言葉と現実を巡って、他

 




 [ 僅か一年余り前に書いた文章群である。なのに、今、読むと気恥ずかしくなる。我ながら未熟に感じられてならないのだ。でも、一群の文章は全てメルマガにて公表したものばかり。こんな考え方を持っていたことは否めない事実なのだ。書くということ。それは恥を掻くことに他ならないとは、どうしようもない真実なんだね。 (03/11/09 up) ]



                                      

22. 言葉と現実を巡って

23.あるエッセイを読んで

24.読者のためか、自分のためか

25.心の貧しさと夢の切なさと

26.情熱と受苦の間







22. 言葉と現実を巡って



 



 現実の何かの事態に敏感だから言葉に神経質になるのだろうか。
 それとも言葉の意味や用法や過去に使われてきた経緯や歴史・伝統に左右されざ るを得ないから人様や己の言葉、そして言語表現に示される事態に敏感になるのか。 (このことを時に教養とか常識が豊かと評する?)
 ある程度、成長すると、言葉と現実を腑分けするなど至難の業。考えるとは、言 語による以外に方法としてありえないような気がするし。感じたり、考えたり、思 ったりする契機として、音楽や絵画や風景を眺めたり鑑賞したり、あるいは実際に 作ってみるということはありえる。
 否、それ以前に、現実の経験を通して体験が深められ、世界が広がるということ はありはする。
 それでも、やはりその感じ見聞きした現実は、言葉で整理するわけではないのだ としても、最終的には幼い頃から積みあげられてきた記号体系の海に親和させてい くしかないのだ。
 ただ、親和した段階で多少は前より潮味の濃い海になっているだろうと、期待は したいのだけれど。
 ところで、いわゆる現実感のある文章というのは、どういう文章なのだろうか。  きっと、本人が閉じた世界の中に安穏としたいと思っても、どこかに破綻なり破 れ目があって、望んで、あるいは余儀なく未知なる世界に開かれているということ なのだろう。
 その一歩極端に行けば人格的破綻に瀕するギリギリのところで、懸命に己をなん とか辻褄を合わせながら、何とか己の感じる現実を表現しようとする。
 小生にとって駄洒落というものは、言葉と現実の事態との間の齟齬の低レベルで の示唆なのだと思う。
 そう、言語というのは、常に現実と齟齬しているのだ。心象風景であれ、現実に 肉眼で眺めている風景であれ、それらが言語に還元されることは勿論、多少なりと も表現されることがありえるとは思えない。
 それでいて、芸術というものが成立している。絵画などの美術もあれば、音楽も ある、演劇もあれば、まさに文学もある。しかも、そうした世界も人間には現実の 一端なのだ。
 例えば小説の類いはなくたって、生きていることができる。でも、それなしでは 生きられない人もいる。小説が人生の代わりになるわけではない、しかし、人生を より深く感じられることは間違いないようだ。
 ここにささやかなパラドクスがあるような気がする。  つまり、小説を含めて本など必要ないという人ほどに、現に所有し活用している 言語体系に(本人はそのことを認めたりしないし、そもそもそうした反省自体をし ない。何故なら現実の出来事で十分に己が豊かであると感じているのだから)結果 として満足している、自足している傾向にあるということ。
 そして、小説や詩や音楽などを欲する人ほど、より一層の深められ、あるいは新 鮮な驚きを与えてくれる作品を求め、結果としてより豊穣なる言語体系へ成熟しよ うとしがちだという傾向。
 言葉や言語表現に敏感な人ほどに、実は言葉と現実の齟齬に神経を払っており、 両者の裂け目の深淵に脅威しているのである。


