(04/04/27 up)
34.石橋睦美「朝の森」に寄せて
35.誰もいない森の音
36.さとうきび畑で命を巡るあれこれを考える
34.石橋睦美「朝の森」に寄せて
そのつもりはないのだが、仕事柄もあり、望まなくとも徹夜してしまう。夜を
起き通すのが珍しくない生活を送っている。
連休で在宅していても、日中、疲れを取るために寝込むため、その余波で夜中
になっても眠気がやって来ず、それどころ逆に目が冴えてしまったりする。
仕事では、どこで夜を迎えるか、分からない。夕刻の淡い暮色がやがて宵闇と
なり、さらに深まって、真夜中を迎える場所が都会の喧騒を離れる場所だったり
すると、耳にツーンと来るような静けさを経験したりする。
が、仕事中は方々を移動するので、時間的な変化と場所の変化とが混じり合っ
て、時の経過につれての夜の様相の変化の印象を掴み取るのは、さすがに少し難
しい。
それが、在宅だと、折々、居眠りなどで途切れることがあっても、一定の場所
での光と闇との錯綜の度合いをじっくり味わったり観察したりすることができる。
夜をなんとか遣り過して、気が付くと、紺碧の空にやや透明感のある、何かを
予感させるような青みが最初は微かに、やがては紛れもなく輝き始めてくる。
理屈の上では、太陽が昇ってくるから、陽光が次第に地上の世界に満ちてくる
からに過ぎないのだろうが、でも、天空をじっと眺めていると、夜の底にじんわ
りと朧な光が滲み出てくるような、底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続
けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知
れない感覚が襲ってくる。
朝の光が、この世界を照らし出す。言葉にすれば、それだけのことなのだろう
けれど、そして日々繰り返される当たり前の光景に過ぎないのだろうけれど、で
も、今日、この時、自分が眺めているその時にも、朝の光に恵まれるというのは、
ああ、自分のことを天の光だけは忘れていなかったのだと、妙に感謝の念に溢れ
てみたり、当たり前のことが実は決して当たり前の現象なのではなく、有り難き
ことなのだと、つくづく実感させられる。
もう、すでに短い人生とは呼べない年齢になった。しかし生き過ぎたほどに生
きたわけでもない。体の衰えは、隠しようもない。が、まだ、動くことができる。
歩くこともできる。じっくりと時の流れに向き合うこともできる。
たとえ、誰一人、この瞬間に立ち会ってくれる人がいないとしても、とにもか
くにも生きて大地の片隅に立っていることだけは、間違いようのない事実のはず
だ。
コンクリートとアスファルトとガラスとステンレススチールとプラスチックと
化学繊維と漂白された紙の束と化粧紙に覆われた壁とが、見渡した周囲にあるだ
けの自分の世界。
そしてそれ以上に情の根の涸れたような、泉の源からは遠く離れてしまった自
分の心。日々の営みに我を忘れている。明日への気苦労に、自分が本当は素晴ら
しく有り難き世界に生きているはずの奇跡を忘れ去ってしまっている。
海の底の沸騰する熱床で最初の生命が生まれたという。命に満ち溢れた海。海
への憧れと恐怖なのか畏怖なのか判別できない、捉えどころのない情念。
命という、あるいは生まれるべくして生まれたのかもしれないけれど、でも、
生まれるべくしてという環境があるということ自体が自分の乏しい想像力を刺激
する。刺激する以上に、圧倒している。
自分が生きてあることなど、無数の生命がこの世にあることを思えば、どれほ
どのことがあるはずもない。ただ、命があること自体の秘蹟を思うが故に、せめ
て自分だけは自分を慈しむべきなのだと思う。生まれた以上は、その命の輝きの
火を自らの愚かしさで吹き消してはならないのだと思う。
そうでなくなって、遅かれ早かれ、その時はやってくるのだ。
宇宙において有限の存在であるというのは、一体、どういうことなのだろう。
昔、ある哲人が、この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる、と語ったと
いう。宇宙は沈黙しているのだろうか。神の存在がなければ、沈黙の宇宙に生き
ることに人は堪えられないというのだろうか。
きっと、彼は誤解しているのだと思う。無限大の宇宙と極小の点粒子としての
人間と対比して、己の存在の危うさと儚さを実感したのだろう。
が、今となっては、点粒子の存在が極限の構成体ではないと理解されているよ
うに、宇宙を意識する人間の存在は、揺れて止まない心の恐れと慄きの故に、極
小の存在ではありえない。心は宇宙をも意識するほどに果てしないのだというこ
と、宇宙の巨大さに圧倒されるという事実そのものが、実は、心の奥深さを証左
している。
神も仏も要らない。あるのは、この際限のない孤独と背中合わせの宇宙があれ
ばいい。自分が愚かしくてちっぽけな存在なのだとしたら、そして実際にそうな
