『エレガントな宇宙』雑感(付:「『宇宙は自ら進化した』の周辺」)

                                        (03/11/29 up)





 ブライアン・グリーン著の『エレガントな宇宙』(林 一・林 大訳、草思社刊) を書いたのは、著者本人の弁によると、「広範な読者、とりわけ数学や物理の訓練 を受けていない人が物理学研究の最前線からもたらされる驚くべき洞察を理解でき るようにしようと思った」からだそうである。
 正直、とても、そうは思えない。仮に彼が本気でそう思っていたとしても、理科 系(勿論、物理か数学)の大学院での徹底した演習や訓練などは受けていない人を 想定しているのだろうと思われる。
 例えば、あるサイトで作家の大岡玲氏の本書に寄せる評が載っていた:
 http://www.mainichi.co.jp/life/dokusho/2002/0113/04.html 
 その末尾で、彼は、「理科系アレルギーの人にも、勧めたい本だ」と書いておら れる。小生の読了した上での感想を述べれば、能力はないが理科系の分野の読書に アレルギーがなく、宇宙論や物理などに関心があるからこそ、途中の「巧みな比喩 によって解説されている部分も多」いこともあって、読み通せたのだと思う。理科 系アレルギーがあったら、手も足も出ない部分がほとんどだとさえ、言える気がす る。
 唯一、「もちろん、これはひとつの解釈であり、解釈が成立した途端、無数のさ らなる疑問は生じる。著者も、本書の終わりでそれを認めている。だが、宇宙を 「エレガントに」説明する物理学者たちの努力には、見事な芸術性があって、こん なに美しい宇宙に意味がないはずはない、と思わせてくれる」という締め括りだけ は、一定の留保の上で賛同しておきたい。
 本書のもう少し、文学チックではない紹介として、もう一つ別のサイトを紹介し ておく:
 http://www.ywad.com/books/1135.html
 なんといっても、それでも魅力的なこの本は、「超ひも理論がすべてを解明する」 と訳書の副題にあるように、「超ひも理論」の解説書なのである。しかも、その研 究の最先端で自身が研究に携わっており、彼本人も重要な貢献をした研究者の現場 報告書でもあるのだ。
 従って、ブライアン・グリーン自身が、超ひも理論に関わる重要な貢献をした部 分の記述は、ドラマに満ちており、研究最前線の雰囲気を裏話も含めて実感を以っ て読みことが出来た。
 それにしても、書かれていることは、抽象度が高い。数学的記述になると、眩暈 が起きそうになる。これが欧米でベストセラーであり、しかも日本でも10万部以上 も売れたというのは、ちょっと信じ難い気がする。確かに数式は一つもなかったけ れどね。
 さて、小生が「ひも理論」に関心を持ったのは、『アインシュタインを超える 超弦理論が語る宇宙の姿』(ミチオ・カク/ ジェニファー・トレイナー共著 久志 本克己訳、講談社ブルーバックス刊)だったと思う。多分、88年か89年。そういえ ば、フジテレビ編の『宇宙の根源はヒモである』(双葉社刊)なんてのも読んだな (91年)。後者は、90年の秋頃、フジテレビ系列で夜中に放映されていた「アイン シュタインTV」という番組から生れた本だった。城ヶ崎裕子アナと松尾紀子アナ のコンビが番組案内をするもので、二人のファッションとかがユニークだったよう な。
 まさにバブルの絶頂期で、テレビでもスティーブン・ホーキングがヒーローに祭 り上げられ『ホーキング、宇宙を語る』がベストセラーになったものだった。
 一応、念のため、「超ひも理論」について、専門的な解説を示しておこう:
 http://www3.justnet.ne.jp/~yoshida-phil-sci/kasetsu/subject/sub15.htm
 この中のポイントを小生なりに要約すると、現代の標準的な理論が行き詰まりを 見せていること、アインシュタインの相対性理論と量子力学との相性が悪く、統合 の展望が開けないこと、最後の難点は、なんといっても素粒子論と呼ばれる時の、 その「素粒子」にある。
 標準理論では、想定上、素粒子は内部構造を持たず、また、計算上、「点」とし て扱われている。まさに超ひも理論が焦点を合わせている問題点の一つがここにあ るわけだ。
 そもそも素粒子が「点状のもの」だという保証はどこにもない。が、従来は、他 に選択肢がなかったわけである。その虚構には多くの素粒子論研究者、量子力学研 究者も気付いていたが、問題に立ち向かうすべがまるでなかったのである。
 実際、ハイゼンベルクもディラックも、「三次元の小さなかたまりについて量子 理論を組み立てようとして、乗り越えようのないように見える障害に突き当たり、 繰り返し挫折してきた」のだった。
 その点、超ひも理論というのは、究極の素粒子をひも状と想定することで、素粒 子(ひも)の「内部自由度」を確保し、従来の量子力学では乗り越えようのなかっ た障害を、少なくとも理論的には回避できると気付いたわけである。
 が、同時にその「内部自由度」を一定の枠に収める根拠が見出し難く、理論は、 まさに数学的な空想の理論になりかねない危険性と隣り合わせなのだということは、 多くの識者に指摘されていることである。
 それでも、このひも理論がもたらす「思弁」は、とてつもなく面白い。宇宙を考 えアトムを考える上で、理論的な対称性の追究と美的な整合性をのみ頼りに、どこ までも考えていく人間のドラマを見ているような気がするのだ。まさにエレガント な宇宙像を、つまり、深いところで人間の探求と理解に応じて、その美的な真の姿 を垣間見せてくれるはずだという信念が、科学者にはあるのだ。
 そして、その信念はズブの素人の小生には分かち持つことは不可能だとしても、 しかし、ある一点において、やはり共有してもいいのだと思う。
 それは、なるほど才能や能力の点で自分をアインシュタインと比較するのは愚か だとしても、逆に宇宙の不可思議さ、神秘さ、奥行きの深さを思うとき、つまり永 遠の相の下で我とアインシュタインを比べるなら、そんな能力の差など、宇宙とい う視点から見たら、なきにも均しいもの、というより実際、ないのだ。
 今、小生は最前線の一端として超ひも理論などを追いかけているが、今から数百 年もしたら、今の研究は消え去りはしないとしても、古くて素朴で未熟で、よほど の科学史の研究家くらいしか見向きもしない試みに終ることは、目に見えている。 下手するとその頃の小学生か幼稚園児が絵本の中で読む漫画程度なのかもしれない。 認識がいつか果てるとは、小生は到底思えないのである。
 だからといって、今の研究を座視するつもりは全くない。素人なりに、ガキの頃 から天文学や宇宙論に興味を持ってきた人間として、できる限り、付き合う。そう して数式を見て、溜息をつく。研究に関与できないことを残念に思う。彼我の差を 思う。が、宇宙は、やはり想像を絶して広がっており、変幻を尽くし、時に永遠の 沈黙に戦慄する思いを抱くとしても、宇宙への見果てぬ想念が消えるわけもない。
 目の前の木々の緑や空の青や、水のせせらぎや、そよぐ風が、誰にも平等に与え られているように宇宙も、その姿を誰にも均しく垣間見せてくれる。その宇宙の姿 の片鱗を通して何を感じ何を思うかは、まさにその見詰め見詰められる人間の想像 力と感性次第なのだと思う。心の揺らぎを覚える人であれば、どんな思想家や物理 学者より豊かな何かを宇宙に、この世界に感じとっているに違いないのだ。いざ、 それを言葉にすると拙くなるとしても。
 最後にブライアン・グリーン自身の言葉を引用して、この雑感を終えることにす る。このように確信をもって語れることは、羨ましいことではないか:

 宇宙に目を据え、これから出会うあらゆる不思議を予期するとき、私たちはまた、 振り返って、これまでにたどってきた旅に驚嘆せざるをえない。宇宙の根本法則の 探求は人間特有のドラマであり、人間の頭をめいっぱい働かせ、精神を豊かにして きた。重力を理解しようとする自分自身の営みを生き生きと描いたアインシュタイ ンの言葉――「切実な望みを抱き、自信と疲労を交互に感じつつ、最後に光のなか に出る、不安を抱きながら暗闇のなかを探った歳月」――は、間違いなく、人間の 奮闘全体を表現している。私たちはすべて、おのおのの仕方で真理を旅し、おのお の、なぜ私たちはここにいるのかという問いに答えを望む。人類が説明の山をよじ 登るとき、おのおのの世代は、前の世代の肩の上にしっかり立って、勇敢に頂上を 目指す。いつか私たちの子孫が頂上から眺めを楽しみ、広大でエレガントな宇宙を 無限の明晰さで見渡すことがあるのかどうか、私たちには予測できない。ただ、お のおのの世代が少しずつ高く登るなかで、ジェイコブ・ブロノフスキーが述べたこ とを実感する。「どの世代にも、転換点がある。世界の一貫性を見る、そして、表 現する新たな仕方がある」。そして、私たちの世代が新たな宇宙観――世界の一貫 性を表現する新たな仕方――に驚嘆するとき、私たちは星々に向かって延びる人間 の梯子に梯子を付け加えて、自分の役割を果たしているのだ。



