障害という人生の祝福、他

                                          (03/07/28 up)



                                        

16.在るということの不思議、そして祈り

17.障害という人生の祝福


18.さだまさし 償い








16. 在るということの不思議、そして祈り

 





 祈りについて、在るということについて、散々、贅言を弄しながら、一向に進展が ない。祈りについても、在るということについても、堂々巡りを繰り返すだけのよう だ。
 けれど、それはそれで構わないことなのかもしれない。ただの一日の瞑想で、己が 変わるくらいなら、それはその人間の迷いがそれだけ浅いことを示しているのだろう から。
 迷うほどに、闇の道は深く遠くなる。道は曲がりくねって、気が付いたら自分が一 体、何処にいるかさえ、分からなくなっている。もう、後戻りなど出来なくなってい るのだ。
 そう、やってしまったことは、取り返しがつかない。抉り出したくなるような悔恨 の念と、羞恥の念とで、頭の中が一杯だ。
 それでいて、では、少しは反省が進んだかというと、ちょっと気が緩むと同じ過ち を繰り返しそうなのである。愚かしさという泥沼も、奥深いということか。
 在るということの不思議を思う。色即是空などというけれど、愚かな自分には決し て、色(しき)は空(くう)ではない。決して。
 それどころか、愚昧なはずの現実の中で、日々の競争なり見栄の張り合いやらに明 け暮れている。過去の失敗に責め苛まれている。恋焦がれる誰かに引き摺られて、身 動きも出来ないでいる。その恋が実る見込みもないと分かっているのに。
 秋の日の何処までも高い空を見上げる。遠い日に、家の庭の片隅に一本だけ忘れら れたようにして立つ柿の木を思い出す。秋も深まると、柿の実も落ち着くし、葉も涸 れ果てて、裸の幹と僅かに落ち残る柿の実が、青空に寂しく揺らいでいた。
 今も、不思議なくらいにその光景は瞼にくっきりと浮かんでいる。手を伸ばせば、 揺れる柿の実に触れられそうなくらいなのである。
 が、決して、触れることなどできはしない。
 それは、あの日の彼女に今となっては触れることの叶わないのと同じである。
 全ては消え去ったのだし、涸れ果てたのだし、風景そのものが変化してしまったの である。本当にあれらのことがあったのかどうかさえ、時には確信が持てなくなる。 あるいは持てたところで意味が感じられなくなっている。
 届かないし、触れられないのだ。
 その触れ得ないという感覚だけが、妙にリアルに感じられる。
 触れ得ないという現実は、今、私が生きる現実をも支配している。今、目の前にい る誰かさえもが遠い、あまりに遠いと感じさせるのである。
 血の出るような現実。それでいて、私をひたすらに埋没させる現実。
 私が私であることが見えなくなっている現実。
 生活にあくせくしていて、しがらみばかりが私を雁字搦めにしているのだけど、そ の息苦しさに逃げ出したいほどなのだけれど、でも、昔日の日々のようには決してリ アルではないのだ。
 私は触れたい。本当の現実というものに。本当に在るものに。祈りが可能であるな ら、その正体の知れない現実に触れたいと祈るだろう。
 私は神も仏も信じていない。別に否定しているのではない。まして他の誰彼が神や 仏を信じるというのなら、その心性を尊重する。その人を嫉妬もしないが、軽蔑もし ない。恐らくは、踏み迷っているのは、自分のほうなのだから、一言だって、他人の 信仰を忖度できないのだ。
 私は、きっと、心が盲目なのだ。心が涸れているのだ。何も見えないし感じられな いでいるのだろう。余りに長く現実から逃げすぎたのかもしれない。
「在る」ことの不思議を思う。現実の世界のメカニズムのどんなに精妙かつ巧妙であ っても、とにもかくにも現実があるということ自体の不可思議さには、到底及ばない。
 物理学の本を読むのが好きだ。生物学の本も。遺伝子の働きを追いかけ、免疫のシ ステムの絶妙さを感嘆の念をもって学び、数学の世界に遊び、文学作品にある種形而 上的真実を読み取る。芸術の世界においては美の極を極めたいと思う。
 でも、そうした一切にもかかわらず、やはり、在るということの不思議さには、足 元にも及ばないのである。
 けれど、今、私は自分も世界も見えなくなっている。感じられなくなっている。何 があるのか分からないでいる。だから、懸命に何かを見つけ出そうとしているのだ。 何か分からない何かを。
 六道の闇夜を歩いて、恐らくは引き返すことができないばかりか、引き返す意欲さ え萎えていることを感じている。縁は切れたのだろうか。何かへの縁は、そんなにも 容易く切れるものなのだろうか。蜘蛛の糸は、細く、弱く、ただの一人でさえ、しが みつくことを許さない。
 信仰の糸も、そんなものなのだろうか。祈るとは、一体、どういうことなのだろう。  闇の世界にいて、一体、何処へ向けて祈ればいいのだろう。目を見開いているのに、 何も見えない。見えるものの一切が、空しい。この空しさは、決して、空(くう)と いう大袈裟な意味の空ではない。ただ、端的に、ただ、空っぽなのである。
 せめて足元だけでも暖めたいと思う。祈ることはできなくても、手をかざして、手 を重ねて、ホッとした感覚だけでも与えたい。自分に与えることができないなら、せ めて、何処の誰とも知れない誰かに、ここに明かりがあると告げたい。
 ここに道に迷う愚かな旅人がいると告げたい。もしかしたら一緒に歩けるかもしれ ないのだから。祈ることはできなくても、道に迷う不安な心のあることだけは、どう にも拭い得ない。だとしたら、きっと、ここではない何処かにいるだろう、誰かに、 ここにも迷う人がいると告げることは、決して意味のないことではないのではないか と思う。
 出会うことは叶わなくても、ある思いが在ることを、蝋燭の焔のようにか細く燈る 灯りに過ぎないかもしれないけれども、ここに絶え絶えの、風前の灯火の在ることせ めて誰かに告げたい。
 何か知れない何かがある。それは、迷ってやまない、不安に慄く心だ。それだけが 確かなのだ。そして、今の自分には、それだけでも、十分なのだと思う。


