イアン・スチュアート著『2次元より平らな世界―ヴィッキー・ライン嬢の幾
何学世界遍歴』(青木薫訳、早川書房刊)を扱う。
例によって我流の感想文を綴ることになるので、本書についての穏当な紹介を:
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=3204
さらに訳者である青木薫氏本人の弁があるので、裏話として読んでみてもいい:
http://homepage2.nifty.com/delphica/bookshop/flatter.html
イアン・スチュアートの本を読むのは、『カオス的世界像―非定形の理論から
複雑系の科学へ』(須田不二夫/三村和男訳、白揚社刊)以来だ。その前に、J・
グリック著の『カオス - 新しい科学をつくる』(大貫 昌子訳、新潮文庫刊)を
読んだのを端緒にカオス関連の本を、さらにフラクタクル理論関連の本などを読
み漁った。その中の一冊として、『カオス的世界像』を読んだのだった。
先ずは、カオスや複雑系関連の本を読むなら、少なくとも小生のように数学に
弱い人間は、J・グリッグ著の『カオス - 新しい科学をつくる』がお奨めだ。
カオスや複雑系については、既に扱っているので、ここでは触れないが、簡単
に言えばコンピューターの発達と相関していることだけは銘記しておいてもいい
だろう。ごく簡単な数式であっても、それを計算し、その結果を座標に表示して
いくという作業は、極めて難しい。円周率を計算するように、その桁が上がるた
びに計算としては簡単でも膨大な数字の計算になり、事実上、出来なかったに等
しい。
それが、卓上のあるいは携帯用のパソコンで相当程度に計算することができる。
そのことにより、ちょっとした簡単な数式を計算し、その結果出た数値をグラフ
や座標で表すと、想像を絶する画像が展開される。数式を弄ることは数学者や科
学者には容易だが、いざ、その数式に具体的な数値を当てはめて計算するとなる
と、単調だが頭の痛い計算が蜿蜒と続くことになり、カオスの世界を覗き見よう
にも避けてきたとも言える。
[カオスについてのより専門的な説明は下記のサイトを参照のこと:
http://www.acs.i.kyoto-u.ac.jp/info/ndyn/articles/02/article2.htm
複雑系については、下記サイトがごく初歩的なエッセイの形で扱っている:
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/profile/fukuzatukei.htm ]
さて、J・グリッグ著の『カオス - 新しい科学をつくる』はほとんど平面の
世界を扱っていた。が、さて現実の世界は、少なくとも平面ではない、つまり二
次元ではないように思える。
では、一体、何次元なのだろうか。たて、よこ、たかさの三次元。それとも、
そこに時間を加えて四次元の世界に生きていると思っていいのだろうか。
ところが、実際にはそんなに簡単ではない。そもそも二次元(平面)の世界そ
のものが門外漢から見ると奇妙奇天烈なほどに奥が深く、とてもじゃないが、簡
単に把握するというわけにはいかない。
もしかしたら、我々は擬似的な二次元の世界に生きているのであって、一つの
次元は空間であり、もう一つは時間。そして実は我々の目には見えないし、また
感じることもできないが、数学的あるいは物理学的にのみ仮想しえるところの次
元が数多く織り込まれている可能性も否定できない。
その畳み込まれた次元というのは、プランク長という原理的に最小の単位にま
で縮小されているので、認識は不可能。だから、存在しないかのように思ってい
るだけかもしれないのだ。ただ、電磁気現象などは極小にまで織り込まれた次元
の我々が認識し得る次元への影響、悪戯があることのほんの証左なのかもしれな
い。
アキレスと亀のパラドックスという有名な話がある。アキレスは亀に永遠に追
いつけないというい話だ。
これも、直感からしたら、あるいは経験からしたら、アキレスは亀に呆気なく
追いつくし、もう、それで話はお終いのはずである。
が、いざ、この議論を探求すると、これまた奥が深い。平面の世界の淵を辿っ
ても、いつまで経っても終わりに近づけないようなものだ。無限ではないかもし
れないが、際限がない世界、つまり円の表面のような平面に我々が生きていたと
したら、アキレスが亀に仮に追いついたとしても、それはある視点(基準点)か
らの話に過ぎず、実際は、角度を変えるなら、例えば、亀さんがそれと知ってか
知らずか、鼻先を変更したなら、アキレスは亀の周りを永遠にグルグル巡り亀さ
んにアキレスが振り回されることはあっても、<追いつく>ことはできないわけ
である。
ただ、我々の思うところの平面は極めて単純化されているから、呆気なく追い
越してるじゃないかで話を済ませているだけだとも考えられるのだ。
そして、現実の我々の生きる地平というのは、数十次元の時空の錯綜する世界
なのであって、その中で我々の肉眼は、つまりは肉体としての脳は、生きるに必
要最低限の利便性の中で世界を認識しているに過ぎないとも考えられる。
アインシュタインが三次元に時間を織り込んだことで、世界を、あるいは宇宙
を幾何学的に理解する方途を切り拓いた。相対性理論の宇宙は幾何学的な宇宙観