のだろうけれど、その胸を締め付けられる孤独感と宇宙は理解不能だという断念
と畏怖の念こそが、宇宙の無限を確信させてくれる。
森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった
涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が
見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超
えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。
きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一
人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かし
い無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震え
て止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水と
なって一切を押し流す。
その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
何も残らなくても構わないのかもしれない。
きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、
その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違い
ない。
それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。
石橋睦美「朝の森」:
http://www.qphoto-int.com/olec21/olec_body.html
03/06/22 記
35.誰もいない森の音
小生が哲学に興味を持ち始めた頃、本格的な哲学書を読み齧ると同時に、哲学
入門や案内的な本を片っ端から読み漁った。哲学にそして、哲学する上でマニュ
アルなどないのだが、それでも、哲学史の本を含めて、自分なりに哲学のイメー
ジを膨らませるのに、無用だったとは思えない。
マニュアルというのは、誰かが言うように梯子か階段のようなものだ。誰も、
いつまでもそんな中途半端な場所に居続けようとは思わない。しかし、天才なら
ぬ凡人が何処かへ、あるいは一つ高い次元へ至るためには、いずれにしても通ら
なければならない階梯があるのである。
そうしたある日、何かの入門書で、変わった問い掛けをされた。それは次のよ
うなものだった。
但し、記憶が朧なので、「誰もない森の中で木が倒れたら、音は聞こえるか…」
という曖昧な文しか思い浮かばない。
その入門書で、どのような展開がされたのか、小生は覚えていない。この問い
というのは、結構、有名な問いのようである。恐らくはネットでも探せば幾つか、
関連するサイトが見つかるはずだ。もっと確かな問いの文を俎上に載せたい。
そう思って、小生は、「森 木 音 誰 倒」をキーワードにして検索してみ
た。が、ヒットしたのは一件だけ。それは、「ピアノの森」(一色まこと作、講
談社刊)という、一部のファンには有名らしい漫画を批評したサイトだった(他
にも一件、見つかったが、取るに足りない内容だった):
http://www.h2.dion.ne.jp/~hkm_yawa/kansou/pianonomori_5_6.html
そうしてはっきりしなかった問いが次の問いなのである。但し、記憶の彼方の
問いと全く同じかどうかは、なんともいえない。
「誰もいない森の中で一本の木が倒れたとき、どんな音がするのか」
そのサイトでは、この問いについて、「誰もいないのだから音を聞いたものは
いないわけで音はしなかった、と答えるだろうか。それとも、音は響いたに違い
ないが、どんな音かは誰も耳にしていないのだから知る由もない、と答えるだろ
うか。」と続けている。
小生が読んだ入門書が、このサイトと同じような展開をさせたか、前述したよう
に小生は覚えていない。
この問い掛けに対し、そもそも木が倒れたかどうか、それ自体が不明ではない
かという疑問が成り立ちうる。誰もいない森の中で木が倒れたとしても、誰も気
が付くはずがない、というのである。尤もな話だ。
それゆえ、森の中で木が倒れたという気がするなら、森の中へ分け入って、そ
の時間帯に木が倒れた形跡があるかどうかを実際に確かめてみればいいのだ。
で、本当に倒れた木があったのなら、木が倒れる際に、まるで無音ということ
は考えられない。従って音がしたのだし、その音がどんな風だったかを確かめた
いというのなら、同じような木を同じような条件のもとに倒してみればいい、す
るとほぼ完璧に似た音を聞くことができるはずだ…。