                                          01/10/21





17. 障害という人生の祝福







 体に追う障害というのは、外見からして見え易いので、障害者という存在が明確 にあるような気になりやすい。腰や膝などに完治できない傷を負い、歩く時に人並 みにはいかない、などである。場合によっては車椅子のお世話になることもあるわ けだ。
 一方、心に追う障害というのは、外見からして見えにくいので、障害者としての 存在が明確なようにはみえないことがある。
 それでも、実際には、心の障害でも、それが外見や行動に影響していることがあ って、ひと目で、それと察することができる場合はある。何か表情が、おかしいよ うな、常識的感性には親和しがたい雰囲気を漂わせている、とか。
 ところで、近年は、脳の中を画像診断などを含めかなり細密に観察・分析するこ とができるようになってきた。従来は、脳に機能的障害を発見できなかったために、 心の病として片付けるか、あるいは仮病の類いをさえも疑われかねなかったのが、 実は、脳の一部に機能異常が発見されたりして、それが影響しているのだと判断が 下るようになってきたのだ。
 さらには、従来は精神分裂病(統合失調症と変名されることに決定されたらし い)とされていた心の病も、実は遺伝子レベルでの異常が発見されつつあるという。 将来は、遺伝子治療を含め、治療も夢ではないのかもしれない。
 あるいは「躁鬱病」も、その一つとなるのは、大分、先の話だろうか:
 http://www.seri.sakura.ne.jp/~lisa/
 これは、要するに心の病と肉体の病との垣根が大分、下がってきたことを意味す ると思う。が、この点は、もっとじっくり論議する必要があろう。今は、避けてお く。
 さて、障害と呼ぶには、ちょっと困難な類いの、しかし小生としては障害と見な したくなる障害もある。それは顔貌に関わるものだ:
 http://www.koubunken.co.jp/0275/0263sr.html

