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(03/06/14 up)
1.祈るということは…
2.祈りの果てにあるものは…
3.出会いからはあまりに遠くて
1.祈るということは…
小生は食み出し者で、田舎で誰かの葬式があっても、もう呼ばれることのない
人間である。お墓参りも数年に一度ほども、行くかどうか。正月に初詣は母と行
くことがあるが、それも今年は行かなかった。一応は田舎の家は何処かの寺の檀家になっているようだし、その時節ともなる と、お坊さんがやってくる。が、そうした一切には東京にいる小生には疎いまま である。 そう、友人の父母や兄弟らの死に際しても、小生は全くお呼びではない。結局、 それだけの人間だと世間に見なされているわけだ。 そうした一切は、自業自得と心得ているので、誰彼を責める問題ではなく、己 の愚かしさを思うだけなのである。この先の人生もひたすら寂しいものが待って いるだけなのだろう。 所詮、小生はこの世で男も女も、とにかく唯の一人も心を許す相手を持つこと が出来なかった。それは小生が心を固く閉ざした、狭い心の持ち主だからでもあ ろう。 さて、そうした小生ではあるが、祈る気持ちだけは持っている。たとえ、わが 寓居に仏壇も神棚もなくても、目を閉じて瞑目する中に、この先の人生が闇の果 ての崖があるばかりと予感するばかりと、何か暗澹たる思いが沸き立ち、誰かに 縋りたくなる時があったりする。 友の、あるいは友の近親の、あるいは小生自身の近親の不幸を、それとも、己 自身の蒙昧なる心性の闇を、天なのか、それとも地にあるのか知れない何ものか に祈るしかない思いに満ちる時があったりするのだ。 祈るのは、何もお寺へ、あるいは神社に足を向けなくても、禊でもして、それ とも水垢離をし、裃か白無垢の姿になっていなくても、祈る気持ちが深甚であれ ば、それはそれでいいはずだと思う。 病に倒れてお寺や神社どころか、家の仏壇の前に立つことさえ叶わなくなった としても、心の何処かに真率なる思いが、祈らんとする切なる情があるなら、祈 りが叶わないとしても、それが既に祈りであることは神か仏だけは認めてくれる のではないか。 祈りは気持ちのなかにこそある。心の中にあればこそ神か仏への祈りは真実な るものとしてある、そう小生は信じたい。 過日の靖国神社への小泉首相の参拝で、その形式が云々された時、そしてその 形式が神道の形式ではないから憲法違反ではないのだ、云々の議論を政府筋など が行っている時、小生は心底寂しい思いをした。 一国の首相がそんな姑息な手段を弄して、それで済まそうという根性。 たとえ神社やお宮やお寺から遠くはなれたところから、あるいは病床から、あ るいは旅の空から祈ったのだとしても、それは優れて宗教的な行為なのではない か。神や仏は、その祈る人の身が穢れていたら、衣服が改まっていなかったら、 そんな者の祈りなど、汚くて受け止めないとでもいうのか。神や仏とは、そんな に料簡の狭いものなのか。 小生は特定の宗教の宗派の信者ではない。そもそも仏教徒なのか、時折ではあ っても神社にお参りする上は神道の徒なのかさえ、分からない。けれど、宗教的 心性は大切だと思う。 この世は、愚か者の小生には目に見えるものしかなきものと思う。だからとい って、目に見えないものまでもないと断じようとまでは思わない。 祈りが通じるものであるとさえ、小生は思わない。祈りが通じないなら信じな いなんていう卑しい気持ちだけは、愚か者の小生にもない。祈りは祈りであれば それでいいと思う。闇の道に踏み迷ってしまった己の業の苦しさの果てに祈りの 気持ちが心底から生じれば、素直に祈るだけだ。 そう、祈るだけなのだ。それで十分なのだと思う。祈ることができるだけでも、 人は人であることが証明されているのだと信じたいのである。 01/09/05 02:34 2.祈りの果てにあるものは…
祈る心がある。が、闇の世界に踏み惑った人間には、祈りを捧げる場がない。 あるいは、方向感を失った人間には、祈りを闇の何処へ向けて捧げればいいのか 分からないのである。 無論、祈りは、ただ、祈りであればいい。ただ、闇に向かって祈りの思いを発す ればいい。それは、業に溺れきった人間の救いを求める唯の叫びあるかもしれない。 声なき声に過ぎないかもしれない。 でも、その溺れるものが藁をも掴む思いで「助けて!」と叫ぶのであっても、そ れはきっと祈りなのだと思う。それでいいはずなのだ。 が、何をも信じていない私には、祈りは祈りに終わるべきものに過ぎない。闇の 果て、闇の奥には、沈黙よりも遥かに凄まじい空白があるだけ。 私は神も仏も、その存在を否定しない。