団子より月/春の夢だよ、の猫



                                
1.団子より月  

2.春の夢だよ、の猫  





1.団子より月

(04/08/08 up)
(04/08/12 画像up)






 ボクが何を想って月を眺めているか、分かるだろうか。ボクの丸っこい背中を 見てるだけじゃ、分かるわけ、ないね。
 そう、すぐそばに団子があるのに、知らん顔して夜空の月なんて眺めているん だものね。風流な猫というより、変わり者の猫って思われてるのかな。
 ま、どう、思われようと、ボクには関係ないけどね。
 そもそもボクたち猫族は、団子なんて食べないってこと、知らないのかな。
 うちのご主人気取りの娘さんは知らないみたいだね。そりゃ、たまには食べる こともあるけど、ほとんど、義理だね。お付き合いさ。これが、つくねとかだっ たら、食べるかもしれないけど、団子みたいな小麦粉の塊なんて、よっぽど餓え てないと口に入るわけ、ないんだけどね。
 でも、我が少々お間抜けの娘さんは、ボクが団子など見向きもせずに、月を眺 める光景に、至って感激しているみたい。
 哲人の面影なんて、勝手に思い入れしている。
 ああ、ボクが拗ねているってこと、分かんないのかな。かつお節なんて贅沢は 言わない。海苔とか鶏のササミとか、マグロの刺身なんて、我が娘殿に期待はし ない。カニカマとか焼き魚もいいんだけど、気の利かないあの子には、ちょっと 期待するほうが酷ってもんだし。
 せめて、ケンタッキーフライドチキンとかさ、チーズとかさ、そこらの店に売 ってるのに、家のあの子は、もう、ペットフード一辺倒だからね。
 ま、いいよ。欲しくなったら、いくらでも近所で手に入るし。我が塒(ねぐら) では、ふかふかのベッドがあればいいんだ。もっとも、娘殿が、淋しいのか、ス ヤスヤと寝入っているボクの傍にやってきて、背中とか頭の上にしょっぱい味の 雫なんて、零すのがたまに瑕だけど。
 せっかく身体中をぺろぺろして綺麗にしたのに、また、一から舐めなおししな くちゃならない…。
 ま、哀れな娘っ子のことを怒っても仕方ないし、そのうち、ボクの代わりに娘 の相手をしてくれそうな、活きのいいネズミなんかをプレゼントしてあげるから ね。そしたら、悲しむ暇なんて、なくなっちゃう。きっと、家中を追い駆けっこ なんてしちゃってさ、毎日が充実するに違いない。
 そしたら、ボクも、のんびり、日向ぼっこしたり、夜は夜で屋根の上でお月見 なんてしながら、転寝(うたたね)したりできるってものさ。
 うーむ、でも、我が娘っ子、今のところ、まだ、ネズミより男の子のほうがい いみたい。まだ、ガキなんだね。ネズミを相手に戯れる楽しさが分かる年齢じゃ ないってことかもしれない。
 時々、変なのを引っ張り込んでは、あれこれ、お喋りしたり、甲斐甲斐しく尽 くしたりするんだけど、でも、長続きしない。大概、そのうち、喧嘩が始まる。 その原因というのが、また、もう、目も当てられないくらいつまらないこと。せ っかく作った料理を拙い! と言われて食べてくれないとか、食べる時にクチャ クチャ音をさせたからとか、食べ物をポロポロ零すのが汚らしいとか、まるでこ の猫みたいに零さないでよ、なんて、ボクのことを指差しながら、言うんだぜ。 失敬な奴さ。
 そんなに綺麗好きなら、もっと、部屋の中とか、掃除すればいいのに、ボクの こと、カーペットの上に転がして、さんざん、弄んだ挙げ句、毛玉になった埃を 暇の徒然にテレビを見ながら抓んで捨てるのが、あの子の掃除なんだね。ボクは、 掃除機か。カーペットの埃取りか。ボクの背中の毛は、埃を絡める恰好の粘着テ ープかって、問い詰めたくなるよ。
 それでいて、部屋中にボクの毛が舞っていて、汚くて困るって、半分は、お前 のせいじゃないかって、言いたくなる。けど、大人のボクは、じっと我慢さ。幼 児相手に怒るのも大人げないしね。
 そのボクにしたって、生まれて間もないボクが箱の中に入っているところを彼 女に拾われてきて、この家にきて、間もないんだけどね。甘えたい盛りなんだよ、 ホントは。
 ボクは彼女に感謝しなくちゃいけない? とんでもない、ボクは、何処でだっ て生きられるよ。空と土と風と壁と柱と草と少々の動物があれば、この世は天国 さ。昨日のことは関係ないし、生れがどうだってことは、夢にも考えないし、明 日のことを気遣うなんて馬鹿げた真似はしない。今を、じっくりたっぷりゆっく りじっくりのんびり楽しめれば、それで十分なのさ。
 でも、あの子と知り合いになった以上は、責任ってものがある。なんちゅうか、 ボクだって、まだ幼いんだけど、あの子となると…。あの子のことが、可哀想で ね。見るに見かねる思いさ。ボクのことを飼っているなんて思っているあの子の 無邪気さが、たまらなく愛しいし。
 ま、多少の身勝手さは、我慢してやらないとね。
 それでも、どうも、ご主人気取りのこの子の、無理解さは、たまに我慢の限界 を超えるときがある。団子なんて、どうしてボクの目の前に置くんだろう。その うえ、何処で手に入れたのかススキなんて、おっ立てたりしてさ。ススキって、 いがらっぽくて、嫌いなのに、わざとらしくボクの傍に置く…。なんの恨みがあ るんだろう、なんて、真剣に悩んだよ。
 ボクと団子とススキとを並べて、なんだか、娘っ子、満足げなんだな。まさか、 ボクを団子やススキと同列に置いているなんてことは、ないだろうね。それこそ 侮辱ってものだぞ。
 ああ、ボクは、だから、月を眺めている。月を眺めているしか、今はすること がない。出来の悪い娘を持って、この先、この子をどう、育てていくか、気の遠 くなる思いだよ。




