ウエルベック著『素粒子』/ミラン・クンデラ『生は彼方に』

(04/11/07 up)



1.ウエルベック著『素粒子』と文学の命  

2.ミラン・クンデラ『生は彼方に』を巡って  




1.ウエルベック著『素粒子』と文学の命






 ミシェル・ウエルベック著『素粒子』(野崎 歓訳、筑摩書房刊)を読了した。 フランスでベストセラーになり、様々なスキャンダラスな物議を醸し出したという 本書は、既に読まれた方も多いだろう。
 文学に疎い小生は、昨年末、近所の図書館で年末年始の休暇中に読む本を物色し ていて、本書を見つけた。全くの未知の本だった。その前にG・ガルシア=マルケ スの『百年の孤独』を手にしていたのだが、他に何かずっしり来る本はないかと探 していて、単にタイトルに魅せられて、ちょっと手を伸ばしてみただけのつもりだ った。書評などで採り上げられていたのかどうかも、まるで知らなかった次第なの である。
 パラパラと捲ると、文章に力がある。これは読んでもいいというサインだ。
 でも、結局、年末年始はガルシア=マルケスに軍配が上がった。8年前に読んだ 感動を今一度、味わいたいという欲求が勝ってしまって、本書を読むのが今頃にな ってしまったのである。
 さて、今更、「素粒子」というのも、古臭いような気がする。原子が核とその周 りに電子が巡っているという描像がやや崩れかけてきた頃だった、数十年の昔なら、 文系の、でも科学好きな人間にもイメージ的にインパクトがないわけではなかった ろうが。
 でも、それでも、まだ、文学の世界にしっかり素粒子的イメージが浸透しきって いるわけではない。尤も、文学には元々無縁な概念なのかもしれない。だから、真 空の世界を微細な粒子がそれぞれ孤独に舞い漂うというイメージは、別に素粒子と いうことじゃなくて、もっと他の感覚的な表現で表されていたのだろう。

 さて、本書は、異父兄弟のそれぞれの生を通して、20世紀も最後の数十年のフ ランス、特にエリート知識人らの生態を描いている。若くして文学的感覚に傾倒し ていく兄と、科学的センス、分析的センスに溢れ天才的な生物学者として怜悧な生 を送る弟の生を描き分けることで、恐らくは書き手の人生を相当色濃く反映してい る小説を、複層的で奥行きのあるものにしている。
 兄は、徹底して感覚的享楽や快感を求める。ドラッグもそうだが、何と言っても 肉体的快感の成就を追い求めるのだ。追うというより、駆り立てられていると言っ たほうがいいのかもしれない。けれど、彼は自分のセックスに自信がないというコ ンプレックスを抱えている。決して、無邪気で無自覚な享楽家ではないのだ。だか らこそ、彼に関わりある男も女も陰影を持って見えてくるわけだし、入り組んだ、 古臭い言葉を使えば倒錯した性的パラダイスを追い求めるしかなくなっていくので ある。
 彼も愛する人がいる。が、その相手も決して満たされることのない、叶うことの ない肉欲の虜なのだ。彼、兄は、やがて心に変調を来たしてしまう。
 一方、弟は物心付いた時から、数学を含め科学的分析能力に優れた人物として描 かれている。現に示している才能と、将来を嘱望されて遺伝子の分野に携わる生物 科学研究者としてエリートコースを歩いていく。
 彼は、その尖がりすぎた才能の故に、現に彼の目の前にいる最愛の人の現実の姿 が見えない。深く、科学的研究の蛸壺的世界に浸りきってしまっているのだ。
 そこにいるのに彼に愛されず、擦れ違っていくあまりにも美人である彼女は、決 してこの世に目を向けない彼への不毛の愛の故に彷徨を繰り返し、何度かの堕胎の 挙句、絶望的な病を得てしまう。
 丁度、その頃になって弟と彼女は再会する。彼女は弟の子供を求める。弟も戸惑 いながらも承知する。
 けれど、彼女は既に子供を産めない体になっていたのだった。恐らくはそのこと を彼女自身が恐る恐る自覚していたに違いない。にもかかわらず彼女はもしからし たらという絶望的な渇望の成就を希ったのだ。束の間のパラダイス。
 彼女は妊娠して夢が叶ったかのようだった。その時、死の病はその姿を剥き出し にして彼女を襲うのである。

 ところで、本書が物議を呼んでいるのは、文中に実名や実在の団体などが登場し ていたり、優生思想や人種差別ともなりかねない部分があるからだが、それ以上に、 小説の末尾が毀誉褒貶の対象になっているからだ。詳しくは書かないが、生物学者 である弟は、愛する女を失ってから、ある研究所で革命的な研究を達成する。それ は、もしかしたら人類にパラダイスを約束するかもしれない研究成果だという。2 1世紀の初頭になって(原著は98年発表)遺伝子工学を駆使して、ほとんど独力 で古い人間に代わる新しい人類を作り出したのだ。
 彼はエゴイズムや残酷さやに縛られない旧人類が「神」と呼んでいたであろう存 在を作り上げたのである。そうして彼は行方知れずとなってしまう。作者は、弟が 「海に身を投じたに違いない」としている。
 率直に言って、結末はガッカリである。ここには逃げがある。そうでなければ、 作者の科学への過度の信頼がある。過度でないとすると、少なくとも根拠のない信 頼というべきか。文学的センスに溢れる兄が精神に異常を来たし、弟は最後には曖 昧な消え方をするものの、一定の「成果」を土産にしていることに、作者の明確な メッセージがあるわけだ。科学者である作者の限界というべきか。
 そもそも、20世紀の末になり、今世紀になって、我々は科学への必要性は従来 以上に感じている。恐らくは病の克服や、貧困問題の解決も科学なくしてはありえ ないのだろう。
 けれど、それでも、もう、それこそ根拠のない確信に過ぎないのだが、科学が人 間の心の病や精神的渇望には、何ら寄与しないだろうという絶望的直感が骨身に浸 透している。我々は、もう、それほど科学にナイーブではないのである。
 それでも、エピローグの叙述への不満にも関わらず、本書は、久々にフランス文 学に、ロゴスの戯れに終始しない文学が登場したことを小生に確信させてくれた。 文学は問題を解決はしないかもしれない。が、現実から目を背けず、むしろ立ち向 かい表現し尽くすことはできる。その覚悟と勇気こそが文学の命なのだから。

