41.有明の月に寄せて
42.月影に寄せて
41.有明の月に寄せて
仕事柄、朝帰りを余儀なくされる。前日の朝、十時半過ぎ頃から仕事が始まり、
幾度かの休憩などをはさみ、終わるのは、大体において翌朝の六時半頃である。
仕事がそろそろ終わりかな、もうひと頑張りかなと思うのは、五時台も後半辺
りだろうか。売り上げが悪かったりすると、ああ、もう、営業時間が残り少ない、
などと焦ってしまう頃合いでもある。
その日の天候次第だし、月の位置や月齢にも当然、拠るのだけれど、そんな帰
庫を意識し始める頃に、うまくすると、そう、有明の月に遭遇することがある。
徹夜仕事した目には、明るくなってきた町の光景や、ガラス窓などの朝日の照
り返しは、きついものがある。
けれど、そんな青味を増しつつある低い空にこそ、有明の月が現れるのだ。
頑張っても、惨めな結果しか残せなくても、ああ、今日も一日、無事で遣り通
すことができた。違反はしなかったし、酔っ払いとのトラブルもなかった、勿論、
事故に遭遇する不幸にも合わずに済んだ…、これが売り上げが悲惨なものに終わ
った時の、せめてもの常套的な慰めの感懐なのである。
この数年、そんな苦い思いと共に、運がいい時には有明の月を、ほんの束の間、
愛でる、そんな機会が増えている。情ないことである。
有明の月に恵まれた早朝というのは、朝になって矢来の雨が急に上がった、月
を覆っていた雲が吹き払われたというのでなければ、多くは、その明けきらぬ夜
までは、月影をも友とすることが出来ていたわけである。
夜の月は、満月でなくても、暗さとの対比もあるのだろうけれど、煌々と照る
という表現が相応しく感じられる。時にその輝きは凄まじいものだったりする。
周囲が闇に沈んでいるだけに、月の輝きに照らし出され浮かび上がるのは、自分
の貧しい心だけだったりする。
若い頃には、それなりの自負もあったはずなのに、そんなものは、風に吹き飛
ぶ埃のように、とっくに打ちのめされ、ここにいる自分がいかにちっぽけな、そ
れこそ吹く風に命運の全てが任されてしまっている…、どうしようもない泥沼の
深みに嵌り、自力では到底、抜け出す望みなどない…、だからといって、絶望の
淵で呻吟して誰かに救いを求めるほどの声を張り上げる気概もあるはずもない。
悲鳴の声さえも、弱々しく擦れがちなのである。
有明の月というのは、季語でもあるのだろうか。小生は、そんなことも知らな
い。
ただ、明け方になって、すっかり影の薄くなった有明の月を、何処かの曲がり
角を曲がった瞬間に行き逢う。自分の薄くなった存在感そのままに天の鏡に映し
出したかのような、ぼんやりした掠れがちの月。強烈な太陽光の照射に掻き消さ
れる一方。あの、心の隅々を照らし出し、残る隈なく心を赤裸にさせた月がまる
で嘘のようだ。
狐に抓まれた面持ちさえする。
有明の月というと、多くの人は、『百人一首』の中の、「ほととぎす鳴きつる
かたを眺むればただ有明の月ぞ残れる」(藤原実定)を思い浮かべられるかもし
れない。
この句の場合、ホトトギスが季語のようだから、夏の歌ということになるのか。
平安の世の貴族は、朝帰りの機会が多かったとか。通い婚という制度のせいも
あったのだろうか。
方々の女御のもとを通い訪ねる、そんな艶っぽいというか、ご苦労な営みの果
ての、有明の月は、気力・体力・精力・財力の限りを吸い尽くされ、奪い尽くさ
れて、さぞかし白々しく映ったのではと、思われたりする。
その意味では、仕事で朝帰りの時を向かえる最中、有明の月を時に愛でること
ができるのは、まだ、幸い…なのだろうか。
ところで、真夜中に愛でた月が、仮に満月だったりすると、それは風流に表現
すると、望月ということになる。
ここで、藤原道長の「望月の…」という歌など、思い出したくもない。そんな