なんという科学的な態度だろう。全く、二の句も告げない。現代においては、
何事も、こうでなくちゃいけない。
誰もいなかったとしても、誰も聞いていないとしても、木が本当に倒れたのな
ら音がしたのだろう、それがどんな音だって、どうだっていいじゃないか。別に
科学的だろうが、ただの理屈だろうが、話はそれで終わりってことでいいじゃな
いか…。
が、それでは話がまるでつまらない。問いの持つ何処か意味深な雰囲気が掻き
消されてしまう。身も蓋もない気がしてしまう。この問いに対して、単にもっと
もらしい理屈を持ち出して済ませられる人もいるのだろう。そしてそのほうが常
識のある態度なのだろう。
しかし、この問いの形式には、何か胸に響くものを感じてならない。
一体、この問いは、本来、何を問い掛けているのだろうか。
小生は、「石橋睦美「朝の森」に寄せて」という稿の中で、次のように書いた。
森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった
涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が
見える。誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超
えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。
きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一
人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かし
い無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震え
て止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水と
なって一切を押し流す。
その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?
何も残らなくても構わないのかもしれない。
きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、
その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違い
ない。
それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。
(引用終わり)
実は、「森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。」という着想の根は、「誰もい
ない森の中で一本の木が倒れたとき、どんな音がするのか」という若い頃から気
になり続けてきた問いかけにあったのである。
音からイメージの輪を広げることが難しかったことと、石橋睦美「朝の森」:
http://www.qphoto-int.com/olec21/olec_body.html
の美しい映像に魅せられたこと、さらに、石橋睦美氏自身の「朝の森」という小
文にも詩的興趣を喚起させられたこともある:
http://www.qphoto-int.com/olec21/about_mori.html
その中から、ほんの一節だけを引用させてもらうが、是非、全文を読んでもら
いたい:
「湿気が充満する日の森ほど表情が美しい時はない。雨の降る森には静
寂感が忍び寄っているし、霧が包む森には淡彩色の美が漂う。雪が降る
日は森の神秘性が最も色濃く現れて、心が洗われるような思いになる。」
この一文を読んで小生は痺れたのである。
言うまでもなく、石橋睦美氏は、実際に各地へ現地へ赴かれて、森の表情の一
番美しい時を待ち、時よ止まれとばかりに撮ったわけである。誰もいない森では
ないのだし、誰もいない森の音を聞いたわけでも、誰もいない朝の森の美しさを
撮ったわけでもない。氏の存在があってこその賜物なのである。
しかし、「森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。」とか、「誰もいない森の中
の倒木の音」というのは、まったくの瞑想の産物なのだ。ここに自分がいて、想
像しているのである。自分の存在さえ、そこにはない。あってはならない。ない
ほうがいい。
人跡未踏の森など、この期に及んで現代にあって存在しているのかどうか、小
生は知らない。
が、誰の足音にも影響しなければ影響されることのないその沈黙せる音を、誰
の足元をも、誰の頬をも濡らすことない雨の雫にこそ、映るに違いない宇宙の静
寂を聴き取りたかったのだ。誰の肌にも触れたことのない古木の罅割れた木肌に
耳を押し当ててみたかったのだ。
その時、何が聞こえてくるのだろうか。何が見えてくるのだろうか。
誰もいない森の音という時、そんな至福の瞑想が誘われてならないのである。