であり、数式自体がある種決定論的な世界観でもあった。そして今に至るも重力
を加味した宇宙を捉えるには、相対性理論なしでは不可能である。
その後、量子論が発達した。その示す世界観は単純に言うと確率論的であるか
のように見えて、実は決定論に矛盾しないのだが、扱うのは極小の世界(素粒子)
であり、極大・極限の世界であって、超高度のエネルギーの世界を扱うには強力
な武器になっている。
さて、ところが、その量子力学的理論と相対性理論とが矛盾ない形で統合され
ずに今日に至っている。量子力学の体系は重力を未だに取り込めないのである。
その目的を果たすためには、理論的には有力だと思われているのが、超ヒモ理
論だと言われている。
実は、量子力学は、素粒子論と一般に呼ばれるように、素粒子を仮構している。
究極の素粒子像を求めてきたわけである。原子、それを分解したら電子と中性子
や陽子。それらの粒子を分解したらニュートリノやらクォークというわけである。
現在は、さまざまな意匠を凝らしたクォークの組み合わせで素粒子が成り立って
いると考えられている。それで大概の計算は辻褄が合う。
では、クォークって何? と問い掛けたくなるし、やはり重力が扱えないとい
う現状は何も変わらない。
そこで重力も素粒子と考えれば、場合によっては量子力学の世界に取り込める
かもと考えたわけだが、その場合、最早、素粒子という概念自体が意味をなさな
い。素の粒子ではなく、素の状態の何か、つまり、激動する超微細な長さはある
が直径のない超ヒモ状の何かを究極のアトム(最早、原子という意味合いをはる
かに超えてしまっているが)と考えるに到った。
その超ヒモを取り込んだ理論を構築するとなると、そこに何十次元かもしれな
い幾何学的な世界が扱われなければならないわけである。
現代の宇宙論は徹底して空間の理解を目指していると言えるように思われる。
我々が机の上に広げた白い紙面も、その平面は単調なようで、実は際限のない奥
行きがある…。
そんなことを考えていると眩暈しそうになる。
ま、それはともかく、冒頭の訳者自身の苦労話にもあるように、本書には著者
の駆使した駄洒落が方々にちりばめられている。駄洒落の好きな小生は、訳者の
苦労が忍ばれると共に、訳者への親しみが湧いた。タイムマシンの問題も真面目
に考えられていることに驚いたりもした。
そういえば、小生は、青木薫氏の訳された本を何冊も読んでいる。ざっと挙げ
ると、『フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するま
で 』(新潮社刊)、『「無限」に魅入られた天才数学者たち 』(早川書房刊)、
『偶然とカオス 』など。図書館から借り出した本で、『クォーク狩り―自然界
の新階層を追って』(吉岡書店刊)は、今は懐かしい本になってしまった。
この方の趣味が小生の嗜好に合うってことなんだろうか。どんな方なんだろう。
ネットで調べても、「1956年、山形県生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院修
了。理学博士。翻訳家。」くらいしか分からない。
そんな中、冒頭で紹介した<肉声>を見つけることが出来たのは、嬉しかった。
03/06/14 記
2.季節外れとは思うけど雪のことなど
今、パラパラと読んでいるの本の一冊に、イアン・スチュアート著の『2次元
よりも平らな世界』(青木薫訳、早川書房刊)がある。
[余談だが、小井は青木薫氏の訳本を読む機会が多い。これはこの方の趣味とい
うか嗜好が小生に合っているからなのか。たとえば、この数年に限っても、サイ
モン・シン著『フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明
するまで 』(新潮社刊)、ジョージ・ガモフ著『不思議宇宙のトムキンス』(白
揚社刊)、アミール・D. アクゼル著『「無限」に魅入られた天才数学者たち 』
(早川書房刊)、D. ルエール著『偶然とカオス』、そして本書、イアン・スチュ
アート著『2次元より平らな世界―ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴』(早
川書房刊)などである。まるでこの方の追っ駆けをしているみたいだ]
その中の、先ほど読んだ一節にケプラーに絡む形で雪の結晶の話が出てきた。
ケプラーとは、ティコ・ブラーエの助手となり、その惑星に関する20年にわた
る観察結果を入手し、ケプラーの法則を発見した、かのケプラーである。これが
やがてニュートンの運動法則に繋がることは言うまでもないだろう:
http://www.yamagami-planning.com/guide/history/kepler.html
彼ケプラーは、『六角形の雪の結晶について』を書いて、何故、雪の結晶が六
角形なのかを考えた。そして、彼は、球を空間に詰め込むもっとも効率的な方法
は六角形の格子を積み上げることだ、と考えた。これをケプラー予想という。
余談だが、ケプラーが雪の結晶について考察したとは意外だが、実は、彼のス
ポンサーに新年の贈り物をしなければならず、その時、『六角形の雪の結晶につ
いて』を書いたのだと言われている。なんてオシャレな贈り物なんだろう。
