"あれ"は遠い昔のこと、他

                                            (03/06/29 re-up)




10."あれ"は遠い昔のこと

11.心に潜むエゴの影

12.小さな心、大きな心






10. "あれ"は遠い昔のこと




 
 あのことがあってから、早いもので、もう今年で31年目になる。
 あれから私は遠くへ来てしまった。あの場所、あの時から、遠すぎる何処かへ来 てしまった。
 "あの"と、さも、明確にその時と場を示せるかのようだが、今となっては、その 名残さえない。そのことのあったはずの場は、跡形もなく消え去って、今では見る 影もない。
 それどころか、自分の脳裏からさえ、来え行きつつあるようだ。
 それはそれで構わないのかもしれない。それが時というものの恵みならば、その 成り行きに身を任せるのも結構なことかもしれない。
 が、でも、自分で自分を振り返ってみると、己の中に何もないことを感じる。空 っぽな心、空洞になった心を感じるだけだ。
 ああしたことがあったが故に、自分は身の程知らずにも宗教だ、哲学だと、突っ 走ってきたけれど、何をも得ることが出来なかった。そのことについて誰にも文句 はつけようがない。自業自得だし、むしろ、私は今となって、きっと、自分はその 事の重大さから逃げてきただけではないかと思ったりする。
 あるいは、その事柄の重大さを後生大事に抱えてきただけなのではないか、と、 思ったりする。そうした何かが自分にはあるから、他のことには目を瞑ってきたの ではなかったか、と、思ったりする。
 そう、私には勇気がなかっただけではないか。

   あの日、私は生涯で唯一といっていい日を迎えた。覚悟の上だった。そのことを 為して、全く後悔はしていない。私は生れて初めて、自分の殻を破ったのだ。そし てそれが最初で最後というわけである。
 羹に懲りた私は、再び殻に閉じ篭った。頭を大地の中に引っ込めたのである。
 ただ、哲学や宗教的反省モドキを為す中で、自分を殻に閉じ込めた所以が少しは 見えたようには思う。
 私は遠い日、そう、あの日を遡る更に遥かな日、自分を闇の世界に溺れさせたの だ。自分の力で溺れさせたとは思えない。といって、誰彼に沈められたわけでもな い。
 むしろ、己の臆病な心が、自分を殻に閉じ込めさせたのだと思う。
 それ以来、私の心は、生れて間もないままの、未熟な形のまま、凝り固まり、萎 縮して、心の外に殻を、蓑虫を包む殻を性懲りもなく、蜿蜒と分厚く塗りたて固め てきたのである。
 あまりにうまく殻を、蓑を被ったものだから、私の心は慰安に撫されて、やがて 腐ってしまった。育つことを綺麗さっぱり忘れて、グジュグジュの粘液状のままに、 腐って、いつか、乾涸びたのであろう。
 私の心は折り畳まれたままだ。私とは一個の石、路傍に転がる石ころだ。
 そして今、アスファルトとコンクリートとガラスとプラスチックで大地が塗り固 められた街の相貌を見ると、まるで自分そっくりの様相を示していると感じたりす る。
 石ころなど、街中にあるはずもない。紙屑や煙草の吸殻や、誇りや、発泡スチロ ールの欠片を見つけることがあっても、石ころはない。
 私は消えたのだ。あるいは居場所を失ってしまったのだ。気が付いたら、そんな 寒寒とした光景があるだけだったのである。

