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(03/05/05 up) ディーコン著『ヒトはいかにして人となったか』テレンス・W・ディーコン著『ヒトはいかにして人となったか』(金子隆芳訳、 新曜社刊)を小生が読んだのは、もう、2年前となってしまった。 読んでいて面白かったような気もしたのだが、正直、何が書かれているか、よく は分からなかったという印象が残っている。その読後感の不明瞭さというか、消化 不良の感が今も暗雲のごとく漂っている。 そこで、読後2年を記念(?)して、改めて簡単なメモだけは作って、一定の気 持ちの整理をしておこうと思うのである。 本書のテーマそのものは簡単である。恐らく多くの方が何らかの形で疑問に思っ ていることに関わると言っていいだろう。簡単に言うと、「動物に言葉はないの?」 という疑問に尽き、その疑問に端を発して彼ディーコンの探求が始まっているので ある。 そもそも簡単な言葉なら、動物にはあるのだろうか。唸り声とか鳴き声が動物か ら発せられる時、それは原初の言葉だと解釈していいのだろうか。 ディーコンは、動物同士というのは、声を掛け合うだけであり、言葉は発しない。 名詞も動詞も文もないと彼は理解している。 尤も、動物に人間が解する意味での言葉や文がないからといって、動物が愚かだ とか、劣っているとか、そんな議論をしようというのでは、勿論、ない。人間も動 物も植物も微生物も同時代に生きている以上、それぞれがそれぞれなりに今に適応 し、活発に活動し、暮らしている。 問題はそんなこと(動物が愚かだとか人間が優れているとか)ではなく、「本書 で考えるのは、言語が他のコミュニケーションとどう違うか、簡単な言語でも動物 はなぜ習得できないのか、人間の脳はどのように進化してこの困難を乗り越えたか、 どのような力と条件がこの前例のない進化を触発し、制御したのか、ということ」 なのである。 「それは人間の脳と言語の進化を完全に見直すことになる。それは人間と動物の 脳の連続性を強調すると同時に、両者の間の、端的にいえば言語を使う脳とそうで ない脳との間の、特異な不連続を指摘するものである」 ところで、言語の起源となると、誰しも思い浮かべるのは、ジャン・ジャック・ ルソーの『言語起源論』(小林善彦訳、現代思潮社、18世紀の半ば過ぎに書かれ たらしい)だろう。この書の中で、ルソーは、「最初の言語が詩であり、最初の言 葉は歌であったに違いないという説を展開している。音楽は言語と共通の起源を持 っており、人間の情念から生まれ、情念を伝達するものは旋律だったと議論を展開 し、やがて和声の進歩が旋律にとって代わることで音楽が堕落したと述べるに至る。 結果において旋律の回復を図ることで、音楽における人間の回復を要求している のである。まさに、本書の副題が「旋律および音楽的模倣を論ず」となっている所 以である。 しかし一時は言語論の隆盛があったものの、やがて議論のあまりの不毛ぶりに、 一八六六年、パリ言語学会が言語の起源に関するあらゆる論文を門前払いするに至 ったという。 かくほどに言語(起源)論というのは、魅力的であり奥が深く論議は呼ぶが、深 まりは見せない題材なのである。その事情というのは、今日においても基本的にそ んなに変わっていないのではないかという危惧は、専門家は誰しも抱いている。し かし、にもかかわらず、天邪鬼である人間は探求の手を休めるはずもないのだ。 さて、肝腎の本書の中身に全く触れないわけにはいかない。が、簡単に要約す ればいいものでもない。そこで、小生が興味を感じた記述を断片的に拾っていくこと にする。 チョムスキーは子供の文法と統語の知識は、語のようには学習されたものでは ないと言う。それはそのとおりだろう。それは発見されたのである。ただし脳に すでにある規則の内省によってではない。見たところ子供は文法と統語について、 単に「ラッキーな推理」をする不思議な能力をもっているかのようである。彼ら は語が組み合わされて働く仕方を自然と予期している。このラッキーな一致は、 まさにそのとおりであると思うが、しかしそれはラックによるのではない。言語 の規則は試行錯誤によって獲得されるのだが、ここには非常に高い正反応の比率 がある。(p.114) (注)ここでいう高い正反応の比率というのは、「子供の推理は、正しいことは なにかの事前知識なしに、うまく正しい方にバイアスされる」ことを意味している。 逆に言うと、言語というのは子供の心の素質に合っているものであり、従って「子 供の心が生得的に言語構造をもっている必要はない」とディーコンは考えるわけで ある。