 
                               
団子より月   by kei





 それにしても、ボクがずっと背中を見せているのは、どうしたわけだって?  いいこと、訊いてくれたね。この子、団子にそっぽを向くボクを見て、なんて言 ったと思う。ミーヤったら、お月さんが団子に見えてるのね。そうね、この団子 より、あのお月さんのほうが、真ん丸で美味しそうだものね。飼い猫って、私に 似てるのね、ホント、食い意地が張ってるんだから。
 そんなこと言われて、ボクは一瞬、頭の中が真っ白さ。ボクをお前なんかと一 緒にしないでくれって、ニャーニャー、文句を垂れてやったけど、奴ったら、ニ コニコしているだけ。度し難いお間抜けなんだな、我が娘はさ。
 こんなこと、言われた時のボクの悔しさ、誰にも分からないだろうね。そうさ、 せめて、遠い遠い世界にあるお月さんだけには分かってもらいたかったんだ。ボ クがお母さんに逸れて淋しい気分でいるってことが分からないみたいだし。我が 娘っ子じゃ、ボクより幼いから、慰めてくれそうにないし。
 あーあ、誰にもボクの胸のうちが分からないってのは、つらいもんだな。
 でも、いいんだ。あの高い高いところにある月を眺めていると、つまらない思 いなんて、吹き飛ぶし。
 それに、真ん丸の月を眺めていると、時々、ボクのお母さんの顔が映るみたい だし。お母さんが、ボクのこと、手招きしている?! なんて、見えたりするん だ。切ないよー! 
 これから先も、まるで夢でも見ているように、お月さんを眺めるんだろうな。 鏡の面に映るボクの気持ち。背中などを撫でさせて、寝顔なんて、見せてあげて、 玩具になって娘っ子を楽しませてあげて、さて、ボクを慰めてくれるのは、月な のさ。ああ、ボクには、団子より月。だから、今夜もお月見さ。