03/07/07 記
36.さとうきび畑で命を巡るあれこれを考える
「率直に言って、僕は分からないのです。なぜ猫を殺しはいけないのか。」と
いう疑念提起の上で、次のような問い掛けがされた:
「皆様には、当たりまえのこと、軽々飛び越えてしまうことが、僕には分からな
いので、引きこもっておりました。なぜ生命が大切なのでしょう、なぜ生命は時
として軽いのでしょう。そんなこんなに関するお話しです。」
そして、下記のサイトにあるような一文を公表されている:
http://www7.plala.or.jp/monogatarikan/3043.html
できれば、いつもながらの名文、この含蓄のある文章を読んだ上で以下の小生
の呟きと言うか繰り言というか、戯言を読むなら読んで欲しい。
上記のサイトの小文を読んだだけでも、この稿を読んだ値打ちがあるというも
のだ。
まず、とても情ない反論をする。この発言をされている方は、結婚されて奥様
もおられ、子どももいるし、猫も飼っておられる。ある意味で、下司な表現を使
うと、とても物持ちの方だ。結婚されるというのは、相手がいてすることだし、
愛し、あるいは愛されて、何かを信じて、あるいは勢いでされたことなのだろう。
その上で、子どもさんにも恵まれ、猫も飼う愛情にも恵まれている。
そんな方が、「なぜ猫を殺しはいけないのか」とか、「皆様には、当たりまえ
のこと、軽々飛び越えてしまうことが、僕には分からないので、引きこもってお
りました。なぜ生命が大切なのでしょう、なぜ生命は時として軽いのでしょう」
などと言われても、何だかんだ言っても君は恵まれているじゃないか。家庭にも
子どもにも会話にも(オレには一ヶ月に会話が数分あるかどうかなんだぞ!)。
そうした贅沢の生むゆとりがそんな疑問を発するゆとりをも生んでいるのじゃな
いか、と、そんな反問が浮かんだりする。
小生など、一人暮らしを三十年も続けている。好きになった人はいたけれど、
一度だって誰か特定の女性に愛されたことも、まして結婚を考えるような状況に
遭遇したことなどない。それは、勿論、自分という人間が情に疎いとか、人の心
に共感する情ってものが薄いのだとか、とにかく男としての魅力がないからであ
ることは、結果が、つまり現実が如実に示している。まったく、男としてのプラ
イドがズタズタなんだよ……。自業自得とは分かっちゃいるけど。
従って、上記のような反論を試みようと思っても、言えば言うほど、唇寒しと
なっていくのが目に見えている。何も言えなくなってしまう。
そう、どんな外見からして恵まれているように見える境遇にあろうと、心の内
実は、まったく別物なのだ。
そもそも生きることに本当に余裕がなくなったら、切羽詰ったら、そんな言葉
の戯れめいた遊びなど、誰がするものかと思ってしまう。
「なぜ猫を殺しはいけないのか。」と立派そうな疑問を提示したところで、そう
いう奴に限って、実際には蚊も殺さない人間で、近所でもいい人で通っていたり
する。実際、この方もアイロニカルな口調を弄するわりには、結構、幸せを享受
しているんじゃないか、だから、そんな疑問を呈することができるんじゃないか
と、そんな次元の低い反問を一人、反芻してしまうのである。
ホントに疑問に思うどころか、「なぜ猫を殺しはいけないのか」と思っている
なら、他人の目さえ届かなければ、平気で殺したり矢を撃ち込んだりしているに
違いない。つまり、超えてはならない一線を小さな溝を越えるように超えて、や
ってしまっているに違いないのである。
生きることに切羽詰ったなら、やってしまって、しかも反省もせず、反省もで
きず、あるいは、かなりの時を経て、取り返しが付かないことを今更ながらに感
じる時になって初めて、悔恨の念に駆られたりするのではないか。
この方は、昆虫や蚊やゴキブリやなどは子供の頃にあるいは殺したことがあっ
たかもしれないが、間違いなく猫を殺すどころか、虐めることもしない人だと小
生は推測する。
恐らく、深刻なのは、そんな疑問など思い浮かびもしない人なのではないかと
思う。やってしまう、しかもやってしまっても、その深刻さに気づかない、そん
な人間こそ、実はとてつもなく不幸なのであり、一見すると、引きこもっていな
いで外で動き回っている場合であっても、心は半永久的に閉ざされているのでは
ないかと思ってしまうのだ。
人を殺しては何故いけないの? そんな問いに答えられる人など、世の中にど
れほどいることだろう。大概の人は、ともかく殺さないのだし、心だって傷つけ
ないように気を使うのだし、その理由を聞かれても、誰もが納得するような答え
を用意しているわけではないのだろう。
それでは、人を殺さないにしても、では何故、猫は殺しちゃいけないの? だ
って、牛だって豚だって魚だって、さんざん殺して喰っているじゃないか。牛や
豚は殺してもいいけど、猫や犬はダメって、そんなの人間の我が侭に過ぎないの
じゃないの?