                                     02/07/19 22:13




23.あるエッセイを読んで






 朝日新聞夕刊の文化欄の中に「時のかたち」というコラムエッセイがある。 書き手は随時、変わるのだが、今は青山南氏という翻訳家でエッセイストの方 が受け持っておられる。
 小さな欄だし、書き手の関心事が素直に出ているようで、大概、目を通す。  けれど、いつもは、目を通すだけで通り過ぎるだけである。
 しかし、9月13日付けの「スペイン苔」と題された一文は。小生の目を惹 いた。話題が「スパニッシュ・モス」ではないか。
 この「スパニッシュ・モス」は、青山南氏の説明によると、直訳ではモスが 苔なので、「スペイン苔」になる。だから、表題もかくのごとくなのだ。
 辞書には「サルガオセモドキ」と出ている。植物の一種なのである。青山氏 は、アメリカ南部の小説によく出てくるこの植物が謎だったという。その植物 をアメリカ南部のルイジアナ州ラフィットという町で、ご自身が確認したとい う。
 確認してみると、(西部劇などでは)時折登場する、土埃を舞い上げて風の 吹きすぎる荒野や寂れた西部の田舎町の町外れなどにある林に迷い 込むと見られるものである。(青山氏の表現を借りれば)「巨大な(おもに樫) の枝から、白っぽいトロロコンブのオバケみたいなのがだらーんと何本も垂れ ている」、あの木の枝の塊である。
 写真を見ていただければ分かるように、何処か不気味な感じがある。「亡霊 みたいなかんじ」と青山氏が書いているのも、実際に、「夕闇のなかでいきな り出くわした」りしたら、そのように実感するかもしれない。
 また、巨大なトロロコンブは、見た感じ乾いているように思われるかもしれ ないが、実は、触れてみると柔らかく、花も咲く着生植物であり、エア・プラ ントの一種なのである。
 エア・プラントとは、気生植物であり、根がほとんどなく培地に植え付けな くても空中の 湿度だけで育つ小型の植物で、日本でも一時期(バブルかバブルが弾けた直後 の頃?)、手間が掛からないからと、室内に気軽に飾るに相応しい植物として 持て囃されたことがある。
 が、手間を懸けなくていいのだと誤解され、すぐに枯らしてしまい流行は一 過性のものに終わった。
 それでも、今でも、ドライフラワー花材として使われることもしばしばであ る。
 ある辞書によると「フロリダ・モス」と呼ばれることもあるという。
 上記したように別名「サルガオセモドキ」という。「モス」と命名されなが ら、実は苔ではなく、サルガオセという地衣類に、似て非なるものであるので 「モドキ」とされているのだ。

 さて、ようやく本題に入る。
 実は、小生は、94年の失業時代に、その名も「スパニッシュ・モス」とい うタイトルの長編を書いたことがあるのだ。300枚を一区切りとして、第三 部まで書き上げたところで、失業保険も切れてしまい、中断になったままであ る。
 「根がほとんどなく培地に植え付けなくても空中の湿度だけで育つ小型の植 物」ということで、主人公の根無し草的な、自分でも自分を掴みかねている画 家の卵の心性を象徴するのに、格好の材料のように思えたのである。
 そう、青山氏があれこれ調べられたように、エア・プラントという植物の存 在をある日、知り、しかもそれが別名サルガオセ・モドキと言うのだと知るに いたって、小説の構想とまではいかないが、少なくとも着想の上では、かなり インパクトを与えられのだ。
 図書館で調べて、やっとスパニッシュ・モスの写真を拝見することもできた。  94年の夏頃は、まだ小生はインターネットからは縁遠かったので、今のよ うにネットであっという間に様々な説明や写真をゲットするというわけにはい かなかったものだ。

 エア・プラント=気生植物という中空に漂い(実際には、勿論、漂ってはい ない。しかし、木の枝から落ちて、荒野を風の吹くままに転がることは、往々 にしてあったようだが)空中の湿気を吸って生きる主人公は、ある銀座で働く 女のヒモ状態で生活している。
 女は彼の才能を信じているのだ。
 銀座の女は美貌だが、彼は画家としての才能にある日までは根拠のない自信 を持っていた。しかし、自分の顔に密かにコンプレックスを持っている。が、 彼はある日、突然、自分の才能に疑いを持ち始める、というところから物語り は始まる。
 実は、ある日、女が部屋の中でドライフラワーを飾るのだ。それがスパニッ シュ・モスなのだが、その別名が「サルガオセ・モドキ」だと女に説明されて、 彼は何故か自分のサルっぽい顔を女に揶揄されたような、当てこすられている ような気になってしまう。
 別にそれが切っ掛けということではないのだろうが、彼のどうしようもない 自信喪失の始まりとが、女のちょっとした気まぐれな振る舞いと、不思議に絡 み合っているかのようなのだ。
 彼は、自分には根がない。この世と絡み合う何の絆もないと感じ始める。女 は、自分の才能のなさを感じとってしまった。画家としての才能のない自分は、 女のただのヒモに過ぎないではないか…。自分は、中空を当てもなく漂ってい るだけの無益な存在なのではないか…。