   私は、遠い遥かな日、日の光のあまりの眩しさに恐れ戦いて、身の置き所のない 自分を感じた。光の刃、眼差しの切っ先は、私を、私の心を切り刻み、日々、苛む ばかりだった。街中を歩くことは、研ぎ澄まされた無数の刃の列の真っ只中を歩く ようなものだった。
 家に帰る頃には、心から血がダラダラ流れていた。眠るとは心に負った傷を癒す ことに他ならなかった。
 けれど、翌日になると、愚かな私は街中を歩き、同じ経験をし、同じ状態で家に 帰るのだった。幾日も、幾月も、何年も繰り返す中、少しはそんな状態に慣れるの かと思ったら、自分には慣れるという言葉は無縁だった。
 愚かな自分は忘れやすいから、昨日の苦しみを忘れ、あれは何かの間違いだった のだと、自らに言い聞かせ、敢えて外に出て、結局は同じことを再現するばかりだ ったのである。

   そうして恐らく七つの頃、私は心を閉ざしたのである。
 きっと、だから私は生き延びられたのだと思う。
 けれど、心は乾涸びていく一方だった。致し方ないのかもしれなかったけれど。

 そうして、あの日、私は、性懲りもなく、十年ぶりに一歩を踏み出した。殻の外 に頭を出したのだ。
 新鮮だった。何から何までが違った風景に見えた。色彩は鮮やかであり、日々は、 たっぷりの時間を恵んでくれ、私は、きっと、人並みの人間になれそうだった。
 また、そうなれることが夢、夢のまた夢だったのだ。
 一日を何気なく、時には退屈に生きること。倦怠感を覚えること。他人と何気な く話を交わすこと。肌と肌の触れ合い。
 私に倦怠感は無縁だ。退屈という意味は辞書的に分かっても、実感などしたこと がない。心は涸れ果てているはずなのに、心は震えるばかりだったのだ。ずっと。 途方もないほどに、闇の底が果て知れないことを感じていて、その闇に怯えていた のだろうか。
 己の人生があまりに貧しいので、生きることが無から無への、単なる過程に過ぎ なくなることを恐れていたのだろうか。こんな心しか抱いていないのに。
 水の滴りに無限を感じる。が、正直に言うと、限りなく透明なガラス板の向こう に水が滴っているのである。緑の山や、川の流れが伺えるだけなのである。私の世 界には一滴も流れてはいないのだ。
 そう、私は自分に言い聞かせているのである。自分の中にもきっと水脈はあるに 違いないと。緑の大地になりうるはずの土壌があるに違いないと。そう、願望か、 あるいは絶望の果ての戯言なのである。

   が、私は、今も、性懲りもなく、在るということを求めている。この世にあるも のを求めている。別にこの世でなくてもいいのだ。きっと豊かな大地が広がる世界 にめぐり合えるに違いない。
 この世は現象。この世は経験の世界。この世は認識の果てに得られる世界。この 世は仮象。色即是空。
 でも、この世にしがみ付く以外に私に何が出来よう。


                                       01/09/23




11. 心に潜むエゴの影



 
 この世にしがみ付いている私。
 では、何故に私はこの世とやらにしがみついているのか。元々、訳も分からない、 この世に。得体の知れないこの世にしがみつく理由など、何があろう、あるとして 何処にあるだろう。
 遠い、ずっと遠い昔、この私にだって人生を楽しんだ頃があったはずなのである。
 否、あったのだ。
 だから、訳が分からないとしても、取り合えずしがみつく。また、いつの日か夢 の日々の再現が成るかもしれない。
 そう思って、そんな朧な何かを期待してこの世にしがみついているのかもしれな い。それはどうやら否定は仕切れない気がする。街を歩くことが、ガラスの粉塵の 中を彷徨うに似ていているとしても、玉の汗ではなく、玉の血の雫が吹き出ている としても、でも、一度あった夢が、いつか、再度、この世に再現できないはずはな い。
 その今や幻に近いような、ほとんど幻想に近いような、あるいは人に聞かれたら、 それはお前の勝手な思い込みに過ぎなくて、本当は実際には何もそんな楽園めいた 現実などなかったんだよと、言われても、でも、ほとんど懸命な思いで、私は夢の 再来を希っている。
 人が、ある状況の中で、ふとした折に、人と心を交し合う時がある。きっと交わ したに違いないと思いたい時がある。ちょっとした会話の折に、あるいは何処かの 町角での、それまではほとんど言葉も交わしたことのない人との、何気ない触れ合 いに、心と心が触れ合ったんだ、胸の奥から熱いものがジンワリと込み上げてきた りして、そんな瞬間が自分にもありえるのだと思うしかなかったりするのだ。
 瞳と瞳との、しみじみとした交錯、絡み合い、暖め合い。いつもは怯えていたり、 警戒していたり、こちらが心を開いている時に限って、相手がこっちに無関心か、 そうでなければ冷たかったりする。
 あるいは、ふと、振り返ってみると、あの時、あの人はこちらに対して、せっか く心の鍵を外してくれていたのに、その時に限って、こっちが自分の考えに囚われ ていたり、あるいは相手を誤解していたままだったり、あるいは、それどころか、 相手のこちらへのサインを重々分かっていながら、変に自分が依怙地になっていた りして、そうして、せっかくのチャンスを逃し、逃しただけではなく、もう、二度 と相手と出会う機会さえないだろうと、悟ってしまったりする。

