(04/03/30 up)
春である。水ぬるむ春である。心にゆるみを、体にたわみを、がモットーの
我輩の、いよいよ出番である。
春である。春風の悪戯だって期待したくなる春なのである。女性の着る服装
も和らぎ薄くなり、胸の形も定かとなり、スカートの裾もヒラヒラと男どもの胸を
時めかせる春である。我輩を飼っているなどと自惚れている我が不肖のご主人様も、むずむずうずうず落ち着かない様子。
今日は、我がご主人殿のことを少々、語っておこう。
我輩同様、出無精でデブ症のご主人様(うん? 逆かな。ご主人様に我輩が似たのかな?)、冬の間は部屋の中に閉じ篭って、窓の外の様子を伺
っているだけ。それが、春ともなると、春風の悪戯の予感に誘われ居ても立っ
ても居られなくなる。啓蟄の頃ともなると、腰の辺りがムズムズウズウズして
くる。我輩の体にもご主人様と同じような虫が巣食っているのだろうか。
啓蟄…。遠い昔、啓蟄という言葉を初めて聞き知った頃、こんな言葉を人前
で堂々と声に出して喋っていいのかと随分と心配したものだった。少なくとも
我輩自身は口に出したことはない。が、我が主人となると、もう。
そう、世事に疎い我が主人、漢字にも弱くて、啓蟄の蟄を、あのあそこのチツと表記が一緒だと思っていて、ああ、チツが啓く季節なんだ、なんて、思いっきり想像していたも
のだった。
それでもいつかしら、啓蟄とは、冬篭りしていた虫が這い出るという意味だ
と分かってはきたらしいのだけれど、しかし、語感というのは如何ともし難いもので、
チツという言葉(音感)が耳を打つたびに、我が主人はあられもないことを一瞬は想像し
てしまうのである。
今でも、ともすると、啓蟄とは、虫が這い出てチツが開いてしまう頃合い愛
が蜜となって溢れ出る神秘の時を表現する洒落た言葉なのに違いないと、つい思われてしまって
陶然としてしまったりする。そんなご主人様と付き合う我輩の苦労は推して知るべしであろう。
我が主人、虫というと、キャベツを連想するという。ご主人、キャベツが嫌いのご様子。
食べるのが嫌いなのではなく、店頭のキャベツを買ってきて包丁などで切るの
が怖いのだという。いつだったか、買ってきたキャベツを切ろうとしたら、中から青
虫がニョロニョロと顔を出したりして、その時のご主人殿の驚いた様子といったら。
畑にあるキャベツに青虫が這っているのは、珍しくはない。これでも我が主人は、今も籍があるかどうかは分からないが、農家の長男坊だっ
たのだ。青空の下にあるキャベツだったら、虫食い状態だったりしても、なん
とも思わないと豪語されるのだが、片隅とはいえ、都会の、その頃は真新しかった台所で青
虫の這うキャベツを手にしたのがたまらなく怖かったというのである。
まあ、そう、本人が弁解しているので、そういうことにしておこう。
さて、そのキャベツのこと。野菜や果物嫌いのご主人、食卓に上っているはず
の白菜とキャベツの区別がつかなくて、八百屋やスーパーに並ぶ、それらを見
て、間違いなく呼称できるに至るに、二十年は要したものだったとか。
それでも、やや長めの白菜と、丸っこくて、比較すると葉の厚めのものがキ
ャベツ…などと、やっと白菜とキャベツを識別できると安堵していたら、セロ
リやらパセリやらブロッコリーやらレタスやらが、ボコボコと登場してきて、主人殿の鈍な
眼には似たり寄ったりの野菜が店頭に並ぶようになり、またまた頭の中が混乱
するようになったご様子である。御愁傷様と申し上げるしかない。
凍て付いた冬の風物の透き間から顔を覗かせて春の到来を予感させる梅、そ
して蝶々の喜び勇む様にも似て青空に咲き誇る桜。
そんな桜と梅の区別も風雅の道に疎い主人殿にはなかなか厳しいものがあって、主(あるじ)殿としては、水ぬる
む頃、町中を誰であれ子供と一緒に歩くのは嫌なのである。間違っても、あれ
は梅なの、それとも桜なのって子供に訊かれたくないのである。さすがに時間を掛け
て観察したら、桜か梅かの判別は可能なのだし、二月だったならば、幾らなん
でも桜が咲いているってことはないだろうと推測の上、あれは梅だよ、と答え