望月の時を賞味しだすと、未練が募る。で、望月の世(夜)の尽きた後にも、未
練がましく、ほんの僅かながらも欠け始めている月をも追い求める羽目になる。
それが十六夜の月、というわけである。
見ようによっては、満月とも見える。いや、輝きが冴え渡っているなら、その
溢れ出る光が、欠けたはずの隈をも補って余りある。いや、それどころか満月よ
りも華やかではないか…、そう、自分にも、周囲にも言い聞かせ、言い含める。
そして気がついたら、凋落の一途を辿っているというわけである。
そう、十六夜の月、立ち待ちの月、居待ちの月、臥し待ちの月、寝待ちの月、
果ては、更け待ちの月まである。人の未練心、過去の栄光の再現とまではいかな
くとも、せめてその残影を追い求める執念というのは、凄まじいものなのだ。
[月の呼称については、下記のサイトを参照のこと:
http://www.runsten.info/almanac/moonex.htm ]
この最初の、十六夜の月の「十六夜」というのは、言うまでもなく、「いざよ
い」と読む。ためらってぐずぐずすることであり、「十六夜の月」というのは、
満月の翌日の、ためらうように昇ってくる月を表した呼び名なのである。正しい
かどうかは、確かめていないが、意訳を承知で漢字で表記するなら、「躊躇いの月」というこ
とになる…のかもしれない。
更け待ちの月の後は、何と呼ぶべきなのだろうか。やはり、運の月?
遠い昔、小生の若き日など、月の夜に漂白の思いを抱いて(大袈裟な表現!
でも、当人は、大真面目だったのだ)夜の町を歩くと、月影が何処までも自分を
追ってくることに、驚異の念を抱き、あるいは、月の耀きや星の瞬きが、何か自
分のためにこそあるような錯覚を覚え、しつこいような、でも、誰かしらに見詰
められて、孤独の底にあってさえ、癒され慰撫されているような甘酸っぱい感傷
を抱いたりした。
が、天然自然というものは、実は、天上天下の何れの生きとし生けるものに、
平等に恵まれている、いな、それどころか、完璧に無関心であることに気付かさ
れる。そのことに冷たさの証左を嗅ぎ取れるというのは、若さの証左でもあるの
かもしれない。
今となっては、自然が自分の肉体にも心にも無関心であることが、たまらなく
嬉しい。自分のちっぽけで、揺れ動いて定まらない心に、自然が決して影響など
されないことが、どんなに救いになっているかをつくづくと感じてしまう。
泣き喚いても、逆に深い喜びの念に心底、満たされている時でさえ、時が至れ
ば月は上り、あるいは沈む。太陽は燃え盛り、あるいはやがて山並みかビルの谷
間に沈んでいく。自分は、自然に見捨てられているのではない。自分は、そこに
転がっている石のように、黙って、そこに、ある。
ただ、それだけのことである。それ以上でも、それ以下でもない。
声なき声を沈黙の空間に、静かに発してみる。誰も応えないし、天もソッポを
向いたままである。
でも、それでいいのだと思う。
そのことは、つまりは、時、至れば、この我が侭だったり、エゴの塊だったり、
裏切ったり裏切られたり、失望したり落胆したりする、そんな平凡極まる自分も、
どんなにも栄光に満ち輝いた人と同じように「自然」に遇されるということの証
しなのだから。
際限のない時空の永遠の沈黙、それこそが慰めであると心底から感じられるほ
どには、古の哲人も生きられなかった、それこそが不幸なのかもしれない、など
と、不遜なことさえ思ったりする。
大切なことは、今を誰よりも感じること。命を感じること。ただ生きてあるこ
とだけでさえも、どんな自然の不可思議よりも不可思議に満ちた喜びの証しだと
感じることなのかもしれない。
それにしても、不況の日々が長すぎる!
