄は若い頃には想像も出来ないほどの境涯を楽しむことができている。この世
の酸いも甘いも噛み分けてきたし、本能のままに獲物を追い回し、訳もなく動き
回る喜びも心底堪能してきた。
我輩の心には長く付き合ってきた人間どもの人に言えない苦労や喜びも痛いほ
ど感じられて、密かに共感してきたのじゃ。欠伸混じりだからって、見くびるも
のじゃない。
亭主の横暴に悩む奥方の悩み、女房の浮気と仕打ちに苦しめられる寝たきり亭
主。
病魔に蝕まれて、行く末のはかなさを感じつつも、懸命に生きているあの家の
うらぶれた中年男。奴は、余命幾許もないと悟ってから、一念発起して、誰より
も朝早く起きて、町の清掃をしたり、公園のゴミ拾いをしている。
漫然と生きて来て、この期に及んで、せめて生きてきたことの恩返しを何かし
たいのだという。夜になって疲れ切って、寝床に倒れるように沈むと、闇の中の
天井に向って何事かを呟いているのを我輩は知っている。そしてそのことは、我
輩しか知らない。我輩は素知らぬ振りを決め込んでいる。
奴は、誰かに魂胆が知られたら、その営みをやめてしまう、やめてしまったら、
生きる気力も失うのだと我輩には分かっているのだ。だから、武士の情、彼が眠
られぬままに未明に起きて今日も出かけるのを静かに見送るばかりなのじゃ。
今、我輩は、体が動かなくなった分、心がやたらと融通無碍というのか、この
世界の何事にも感応する。耳にも聞えない(もう、役立たずになりおった)、鼻
でも嗅げない裏の屋敷の向こう側の路地裏に舞い落ちる木の葉にも、ビクッとす
る始末じゃ。人の目にも、いや大概の若僧猫の体にも感じられないような風の微
かな戦ぎにも心が騒ぐ。
目を閉じると、遠い昔のことが思い起こされる。そう、我輩だって最初からこ
んな老いぼれなどではなかったのだ。弾むような体とピンと立った活きのいい髭
に耳に尻尾。野原を駆け巡ると、我輩の尻尾の先には争うように蝶が止まろうと
したものじゃった。何もかもが珍しかった。何もかもが新鮮で、青々していて、
臭いが礫(つぶて)のように空中を揺らぎ巡っていて、我輩は蝶よ花よと生きた
もんじゃった。
鉢を倒し植え込みを荒らし、垣根を越え、野原を我が物顔に駆け回った。
そんな昔が夢のようじゃ。
だからって別に、我輩は昔に帰りたいと思っているわけじゃない。
猫と蝶
by kei
そう、今、我輩は弾む体の代わりに無碍の心を持っている。心は地の底から海
の彼方、そして月の向こう側までも勝手に馳せていくのだ。この世の人間や猫や
犬やカラスやハトやネズミやゴキブリらの情念を我等は誰よりも深く感じる。情
念が空気のように世界に色濃く漂っているのを感じている。いつも、いつも。
もう、世界が我輩の心に押し寄せてくると言ったほうが正確かもしれないほど
じゃ。
想像を絶するほどの無数の生き物達の情念が世界を飛び交っていることを猫は
ほんの数年も生きると悟ってしまう。その情念がやり場のないものであること、
果てしのないものだということ、死んでも消えることなく焦がれて止まないもの
だということを思い知ってしまうのじゃ。
それは絶えざる感情の洪水。尽きることのない怨念と切望の嵐の襲来。わし等
は、ひたすら感じることに徹しているのじゃ。命の海よりも濃い焦熱の世界にあ
って、わし等は決して動かないことだと決めたのだ。こっちの感情を繕っても、
その間にあっちの情が縺れて、結局は収拾が付かなくなる。そもそも、天の目を
獲てしまった我輩らには、こっちのよじれた感情を贔屓しなければならない特別
な理由など、何処にもないことを知っている。だから動かない。動かざること老
い猫の如しじゃ。
月と猫
by kei
我輩は、今日も何処かのブロック塀の角に鎮座して、煌煌と照る月を眺めてい
る。月の光を燦燦と浴びている。昔日の毛並みなど伺いようもないほどに薄くな
り白けてしまった背中にこの世の光を湯水の如くに浴びせている。
世界には、あるのは不可思議な光だけじゃ。今、我輩はこの世の何物に対して
も幸多かれと祈りつつ、瞑目している。至福の時だ。
光! これほどにこの世に平等なものがあるじゃろうか。喜びも悲しみも憎し
みも愛憎も結局は、均してしまうと誰にも平等に行き渡るようになっている。短
い、けれど、中身の濃い一生を経ての我輩のささやかな結論じゃな。
光あれ! そして我が身も光となれ!
さて、我輩は寝る。いつ、永遠の眠りについても大丈夫なように、今日も月の
光を浴びながら眠りの時を貪るのじゃよ。
03/08/12 21:22
[本作品中の挿画「猫と蝶」「月と猫」は、
kei さんから拝借したものです。いつもながらkeiさんの絵は暖かい。この絵を見た人が少しでも幸せになってほしいという彼女の真心が伝わってくるようだ。告白すると小生は、彼女のHPにアップされているこれらの絵を見て、挿画として使いたい一心でこの掌編を書き上げたのです。子猫君、可愛いですね。月光を浴びる猫、神秘的ですね。 ( up 時、一部加筆 03/08/13 記)]

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