さて、この予想はほとんどの数学者が正しいと信じ、すべての物理学者が正し
いと知っている予想だった。
が、このケプラー予想は四百年も解決されなかったが、一九九九年、ついに予
想が正しいことがトマス・へールズにより証明された。
フェルマーの最終定理が証明されのが94年。前世紀末に立て続けに数百年に渡
る難問が解かれたことになる:
http://www.mcc.pref.miyagi.jp/people/ikuro/koramu/teiri.htm
雪の研究というと、誰しも思い浮かべるのは中谷宇吉郎であろう。小生も高校
時代からの彼のファンだ(寺田寅彦のファンでもあるけど)。「中谷は、世界で
初めて人工的に雪結晶を作ることに成功」した人だ。
彼の「雪は天からの手紙である」という言葉は有名である。初めて彼の『雪』
を読んだ時は、こんなことを研究する科学者がいるんだと感激したものだった。
もっと言うと、こんなことを研究してもいいんだと驚いたのだと言うべきかも
知れない。
小生にはその頃は未だ、雪は神秘の塊のように思えていたのだ。雪が水の違う
相なのだとは信じられなかった。仮に水が、あるいは凍って雪になるのだとして
も、そこには天の意思とか、あるいは神の見えざる手が加わっているに違いない
としか思えなかった。
小生の生まれた富山は、小生がガキの頃は冬ともなると、これでもかというほ
どに雪が降って、家の手伝いなどしない甘ったれの小生だったが、雪掻きだけは
大好きだった。疲れ、湯気の立ち上る身体を堆く積まれた雪の小山の天辺に横た
え、何処までも深い藍色の夜空を眺め入った。
雪は小止みなく降っている。あっという間に身体は雪に埋められていく。顔に
も雪が降りかかる。頬に辿り着いた雪は、次々に溶けて雫となり流れ伝っていく。
仰向けになって雪の空を眺めていると、段々、不思議な錯覚に囚われてくる。自
分が天底にあり、大地に横たわっているのではなく、白いベッドに乗ったまま、
天に吸い込まれていくような感覚を覚えてしまうのだ。雪の花びらが中空を舞っ
ている、その只中を自分の身体が漂っている。上昇していく。藍色の闇の海の底
から雪が生まれる、まさにその現場にいつかは辿り着いてしまいそうに思えてく
る。
文科系の学生となった後年、物理の試験で、何かの問題が分からず、仕方なく
というわけでもないが、答案用紙の裏側に、問題から連想した物理現象の不思議
さへの思いを中谷宇吉郎の『雪』に絡めて長々と書き綴ったことを覚えている。
そんな答えを書いたのに、試験に通ったのは、中谷宇吉郎の御蔭かもしれない。
中谷宇吉郎については、下記のサイトが素晴らしい:
http://www.hokkaido-jin.jp/issue/200202/special_01.html
余談が長くなったが、六角形という形を取ることの必然性が証明されたのは、
つい最近のことなのである。
デカルトも、大方の先入見とは違い、雪の結晶を研究した人の一人。自然の観
察家でもあったのだ:
http://www8.plala.or.jp/s58k3wmc/rekisi.html
デカルトというと、『方法序説』などの哲学者として有名だが、実は彼も自然
観察家の一人なのだ。高校時代に中央公論社の『世界の名著』シリーズの中で彼
の諸論文を読み、これまた思考の繊細さと徹底振りに単純に感激したものだった。
同時にまた、彼が緻密な自然観察家なのだと知って、昔の哲学者って、みんな徹
底した自然観察を元に思索を重ねたのだと知って、哲学とはこうでなければと思
ったものである。
その彼の観察と研究の対象の一つに、雪の結晶の研究があるのだ。
デカルトが雪を観察しつつ、瞑想に耽っていたのだと思って、勝手に親近感を
抱いていたりもしたものである。
多くの心有る人が、雪を眺めて雪の結晶の不思議さに心を奪われてきた。小生
も、雪の花びらの不思議さと美しさと、しかし、ふと触れたりしようものなら呆
気なく消え行く儚さにたまらない愛おしさのようなものを感じた。
そして無能な小生は感じるだけだった。神秘は、その秘密を探るのではなく、
その形のままに触れることなく、そっとしておけばいいのではと思ったりもした。
中谷宇吉郎は、雪の結晶を研究し、人工の雪を作ったりもしたが、実は他方では
ものの形を大切にした科学者でもあった。同時に科学にできることとできないこ
とを繊細な神経を持って考えた。彼の『科学の方法』(岩波新書刊)も『雪』と
相前後して読んだものだが、人工衛星の軌道の計算はできても、一枚の薄っぺら
い紙切れを落としただけなのに、その行方を計算するのは難しい。実は身近な現
象であっても、科学の手の全く届かない世界が実に多いことを実感させてくれた
本であった:
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/41/2/4160500.html
そして小生は勝手に雪もきっと、そうなのだと思っていたのである。ここに小
生の限界があるのかもしれない。雪の結晶が六角形になる必然性が証明された今
に至っても、やっぱり雪の結晶は美しいし、手の平に気軽には受け止めることの
出来ない雪の花びらの命の儚さも変わらないように思えてならないのである:
http://www8.plala.or.jp/s58k3wmc/shasin.html
03/06/04 記