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相変わらず永井散人の『断腸亭日乗』を読みつづけている。3月の末からだから既に 二ヶ月を超えてしまっている。 別に永井荷風全集の中の『断腸亭日乗』を読んでいるわけではない。故磯田光一氏編 による岩波文庫版(上・下)と付き合っているだけなのだ。元の文の約6分の1に纏め られている。 上巻の解説をしている竹盛天雄氏によれば、編集作業は全て終わっていて、解説も磯 田光一氏によってなされるはずだったという。が、その機会は永遠に失われてしまった わけである。 死の前日まで文章の練習も兼ねて書き付けられていた「日記」だから、小生は時間を かけてゆっくりと読んでいるのだ。若干、読むのが遅いことの言い訳もなくはないけれ ど。 ようやく全体の4分の3くらいのところまで読み進んでいる。いよいよ東京の空襲も 現実味を帯びて来だした頃である。 こうしてじっくり彼の日記と付き合ってみると、必ずしも本筋とは関係ないかもしれ ないが、いろいろ関心を引かれる記述に出会う。 戦況が逼迫する中、一人暮らしの彼は台所で米の煮えるのを待ちながら、仏蘭西語訳 の聖書を読み始めている。別に聖書を信じられるとは彼は思っていない。ただ、「され ど去年来余は軍人政府の圧迫いよいよ甚だしくなるにつけ、精神上の苦悩に堪えず、遂 に何らか慰安の道を求めざるべからざるに至りしなり」というわけである。 「疎開」という言葉がある。戦禍を逃れて、住まいを払って何処か伝(つて)を求めて 田舎へ引っ越していく云々という状況を考えてしまう。それについては永井散人は次の ように述べている。 "疎開トイウ新語流行ス。民家取払ノコトナリ" つまり軍の勝手と横暴で、ある日、民家や工場などが突然没収されたり、二束三文で 買収されたりする。住まいを奪われた民衆は行く当てもなく彷徨うことになる。そうし た民衆の姿を目の当たりにしての皮肉を篭めた怒りの言明である。 やや毛色の変わった記述もある。昔、世話をし待合茶屋を出させた歌という女がある 日、彼を訪ねてくる。その女の口から「安部さだという女」の名が出てくるのである。 その歌という芸妓と「安部さだ」は、「心やすくなり今もつて往来(ゆきき)する由」 という。その「さだ」は「現在は谷中初音町のアパートに年下の男と同棲せりといふ」 のだが、さて、この「安部さだ」が、かの「安部定」なのかは小生は確認していない。 また、こんな記述もある。 "門外に遊ぶ子供のはなしをきくに今日より時計の時間変りて軍隊風になる由。午後の 一時を十三時に二時を十四時などと呼ぶなりといふ" なるほど、午後の二時より十四時のほうが合理的ではある。子供たちが学校でそうい う教育を先生から受けている光景が彷彿として浮かんでしまう。 今は君が代の斉唱や国旗の掲揚が教育現場では強制されている。小生など、何処か似 ている気がしてならないのである。 とにもかくにも永井散人の「日記」を読んでいると、細部の記述に引っかかることが 多くて、なかなか前には進めないのだ。これも遅読のいい訳かもしれないけれど。 01/06/04 荷風散人『断腸亭日乗』雑感(続)荷風の「日記」を読みつづけている。とうとう、昭和16年12月8日戦争に突入で ある。日米戦争の号外がその日、出ている。もっとも、15年戦争とも言われるように 日本はずっと戦闘状態にあったわけで戦争には慣れていたのかもしれない。 しかし、アメリカと戦うことは従来とはわけが違うようで、翌、12月9日の日記に よると、 "くもりて午後より雨。開戦の号外が出でてより近隣物静になり来訪者もなければ半 日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声瀟々(しょうしょう)たり" 12月10日の日記では、 "晴。後に陰(くもり)。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり" と、いずれも世の中の戸惑いが透けて見えるようだ。 太平洋戦争中の数々の苦難は敢えて記さない。とにもかくにも荷風散人は生き延びる のだから。 が、とうとう1945年の3月9日、東京大空襲で彼の住まいも戦禍に塗れる。偏奇 館と自称する麻布にあったわび住まいが焼亡するのである。 荷風散人は明治35年5月に麹町区から余丁町へ引越し、大正5年、彼が35歳の時 、余丁町の邸内に一室を新築し、それを断腸亭と称します。 しかし日記にもあるように体調が悪く、医者に掛かる便宜を考え新橋演舞場近くの木 挽町(きびきちょう)に借家住まいとなります。その頃から『断腸亭日乗』が書かれ始 めている。 その後、築地本願寺近くの築地に引っ越した後、大正9年に麻布区市兵衛町に引っ越す のです。そこを彼は事務所のようだと思ったりしますが、偏奇館と称するのです。 ( http://www.ne.jp/asahi/kanda/mk/nagaikafu1-2.htm 左記を参照) 爾来、荷風散人はずっとその偏奇館に住していたのですが、その館が焼け落ちてしま ったのです。 その後、伝(つて)を頼りに淡路島の見える地に引っ越したりと方々を転々とするこ とになるのですが、その岡山への乗り換えの駅で、谷崎純一郎夫人手作りの弁当を移動 の食したりしています。 ようやく落ち着いた先で日米戦争の停止の公表を耳にするのです。近くの婆さんが" 鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝(しん)に就きぬ"と相成るわけ です。 01/06/08 |