   そう、この私にだって無邪気だった時期があったはずなのである。はず、ではな く、あったのだ。
 だから、いつか、きっと、何処かで、タイミングと状況さえマッチしたら、無邪 気でありえた瞬間がこの世で実現するのだと思う。思いたい。
 けれど、現実には自分はというと、意に反して頑なな心を抱くばかり。心を固く 閉ざして、これ以上、外界から傷付けられまいと懸命になる。殻に閉じ篭る。殻の 壁を分厚く塗り固める。そんなことをしたら、ますます、夢が遠くなるばかりだと いうのに、分かっているのに、自分は、そんな愚かな振る舞いを繰り返す。
 そう、もしかしたら、私は、もう、二度と失望したくないから、この世に幻滅し たくないから、だから、壁を厚くして、その中で、満たされることのない、けれど、 誰にも邪魔されることのない夢を貪っているのかもしれない。

 そんな時、蓑という殻の中で惰眠を貪っている時、私は何か別の人格を作り出す。 私とは違う誰かを心の中に住まわせる。その人格Xは、想像の世界の中で居心地の いい状況を作り出す。というより、その架空された状況の中にしか、その別人格X は生きられないのだ。
 そのXは、何処かの見知らぬ街、それとも昨日、自分が素知らぬ顔をして通り過 ぎた街角、あるいは何かの教室、何処かの店にいる。その場に実際にいた私は無器 用で、愛想がなくて、気が回らなくて、つい、心にもない振る舞いに及んでしまっ た。困っている誰かを助けられたかもしれない状況に自分がいたのに、つい、知ら ん顔をして、傍を通り過ぎるだけだった。 
 が、Xは違う。つかつかとその人に近寄り、にっこり笑って手を差し出し、何も 手出しできない回りの人々が呆気に取られる中、平然として、その人を助けるのだ。 その相手に熱い思いを残しつつ、Xは、何事もなかったかのように、その場を立ち 去っていく。
 そう、本当の自分はそんな人間なのである。そのはずなのである。だから、私は そんな人間なのである。だから、そのXは私である。よって、ここにいる(目を閉 じて妄想に耽っている)私はXそのものなのだ。
 が、チラッとでも目を開けると、私がここにいる。私は、頬が緩みかけているの に、気付く。慌てて私は元の冷たい、苦虫を潰したような表情に戻る。私の一番嫌 いな無表情な顔の私を取り戻す。
 へたに目を開けている最中も、その夢に浸ると、そのXが私に浸潤してきそうな のである。私がそのXに占領されそうなのである。圧倒されてしまいそうで怖いの だ。
 そう、今では心の中の空っぽな私より、想像の翼を思いっきり羽ばたかせるXは 遥かに充実した人格を、中身を擁しているのである。むしろ、私はそのXにへばり 付く蛭(ひる)のような存在になっている。蛭になってXの脛(すね)にベッタリ と張り付いて、エキスを吸い出そうとしている。私は、影になっている。私は存在 の影なのだ。想像された誰かの家の庇の裏に巣食う守宮(ヤモリ)なのである。

