|
(03/07/31 up) ガストン・バシュラール(1884−1962)の『空間の詩学』(岩村行雄訳、ち くま学芸文庫刊)を読了した。解説に解説者名が記してないが、文意からして 訳者自身が解説を担われたのだろう。 1969年に思潮社から刊行されたものの新装版である。70年代前半には友人の 書棚でバシュラールの諸著を見たような気がするが、初めてバシュラールの本 を読んだのは70年代半ば以降だった。しかし、本著は読んでいない。きっと、 当時、自分が読んでもチンプンカンプンだったに違いないと思う。『蝋燭の焔』 には少し感銘を受けたが。 それにしても、買ってびっくりしたのだが、本体価格が1,600円。学生時代 には岩波文庫(や岩波新書)を安いという理由もあって、よく買ったものだが、 下手すると単行本の価格である。 やはり小生のような物好き(じゃない、バシュラールファン)だったら、こ んな価格でも躊躇わずに手を出すに違いないと踏んだのだろう。正解である。 しかし、懐も心も痛んだよ。 なんて、無粋な前書きなど、バシュラールの生粋の読み手なら、間違っても 書かないだろう。小生も、もう少し若ければ、いきなり中身に入ってなけなし の薀蓄などを傾けたものだろうと思う。生活感(苦)など書物の世界、思想の 世界、詩的夢想の世界に漂わせてはならない。もっと、高尚な世界なのだ…。 そう、小生も学生時代からン十年が経過した。若い頃にどんな思いでバシュ ラールに接したのか、記憶の彼方のさらに彼方である。詩というものを生活か ら離れた、美しい、この世的ではないのもと、勝手に決め付けていたように思 う。生活が貧しく不純物に満ちている、ならば、せめて現実離れした世界で心 を遊ばせてみたいと思ったのか、どうか。 ネットでバシュラールの思想なり書物なりを論じたサイトがないかと探して みたが、適当なものが見つからなかった(誰か知っている人がいたら、教えて 欲しい)。参考のため、下記のサイトだけは挙げておきたい: http://www.kyushu-id.ac.jp/~kurihara/bibliographie/bache/bache-index.shtml その年譜を見ると、兵役を間に挟んで郵便電報局として若い頃、働いていた のが目に付く。その職員だった間に数学学士号取得したというから、変わった 経歴の持ち主ということになるのか: http://www.kyushu-id.ac.jp/~kurihara/bibliographie/bache/bio.shtml バシュラールの思想を要約しても(そもそも祖述することが可能なのかどう か分からない)意味が余りないような気がする。むしろ、彼の文章を息を潜め、 心を潜めて読み浸っていくのがいい。イメージを物質の究極と捉える彼の考え 方、従ってイメージは現象学的態度でイメージそのままに捉えるしかないと考 える彼の姿勢は、まさに文章そのものに如実に現れている。幾つかの文章を引 用しようと思ったが、あまりに引用したい個所が多くなって、付箋をするのを やめてしまった。 バシュラールには何か、形そのままに残したい守りたい至福の時空間=真理 があるように感じられる。その至福の次元を実現させるものは詩に他ならない と彼は考えている。 その詩とは、単なるイメージ(我々が思う、ただのイメージに過ぎないとい う時のイメージ)ではなく、物質としての詩的イメージの世界なのだ。バシュ ラールの言葉を借りれば、詩的想像力、さらには物質的想像力によって実現さ れる現実の時空なのである。 そう、バシュラールは、詩的空間を単なる言葉の上の蜃気楼とは思っていな い。机や椅子や家や木々や石や焔と同じく、極めて人間的な想像空間に現出し た物質の一つの様相なのである。 言葉は単に言葉に終わるものではないのだ。人間にとって言葉はナイフが心 臓を抉りえるように、心を抉りえる可能性に満ちた手段であり、まさに武器で あり、こころの現実に実際に存在する物質なのである。 しかし、その物質は、手に触れないで遠くから見守る限りはそこに厳然とし てある。にもかかわらず言葉で、その浮遊する時空間から抽出しようとすると、 本来持っている命も形さえも崩れ去り失われてしまう。 詩の言葉は、誤解されやすい。イメージの空間で漂うだけの、非現実のもの だと見なされやすいのである。言葉の創出する蜃気楼空間に須臾(しゅゆ)在 る蜻蛉(かげろう)に過ぎないと、見なされやすいのである。 小生は学生時代からン十年を経て、少しは社会経験も積んだし、それなりの 生活苦もある。そんな小生が今になって改めて詩を見直している。サイトを巡 って、詩人さんの部屋を覗いたりしている。それは何故だろうか。 小生にバシュラールに事寄せるほどの才能はないが、今、自分が何を求めて いるかというと、ある種の生の現実のようなものだ。一昔前に流行った(今で は相手にされていない?)生(き)の芸術(アールブリュット)が小生は芸術 として、というより一個の世界として好きである。既に何度も紹介したが、展 覧会で過去一番感銘を受けたのも、世田谷美術館で開催された「パラレル・ヴ ィジョン」展だった: http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/parallel_visions.html アールブリュットの作家として有名なのは、J・デュビュッフェなどがいるが、 小生は上掲の展覧会で、心の一番生(なま)な姿が現れているような気がした のである。そこに示されている世界は、多くは凡俗なる小生には歪んだ異常な 世界のように映ってしまうが、しかし、にもかかわらず、魂がそこには確かに あった。呻き、もがき、曲がりくねり…、そう、決して直線的には魂が現れて はいないのだが、しかし、魂が訴えかけていることだけは断言できる。 彼らの魂は、大地の下にあって顔を覗かせようとしている。しかし、運悪く、 やっと日の目を見ようとしたら大地には岩が彼らの芽吹きを阻んでいたのであ る。それでも魂は諦めない。必死な思いで岩の下を這い、岩に亀裂を生じさせ、 なんとか日の光を浴びようとしているのだ。 小生が生の芸術と呼ぶのは、そうした切実な魂の叫びなのである。その表現 なのだ。表現の形が少々歪んでいたって構いはしないのだ。 その何とか顔に、魂の上に圧し掛かる岩を跳ね除けようとする試みのエネル ギーが物質的想像力と小生は勝手に思っている。魂は心有るものには、間違い なく現実にあるものと映る。木や石や机のように、人間にとって魂は、心は現 実にある。物質(と称されるもの)以上に切なく、しみじみと(目にはさやか に見えねども)そこに厳然としてあるものなのだ。 そうした時空間は、ひたすらに心を密やかにひめやかに息を潜めて見つめな いと見えないし、まして実現するのは難しい。バシュラールも強調しているよ うに、いわゆる科学的方法では、いかにしても見出せないし検証も不可能な世 界でもあるのだ。 ちょっとバシュラールから離れてしまったけれど、バシュラールが家や貝殻 や巣や片隅を偏愛するのも、あるいは小宇宙の中に潜む大宇宙を強調するのも、 誰もが見過ごしがちな、誰もが忘れがちな時空間は、実はそこにある、かって あったし、けれど今はないものではなく、現に今もそこにあることを、ありつ つあることを誰よりも知っているからに違いない。 今、中年の域をも終えようとしている小生は、今、改めてバシュラールの世 界を想い、小宇宙の世界の中の大宇宙を想うのだ。 02/12/09 22:02 |