43.世界は開いている
44.世界の中心で…
43.世界は開いている
以前、小生はこのようなことを書いた:
命は、この世の至るところでその発露を求めている。岩の下で圧迫されていた
って、岩を噛み砕いてでも、日の下に出ようとする。ちょうど、そのように、重
い布団に呻吟するあの人は、窓の外の色付いた葉っぱを恋しているに違いない。
他に道はない。たとえ、日に向かって手を差し伸べることが、刃の林立する地
獄に素の腕を差し出すことに他ならないとしても、でも、他に道はないのだ。
命を削ってでも、幾重にも折り畳まれてしまって、もう、原形など留めていな
い心の根を伸ばそうとする。心の枝を張ろうとする。心の葉っぱを日に晒す。
岩の中に亀裂を生み、体を削りつつ、上へ上へと伸びようとする。腕の表皮が
剥がれ落ちていく。そんなことなど、構ってはおれないのだ。きっと、剥がれた
肉片だって、命の塊には違いないのだし。岩に垂れ、染み付いた血の雫だって、
命の流れの果ての姿には違いないのだ。
心は、あらゆる方便を選ぶ。見かけがどうだろうと、構うことなどない。顔を
歪めてでも、日の光を浴びたいのだ。世間という岩塊を炸裂させてでも、命の交
合を夢みるのだ。
叡智。それは、きっと、懸命に生きるということ、ただ、それだけを意味して
いるのに違いない。今、あなたが疼いていれば、それこそが叡智の輝きを生きて
いる証拠となるのだ。
「叡智 それとも 命の疼き」より
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/essay/eichi.htm
あの頃の自分は何を求めていたのだろうか。眩しい陽光を追いかけていたのだ
ろうか。まだ当時は、たっぷりと広がっていた田圃と砂利道と空き地と何がある
か知れない林とが世界の全てだった。日が出ていたら日の下で近所の友達とそこ
ら中を駆け回ったし、雨が降ったら降ったで、裸足になって水溜りをわざとバシ
ャバシャやって、水と泥とのえも言えぬ感触を味わった。
心臓の弾む感覚。もう、身動きなどできないほどに走り回って、くたくたにな
っても、何処かの木の根っことか、農機具の収められた小屋の柱とか、校庭の隅
っことかで、体を休める。誰かの連れて来た犬が脇にいたりして。
ほんの一時、休めば、もう、疲れは何処かへ吹き飛んでいる。疲れなんていう
のは、暑くなったら脱ぎ捨てられる、邪魔っ気な上着のようなものだった。
縄跳びや缶蹴りや鬼ごっこや野球やチャンバラなどをして、ぶつかり合ったり、
じゃれあったり。
そこには、自分が居り、相手がいた。何かを発しったら、何かを返す友達がい
た。男の子が大半だけど、女の子もいたっけ。ふいに女の子が畑に行って、しゃ
がみこむものだから、何するのかと覗き込んだら、おしっこだったな。女の子、
見られても平気で、シャーシャーやっていたっけ。その勢いのいいこと!
閉じられた世界。狭い世界。その世界だけで生きているなら、それはそれで楽
しかったのだ。閉じた世界では、自分たちを見守る大人たちがいたのだ。
でも、世界は開いている。他所の世界がある。隣の町。遠い町がある。見知ら
ぬ町の見知らぬ人々。一歩、外に出ると、自分を奇異に見つめる人の目。針の筵。
全面、鏡張りのアリ一匹も這い出る透き間のない空間。母に連れられて他所の町
へ行くことは、息を詰めること、心を閉ざすこと、目を閉じること、全てを夢の
中の世界として受け流すこと、遣り過すことだった。
でも、そんなわけにはいかない。眼差しは薄紙に染み入る水のように、体中を
射抜く。神経がこれ以上、伸ばしようもないほどに引っ張られてしまう。人生の
壁に磨り減ってしまう。世界は、自分の町という閉じた世界では決してないこと
が分かる、思い知らされる。
世界は開いている。常に違う世界へ繋がっている。
相互に脈絡もなく通行し合う。
その中で、敢えて閉じた世界に閉じ篭ることだってできないわけじゃない。目
を閉じ、心を閉じて、己の世界の壁面に空いた穴を埋めつづけ、その世界の中で
一個の宇宙を作り上げる。どんなに小さな宇宙だろうと、その宇宙には無限があ
る。小さな世界を見つめると、その小さな世界の更に奥により微細な宇宙が広が
っているのだ。剥いても剥いても、際限なく宇宙は縮小再生産される。決して終
わりの時が来ることはない。
その閉じた世界で安逸を貪ることだって、それはそれで愉しいに違いないのだ。
そして、誰にも非難される謂れもない。退屈なんて、ありえない。
その世界の中で、一個の窓のない完璧に循環し続ける世界を構築し、やがては
窒息するのだとしても、それは緩やかな自殺のようなもの。とてつもない至福の
時が己を満たす。それはそれは愉しいのだ。
その世界から、ほんの時折、窓を少しだけ開けて、外界を眺め、吹き荒ぶ嵐を
垣間見て、ああ、やっぱり部屋の中は安楽で安全でいいなと思う。時に、外界の
豊かさを思い知らされる光景を見ることがあっても、窓を急いで閉め、何かの間