04/07/07 記
42.月影に寄せて
「広辞苑」で「月影」を調べると、以下のようである。
(1)月のひかり。「月影さやかな夜」
(2)月の形。月の姿。
(3)月の光に映し出された物の姿。
(4)薄墨で竹などの模様をすり出した紙。
手元にある事典ではデータなしとなってしまった。言葉として一般的過ぎるの
だろうか。
突拍子もなく、月影などという言葉を持ち出したのは、それなりに理由がある。
あるサイトの掲示板に「幸せってどういうこと」という問いがされていた。そ
の書き込みは、小生のサイトにも訪れることがある人なので、どうして小生には
問いかけしないのかと思った。でも、そのサイトは論旨が明快で、なるほどそち
らに問い掛けるのが自然なのだなと、納得してしまった。
ちょっと悲しい納得ではある。
同時に、問われなくてよかったと、妙に安心というか、もし正面切って問われ
たら、答えようもなかったではないかと、冷や汗が流れそうにもなった。
そう、小生にとってどんな質問が一番、難しいかというと、「幸せ」とは何か
という問いをおいて他には考えられないのである。
なぜ、「幸せ」とは何かを問われると苦しいかというと、それを考えてこなか
ったし、考えない以前に求めてこなかったから、と答えるしかない。
別に不幸になろうとか、幸せに背を向けようとか、そんな大それた発想がある
わけではない。そうではなく、ただただ、そんなことは考えない、意識しないよ
うにしてきただけのことなのである。
では、どうして殊更に意識しない、まして幸せを積極的に追い求めなかったの
か。
それはつまるところ、遠い昔に、そんなものが自分にあるとか、やってくると
は到底思えなくなっていたからだ。
その原因については、ほかでも書いたので、ここでは触れない。ただ、諦めが
早いというか、気力とか意志が薄弱で、時の流れに任せるだけで、深くは考えな
いようにしていたことは否めない。
何を求めるという発想法は、とにかく皆無だった。せいぜい、目先のトラブル
を避けることだけに懸命だった。トラブルが生じないなら、一切、勉強はしない。
落第生の烙印が押されたって、それが自分に影響しない限りは、どうでもいいの
だった。
逆に勉強したほうが、風に乗り、気楽であるのならそこそこに勉強し、とにか
く目立たないことを先決の関心事としてきたのである。
ただ、遣り過すこと。日々を流すこと。それで一生が送れるなら、何の問題も
ないわけである。少なくともその筈だった。
が、そうはいっても、波風が起きるのが人生である。事なかれ主義で通してい
ても、風は透き間を見出し、あるいはズボンの裾からでも風が舞い込み、どこに
どう潜んでみても、世間の風は吹き込んでくる。
それどころか、恋もするし、嫉妬もする。自分がのほほんと暮らしている一方
で、自分の周りの人間が苦しんでいるなら、目を背けてばかりも居られない。そ
れほど意志が強い人間ではないから、ついつい身の程知らずにも声を掛けてみた
り、そうでなくとも心を砕いてしまう。感じてしまう。共感の念が湧き出てくる。
さて、小生は自分が太陽ではないことは、さすがに自覚している。誰もがその
存在が気になるような太陽の人ではないことは重々承知してる。太陽の人は、当
人の頭の中ではあれこれ悩んでいるのだろうけれど、でも、その人の傍に居て外
見に接している限りは、何かしら暖かいものを感じ取ってしまう。能天気という
わけではないのだけど、生き方が前向きに感じられる。実際、そのように心掛け
ているのかもしれないし、そうではなく、ただ、愉しいこと、生き甲斐に成って
いることを見出してエンジョイしているだけなのかもしれない。
事情はどうであれ、周りにいる人は暖かくなる。何となく勇気付けられる。よ
し、あの人があれだけやっているのだから、自分だってと頑張ってみようと奮い
立つ。
そんな太陽の人。
一方、自分を振り返ると、太陽など論外で、せいぜいが月である。太陽の光を
浴びて、やっと輝いている月に見立てるのが、やっとなのである。それだって、
贅沢すぎる表現だと思うのだけれど。
女性は元始太陽であったという言葉がある。敷衍すると、人間は誰しもが太陽