(p.116) 世界の言語は自発的に進化した。それは設計されたものではない。もしそれを 論理体系として意図的に集成された規則と記号のシステムであると考えると、も ちろんその効用と目的はあるが、それにしては設計思想のない、癖のある、エレ ガンスのない代物ということになる。言語は数学的体系というよりは、はるかに 生きた有機体に似ている。言語の分析は公理的な規則システムとしてモデル化す るよりも、生物を研究するつもりで進化概念で研究する方がよい。言語は社会的 文化的実体で、ヒトというユーザーが押し付けた淘汰圧で進化した。 言語構造は世代から世代へと伝わるときに、子供の心というボトルネックを通 らねばならないが、これが言語に対する強い淘汰圧になる。(p.118) ……文法デザインが非論理的かつ気まぐれに見えるにしても、それは比較の相 手の問題であり、判断基準が不当に厳しいということもある。言語の進化は交信 効率の理想に向かうものでも、よく言われるように生得的な心的原理にしたがう ものでもなく、言語構造は単にその伝承を形成してきた淘汰圧を反映したもので ある。(p.119-120) ある意味で言語をヒトの脳を宿主として繁殖する別の生命形態と考えるのも有 益である。(p.120) 小生は歌では童謡や唱歌、本では童話や民話・昔話に興味を抱いてきたが、言語 というのは、いずれにしても子供が片言の言の葉を得、試行錯誤しつつ貪欲なまで に勝手に習得していくという面を思うからである。親から子への、あるいは子供を 取り囲む社会から子供への伝承。これが可能でないなら、そもそも言語を介する社 会は成り立たない。そうした実態を可能とさせる脳と共進化したファジーな、鵺の ごとき実体が言葉なのである。 ところで、幼児期において言語に晒されることで何故、子供は言語を習得・獲得 するのか。それは実は子供の脳が未熟だからこそであるとディーコンは言う。一定 程度に成熟してしまうと、その後、言語のシャワーを浴びても言語を習得できない のは(野生児など)言語と脳との共進化が可能になるには遅きに失したからなので ある。 そこに「脳の未熟は言語獲得を大いに援ける学習障害である」(p.138)という逆 説めいた人間の脳の発達のドラマがありえるわけである。つまり、「他の種が単純 な言語学習でさえも、それも未熟なときでも、ほとんど越えがたい困難を体験する という簡単な事実は、ヒトには進化において脳に重大な変化があり、それでこの困 難を克服していることを示している」 「ヒトの心的特性を考えることは、ヒトの脳の進化の神秘の重要な手がかりとなる」 「いまや神経的な言語モジュールを捜したり、なにか一般的な学習能力の増大を 仮定したりするのでなくて、ヒトの学習の癖という一定のバイアスを産み出した 変化として、ヒトの脳の進化を考えなおす必要がある。そのバイアスは他のいか なる種のそれとも異なるに違いなく、尋常ならざる記号学習の本質を与えられた からには、特異な仕方で誇張されているに違いない。そのようなヒトの脳の機能 の前例のない特性は、同じく前例のないヒトの脳の構造の特性に根拠があるに違 いない。この二つのラジカルな特性がどのように対応するかは、脳の機能全体の デザイン原理に関する重要な手がかりとなるだろう。(p.159) (以上が第T部) 02/04/08 19:36 『ヒトはいかにして人となったか』(蛇足篇)ヒトが人になったのは、二足歩行が可能になった時に淵源することだけは間違い ないようだ。その時、ケモノであるヒトから人になった、乃至は、人になる可能性 が生じたのであろう。 つまり、二足歩行になることで、ケモノの形に縛られていた肉体に、急にポッカ リと巨大なニッチが生じたのである。四足である限り、脳が巨大化しようにも、頭 でっかちになり、獣として最早生存自体至難のわざになり、あるいは頭の大きさの 故に出産自体が難産という危険性を負うことになり、そもそも頭が大きくなりよう がなかったと(頭の大きなケモノは淘汰されたと)推測するしかないわけである。 が、二足歩行になったことで、一定の制約を受けつつも頭の巨大化が潜在的には 可能となった(出産の際の困難という危険性に変わりはないとしても)。また、喉 の構造における自由度が拡大したし、何といっても腕の自由度、手先の自由度が拡 大したことは、間違いない。 チンパンジーにしても腕や手先のかなりの自由度が見られるのだが、しかし移動 に際してはほとんどやはり四足に近いのである。 