るけれど、三月の声を聞く頃になると、即答を求められても、覚束ないのであ
る。主殿としては、桜や梅たちに、ちゃんと季節を分けて咲くように切に願い
たいと、ぼやくことぼやくこと。
が、そんな主殿の焦りまくる胸のうちを知ってか知らずか、子供たちは、堪
え性がないもので、即答を求める。我輩にそんな無理な要求をするな! とガ
キどもの口を塞ぎたくなってしまう主(あるじ)殿。というわけで、春先には外出の際、子供
と一緒にならないよう神経を使うのである。我輩も、ガキどもがご主人様に近付いたら、さりげなく合図を送ったりするのだが、生憎、主殿は、我輩のせっかくのシグナルにも気付かないようす。ああ、ドン臭いことだ。
春とは、主殿にとっては、さほどに気の塞ぐ、憂鬱な
季節でもあるのだ。なかなかスカートの裾がヒラヒラして楽しいばかりではないのである。
他にも辛いのは、椿と薔薇のようである。断っておくけれど、椿と薔薇という漢字
を識別できないと言っているのではない。読むことくらいはできる(薔薇は書
けないだろうけど)らしい。我輩が正確に言うなら、漢字の外見を見分けることができる、としたいところだが。
本人がそう断言するのだから、間違いはないのだろう。あくまで現物の花を見て、しかとは花の名を口に出来ないと言っているのである。
しかしながら、なんとなく椿は、雪の残る季節にも咲くが、薔薇は違う季節に咲くのだ
ろうと思っていたら、そうでもなくて、どちらも四季に関わらず咲くこともある花だと
いうではないか。これでは主殿には判別など土台、無理というものだ。
花の色や形、そして漂ってくる香りなど、自然の繊細さの妙を味あわせてく
れるものだというけれど、見る者に、あれは何と言う花、あれとこれとは何処
が違うの、なんて戸惑わせるようでは、主殿、到底、心安く素直に柳眉典雅美
麗と花々を褒め愛でているわけにはいかないようである。
しかも、ここに牡丹などが加わると、主殿の頭はますますパニックである。薔薇と牡
丹と椿。それぞれの花が主殿を誑かそう、ちょっとばかり弄んでやろうとばか
りに、私が薔薇よ、あたいが椿よ、あちきは牡丹なのよ、何、言ってるのよ、
あんたは椿でしょう。何、嘘、こいてるの、なんて、チツチツに…じゃない、
口々に我が名を騙られたりすると、目が回ってしまう(そういえば、牡丹も、
簡単そうでいて、いざ書くとなるとご主人様は、結構、迷ってしまうかもしれない)。やっはり、主殿に春は憂鬱な季節なのだ。
春といえば、ご主人は、たんぽぽを連想するらしい。主殿は、何故かたんぽぽが好きである。春を告
げる花、野に咲く花。遠い昔の田園風景には、蓮華と共に欠かせない草花の一
つだったのだとか。綿帽子のほんわりした感触は、ともするとささくれだってしまう主殿の心を和ませてくれるようである。
でも、我輩が思うに、主殿がたんぽぽが好きなのは、本当のところ、あの花は何? と訊かれて、即答できる数少ない花だからだろうと睨んでいる。あと主殿が自信を持って答えられるのはチューリップくらいだろうか。尤も、開花した時のアヤメや水仙と落花寸前のチューリップが区別できるかは怪しいところだと思われるのだが。
たんぽぽというと、いつだったか我がご主人様が吐いた駄洒落を思い出す。といっても、出来が悪いのでさすがに我が主人も人前で吐くのはタブー
にした駄洒落である。そう、我が主(あるじ)殿、たんぽぽと聞くと、つい、タンポンを連想
してしまうらしい。イメージの上での連想ではなく、あくまで語感から、タンポと聞
いた段階で、早々と、主殿の軽すぎる頭が勝手にタンポンに繋げてしまうらしいのである。さすがは主殿だ。
で、またまたここから飛躍してしまうのが主殿。タンポンというと肩叩きの歌を思い
出してしまうのだという。そう、「かあさん、お肩を叩きましょう♪」というリズム
感たっぷりの歌。春でもあるし、冬の間に凝りきった肩をほぐしましょう、と
ばかりに、唄う。
「かあさん、お肩を叩きましょう。タンポン、タンポン、タンポンポン♪」と。
思わず、子供の頃の主殿、母君の前で歌ってしまい、引っ叩かれたとか。当然だ!