なのかもしれないと思う。地上の星々でも書いたように、地上に生きている全て
の人が、それぞれに星であり、太陽なのだ。生きとし生ける全ての存在が、太陽
であり星なのである。
あまりに当たり前に地上のこの世界に星々が煌いているから、そうした事実に
気が付かないのだ。自分だって実は太陽であり星となっていることがわからない
のだ。
その中で、自分という存在を少しだけ振り返ってみると、星でもなく、まして
太陽でもない。だけれど、それなりに生きてきて、多少なりとも縁を持った人に
は幸せになってもらいたいと切に思う気持ちがある。自分のことを差し置いて、
そんなことを思うのは僭越だと思うのだけれど、生意気かもしれないけれど、そ
う思ってしまう。
が、思うだけの人間である。思ったからといって何をするわけでもない。何が
できるわけもない。
でも、自分のことはともかく、周りの顔を知る人たちには、幸せにと願わずに
は居られないのだ。変なのだろうか。可笑しいのかもしれない。
そんな自分に何ができるのだろうか。何ができるわけもないと、すぐ手前で書
いていて、舌の根も乾かないうちに、ないができるのだろうかと問う、その愚か
しさ。
小生は、書くことに全ての情熱を傾けている。書いている内容や、深さ広さに
難があっても、とにかく世界の一端をでもいいから触れたいと思っている。表現
したいと思っている。書くとは恥を掻くことというのが、自戒の言葉というか、
モットーに近い表現なのだが、それでも、飽くことなく、ありとあらゆる由無し
事を書き綴るというのは、別に知識を広めるためでも、薀蓄を傾けるためでもな
く、書きながら何事か新しいことを調べ、あるいは何か興味を惹く何かに触れた
ならその何かを紙の上に少しでも定着させたいのだ。
書くとは、ある種の懇願の営為なのだと思う。何への憧憬か。それは、生きる
こと自体の不可思議への詠嘆であり、この世に何があるのだろうとしても、とに
かく何かしらがあるということ自体の不可思議への感動なのだ。この世は無なの
かもしれない。胸の焦慮も切望も痛みも慟哭も、その一切合切がただの戯言、寄
せては返す波に掻き消される夢の形に過ぎないのかもしれない。
でも、たった今、ここにおいて感じる魂があるということ、それは、つまりは
この地上世界に無数に感じ愛し悩み喜び怒り絶望し感激する無数の魂のあること
のこの上ない証拠なのであって(だって、自分だけが特別なはずがないのだ。誰
もが一個の掛け替えのない存在なのだとしても)、その感じる世界の存在は否定
できないような気がするのである。
さて、話は戻る。小生は太陽でもなければ、地上の星々の一粒でさえないのか
もしれない。
でも、どんな塵や埃であっても、陽光を浴びることはできる。その浴びた光の
賜物を跳ね返すことくらいはできる。己の中に光を取り込むことはできないのだ
としても。
月の形は変幻する。満ちたり欠けたり、忙しい。時には雲間に隠れて姿が見え
ないこともあるだろう。でも、それでも、月は命のある限り、日の光を浴び、そ
して反射し、地上の闇の時を照らそうとしている。
月の影は、闇が深ければ深いほど、輪郭が鮮やかである。懸命に物の、人の、
生き物の、建物の形をなぞろうとしている。地上世界の命を愛でている。柔らか
な光となって世界を満遍なく満ち溢れようとする。月がなかったら、陽光が闇夜
にあって、ただ突き抜けていくはずが、その乾いた一身に光を受け止め跳ね返し、
真の闇を許すまじと浮かんでいる。忘れ去られることのほうが実際には遥かに多
いのに。
月の光は、優しい。陽光のようにこの世の全ての形を炙り出し、曝け出し、分
け隔てするようなことはしない。ある柔らかな曖昧さの中に全てを漂わせ浮かば
せる。形を、せいぜい輪郭だけでそれと知らせ、大切なのは、恋い焦がれる魂と
憧れてやまない心なのだと教えてくれる。
せめて、月の影ほどに、この世に寄り添いたいと思う。
窓の外の定かならぬ月影を見ながら、そんなことを思ったのだった。
最後まで読んでくれた方のために、西行法師の歌を一つ:
月のみや うはの空なるかたみにて
思ひもいでば 心かよはん
03/11/25 記

|