04/06/25 記






2.春の夢だよ、の猫

(04/03/30 up)







 春である。水ぬるむ春である。心にゆるみを、体にたわみを、がモットーの 我輩の、いよいよ出番である。
 春である。春風の悪戯だって期待したくなる春なのである。女性の着る服装 も和らぎ薄くなり、胸の形も定かとなり、スカートの裾もヒラヒラと男どもの胸を 時めかせる春である。我輩を飼っているなどと自惚れている我が不肖のご主人様も、むずむずうずうず落ち着かない様子。
 今日は、我がご主人殿のことを少々、語っておこう。
 我輩同様、出無精でデブ症のご主人様(うん? 逆かな。ご主人様に我輩が似たのかな?)、冬の間は部屋の中に閉じ篭って、窓の外の様子を伺 っているだけ。それが、春ともなると、春風の悪戯の予感に誘われ居ても立っ ても居られなくなる。啓蟄の頃ともなると、腰の辺りがムズムズウズウズして くる。我輩の体にもご主人様と同じような虫が巣食っているのだろうか。

 啓蟄…。遠い昔、啓蟄という言葉を初めて聞き知った頃、こんな言葉を人前 で堂々と声に出して喋っていいのかと随分と心配したものだった。少なくとも 我輩自身は口に出したことはない。が、我が主人となると、もう。
 そう、世事に疎い我が主人、漢字にも弱くて、啓蟄の蟄を、あのあそこのチツと表記が一緒だと思っていて、ああ、チツが啓く季節なんだ、なんて、思いっきり想像していたも のだった。
 それでもいつかしら、啓蟄とは、冬篭りしていた虫が這い出るという意味だ と分かってはきたらしいのだけれど、しかし、語感というのは如何ともし難いもので、 チツという言葉(音感)が耳を打つたびに、我が主人はあられもないことを一瞬は想像し てしまうのである。
 今でも、ともすると、啓蟄とは、虫が這い出てチツが開いてしまう頃合い愛 が蜜となって溢れ出る神秘の時を表現する洒落た言葉なのに違いないと、つい思われてしまって 陶然としてしまったりする。そんなご主人様と付き合う我輩の苦労は推して知るべしであろう。

 我が主人、虫というと、キャベツを連想するという。ご主人、キャベツが嫌いのご様子。 食べるのが嫌いなのではなく、店頭のキャベツを買ってきて包丁などで切るの が怖いのだという。いつだったか、買ってきたキャベツを切ろうとしたら、中から青 虫がニョロニョロと顔を出したりして、その時のご主人殿の驚いた様子といったら。
 畑にあるキャベツに青虫が這っているのは、珍しくはない。これでも我が主人は、今も籍があるかどうかは分からないが、農家の長男坊だっ たのだ。青空の下にあるキャベツだったら、虫食い状態だったりしても、なん とも思わないと豪語されるのだが、片隅とはいえ、都会の、その頃は真新しかった台所で青 虫の這うキャベツを手にしたのがたまらなく怖かったというのである。
 まあ、そう、本人が弁解しているので、そういうことにしておこう。

 さて、そのキャベツのこと。野菜や果物嫌いのご主人、食卓に上っているはず の白菜とキャベツの区別がつかなくて、八百屋やスーパーに並ぶ、それらを見 て、間違いなく呼称できるに至るに、二十年は要したものだったとか。
 それでも、やや長めの白菜と、丸っこくて、比較すると葉の厚めのものがキ ャベツ…などと、やっと白菜とキャベツを識別できると安堵していたら、セロ リやらパセリやらブロッコリーやらレタスやらが、ボコボコと登場してきて、主人殿の鈍な 眼には似たり寄ったりの野菜が店頭に並ぶようになり、またまた頭の中が混乱 するようになったご様子である。御愁傷様と申し上げるしかない。