違いだと思い、そして昆虫図鑑とか、本の紙魚の数などを数え始める。そのうち、
外の世界への羨望の念など忘れ去るに違いないのだ。
が、世界は開いている。どんなに完璧を装ってみても、世界は土台から揺るぐ。
揺さぶられる。誰によってか。それは結局は自分によって罅割れの時を招いてし
まうのだ。
外の世界がある。外の世界は内にだってある。というより、内の世界に自足し
ていると思っていたのが、気が付いたら、壁面は外界の表皮そのものだったと気
づかされるのだ。
どうしてそんな羽目になるのか。それは命が矛盾に満ちたものだからだ。絶え
ず新陳代謝を繰り返すものだからだ。飽くことなく他の世界を浸潤してやまない
ものだからだ。
そして、その異質な世界同士が浸潤し融合し、あるいは相克し軋轢の熱を発し、
安泰そのものだった閉じた世界の大地が根底から湾曲運動を起こし、造山運動を
起こし、あるいは崩壊現象を起こし、足場などあるはずもなくなり、ガキの頃に
遊んだ泥濘とは凡そ似ても似つかぬ、底なしの、しかも煮え滾る泥沼に自分が浸
かっているのであり、そうした閉じた世界など何処にも許さないこと自体が、生
命の蠢きの証左なのだと思い知る。
気が付いたら、巨大な岩の下敷きになっている。息も絶え絶えである。今にも
絶命の時を迎えそうである。けれど、命は執拗に自分に生きることを選ばせる。
何を求めてということではなく、とにもかくにも生き延びることを選ばせる。そ
んなに簡単には死なせない、楽にはさせないよとでも言うが如く。
親が病む我が子を懸命に看病し、とにかく生き延びさせるように、生きること
がよきことか、生きることが生きるに値することなのか、などと問うような、そ
んな悠長な戯言を吐くゆとりなど、露ほどもなく、我が子に生き延びて欲しい、
息を絶やすことなどあってはならない、苦しげな息が少しでも楽なものになり、
やがては長い夜の果てに薄明かりの時を迎えるように、我が子にもそんな時が来
て欲しいと念じる。祈るしかないのだ。
そのように、一個の孤立した魂の彷徨い人であっても、その魂に誰かが呼びか
ける。誰かが祈りの闇夜を走りつづける。一個の孤立した魂など、この世に存在
しないのだ、一個の魂であっても、それは見かけに過ぎず、決して閉じた魂など
はありえないのであり、やがてはその孤独な魂に、遠い地上の世界に降り注いだ
日の温もりが、そうでなかったら、降り注いだ雨が、細い道筋を辿って、地の底
の魂に一滴の雫となって、潤いを与える。
世界は開いている。閉じようがないのだ。
そうして生き延びて、いつか、地の上に裸足で立って、日の光を浴びる。木々
の緑を愛でる。風の囁きに震える。世界がとてつもなく広く、豊かであることを
知る。生きている、ただそれだけのことが、想像をはるかに越えて有り難きこと、
懐かしいことだと思い知る。
そんな思いに胸を熱くしたなら、きっと、その時には、閉じていた胸も開いて
いるに違いない。世界が開いているように。
03/11/21 記
44.世界の中心で…
片山恭一著の『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館刊)が売れているらしい。
きっと素敵な本なのだろう。ネットで中身を調べると、「十数年前・高校時代・
恋人の死。好きな人を亡くすことは、なぜ辛いのだろうか。落葉の匂いのするフ
ァーストキスではじまり、死を予感させる無菌状態の中でのキスで終わる、「喪
失感」から始まる魂の彷徨の物語。」とある。泣かせる話のようである。
この作品の読解については、例えば下記を参照:
http://homepage3.nifty.com/writersgym/mystery/sekai.html
なんだか、昔、読んだ伊藤左千夫著の『野菊の墓』や堀 辰雄著の『風立ちぬ』
をちょっと連想したり。
『野菊の墓』:
http://www.aozora.gr.jp/cards/000058/files/647.html
『風立ちぬ』:
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0641.html
あるいは、ちょっと違うが、ふと、大島みち子著の「若きいのちの日記」をも
とにした映画「愛と死をみつめて」が思い浮かんだり。
ただ、気になるのは、何故、『世界の中心で、愛をさけぶ』であって、『世界
の中心で愛をさけぶ』じゃないのかという点。読点を入れないと、ただの説明文
口調に感じられるからなのだろうか。
まあ、当該の本は読んでいないので、ただ、表題の言葉だけに拘って、思いつ
くままに何か書いてみたい。
というか、このタイトルが気に掛かるのである。いいタイトルだとは思わない。
売れる本だとこういうふうに付けるのかと感心はするが、自分だと気恥ずかしく
て絶対に拒否することは間違いない。
だから、タイトルとしての『世界の中心で、愛をさけぶ』ではなく、あくまで