   小説の展開はともかく、「スパニッシュ・モス」という名前を久しぶりに目 にして、仕事に体力も精力も奪われ、掌編を綴るのがやっとの現状を鑑み、長 編に躊躇なく挑戦できた当時がちょっとばかり懐かしく、今への失望さえも覚 えたので、こんな長々としたメモを綴ってみたのである。


                                   02/09/15 13:20




24.読者のためか、自分のためか






 春泥子さん、こんにちは。
 横レスの横レスは、縦レスになるのでしょうか。

 小生も、ささやかながら、この数ヶ月、掌編を書いており、3番の部屋に アップしております。
 もう、好き勝手に書いていて、優しい白河さんにコメントをいただくので すが、いつも、構成がなってないと指摘されます。
 その指摘は、図星で、全く反論の余地はありません。
 というより、書いている当人にしてからが、構成を考えたことがないので すから、正しい指摘だと甘受しています。
 「読者のためか、自分のためか」ということになると、恐らくは自分のた めに書いているのだと感じます。読者を意識はしますが、それより書いてい る自分の興奮度や緊張度が高いかどうかを頼りに文章を考えます。
 普通は、多少なりとも構成を考え、多少なりとも、「承」「転」を考え、 「結」を考えるのでしょうが、小生は、とにかくネタだけをまず、放り出し ます。一旦、放り出されたネタをころころ転がしているうちに「承」「転」 に思い至るというわけです。
 こういう態度・姿勢ですから、無論、プロとは縁遠いわけです。
 とにもかくにも、白河さんの言葉を借りれば、自虐的だったり破滅的だっ たりする人間(もしかしたら自分?)を描く。
 虚構は、虚構であるが故に、思いっきり自分の中の、普通は表に出せない ものを出しきれる表現手段だと思います。エッセイもコラムも、どうしても 己の周辺の事実や己の関わる現実から離れることは難しいわけですが、虚構 の中では恋もできるし、殺人もできる。
 ある種の、数学で言う虚数的な、もう一つの生き切れなかった現実を描け る楽しみが虚構世界を作る営為にはあるような気がします。
 で、きっと、才能があれば、読者を無視したかのような勝手な所業であっ ても、読者を楽しませることができるのでしょうね。
 才能とは、社会性に関わるもの。エゴに徹しエゴのために為しつつ、気が ついたら他者のためでもある…、それが理想であるような気がします。
 とにもかくにも、楽しい汗を(脂汗を?)流していくつもりです。
 春泥子さんの文章、写真、楽しみにしています。