 凍て付いた冬の風物の透き間から顔を覗かせて春の到来を予感させる梅、そ して蝶々の喜び勇む様にも似て青空に咲き誇る桜。
 そんな桜と梅の区別も風雅の道に疎い主人殿にはなかなか厳しいものがあって、主(あるじ)殿としては、水ぬる む頃、町中を誰であれ子供と一緒に歩くのは嫌なのである。間違っても、あれ は梅なの、それとも桜なのって子供に訊かれたくないのである。さすがに時間を掛け て観察したら、桜か梅かの判別は可能なのだし、二月だったならば、幾らなん でも桜が咲いているってことはないだろうと推測の上、あれは梅だよ、と答え るけれど、三月の声を聞く頃になると、即答を求められても、覚束ないのであ る。主殿としては、桜や梅たちに、ちゃんと季節を分けて咲くように切に願い たいと、ぼやくことぼやくこと。
 が、そんな主殿の焦りまくる胸のうちを知ってか知らずか、子供たちは、堪 え性がないもので、即答を求める。我輩にそんな無理な要求をするな! とガ キどもの口を塞ぎたくなってしまう主(あるじ)殿。というわけで、春先には外出の際、子供 と一緒にならないよう神経を使うのである。我輩も、ガキどもがご主人様に近付いたら、さりげなく合図を送ったりするのだが、生憎、主殿は、我輩のせっかくのシグナルにも気付かないようす。ああ、ドン臭いことだ。
 春とは、主殿にとっては、さほどに気の塞ぐ、憂鬱な 季節でもあるのだ。なかなかスカートの裾がヒラヒラして楽しいばかりではないのである。

 他にも辛いのは、椿と薔薇のようである。断っておくけれど、椿と薔薇という漢字 を識別できないと言っているのではない。読むことくらいはできる(薔薇は書 けないだろうけど)らしい。我輩が正確に言うなら、漢字の外見を見分けることができる、としたいところだが。
 本人がそう断言するのだから、間違いはないのだろう。あくまで現物の花を見て、しかとは花の名を口に出来ないと言っているのである。
 しかしながら、なんとなく椿は、雪の残る季節にも咲くが、薔薇は違う季節に咲くのだ ろうと思っていたら、そうでもなくて、どちらも四季に関わらず咲くこともある花だと いうではないか。これでは主殿には判別など土台、無理というものだ。
 花の色や形、そして漂ってくる香りなど、自然の繊細さの妙を味あわせてく れるものだというけれど、見る者に、あれは何と言う花、あれとこれとは何処 が違うの、なんて戸惑わせるようでは、主殿、到底、心安く素直に柳眉典雅美 麗と花々を褒め愛でているわけにはいかないようである。
 しかも、ここに牡丹などが加わると、主殿の頭はますますパニックである。薔薇と牡 丹と椿。それぞれの花が主殿を誑かそう、ちょっとばかり弄んでやろうとばか りに、私が薔薇よ、あたいが椿よ、あちきは牡丹なのよ、何、言ってるのよ、 あんたは椿でしょう。何、嘘、こいてるの、なんて、チツチツに…じゃない、 口々に我が名を騙られたりすると、目が回ってしまう(そういえば、牡丹も、 簡単そうでいて、いざ書くとなるとご主人様は、結構、迷ってしまうかもしれない)。やっはり、主殿に春は憂鬱な季節なのだ。

 春といえば、ご主人は、たんぽぽを連想するらしい。主殿は、何故かたんぽぽが好きである。春を告 げる花、野に咲く花。遠い昔の田園風景には、蓮華と共に欠かせない草花の一 つだったのだとか。綿帽子のほんわりした感触は、ともするとささくれだってしまう主殿の心を和ませてくれるようである。
 でも、我輩が思うに、主殿がたんぽぽが好きなのは、本当のところ、あの花は何? と訊かれて、即答できる数少ない花だからだろうと睨んでいる。あと主殿が自信を持って答えられるのはチューリップくらいだろうか。尤も、開花した時のアヤメや水仙と落花寸前のチューリップが区別できるかは怪しいところだと思われるのだが。