蚊やゴキブリは殺してもいいけど、猫や犬はダメ。鈴虫や松虫は、できれば生
かしておいて欲しい、蛍は採集などしないで、蛍狩りを楽しむだけにしたほうが
いい……。これって人間の都合以外に何があるのだろう。
人間の都合で殺してもいい殺してはいけないを決める程度のものなら、人を殺
すことだって結局は都合次第じゃないの。戦争はどう? フセインの息子は悪人
だから殺してもいいって、アメリカの大統領だって平気で言っている。人を殺し
てはいけません、なんて、意味ないじゃん。
では、徹底した菜食主義者にでもなる? これも、都合だね。何故、動物は殺
してはダメで、植物はダメなのか、まるで根拠のない話だ。ま、健康とダイエッ
トのためだというのなら、何もいうことはないけれど。
肉食はダメだけれど、菜食は構わないだなんて、そんなのはエゴの典型、ご都
合主義の典型ではないか。植物も生き物ではないのか。大地に根を生やしている
か、それとも移動可能か、つまり、人間に近いかどうかの違いしかないではない
か。
ではジャイナ教のように一切の殺生を禁じる? 思想としては一つの立派なあ
り方かもしれない。しかし、現実に可能かというと、無理なのではないか。
そもそも空中には無数の細菌やウイルスが犇いている。大腸では大腸菌などが
無数に生息している。息をし、あるいは消化をする度に、無数の生き物を殺して
いることになるのだ。ジャイナ教の教祖様が生きていた頃は、顕微鏡などなかっ
たから、目に見えない生き物をさえ、殺さなければそれで殺生は避けられること
になったかもしれないけれど、現代では、息をするだけで無数の生き物を殺して
いることを誰もが知っている。
物心付いて、この世界に目覚める。自分がとにかく、一個の広い世界にあるこ
とに気づく。木々と大地と山と空と川と空気と、そして人間だけではない多様な
生き物の世界。雨の雫が葉裏を伝う、その雫を通してさえ、豊穣な世界を感じる
ことができる。
しかし、中には、物心付いた時に、心が枯れていることに愕然とする奴もいる。
風にも心が騒がないし、大地を裸足で走り回る悦びを感じない奴もいる。理由は
親の虐待だったり、仲間からの虐めだったり、あるいは心を醸成する肉体的環境
そのものが劣悪だったり、理由は様々なのだろう。
植物の発する強烈な臭いは生命の根源に触れるような思いがする。毛深い犬や
猫の体臭に獣を感じ、あるいは母の胸にこそ命の源泉を感じるかもしれない。花
の芽吹きや開花に自然というものの神秘と生きる歓びを感じることだってあって
いいはず……、なのに何も感じられない奴だっている。
心が閉じている人間に、さて、どうやって世界の広さを告げたらいいのだろう。
命の感覚、切れば血の吹き出る漲る生命感をどう伝えたらいいのだろう。命とい
うのは、時にはかないものだから、だからこそ大切なのであり、それこそ再生可
能で、あるいは傷付くことも腐ることもないプラスチックかステンレススチール
のような肉体を人が、生き物が帯びているのなら、命の切なさという感覚など最
初から無縁だったに決まっている。そうではないからこそ、傷付くのだろうけれ
ど、でも、心が寂れ果てている人間に、はかなさともろさと他愛のなさこそが命
なのだと、どう分かってもらったらいいのだろう。
そう、本当に切羽詰った人間は、「なぜ猫を殺しはいけないのか」などと問い
掛けたりはしない。そんな余裕などあるはずもない。溺れ行く人間が、藁をも掴