また、多くの人が神か仏かの存在を信じ ていることも知らないわけではない。 けれど、私は、人には神も仏も決して見えないものであることを思うのみである。 私の肉眼に見えるほどのものなら、それは仏でも神でもない、それは何かの幻像、 何かの狂気、心の空漠の底知れぬ深さに怯えるが故の、めくらましなのだと見なす。 私は仏像を全く認めない。そんなものは、どんなに美しいとしても、仏への心か らの希求の念を眩しさと神々しさで、心の目を逸らしているに過ぎないと思う。 神も仏も人間からは遥かに遠い存在なのだ。 過日、何処かの町を歩いていたら、都会では珍しく蟻たちの蜿蜒と続く群れを見 た。 蟻たちは何処から来て、何処へ向かっていくのだろう。無論、蟻の巣穴から、何 処かで見つけた餌の山へ向けて、往復の列を為している。 が、しかし、黙々と、淡々と、あるいは忙しく、ひたすら餌を求め歩くその様は、 たまさかの巣穴という名のこの世の踊り場から、この世に何故かしら現出した蟻た ちをその先の知れない遠い世界へ、ともかくも歩くことを選ぶしかない空しさのよ うなものを私に覚えさせた。 私はここにいる。孤立しているとはいえ、ともかく、この世のここにいる。私は 何かを欲している。それは救いなのか、愉しみなのか、悲しみなのか、悦びなのか、 自分でも分からない。が、そのどれもが結局は、当座の踊り場の数々に過ぎないこ とを嫌というほど、知っている。 つまり、やはり私は何処とも知れない闇の果てからここに至りついているように、 何処とも知れない闇の彼方へ、例え目には足を留めていてでさえも、歩き去ってし まう。 さて、人からは蟻は、ただの虫けらに過ぎない。健気な虫けらと思うか、ちっぽ けな虫けらと思うかは人それぞれだとしても。 そう、人と虫けらとの間には、きっと無限に近い隔絶がある。その両者の間に会 話の成り立つ余地などない。時に勝手に人間様が蟻たちに語りかけることがあって も、それは人間の独善、人間の幻想、自慰めいた自己満足の世界があるだけなのだ。 けれど、さて、その人間と蟻たちとの隔絶も、神や仏から見たら、無きにも等し いのだろう。神や仏が何ものか、私には分からない。 が、それは遥か高みに、あるいは遥か地の底深くにあり、その目から見たら、蟻 と人との区別など空しいものに過ぎないだろうとは思う。 人間が仮に蟻を見て、この虫けらどもめと、尊大ぶってみても、そうした人間を 神や仏が見たら、目くそ鼻くそを笑うの喩えより、もっと滑稽に映るに違いない。 きっと、神や仏は、この世の外にいるに違いない。この世の中にいるはずもない (スピノザのように神がこの世に偏在しているとでも思わない限りは)。 が、人間は逆立ちしてもこの世にあるしかない。その人間の叫び、祈りは、それ がどれほど真率なもの、心の底から発せられたものだとしても、それはこの世の声 でしかない。 沈黙の声は空漠たる闇の中で、木霊さえしない。 私は何ものかに触れえるかもしれない。木々の幹に、家の壁に、柱に、誰彼の衣 服の裾に、あるいは肌に。そう、風にさえ吹かれてみることができる。その足を緩 めることはあっても、やむことのない風という名の、目に見えない息に。 私は水の滴る音が好きだ。その光景も好きだ。一滴の水に、私は大袈裟ではなく、 無限を感じることがある。 そう、私は清冽なる水に触れることさえ、できる。 そうした現象の一切は、この世のものである。そうした現象の数々を、その相貌 の数々を味わい楽しむことができるだけでも、それは、きっと凄いことなのではな かろうか。 けれど、祈りは祈りであり、この世の外に届くことはないのだろう。 そうだ。私は祈りが届くから、届くことを期待して祈っているわけではなかった のだった。祈るしかないから祈っているのだ。それが悲鳴に他ならないとしても、 他にどうすることが私にできようか。 祈りの果てにあるものは…、きっと、闇。 01/09/14 3.出会いからはあまりに遠くて
Bさん、こんにちは。コメントをありがとう。 貴重な知恵を戴いたのですが、愚鈍な小生には必ずしも貴兄の機縁に満ちた世界 には到底、辿り着きそうにありません。 従って以下の一文は、相変わらずの愚昧な独り言だと思ってくださればと思いま す。 雨上がりの小道を歩くと、何かが私の頭に落ちた。数知れない細かな透明な粒を 目にした。それは、近所のブロック塀越しの木の葉を伝って、私の頭に落ちた一滴 の水の雫だったのだ。ちょっとした衝撃の波が私の心に走った。 それは、まずは外で冷たい何かの直撃を受けるという予想外の出来事への驚き。 でも、すぐにそれは私が決して孤立してはいないということの直観へと転化した。 