 たんぽぽというと、いつだったか我がご主人様が吐いた駄洒落を思い出す。といっても、出来が悪いのでさすがに我が主人も人前で吐くのはタブー にした駄洒落である。そう、我が主(あるじ)殿、たんぽぽと聞くと、つい、タンポンを連想 してしまうらしい。イメージの上での連想ではなく、あくまで語感から、タンポと聞 いた段階で、早々と、主殿の軽すぎる頭が勝手にタンポンに繋げてしまうらしいのである。さすがは主殿だ。
 で、またまたここから飛躍してしまうのが主殿。タンポンというと肩叩きの歌を思い 出してしまうのだという。そう、「かあさん、お肩を叩きましょう♪」というリズム 感たっぷりの歌。春でもあるし、冬の間に凝りきった肩をほぐしましょう、と ばかりに、唄う。
「かあさん、お肩を叩きましょう。タンポン、タンポン、タンポンポン♪」と。
 思わず、子供の頃の主殿、母君の前で歌ってしまい、引っ叩かれたとか。当然だ!
 ここまで来ると、気立てのいい我輩も、うんざりである。

 顔を窓のほうへ向けると、隣りの病棟の給水搭越しに青空が見える、はずで ある。今は開け放たれたベージュのカーテンを煽るほどにも豊かな光を頬や額 に感じているだけ。
 そう、主殿は今、病床にあるのだ。和らぎ始めた、どこか華やいでいる空気 を吸うために町中を彷徨するわけにもいかない。だから今は、目を閉じて夢の 中で春の町をさ迷い歩いている。夢は枯野を駆け巡る…という心境なのだろうか。その分、我輩が、存分に徘徊して回っている。無論、近所の雌猫さんたちとも、思いっきりフィーバーしている。何もかも、主殿の身代わりの心境なのである、ってか。
 閉ざされた赤い闇の海に漂っていても、遥か彼方に耳を澄ませてみれば、遠 い潮騒の残響に触れることができる。名の知れない島の砂浜で、スカートの裾を からげ、波と戯れる乙女の裸足の脛(すね)がすぐそこに見えるようでもある…。病床にあっても、スケベ心なのか青春の侠気なのか、それとも風流心なのか判別の難しい夢想に前を膨らませるのは、いかにも我が主殿らしい。

 今の主殿を辛うじてでも生き長らえさせてくれるのは、誰が灯したのか、蝋 燭の焔に浮かび上がる幻影の数々の御蔭なのである。深い闇から春の息吹が思 い思いの形象となって現れ出でる。
 この蝋燭の焔の影がちらつき始めたら、末期の時だと我輩は聞いたことがある。無論、そんな無粋な噂など、主殿に告げ口などしない。思いたいように幻想的な夢を貪らせておく。武士の情という奴だ。
 不意に妙な感覚が主殿を見舞うことがある。体の何処かがむず痒いようだ。
 一体、何処なのか。どうやら鼻の穴の辺りのようだ。主殿の鼻の穴をタンポポ の和毛(にこげ)が擽(くすぐ)っている。それとも、いつだったかの行きずりの薔薇の、 牡丹の、椿のような女の淡い叢から抜け落ち排水口に絡まって残っていた一本 の毛が、女の残酷なほどの愛敬と執念とで主殿を甚振っているのか。
 オレの鼻の穴はチツなんかじゃないぞ! と叫びたくても、主殿はどうするわけに もいかない。今のオレは笑うチツだ。虫どもの塒(ねぐら)だ。いや、根暗と いうより、幾重にも畳み込まれた花弁を分け入っていく青虫そのものだ、などと嘯いておられる。
 母君の前であんな替え歌を歌うからだよと思っても、今となっては取り返しが付かない。
 ああ、過ぎ行く人生の時よ。
 せめて葉っぱを這う青虫ほどに人生の春を謳歌したい! 春なんて大嫌いだ!
 そう、悲鳴を上げる主人の傍で、我輩は春眠暁を覚えず、ひたすらに安逸なる春の夢を貪るばかりである。


(04/03/10記 04/03/30改筆)