蝋燭の焔、それとも読書/蝋燭の焔に浮かぶもの

(04/08/26 up)




1.蝋燭の焔、それとも読書  

2.蝋燭の焔に浮かぶもの(前編)  


3.蝋燭の焔に浮かぶもの(後篇)  




1.蝋燭の焔、それとも読書






 もう、何十年も前に読んだ本の一節を思い出すことがある。といって、その 文面を正確に思い出せるわけではない。むしろ、読みながら次第に浸っていっ た不思議な酩酊感が忘れられずに、何かの折に思い浮かんでくるということな のだろう。
 蝋燭という言葉だけなら、連想することは様々なものがありえる。焔という 言葉についても、それぞれに思うことがあるに違いない。
 けれど、両者が組み合わさって蝋燭の焔となると、これはもう、 ガストン・ バシュラール(Gaston Bachelard / 1884-1962)の名著を思い起こさずには 居られない。そう、渋沢孝輔訳、現代思潮社(但し、今は現代思潮新社に変わ っているようだ)刊の『蝋燭の焔』である。
 悲しいかな、本書は既に手元を離れて久しい。学生の頃に読んで感銘を受け たものの、味読するまでには至らなかったような気がする。バシュラールには、 他に、『火の精神分析』、『夢想の詩学』、『水と夢』とタイトルだけでも魅 力的な著作があるのに、読んだ記憶があるのは『水と夢』だけだったはずだ。
 当時は未だ、高校時代に副校長の大学時代の同期ということで来校し講演さ れた西谷啓治氏のターレスの水の哲学を巡っての話に受けた感銘の印象が強か った頃だ。それだけに、ターレスや古代ギリシャ哲学、とりわけ水に拘ってい て、バシュラールの本というより、水にちなむからということで、『水と夢』 を読み齧ったように記憶する。
 けれど、頭の片隅にバシュラールの名前は残っていても、彼の本を読むこと はついぞなかった。ほとんど四半世紀も。
 それが何故か数年前から、バシュラールの世界が慕わしくなってきた。彼の 本をどうしても読んでみたくなった。そして、やっと一昨年だったか、『空間 の詩学』(岩村行雄訳、ちくま学芸文庫刊)を読む機会を作ることができた。
 素晴らしかった。そのときに得た静かな感動については、既に書いてあるの で、ここでは省く。ただ、その時は、あまりに受けた感銘が強く、書評的なエ ッセイを書くだけではあきたらず、「蝋燭の焔」という言葉をキーワードとし て取り込んだ掌編までも書いたことは付記しておきたい。
 その後も、エッセイなどを書く時に、折々に文章の脈絡にそぐわないのも構 わず、「蝋燭の焔」という言葉を織り込んだものである。

 さて、『蝋燭の焔』である。手元にないので、その文面に目を向けることが できない。そこで、ほんの一部でも読めないかと、ネットで検索したら、例え ば、下記が見出された。

「私は勉強する。私は勉強するという動詞の主語にすぎない。」
( http://members.at.infoseek.co.jp/handmark/meigen.html より)

 これだけではあまりなので、他にも当ってみたが、見つからない。
 ただ、下記のサイトで、バシュラールの本からの引用がある。何処からかは 出典箇所が明記されていないので、断言はできないが、以下の引用文は、恐ら くは『蝋燭の焔』からだろうと思われる:
( http://meisou.com/kenzin9-2.html より)

「焔をじっと見詰めることは原初の夢想を永続させる。そういう行為は 私たち人間をこの世界から引き離し、夢想家、つまり詩人の世界を何処 までも拡大していく。それだけでも、焔は広く広がる現実の世界であり、 しかも、焔の傍に居るなら、人間と言うものは、余りにも存在が遠く離 れ、余りにも遠くの方を夢見るようになる。自分を失うと言う人間の態 度は、この人間が、往々にして夢を見る行動の内にある。焔は、自分の 存在を守り通すために、ある種の戦いを挑み、細々とひ弱なものとして そこに存在する。一方に於いては、夢追い人としての人間は、あらぬ方 向へと夢を誘っていくので、自分の存在を何時しか失い、余りにも大き く、余りにも広い夢の中に存在することになる。……世界に関して何処 までも夢を追いつづける。」
 さらに、
「焔はただ、どの人間にとっても間違いなく一つの世界である。」