   最後に本書の書評を二つばかり示しておこう:
 http://www5.hokkaido-np.co.jp/books/20011021/2.html
 http://www.yomiuri.co.jp/bookstand/syohyou/20011015ii07.htm
[ 近刊に、 『プラットフォーム』(中村 佳子訳、角川書店刊)がある。(04/11/07 記)]

02/01/15 記




2.ミラン・クンデラ『生は彼方に』を巡って





 今日、ミラン・クンデラ著『生は彼方に』(西永良成訳、ハヤカワepi文庫刊) を読んだ。ずっと前に読んだような気がするのだが、『存在の耐えられない軽さ』 や『不滅』、『小説の精神』などを読んできた小生として、このたび、文庫版が出 るに当たって、再度、訳を徹底して改めたということもあり、読み直してみたので ある。
 ちなみに原書自体、91年に著者が手を加え「決定版」を出したという。その訳 を95年に西永氏が出されたのだが、それをこの度、見直したという経緯があるの だ。
 本書の構成については訳者である西永氏自身が解説をされているので、それに当 たるのが至当だろう。
 さて、この小説は、もう一つの『若い芸術家の肖像』(ジョイス)ともいうべき 作品である。但し、大急ぎで付け加えておかなければならないのは、この作品にお いて、若き日に詩人たることを目指し、一定の成功を収めた自分への訣別の書、自 己剔抉(てっけつ)の書なのだということだ。
 彼、クンデラは、若き日の詩への傾倒を根本的に誤ったものとして、本書のなか でも徹底して否定しようとしているのである。主人公である若き詩人ヤロミールの 描き方はシニスムに満ちている。
 それは、クンデラの若き頃の「抒情の時代」への告発でもある。つまり詩人が抒 情的世界に陶酔していること、それが即ち、共産主義下での恐怖政治と何ら背馳す ることなく共存していただけではなく、むしろ、その抒情という蓑、叙情世界とい うぬるま湯的世界への惑溺が、恐怖政治への明晰な分析や告発をめくらませ、さら には盲目的陶酔を誘発する結果となった苦い過去への痛切な悔恨に満ちた反省が、 クンデラを詩人たる自己を否定させているのである。
 彼、クンデラは、『不滅』で小説家として成功を収めたが、本書で、過去の自分 を徹底して抉り出してみせることを試みた。そして、それは小説という形でなけれ ばならないのだった。
 では、彼にとって小説とは何か。あるいは小説家とは、どうあることなのか。
 本書の解説で訳者自身が引用している一文を更に抜粋して引用しよう。
「私にとって<恐怖政治>の抒情化は、<恐怖政治>そのものよりずっと心的な外 傷(トラウマ)になった。(略)私にとって小説家であることは、他のジャンルの なかの一つのジャンル、<文学ジャンル>を実践する以上のことになったのである。 それは一つの態度、一つの知恵、一つの立場だった。一つの政治、イデオロギー、 道徳、集団へのどんな同化も排除する立場。逃避もしくは受身としてではなく、抵 抗、挑戦、反抗として理解される自覚的で、執拗な、錨にも似た非=同化」
 この点を『小説の精神』の中のインタビューでは次のように言っている。
「私にとって抒情詩の精神と小説の精神は世界を見、理解する異なった、対立する 二つの仕方であり、私自身の生における対立する二つの段階です。……スターリン 主義の絶頂期にあって叙情的態度がこのほか高揚される時代に青春を過ごした私は、 そこに抒情とテロルとが不分明なかたちで馴れあっているのを見た」
 つまり、彼にとって「小説とは、想像上の人物を通して眺められた実存について の考察」なのであり、小説の精神とは、「大人の世界、いいかえれば真実、感情、 人間の能力などの<相対性>が支配する世界でこそはじめて自己の展望を見出す」 精神なのである。
 さて、彼自身のそうした意図にも関わらず、小生は本書の中での過度なまでの青 春の告発に、文学というものの持つ皮肉を見た気がする。
 というのは、作家であるクンデラがアイロニーに満ち、相対化を意図すればする ほどに、本書の中で描かれる主人公の青春が、輝いて見えるのだ。
 そもそも青春というものは、<大人>になったものから見たら、感受性の鈍いも の、渦中の苦しさと暗さを安易に忘れ去ったものには、懐かしさの念で眺めやれる ものかもしれないが、多少でも繊細の精神を持つものは、むしろ、煮え滾る鍋の中 に自分がいたようで、愚直と過誤と諍いと暗中模索と背伸びばかりが目に付く、直 視するには太陽を裸眼で見るにも似て、眩しすぎる世界なのだと思うのだ。
 きっと、クンデラにしても、青春は誰よりも暗く過誤に満ちたものだったに違い ないのだ。その滾る熱さを誰よりも忘れないのが作家であり詩人なのかもしれない。 そういう意味で、クンデラがどう否定的に抒情の精神の担い手たる若き日の自分を 否定しようと、本書は、希に見る青春の書に変わりはないのである。
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02/01/28 記