みたくて必死で喘いでいるのに、そんな問いなど発するはずもない。生命の貴重
さを、ありがたさを感じられない、どうでもいいのではと思っているなら(考え
ているのではない)、溺れるなら溺れるに任せるに違いない。人を殺すとか、そ
んな元気などあるはずもない。少なくとも小生はそうだった。
だから、小生に限るなら、仮に問いを発するなら、恐らくはまったく違う声を
あげるだろう。「助けてくれ!」と。訳もなく沈んでいくのをどうしたいいのか、
このまま沈んでいいの?」と。
でも、そんな声さえ出ることはない。悲鳴を上げるなど夢のような話だったり
する。ただ、闇の中でより深い闇の中へと踏み迷っていく。闇夜の道の泥沼に沈
んでいく。溺れたくはないのだろうし、助けても欲しいのだけれど、誰にそんな
救いを求めていいのか分からない。
ただ、闇の中にいる。闇の中で無言の喚き声が裏返る。頑固な檻に取り込まれ
て、掠れ声さえ外には洩れない。
とにかく生き延びることを先決に考える。とにかく今は命がある以上は、生き
てあることを続ける。命に価値があるかどうかは先になって、生き延びていたな
ら考えればいい。今の闇の道をとにかく歩き通す。ただ、堪える。命の感覚を味
わいたいと思う。いつかは他人と心を交わす日があるのかもしれないと微かな期
待を抱いた振りをしてみたりする。自分で自分の鼻先にニンジンをぶら下げるよ
うなものだ。愚かしい光景ではある。バカみたい。それでも、とにかく生き延び
る。そのうち何かを感じる日があるかもしれない…、のだし。
あるいはトコトン生きてみて、何も見つけられない、何も感じられない、誰と
も何も分かち合うことがないままに齢を重ねていくのかもしれない。
自分には、勿論、「なぜ猫を殺しはいけないのか」という問いに答えられるは
ずもない。それどころの騒ぎではない。猫を殺していいとなったら、つまりは自
分をも殺していいことになってしまう。殺してはいけないとは、つまり、自分が
呆気なく命を終わらせることを許さないためなのだ。
その上で、命を感じたい、生きてあることの喜びを感じたい、誰かといつか何
かを分かち合いたいのだ。それ以上の望みなど、あるものか! である。
今の自分に答えられるのは、それくらいしかないのである。
人間のエゴの許される範囲内でしか、命を愛でることはできないのだけれど、
それだけのことができるだけでも、素晴らしいことなのだし、それ以上を人に求
めるのは、ないものねだりになるのだろう。
冒頭で示したサイトに引用されている「アンパンマンのマーチ」も素晴らしい
が、最近、わりと歌われる機会の多い、森山良子の歌う「さとうきび畑」(作詞/
作曲:寺島尚彦)もいい:
http://www.188.co.jp/pool/12_poolgraffiti/pgrf2002/satokibibatake.html
ざわわ ざわわ ざわわ 広い さとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が 通りぬけるだけ
今日も 見わたすかぎりに 緑の波が うねる
夏の ひざしの中で
そう、夏のひざしの中で、風が通り抜け、今日も見わたすかぎりに緑の波がう
ねるだけ。でも、その気の遠くなるような空白の空間にどれほどの思いが篭って
いることだろう、今は、それを思うだけである。
03/07/28 記

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