   さて、障害とは何だろうか。人は、百メートルを10秒で走れないからといって、 その人のことを障害者呼ばわりはしない。空を飛べないからといって、その人は鳥 にも劣るダメな奴だとは思わない。1キロ先の新聞が読めないからといって、目が 不自由な人とは見なさない。
 が、腰などを傷めて、足を引き引き歩くような人のことは、即座に障害者扱いす る。まして車椅子がないと外出も侭ならない人は、文句なしに同情されたりする。  なんだか、当たり前のような。
 が、何故、足を引き摺って歩くと障害者なのだろう。そもそも両足が揃っていな いと、ダメなのだとは、誰が決めたことなのか。なぜ、視力は裸眼で1や0.5が望 ましいのだろう。0.1では、何が不足だというのか。
 見えないとは、一体、何が見えないということなのか。
 一体、人は何に対して障害があるから、その人が障害者だと判定するのか。仕事 に対する能力なのか。人とのコミュニケーションが取れないからなのか。多くの人 と一緒のペースで歩けないからか。人より早く歩けないからか。人より遠くのもの を見ることが出来ないからか。近くのものしか見えなかったとして、何が悪いのか。 あるいは見えないとしたら、では、その何処がダメだというのか。心の中しか見え ないとして、その何処がいけないのか。
 そこには、何か標準とか常識というものが、大きく聳えているような気がする。 人並みという目には見えない標準があって、そのハードルを越えられない人間は、 障害者という勝手な認定が下るわけである。それどころか、自分で自分を障害者と 見なすことさえ望むことがある。
 それは、障害者認定によって補償が得られる可能性が開けるから。でも、それ以 上に、人並みには出来ないことに伴う労苦を理解されないことの代償を、障害者と 認定されることで、得ようとしてるのだろう。
 結局は障害者の苦労など、健常者には理解不能なのだから、それなら、せめて、 障害者と認定されることで、一定のレッテルを貼ることで、もう、普通の人とは範 疇の異なる、違う世界に住む人間として、独自の道を行こうとするのかもしれない。  どこかへ行こうとする。障害がなければ、思いついたら、そうする。それだけの ことである。そのうち、何処かに着くのだろう。
 が、障害があると、例えば靴下を履くことが、そもそもとてつもない労苦を伴う。 ズボンを穿くのも、大変だし、家の外に出るまでが、大汗のかく一大事なのだ。
 何だって、ただ、外出するというそれだけのことで、こんなに苦労するのか…。
 が、さて、では、一体、その苦労とは何か。そもそも、外出の目的は達成されな ければならないのか。その目的のために、今、難儀しているのは、まるで意味のな いことなのか。
 実は、ここに考えるべき余地が大いにあるのだ。
 人と逢う。逢うために出かける。が、出かけるのが億劫になるほど、体や心の傷 はひどい。けれど、その傷や難儀を押して、人に会う。人に会うのは、それだけの 値打ちがあるからだ。人に会うために払う、これほどの、時には艱難だとさえ感じ てしまう労苦こそ、実は、生きる上の値打ちそのものなのだとさえ、思えるほどだ。  実は、きっと、人に会う、逢いたいとは、その生きることのしみじみとした感覚 をとことん味わうことなのではないか。
 なぜ、そこまでして人に会うのか。それは、相手もそれだけの労苦を払うに値す る相手なのだからだ。這いつくばうほどの生きる労苦を共有することを、労苦の最 中の汗する実感を共感できるだけの相手だからだ。
 つまり、実は、障害とは生きることの懐かしさそのものなのではないのか。
 大概の人ならば、思いっきり回り道して、時には老いや病むことによって、よう やく多少は実感できる何か、つまり、障害とは、生きることの歓喜と悲惨を集約し た人生の縮図なのだ。
 歩くたびに感じる心や体に感じるギクシャクした煩わしさこそが、その障害の担 い手たるその人への、人生のエキスの甘受への招待状なのだ。
 障害を負っているとは、人生の深みへの優待なのである。生きている、ただ、そ れだけで、生きていることの大切さを日々、タップリと味わうことができる。煙草 もゲームもなくたって、退屈することはない。障害を自覚する一瞬一瞬が、命の蘇 りという形で祝福を受けるのだから。


                                          02/01/27






18.さだまさし 償い






「東京・世田谷区の東急田園都市線三軒茶屋駅のホームで昨年4月、銀行員の牧顕 さん(当時43)が殴られ死亡した事件」に絡み、当該事件の裁判長が、反省の色 の薄い被告たちに対し、さだまさし作詞・作曲の『償い』の歌詞を引用する形で、 若い被告二人に反省を促した。
[事件の顛末はテレビなどで報じられているので、御存知の方も多いだろう:
 http://www.nikkansports.com/news/society/p-so-tp0-020220-02.html ]
 小生も、さだまさしの歌が好きな一人だ。しかし、ファンというほどではないの だろう。コンサートに行ったこともないし、この20年程前に作られた『償い』と いう曲も知らないのだから。 
 でも、今日、たまたま昼間にワイドショーでこの曲を聞いて、不覚にも涙を流し てしまった。
[『償い』の歌詞は以下のサイトで、他の曲も含め、伺うことができる:
   http://www.sada.co.jp/songwww/text/song105.htm  ]
 別に、小生は一生かけて償うべき罪を小生が負っているわけではない。
 けれど、誰しも中年と呼ばれる年ともなれば、何かしら引き摺るものがないわけ もない。
 街中などで、時折、見かけるうだつの上がらないような男。目立つような何をす るわけでもない人間。一見すると、覇気などまるでない、つまらなそうな人間。
 でも、その彼がそんな貧相な風貌なのは、それはそれで人に言えない事情があっ たりするのだ。担う荷物が重すぎて、今にも潰れそうだったりするからなのだ…。
 年を取ると涙腺が弱まるという。小生も、そんな年になってきたのかもしれない。  ただ、思うのは、誰しも伊達に年を取るわけではないということだ。涙もろいと いうのは、きっと、少しは人の気持ちが分かるようになってきたからではないのか と思ったりもする。他人のこと、関わりのないことのはずなのに、でも、その相手 の気持ちが分かってしまうのである。
 何かしてあげたい。それでいて、何も出来ない。それこそこっちだってウダツの 上がらない人間では、引けを取らないのだし。
 せめて、こういう話があったことだけ、もっと、みんなに伝えられればと思うだ けだ。


                                          02/02/21