                               02/03/29 20:31




『『宇宙は自ら進化した』の周辺

 




 この度、ブライアン・グリーン著の『エレガントな宇宙』を読了して、その中 でリー・スモーリン著の『宇宙は自ら進化した』(野本陽代訳、NHK出版刊) で示された宇宙観について言及されていたので、ここで若干、その辺りを紹介し ておく。
 量子力学と相対性理論との未だに打開の道の見出せない相性の悪さは、今、わ れわれが持っている標準理論に基づくビッグバン宇宙像というものに信憑性を必 ずしも与えてくれなくなっている。
 極小の一点からビッグバンをある時点で起こし、ついで(地平線問題の解決に 繋がった理論で解明された)インフレーションで急膨張し、やがてゆっくりと宇 宙が広がり世界に光が満ち走り今のわれわれの宇宙へ至ってきた…。
 そもそも究極の極小の一点というのは、相対性理論でも扱えなければ、量子力 学でもその能力の限界を超えている。そもそもある程度以下に粒子の大きさが小 さくなれば、すでに今の物理学の対象の外なのである。
 だからこそ、超ひも理論に限らず、様々な試みが成されている。
 同時に宇宙像についても、今、改めて一つしか宇宙がないという思い込み自体 が問われている。われわれの物理が普遍的に妥当するわれわれの宇宙は、一つか もしれないが、宇宙は他にもあるのかもしれない。その他の宇宙では違った形の 物理法則が成り立っているのかもしれない。
 われわれの宇宙のように空間次元が3つだけ拡張し他のそれ以上の次元は極小 に巻き込まれた宇宙とは違う、空間次元として7つか8つが拡張した宇宙がある のかもしれない。
 だとしたら、仮に今、物理学者たちが追い求めている究極の統一理論が完成し たとしても、そのことによって相対性理論と量子力学が統一されたとしても(そ れが超ひも理論による統一かどうかは別として)、それはせいぜいうまくいって もわれわれの宇宙について当面妥当するに過ぎない恐れも十分にありえるわけだ。
 こうした多宇宙にまで宇宙像が変貌し拡張されたなら、理屈の上では、究極理 論を拡張して、「拡大究極理論」の完成目指して、新たに遥かな探求の旅が始ま るのだろう。
[以下、『エレガントな宇宙』からの引用(p.490-491)。但し改行は小生による]

 ペンシルヴァニア州立大学のりー・スモーリンは、もっと急進的な提案をおこ なっている。スモーリンは、ビッグバンのときの条件とブラックホールの中心の 条件との類似性――どちらも莫大な物質密度を特徴とすること――に示唆を得て、 ブラックホールはどれも新たな宇宙のたねだと唱えている。そこから、ビッグバ ンのような爆発で新たな宇宙が誕生するが、ブラックホールの事象地平のせいで 私たちの視界からは永久に隠されているというのだ。
 スモーリンは、多宇宙が生じるメカニズムを新たに唱えるにとどまらず、人間 原理と結びついた科学上の制約をうまくかわす新たな要素――遺伝子の突然変異 の宇宙版――を持ち込んだ。
 こう想像しよう。
 宇宙がブラックホールの核から生れるとき、その物理的属性、すはわち粒子の 質量や力の強さといったものは、親宇宙のそれに近いが、まったく同じではない。 ブラックホールは、燃え尽きた星から生まれ、星の形成は粒子の質量と力の強さ に依存するので、ある宇宙の増殖力――その宇宙が生み出しうるブラックホール の数――は、こうしたパラメーターに強く左右される。だから、子宇宙のパラメ ーターに小さな変異があれば、親宇宙よりもブラックホール生成に適していて、 子宇宙をもっとたくさん生み出すものも出てくる。したがって、何「世代」も後 には、ブラックホールを生み出すのに適した宇宙の数が多くなり、多宇宙が抱え る宇宙の大多数を占めるほどになる。
 こうして、スモーリンの唱える考えは、人間原理を持ち出すことなく、平均し て、世代を重ねるにつれて、宇宙のパラメーターがある値――ブラックホール生 成に最適な値――に近づくようにする動的メカニズムを提示する。

 さて、以下、リー・スモーリン自身に『宇宙は自ら進化した』の中で示したか った宇宙像(生命像)を語ってもらおう(p.488-489)。ちなみに本書の原題は、 『The Life of the Cosmos』である。