ここまで来ると、気立てのいい我輩も、うんざりである。
顔を窓のほうへ向けると、隣りの病棟の給水搭越しに青空が見える、はずで
ある。今は開け放たれたベージュのカーテンを煽るほどにも豊かな光を頬や額
に感じているだけ。
そう、主殿は今、病床にあるのだ。和らぎ始めた、どこか華やいでいる空気
を吸うために町中を彷徨するわけにもいかない。だから今は、目を閉じて夢の
中で春の町をさ迷い歩いている。夢は枯野を駆け巡る…という心境なのだろうか。その分、我輩が、存分に徘徊して回っている。無論、近所の雌猫さんたちとも、思いっきりフィーバーしている。何もかも、主殿の身代わりの心境なのである、ってか。
閉ざされた赤い闇の海に漂っていても、遥か彼方に耳を澄ませてみれば、遠
い潮騒の残響に触れることができる。名の知れない島の砂浜で、スカートの裾を
からげ、波と戯れる乙女の裸足の脛(すね)がすぐそこに見えるようでもある…。病床にあっても、スケベ心なのか青春の侠気なのか、それとも風流心なのか判別の難しい夢想に前を膨らませるのは、いかにも我が主殿らしい。
今の主殿を辛うじてでも生き長らえさせてくれるのは、誰が灯したのか、蝋
燭の焔に浮かび上がる幻影の数々の御蔭なのである。深い闇から春の息吹が思
い思いの形象となって現れ出でる。
この蝋燭の焔の影がちらつき始めたら、末期の時だと我輩は聞いたことがある。無論、そんな無粋な噂など、主殿に告げ口などしない。思いたいように幻想的な夢を貪らせておく。武士の情という奴だ。
不意に妙な感覚が主殿を見舞うことがある。体の何処かがむず痒いようだ。
一体、何処なのか。どうやら鼻の穴の辺りのようだ。主殿の鼻の穴をタンポポ
の和毛(にこげ)が擽(くすぐ)っている。それとも、いつだったかの行きずりの薔薇の、
牡丹の、椿のような女の淡い叢から抜け落ち排水口に絡まって残っていた一本
の毛が、女の残酷なほどの愛敬と執念とで主殿を甚振っているのか。
オレの鼻の穴はチツなんかじゃないぞ! と叫びたくても、主殿はどうするわけに
もいかない。今のオレは笑うチツだ。虫どもの塒(ねぐら)だ。いや、根暗と
いうより、幾重にも畳み込まれた花弁を分け入っていく青虫そのものだ、などと嘯いておられる。
母君の前であんな替え歌を歌うからだよと思っても、今となっては取り返しが付かない。
ああ、過ぎ行く人生の時よ。
せめて葉っぱを這う青虫ほどに人生の春を謳歌したい! 春なんて大嫌いだ!
そう、悲鳴を上げる主人の傍で、我輩は春眠暁を覚えず、ひたすらに安逸なる春の夢を貪るばかりである。
(04/03/10記 04/03/30改筆)