 なぜ、そこまで心が荒廃していくのだろう。しかも、これだけ涸れ果て乾涸びた 心になっているというのに、未だ、性懲りもなく惰眠を貪ろうとしている私がいる。 Xに縋りつくしかないのに、その情に縋っているしかないのに、でも、私は、一層、 深みに嵌ることを承知で、蓑の殻にこびり付こうとしている。殻の壁に爪を突き立 てて、そのガリガリという感触にのみ、やっと生きる実感を得ている始末なのだ。
 私が銅版画や木版画といった版画の類いが好きなのも、ペン先で板を抉り傷付け る感触が好きだからかもしれない。出来上がった作品より、版下であるはずの板に 好奇の目を遣るのも、そのせいなのかもしれない。
 心から潤いが蒸発していって、残ったのは木乃伊(ミイラ)のようなクシャクシ ャでシワクチャの皮のなれの果て。そのゴワゴワの皮を壁か殻にして、形を為すこ とのない心の残滓はドロドロでベトベトな粘液のまま、包まれている。
 私は、この世から隔絶して久しいのだ。私は何処に居るのか分からない。私はX に手を引いてもらわないと、何処にも行けない。自分では歩いたことがないから、 足が腐ってしまった。萎えたのは心だけではないのだ。
 でも、この世には何かがある。こんな戯言を並べながら、その実、私は隙を窺っ ているのを知っている。Xの陰に隠れてかもしれないとしても、私はこの世を見て いる。この世にいることを知っている。私の中の何かが、きっと熟していて、弾け るのを待っている。もう、機は熟しているのだ。
 私は、決して空っぽなどではないことを知っているのだ。空っぽと自分で言って いて、その反面では、この世に放り出されていて、それが時と空の只中にいる、そ の時空の中から逃れられないし、逃れるつもりもないことを知っている。
 私にはエゴがあるのだ。だから、そんな愚痴か戯言を吐き出して、予防線を張っ ているのだ。私が私であること。私たらんとすること、そんなことばかりを考える エゴイストなのである。私はずるい、小賢しい人間なのである。
 道は、未だ、遥かに遠い。