人は年を取るごとに、意外性への素朴で新鮮な感動を忘れていく。それは、生き ることに慣れてしまったことを意味している。遠い日の、己が未だ幼かった頃、柱 に頭をぶつけては泣き、敷居の何処か出っ張りに足を引っ掛けては悔しさのような 怒りのような感覚に泣きじゃくり、目の前の何か新しいものが初めて手に入らなか ったある日、その己が決して特別な存在ではなかったのかを思い知って泣く。 やがて経験の数々は生きることを学ばせる。天上の梁に今更ぶつかったりはしな いし、欲しいものが手に入らなくても我慢することを覚える。雨は、傘がなければ 着る衣服を濡らすだけの不快なものに思えるだけ。 そして人とも余計な衝突は避けることを覚える。自分が、心底から良かれと思っ たことでも、後で考えてみると、それがいかに独善的で、あるいは狭い料簡からの 思い込みに過ぎなかったかを思い知って、身の程を知るのである。 けれど、そうはいっても何か人とのつながりが欲しいから、ほんの僅かの友か、 愛する人との狭い世界を大切にするようになる。きっとそこにはつながりがあるに 違いないと、人並みの心の交流があるに違いないと思いたいのだ。 が、やはりいつかは遅かれ早かれ自分が、世界からポツンと取り残されているこ とを自覚する。私は世界に一人なのである。 そのことが愛とか趣味とかへ再度、自分を走らせることもある。が、それは己が 一人であることを再確認させるに終わるのが常だった。 さて、とはいっても、世界に自分がポツンと放り出されているとしても、それは 自分だけがそうであるわけではない。それくらいは、いつかは悟ることができる。 が、凡人たる自分は、だからといって、少しも自分の気が晴れることがないこと を知っている。 私は世界がもっと単純であればいいと思ったりする。人と人とが分け隔てなく、 気さくに話を交わすことができればと思ったりする。それが、もう、とっくに不可 能であることを思い知っているにもかかわらず。 言葉は人と人を結びつける。が、同時に、分断する。誤解を生む。ほんの一言で の誤解が、いい間違いが取り返しのつかない結果を齎してしまう。 私は過去の言葉、過去の営みの錯綜し縺れた網に雁字搦めになってしまっている。 さっぱりと断ち切れたなら、どんなに気が楽かと思う。心の何処かのしこりをきれ いにそっくりそのまま抉り出せたなら、どんなにすっきりすることかと思う。不可 能だとは思いつつ。 いつしか平凡な人生の果てに、すっかり臆病になった自分がいる。いいことも悪 いことも出来ない自分。人との諍いを恐れて、出る杭は叩かれるものと知って、頭 を引っ込めて生きるのが賢明と、心底から思い込んでいる自分がいる。 私は今、自分が、外界と全く触れることのなくなったことを自覚している。摩擦 のない透明なパイプの中を滑り行くだけの人生であることを自覚している。昨日と 今日は日付以外に何も違わない。 透明なパイプの中からは、昔と同様、外の世界が見える。風景は全く以前と変わ らない。 変わったのは、そこに救いようのない静けさと寂しさがあること、己から人の世 界へは無間に遠いと感じる自分がいること、街の風景は、あくまで風景であり、光 景であり、背景であるということだ。その一番の背景は自分なのであるけれど。 私はパイプの中で窒息しそうなのである。私が吸い吐く空気は、パイプの中のみ を循環する淀んだ空気なのだ。風の息の渦巻く世界との接触は、アクリルの板で遮 られている。私は、何処までも縮小再生産する。私には、近いうちに世界の中の極 小の点、存在の無に成り果てる予感がある。 さて、でも、つい先日だったけれど、街頭で頭に落ちかかった雨の雫は、何かを 私に教えようとしていると感じさせた。それは単なる予感に過ぎないのかもしれな い。 あるいは己の中に残る救いへの念が、無理矢理に<予感>と呼び変えさせている のだろうか。 私の中に祈りの念らしきものがある。が、それは念入りに仔細に検討してみたら、 祈りではなく、ただの悲鳴、ただの沈黙の叫び、ただの軋み、ただの擦過音に過ぎ なかったのかもしれないと、ようやく分かってきた。 私には知恵がある。小ざかしい知恵に過ぎないのだが。 それは外界との摩擦を避ける知恵である。外界とは主に人間を指す。 遠い日に、いつかは人と本当に出会える日が来ると、夢みていたような気がする。 気のせいだったのだろうか。 今は、本当に生き易い時代だ。コンビニがある。小さなコンクリートに囲まれた 部屋がある。ネットがある。薬もある。サッシで、ぴったりと外気を遮断すること もできる。その限局された空間で、私は遠い何処かへ無限の滑らかさを以って駆け 抜けていくのである。 一体、この世に他に何があるだろう。 01/09/19 22:38 |