 もう、これらの文章を読むだけで十分である。何が十分なのか、自分でも説 明はできないのだが、我が思いをこの文章に寄せても、蛇足としか言えないだ ろう。
 ところで、読書とか蝋燭の焔という言葉に拘るのも、マルセル・プルースト の『プルースト評論選 U』(保苅瑞穂・編、ちくま文庫)の中にある「読書 について」を読んで、数年振りにプルーストの世界に浸り、それこそ読書の愉 しみにたまらない興奮を覚えているからである。
 フランス文学者の清水徹氏によると、「プルーストは、同じ二十世紀フラン スのアンドレ・ジッドやポール・ヴァレリー、イギリスのT・S・エリオット と並んで第一級の批評作品を書いた」のであり、この「読書について」は、 「ヴァレリー・ラルボーの『罰せられざる悪徳・読書』(みすず書房から出て いる)とならんで、もっともすばらしい読書論の一つであるばかりか、プルー スト自身によって書かれた最良の『失われた時を求めて』入門とも読める作品 なのである」という:
 http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2003/0202/01.html
 もう、ここまで来ると、読書とは他人の頭を借りた思考だなどという野暮な 揶揄など吹き飛んでしまう。ひたすらに書物の世界に没入していけばいいので ある。
 読書というのは、薄闇の中に灯る蝋燭の焔という命の揺らめきをじっと息を 殺して眺め入るようなものだ。読み浸って、思わず知らず興奮し、息を弾ませ た挙げ句、蝋燭の焔を吹き消してはならないのだろう。
 そう、じっと、焔の燃える様を眺め、蝋燭の燃え尽きていくのを看取る。
 それは、まるで自分の命が静謐なる闇の中で密やかに滾っているようでもあ る。熱く静かに、静かに熱く、命は燃え、息が弾む。メビウスの輪のある面に 沿って指をそっと滑らせていく、付かず離れずに。
 すると、いつしかまるで違う世界にいる自分に気が付く。見慣れないはずの、 初めての世界。なのに慕わしく懐かしい世界。読書という沈黙の営みを通じて、 人は自分の世界を広げ深めていくのだろう。何も殊更に声を上げる必要などな いのだ。
 気が付けば蝋燭の火も落ちている。命を燃やし尽くして、無様な姿を晒して いる。けれど、冷たい闇の海の底にあって、己の涸れた心に真珠にも似た小さ な命が生まれていることに気付く。蝋燭の焔の生まれ変わり? 
 そんなことはどうでもいい。大切なのは、読書とは、何時か何処かで生まれ た魂の命の焔を静かに何処の誰とも知らない何者かに譲り渡していく営みだと いうことに気付くことだ。読むとは、自分がその絆そのものであることの証明 なのではなかろうか。


04/02/11 記





2.蝋燭の焔に浮かぶもの(前編)