 …最終的に私が残したいイメージは、生命は軽やかだということである。私た ちは生物圏のなかを通り抜ける光子からエネルギーを受けており、生命に欠かす ことのできないものは重みでないく、パターン、構造、情報だけだからである。 生命の論理はつねに変化し、つねに移動し、つねに進化している。
 …宇宙の新しい見方はあらゆる意味で軽やかである。ダーウィンが私たちに与 えてくれたもの、そして私たちが宇宙全体に一般化したいものは、宇宙について 考える方法であり、それは科学的で方法的であるが、永続的に新しいものが出現 してくるということが理解できる方法である。
 …したがって神が存在したことはなかった。カオスに秩序を押しつけることで 宇宙を作り、外部にいたままで監視し禁止する案内人はいなかった。ニーチェも また死んだ。永遠の回帰、永遠の熱的死はもはや恐怖ではない。そのようなこと は起こらないし、天国もない。宇宙はつねにここに存在し、つねに異なり、さら に変化し、さらにおもしろく、さらに生き生きするが、つねに複雑で不完全のま まである。その背後は何もない。それをしのぐ、絶対的、プラトン哲学の宇宙は 存在しない。自然のなかにあるすべては、私たちの身のまわりにあるものである。 存在するすべては、知覚できる現実のもののあいだの関係である。すべての自然 の法則は宇宙そのものが作ったものである。人間の法則として期待できるすべて は、私たちのあいだで話し合い、義務として受け入れるものである。私たちが得 られるすべての知識は、私たち自身の目で見ることができ、ほかの人が自分の目 で見たことから引き出されなければならない。私たちが正義と考えるすべては思 いやりである。裁判官として私たちが尊敬するすべてはお互い同士である。ユー トピアとして可能なすべては、私たち自身の手で作るものである。それで十分で あることを祈ろう。

 本書の訳者である野本陽代氏による「訳者あとがき」の一節を以下、引用する。

 …(本書は)一味ちがう視点に立っているといっていいだろう。これまでの宇 宙論の本の多くが、物理学の法則やそこに現れるパラメーターを既成のものとし て考え、それを土台にしてビッグバン宇宙論を説明していくのに対し、本書はパ ラメーターがなぜその値なのかも議論の対象としており、それが明らかにならな ければ、宇宙のなかで私たち人間がいまここにいることを説明できない、として いるからである。宇宙も生物のように進化しており、あちこちで自然選択が行わ れているので、自然の法則もまたその進化とは無縁ではありえない。異なるパラ メーターをもつ宇宙が自己複製をくり返し、自然選択を受ける、というようなダ ーウィンの進化論的視点を、宇宙論に導入する必要があるのではないか、と彼は いう。
 リー・スモーリンの世界観(宇宙観)に共鳴するかどうかは別として、宇宙も 人間も、つまりはこの世界というものが、つねに進化という表現が適切かどうか は分からないが、生成を繰り返してきたのであり、今も、これからも生成しつづ けるというのは、小生は素直に受け止める。
 生命とは何かと問われて小生には、答える術はない。ただ、生命が何処かの時 点で生じたのだとしても、それはこの大地の上であり、この地球の上であり、こ の銀河の中で生まれたのであるとは思っていい。その大地も宇宙も、われわれが 狭い意味で思う<命>ではないとして、宇宙そのものだって変幻を繰り返してい ると考えたっていいはずなのである。生命と自然(宇宙)をそんなに截然と分け る必要もないと思う。
 悠久の宇宙、でも、その宇宙も巨大な闇の世界を流れる大河であり、どこから 来てどこへ流れていくのか宇宙自身にも分からない。しかも流れるに連れて蛇行 し変貌し、そのあるローカルな鄙びた局所に我々が生きているのだし、また違う 荒野には生命どころか素粒子さえも形成できない宇宙が延び広がり、その茫漠た る宇宙の彼方には、あるいは別の緑野の地に生きる別の我々が生きており、此方 のわれわれとの交信を夢みているのかもしれない。
 生命体の形がこの世界に生じてさまざまに変幻してきたように、われわれの心 も身体の変貌に連れて変容する。それまでは感じられなかった世界が心の世界に 飛び込んでくるようになる、そんな経験を幾度となく年を経るごとに誰だって多 少は経験したのではなかったか。それを成長と呼ぶのかどうかは分からないが、 その心の感じる世界の変容は、時に喪失の悲しみをも伴うのだが、それでも、年 を重ねるということはそれはそれで祝福すべきものに思えるのである。だからこ そ、成熟という表現もあるのだろうし。



                             02/03/30 21:36