                                     01/09/25






12. 小さな心、大きな心





何か壁にぶつかった時、あるいは自分には到底、太刀打ちできない存在に出会っ た時、それとも受けた恩恵の万分の一さえも返せない自分を痛感した時、己の心の 小ささに気付く。
 そうでなくても、木の枝を伝い、木の葉を伝って落ちる雫の一滴、一滴をぼんや りと眺めている、ただ、それでけのことで、何だか自分が小さくてならないように 感じられることがある。
 一滴の雨の雫。それが葉っぱの先に溜まり、大きくなって、やがて破裂寸前であ るほどに丸まって、落ちていく。地上に落ちれば、水の塊は弾け散ってしまって、 跡形もない。
 一瞬の生成と消滅。
 もしかしたら、所詮は自分の命もそれだけのものではないかと思ったりする。
 私には、私の世界からしか世界を見ることができない。
 きっと、今、目の前に現れた一滴の雫は、私に何かを教え諭すために、神様がわ ざわざ恵んでくれたのかもしれない。
 そんなわけは、あるはずがないことを重々知っている。
 でも、密かに、誰にも見られぬ心のうちで、そう、思いたくなる瞬間があるのだ。
 私は神も仏も信じない。同時に否定もしない。
 私は、ここにポツンといるだけなんだと感じている。  きっと、神様だって仏様だって、何処かにいて、何処とも知れない何処かを見遣 っているんだろう。その目の先に自分が映っているとは到底、信じられない。別に 信じたくもない。
 私は、気が付いたら、この世界の中にあることに不意に目覚めたように、きっと、 気が付かないうちに瞑目の瞬間さえも恵まれないままに消え去っていく。水滴の弾 けるほどの華々しささえもないままに。
 それでいいんだと思う。
 この世に何があると、分かったためしが一度だってなかったのだから。自分の存 在だって、あやふやで、大地に足を踏ん張ってみても、大地は何も私に返してはく れない。
 息をスッと吸い、そして吐いてみる。ただの一度の息の中に、数え切れないほど の分子や原子が混じっているという。その中には、遠い日のあの人の吐いたはずの 息の名残も混じっているし、それどころか、キリストの吐いた息、釈迦の吐いた息 さえ、必ず混じっている。
 同時に、何処かの罪人の吐いた息も、蛇やムカデの吐いた息も、間違いなく混じ っている。
 私は、世界という息を吸い、世界という息を吐いているのだ。
 ここに私がいることを誰も知らない。あるいは知っていても、誰一人、気付いて いない。気が付くのは、さっき見かけた薄茶色の野良犬だけだ。きっと、飼い主に はぐれてしまったのだろう。行き過ぎる誰彼の臭いを必死になって嗅いでいるのが、 痛いほど分かった。
 奴には私が何ものかは分からないだろう。全く、無縁の生き物だと思ったかもし れない。でも、それだけでも、世間の誰彼より遥かに私の存在を感じてくれたんだ。
 でも、それ以外の誰も、私を気付かない。眼中に入らない。
 神様とか仏様は、あの野良犬ほどに鼻が利くんだろうか。  ああ、そんなことはどうでもいいことだ。
 私はここにいる。ほんのしばしの間だけかもしれないが、ここにいて、何かを待 っている。何を待っているのか、自分でも分からない。もしかしたら何も待ってい ないし、求めてもいないのかもしれない。それどろか、己の消え去る日を待ってい るのでは、とも、思ったりする。
 私には何も分からない。
 私は、この世界にいて、迷子になってしまったんだ。
 私は、無限の相貌を示す世界の中で、何一つ、形を見極めることができない。私 には何も見えない。
 名前を失った世界。世界には花が咲いているんだろうけれど、雑草ほどにも私の 心を癒してくれない。逆に、私のほうこそ、花々を癒し慈しんでやろうと思ったり するけれど、うるさそうに花も草も人々も風に吹かれているだけ。そのほうがよっ ぽど豊かな感覚に恵まれるだから、と。
 私は私の内側を見る。私の世界は、絶えず私へと帰っていく檻のようだ。私を絶 えず萎縮させていく鏡の球体だ。どんなに想像の翼を羽ばたかせても、その翼の持 ち主は鏡に映る己の在り様に絶望して、球体の内側の焦点へと落下していく。

   でも、世界は無数の焦点に満ちている。世界の中の、やはり私同様、あるいは私 以上に閉鎖された時空間を生きる無際限の焦点たちが、いる。
 私が、昨日、それとも遠い昔に投げかけた言葉、贈った言葉、包みたい一心で放 った眼差しが、鏡の林立する世界で乱反射して、私に帰ってくる。世界の中の無数 の人々の手垢と、ぬくもりと、熨斗(のし)とを伴って。
 私とは、一個の乱反射なんだ。自分が気付かなくても、他人の眼差しと往復を繰 り返す言葉の海に漂う木の葉なのだ。
 私の小さな心。それは湖面をほんの微かに揺るがす笹舟。
 けれど、その笹の舟の在る余波は、どこまでも及びつづける。私が生きて、闇の 世界の中で誰にも気付かれることなく吸っては、吐いてみた息さえも、決して消え 去ることはない。息の波が巡り巡って、人の心を、世界そのものを豊かにする。
 私とは、世界の恵み、世界への恵みなのだ。


                                01/11/14 21:59