言葉としての「世界の中心で、愛をさけぶ」に拘ってみたいと、この題名を見聞
きした時に思ったのである。
世界の中心というのは、一体、何処にあるのだろうか。きっと、物語が綴られ
る舞台こそが中心そのものなのだろう。話を綴る当人の気持ちの中、あるいは関
係者の関わりの状況が世界の中心なのだろう。恋をしたり、病に苦しんだり、誤
解や中傷に悩んだり、やむを得ず背負う業苦にうめいてみたり。そうした感情の
渦巻きの中心部、渦中にある人こそが世界の中心にいるのだろう。
担いきれない、吐き出したいほどの苦しみ。その苦しみを覚えつづける限り、
世界の軋みや歪みの焦点がまさにその一点に集まっているかのようである。世界
の関心さえもが焦点を自分に合わせているに違いないと感じられてしまう。世界
のほかのどんな苦しみさえ、見えなくなる。仮に見えても、自分が今まさに感じ
ているその苦しみの地平と同じような、あるいはその延長として見えてしまう。
きっと苦しみはそれぞれに違うはずなのに、苦しみの渦中にあると、その違いが
見えなくなる。見分ける余裕などなくなってしまっている。
そう、きっと、苦しみも逆に喜びも世界の至る所にある。世界の至る所が中心
なのだ。人の数だけ、もしかしたら生きとし生ける全てが中心なのだ。もっと言
うと、世界そのものがどのどの部分を切り取ってみても中心なのであり、無際限
の数の中心の錯綜が世界なのだ。
愛を叫ぶ。愛することを叫ぶってことなのか。愛しているってことを感じてい
るということなのか。誰かへの愛を叫んでいるのか。愛の裏側の死を呪っている
ということなのか。死でしか愛が報われないそのとてつもない愚かしさを恨んで
いるのか。死で償われた愛のはずなのに、気が付いたら過ぎ去った愛の対象の代
わりの誰彼を愛し始めている、己の変わり身の早さに呆気に取られているのか。
愛は持続しない、そのことを自らがあられもなく見境もなく示してしまってい
る、でも、だからって何なのさと開き直るしかない自分の冷たさに絶望している
のか。
自然は真空を嫌うという言葉がある。その正確な真意はともかく、勝手な解釈
をさせてもらうと、物質の存在しない時空は存在しない、もっと言うと、感情か
観念の空白の領域はありえないということである。つまり、平穏な時も平静な心
も、波の立たない日もありえないということだ。悟りは存在せず、愛の安らぎも
存在しない。その代わり、苦しみ一辺倒もない。愛の持続もない変わり、苦悩も
持続できない。
幸せな家庭、やすらぐ心の透き間に風が吹き込む。完璧な防御システムで守ら
れた家の中にだって、何処かしらに隙があり、そこから外界の空気が流れ込む。
高い山の上だろうと同じ。そんな険しい山にだって外気が及ぶ。
風はそよそよと、あるいは激しく吹く。ところ構わず吹きつけていく。水は地
の底から大気の遥か高みに至るまでを濃淡はあっても満たしているし、循環して
いる。我々が地上にあって目にする数多くの動物を圧倒する数と種類の動物が地
の底にも大気中にも棲息している。我々の体も数十兆の細胞の集まりなのだ。体
の内外で細胞たちが生れ生き命を失っている。絶えず絶えず動いている。止まっ
ているように見えたとしても、それは循環が安定して行われているということで
あって、止まっているわけではないのだ。
完璧な心の安定などないのだと思う。少なくとも人間には悟りなどありえない
のだと思う。悟るとは、心が死んだことなのではないか。心に澱んだ空気が満ち
犇いてしまって、体が新陳代謝の余力が無くなって息も絶え絶えになっているこ
とに他ならないのではないか。求め迷うことを止めてしまったことなのではない
か。
では、一体、無数に偏在する世界の中心で、無数に存在する我々は何を叫ぶの
か。
きっと、それは、叫ぶこと自体が生きることの証しだからなのではないか。悲
鳴のうめきだったり、歓喜の声だったり、快感の吐息だったり、しみじみとした
幸福感だったり、あるいはどうしようもない魂の渇望の声にならない声だったり
する。
世界の中心は、今、そこで生き感じ考え悩み求め悔やみ嘆き交歓し感動するそ
の生きる現場にこそある。人間同士だけではなく、生きるものだけではなく、自
然の一切に、この世にある一切に、それどころか想像力の及ぶ全ての存在者・非
存在者の全てに共感する魂がある限りに於いて、そこには中心がある。そして愛
を叫んでいる。愛に満ちているのだと告げている。愛に満ちさせたいと懇願して
いる。愛するとは生きてあることだけではなく、そもそもあること自体への驚異
の念なのだ。だから、本当は、存在とは愛する営みそのものなのではないか。
世界の中心で、愛を叫ぶ必要もない。
なぜなら、世界の中心とは存在そのもの、愛そのものなのだから。
03/12/19 記

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