 仕事柄、休憩のため公園の脇に車を止めることが多い。昼間は雨の日はとも かく快晴だったりすると日差しを遮る場所をと思うのだけど、なかなか思い通 りにはいかない。だから、新聞などを頭から被って、休憩というより仮眠の態 勢に入ってしまう。
 前日の夜、ついつい夜更かししてしまうので、実際、大概は寝入ってしまう のである。
 さて、休憩が夜ともなると、運転席側の車内灯を灯して、お八つを食したり、 ラジオから流れる音楽に聴き入ったりする。車内灯の明るさは、読書には覚束 ないもので、夜の休憩の際には街灯の光を借りて、その両方の恩恵で以って読 書したり新聞を読んだりする。が、終いに面倒になり、水銀灯から離れ、多く はボンヤリ窓の外の夜景を眺めるようになってしまうのである。
 見晴らしがいい場所だと、夜空などを仰いで星や月の影を追ってみたりする。 日中の仕事は、昼前から始まって夕方で終わり。夕方から明け方と、仕事の大 半は夜である。だから、天を仰ぐのが習い性みたいになっているのである。
 車内灯というのは、豆電球である。橙色の弱々しい光が半透明のプラスチッ クのカバー越しに車内を照らし出す。新品のうちは、それでも結構、明るかっ たりするが、何故か新品を感じさせる期間は短くて、すぐにショボショボした ような情ない光に変わってしまい、照明というより、容器に溜まっているオレ ンジ色の光が、我慢がならず、つい滲み出てきたような、なんとも張り合いの ない有り様なのである。
 そんな、優しいというより、老い衰えた光に包まれつつ、夜の風景を見ると もなしに眺めていると、まるで自然な連想のように蝋燭の焔に照らし出された 世界に没入していくのである。
 但し、車内灯と似て非なる光の源である蝋燭の焔としてである。豆電球の灯 りも嫌いではない。ただ、時間が経過すると劣化するのか、光さえもが衰滅し ていく。光源が最初は直視もままならなかったのが、いつしか線香花火の末期 の悪足掻き、それとも白鳥の歌と美化して表現してやったほうがいいのか、惨 めなほどに小さく且つ弱い光の玉がそこにあることが知れるようになる。
 その点、蝋燭の焔はまるで違う。最後の最後に形が崩れ去って芯が蝋に埋ま ってしまうまで同じような光を放ち続けるのだ。電球の光も不思議だが、蝋燭 の焔の恵んでくれる光も不思議だ。何が不思議といって、別にメカニズムがど うこうということではない。そんなことは大方は説明し尽くされているのだろ う。
 蝋燭の燃え方というのは、当たり前のように見えて、不思議である。蝋燭に は芯があるが、それはどうやら和紙のようである。「竹の串に和紙を巻き、次 に燈芯、その上に真綿を巻いたものを使用」するのだとか。その製造過程は、 ネットでも見ることができるが、なかなかに複雑である。一人前の和蝋燭の職 人になるには、早くて10年は掛かるとか:
 http://www.kohgen.com/rousoku.htm
 http://www.akarikan.co.jp/shopping/wa.html
 不思議なのは、溶けた蝋が筒状の蝋の脇に垂れることはあっても、ちゃんと 最後まで筒の形を残したまま燃えつづけ溶けつづける点だ。よほど、うまく塩 梅されているのだろう。こうした和蝋燭は、素材からして西洋のキャンドルと は違う。当然、燃え方、したがって燃える雰囲気が違うのである。
「ろうそく」についての本というと、前に紹介したガストン・バシュラールの 『蝋燭の焔』(渋沢孝輔訳、現代思潮新社)も有名だが、もっと一般的には、 イギリスの科学者マイケル・ファラデー(Michael Faraday, 1791-1867)の 『ロウソクの科学』(岩波文庫)が親しまれている。
 尤も、最近は読まれているのかどうか:
 http://ibuki.ha.shotoku.ac.jp/school/science/physics/phys51.html
 このサイトによると、電磁誘導の発見など数々の業績のあるファラデーだが、 「ナイトの叙勲、王立協会会長職も辞退し、毒ガス製造の仕事もきっぱり断っ ている」とか。
 参考のために『ロウソクの科学』全文を読めるサイトを示しておく:
 http://www.genpaku.org/candle01/candlej.txt
 もっと簡単に日本のロウソクの歴史(や科学)を知りたい方には:
 http://www2.odn.ne.jp/~cbn18540/sub1.htm
 西洋では、下記のサイトによると、「紀元前3世紀のイタリア、オルビエト ーのゴリニ墳墓の壁画に現在の形に近い蝋燭を利用する様が描かれて」いると か:
 http://www.seiro.co.jp/w_museum/2/candle.htm
「ミツバチの巣が原料の「蜜ローソク」は、紀元前に使われた最も原始的なロ ーソクといわれてい」るとか。上記の壁画の蝋燭も材料は蜜の蝋燭だったのだ ろうか。
「日本でのローソクの始まりも蜜ローソクでした。奈良時代の仏教伝来ととも に中国から輸入され使われていた」のだとか:
 http://www.mitsurou.com/wax.html


04/02/18 記




 

3.蝋燭の焔に浮かぶもの(後篇)






「闇の海には無数の孤独なる泳ぎ手が漂っている。誰もがきっと手探りでいる。 誰もが絶えず消えてしまいそうになる細く短い白い帯を生じさせている。否、 須臾に消えることを知っているからこそ、ジタバタさせることをやめない。や めないことでそれぞれが互いに闇夜の一灯であろうとする。無限に変幻する無 数の蝋燭 の焔の中から自分に合う形と色と匂いのする焔を追い求める。あるい は望ましいと思う焔の形を演出しようとする。」
 以前、他の場所に書いた一文からの抜粋である。
 実は、この文章を糸口として、瞑想の中に蝋燭の焔を思い浮かべ、仄浮かぶイ メージを追い求め描いてみたいと思っていた。
 ところが、瞑想をもっと脚色して強い印象を狙って、ある盲目の画家を思い浮 かべ、それを更に女性の画家に置き換えて綴っているうちに、エッセイの領分を 踏み外してしまった、ある日常の中に出来する出来事や現象(内面も含めて)に 即して、付かず離れずに描いているのではなく、幾分なりとも過剰な、架空の領 分に踏み込んでしまっていることに気付いてしまったのである。
 そして、虚構作品『蝋燭の命』に仕立ててしまった。
 ここでは、なんとかあるがままの次元に何とか踏み止まって、蝋燭の焔に浮か ぶものを追い求めてみたい。
 さて、以前、ジャック・デリダ著の『盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟』 (鵜飼 哲訳、みすず書房刊)から、本書の紹介文として、下記の引用をしたこと がある:

「絵画という視覚芸術に盲者を描き込むという行為はきわめて特異な他者経験である。あらゆる他者経験と同じく、だが独特な形で、そこにはある還元不可能な暴力が含まれている。なぜなら、盲者は描かれたおのれの姿をけっして見ることができず、まったく無防備のまま他者の視線に引渡されるからである。ここには一見どんな対称性もありえず、盲者は絶対的な受動性に固定されているようにみえる。だが、このような暴力を行使しつつ、西洋の多くの画家たちが、とりわけ素描画家が、これほど多くの盲者の姿を描いてきたのはなぜなのか?」 

 蝋燭の焔は真っ暗闇の中で何を浮かび上がらせるのだろうか。そもそも闇の中 でポツンと立つ蝋燭が何かを照らし出したとして、それが何か意味を持つのだろ うか。誰もいない森の中で朽ち果てた木の倒れる音というイメージと同じく、誰 も見ていない闇夜の地蔵堂に立てられた蝋燭の焔の影も、ある種、夢幻な世界を 映し出していると、ほとんど意味もないレトリックを弄して糊塗し去るしかない のか。
 真夜中の病室。隣り合う人たちも、ようやく眠りに就いている。看護の人も先 ほど見て回って行ったばかりである。そんな中にあって、夜の深みに直面して、 何を思うだろうか。過ぎ越した遠い昔のこと、それともあるかないか分からない 行末のこと、もしかしたら信じている振りを装ってきた来世のこと。消え行く魂 の象徴としての、吹きもしない風に揺れる小さな焔なのかもしれない。
 焔とは魂の象徴。だとして、それは一体、誰の魂なのか。自分の魂! と叫ん でみたいような気がする。不安に慄き、眩暈のするような孤独に打ちのめされ、 誰一人をも抱きえず、誰にも抱かれない幼児(おさなご)の自分の魂なのだ!  と誰彼なく叫びまわりたい気がする。許されるなら、体の自由が利くのなら、今 すぐにもベッドから飛び出して、非常灯からの緑色や橙色の薄明かりに沈む長い 長い廊下を駆けて行きたいと思ったりもする。
 できはしないのに。そんなことができるくらいだったら、とっくの昔にやって いることなのだ。胸の内の情熱の焔(ほむら)は誰にも負けないほどに燃え盛っ ている。なのに、誰に気遣い彼に気兼ねし、気がついたら焔は燻ったままに、肉 体の闇からあの世の闇へと流されていく。水子のように。
 一体、何のための人生かと思い惑う。ヘーゲルが言うように、「ミネルヴァの 梟は、黄昏がやってきてはじめて飛び立つ」なのか。賢人でさえ、かのように言 うのだ。凡愚の徒なら、末期の闇を見詰めるこの期に及んでやっと哲学する重さ を感じるのも無理はないのだろう。
 何があるのか。何がないのか。何かがあるとかないとかなどという問い掛けそ のものが病的なのか。
 闇の中、懸命に蝋燭の焔を思い浮かべる。そう、魂に命を帯びさせるように。 それとも、誰のものでもない、命のそこはかとない揺らめきを、せめて自分だけ は見詰めてやりたい、看取ってやりたいという切なる願いだけが確かな思いなの だろうか。
 きっと、魂を見詰め、見守る意志にこそ己の存在の自覚がありえるのかもしれ ない。風に揺れ、吹きかける息に身を捩り、心の闇の世界の数えるほどの光の微 粒子を掻き集める。けれど、手にしたはずの光の粒は、握る手の平から零れ落ち、 銀河宇宙の五線譜の水晶のオタマジャクシになって、輝いてくれる。星の煌きは 溢れる涙の海に浮かぶ熱い切望の念。
 蝋燭の焔もいつしか燃え尽きる。漆黒の闇に還る。僅かなばかりの名残の微熱 も、闇の宇宙に拡散していく。それでも、きっと尽き果てた命の焔の余波は、望 むと望まざるとに関わらず、姿を変えてでも生き続けるのだろう。一度、この世 に生まれたものは決して消え去ることがない。あったものは、燃え尽きても、掻 き消されても、踏み躙られても、押し潰されても、粉微塵に引き千切られても、 輪廻し続ける。
 輪廻とは、光の粒子自身には時間がないように、この世自身にも実は時間のな いことの何よりの証明なのではなかろうか。だからこそ、来世では誰も彼もが再 会すると信じられてきたのだろう。


04/02/20 記