                                   02/10/01 08:45




25.心の貧しさと夢の切なさと






 春泥子さん、こんにちは。レスをありがとう。
 春泥子さんの文章で感じるのは、教養の深さもさることながら、思考の上での バランス感覚のよさ、常識の豊かさです。この点(に限らないけど)は、常々、 感じています。
 逆に言うと、自分の思考の時に偏執的になりがちなことを感じてしまうという ことでもあります。
 ただ、そうはいっても、自分が自分でなくなりえるわけもなく、多少なりとも 自分の思考の短慮さを自覚しつつ、世界を広げる努力をするしかないと開き直っ たりします。
 さて、「若いときは、ありえない世界のことを書いた小説に惹かれ、自分でも そうした小説が書きたいと思っていましたが、最近では、日常的なことが書きた いと思うようになりました。やっとこの歳になって、普通のことが普通ではなく 感じられるようになったのだと思います。」という一文には、感銘を受けました。
 若い頃には当たり前だったこと、当然のことだったことが、実は、いかに当た り前ではなく、恵まれていたかということを、歳を重ねるごとに感じるわけです ね。
 その最たるものの一つは、大概は、健康であり、若さであり、己の未熟さを見 守る周囲の目だったりするわけです。
 緑の豊かさ、水の滴りの単純さを超えた豊穣さ。大地の恵み。土を裸足で踏む 悦び。こんな自分を受け入れてくれる隣人。そもそも、生きていること自体の懐 かしさ。
 なのに、酒を飲んだり、煙草を燻らせたり、ゲームに興じたり、旅に出てみた り、趣味の豊かさを誇ってみたり…、そのどれもが悪いことではないのですが、 ただ、健康で生きていて、美味しい空気を吸い、水を飲む喉越しを堪能し、梢を 揺らす風の囁きに目を遣り、街中や峠の道を淡々と歩き、子ども成長に一喜一憂 し…、そうした些細な有り触れた営為そのものの在りがたさには、到底、敵わな いような気がするのです。
 それでいて、小生の如き心の貧しい人間は、殊更に、生きられなかった世界を 生きてみたいと余計な(もしかしたら不毛な)欲望を抱いてしまうわけです。
 つまり、ここから先が、小生と春泥子さんとの人間性の違いが顕れるところな のだと感じます。
 ただ、小生は気の小さな人間ですから、現実世界では身を屈め心を萎縮させた ままに世間の片隅を静かに通り過ぎていくものと心得ています。
 だからこそ、虚構の世界では、満身の想いを持って、もう一つの現実世界を懸 命に構築しようとする。正直に書くと恥ずかしいのですが(だから掌編を作る遊 びをしていると嘯いたりしますけど)、少なくとも書いている最中は、かなり真 剣です。
 とにかく最初の一行を無理矢理にでも書き出して、途方に暮れます。この、訳 の分からない世界に放り出されたという感覚が好きなのです。痺れるほどに、一 寸先も垣間見ることの出来ない闇の世界の危うさの中で、逡巡し躊躇し彷徨し咆 哮し、やがて眼前の壁を爪で掻き削って、針をさえも通さない穴を掘り、無理に も我が身と心を通そうとする。
 ホント、ストーリーを考えてから掌編を書いたことは一度もない。その無鉄砲 さが許される醍醐味を存分に味わえるのは虚構世界にしかありえないのではない か、そんな不遜な思いさえ密かに抱いてみたり。
 崖をまっ逆さまに飛び降りる。現実にはあってはならないことです。でも、書 き出しの一行を放り出すというのは、崖から一歩を踏み出すことに他ならないと 心得ております。後は、なるようになれ! 先のことなど知ったことか! 常識 なんてクソッ食らえ! です。
 この自分だけが創作の喜びを堪能しようという姿勢は、プロには真似できない、 許されない所業かもしれません。読者があって欲しい、見物人が居て欲しい、で も、とりあえず海図のない海に漕ぎ出して、波のまにまに漂う喜びは自分が最初 にとことん味わっておく…。このエゴイズムなくして、何の創作だろうか、なん て、これまた密かに(でも傲慢の念を以って)思うわけです。
 やっぱり、偏執的なんですね(それとも変質的?)。  小生にはない豊穣なる常識とバランス感覚の持ち主、春泥子さんに乾杯(完敗) です。
 じゃ、また。


                                     02/10/03 21:57




26.情熱と受苦の間






 春泥子さん、こんにちは。早速、レスを返していただいて恐縮しています。
 以下は、自己レスです。小生の掲示板で以前、書いたものを一部訂正して再 録します。独り言って奴です。

 Yさんにいみじくも、書くエネルギー云々と言われたけれど、そのこと で、以前、友人にも、書く内容はともかく、書くエネルギー(情熱)だけは 凄いと言われたことを思い出した。
 友人にも答えたんだけど、エネルギーでも情熱でもないのだ。崖を転がり 落ちる石が、崖の壁面に傷くらいは幾つか刻むように、そして傷を付けなが らも、逆に大怪我をするのは当方であるように、我輩は、ある種の悲鳴を上 げているだけなのだよ。痛いとき、痛い! と叫ぶように、ね。それを誰も 情熱の迸りだなんて、見当はずれなことは言わないだろう?!
 悲鳴、嗚咽、すすり泣き、喚き声。時折、思い出したように幽かな悦びの 念が混じるかも(もう、痛いのか快感なのか判別がつかないくらいだ!)。 我輩は身を削っているんだ。
 そう、情熱じゃなくて、受苦って奴かな。英語だと、パッションの一言で 示されるんだろうけど。
 ちょっと正直に書きすぎただろうか。


                                  02/10/04 01:59