二足歩行になることで、あるいはならしめるために、脳の進化が促されたことも、 当然、考えられる。一旦、脳の進化の可能性が広まった時、何か他のケモノ類には 類例のない前途が約束されたわけである。 が、それにしても、何故、二足歩行が可能になったのか、それが未だに人類学に おける謎のままなのだ。その原初の出発が成立しない限り、話は、何も始まらない。 というより、理由はともかく二足歩行が始まったというところから逆算して、あ れこれ人類についての考察が始まっているわけである。 二足歩行の開始については、周知のように諸説がある。 その典型的な説は、お笑い種だが、サバンナ説である。なぜか不意に森を捨て、 サバンナの草原に侵出したお猿さんたちは、広い草原で周囲を遥かに展望するため、 立つ必要性に迫られたというのだ。 なるほど。けれど、それだったら、四囲を観察する間だけ立てばいいわけで、普 段はやはりチンパンジーさんたちのように、四足に近い形で移動したほうが遥かに 安定感があるし、何と言っても早い。倒れる危険性が少ないわけだし。 サバンナ説は、まあ、酔狂として、他にも興味深い説はある。 その代表格は、いわゆる人類水棲説だ。ある時期、四囲を山や海などに区切られ た広い入り江にある種のお猿さんたちが暮らすことを強いられたことがあり(急な 火山の噴火でお猿さんたちはある一角に追い詰められてしまったと想定している)、 その水辺での一定の期間の環境適応で、体が変化したというのだ。 このエレイン・モーガンの唱える(正確にはオックスフォードの動物学者、A. ハーディ教授が唱え、彼女が普及させた)「人類進化の新理論」は今も人類学では 鬼っ子的存在である。つまり正統な人類学は相手にしない。乃至は、言及自体しな い、そうした「学説」となって細々と生き残っている。 けれど、小生は、少なくともサバンナ説よりは遥かに説得力を持つと思う。 さて、この人類水棲説(アクア説)は、エレイン・モーガン著『人は海辺で進化 した』(望月弘子訳、どうぶつ社)、同氏著『進化の傷あと』(同上)などに詳し い: 「水辺の行楽のおともに」 http://www.eco.wakayama-u.ac.jp/~ashida/ritornello/no5/fujiki.html より詳しくは: 「衝突と気候変動、及び、絶滅と文明盛衰」 http://www.spaceguard.or.jp/asute/a27/KOUDA/kouda.html さらに精細に: 「人類進化論アクア説」 http://homepage2.nifty.com/ToDo/cate1/sinkacua.htm 興味深く且つ面白い本なので、『人は海辺で進化した』だけでも手にとって読ん で欲しい。 さて、しかし、他にも二足歩行や特に頭(脳)の肥大の理由が考えられないわけ ではなかろう。ここからはいよいよ完全なる妄想の域に入っていく。 チンパンジーなど、お猿さんたちがHが大好きなことは知られている。こればっ かりは体力の差もあり、人は全く敵わない。自慰の回数でもHの回数でも、太刀打 ちなど論外である。人がマリファナや催淫剤などを使ったって、Hの量も快楽の度 も、たかが知れている(という)。 ところで、しかし、お猿さんたちと人が違うのは、Hの質であり、Hへの思い入 れ(想像、妄想、etc.)であろう。 小生は、若い頃、お猿さんの活躍ぶりを眺めながら、当時自身も若かったことも あり、何故、お猿さんはあんなに凄いのだろうと感嘆したことがある。そしてある 日、閃いたのだった。 といっても、思いついた着想というのは、極めて平凡なもので、きっと多くの方 も(特に男性?)一度は想像されたビジョンなのではないかと思う。 それは、昔、チンパンジーの中で、とてつもなく助平な奴がいて(しかも、それ はカップルっだったと思う)、そいつは、チンパンジーの仲間が通常行う営為を遥 かに越えたHの天才だったのだ。 奴(奴等)は、通常のバックスタイルや正常位だけでは飽き足らず、しかも、単 なるピストン運動に終始することに満足することなく、二匹が互いに性的快楽の限 りを尽くしたのではなかったか。 つまり、奴等は、ペニスと膣との摩擦だけではなく、ある日、互いの体表を愛撫 することに、また、異様なる視覚から互いの体の交わる光景を眺めることに、思い もよらない快感の領野があることに気づいた(感づいた)のだ。 すると、奴等は互いの体表を、心行くまで快楽の泉の源としてとことん追究し始 めたのである。 奴等は、性の狩人となったのだ。 そうしてあまりに互いに体の表面の愛撫と慰撫の心地よさに溺れたため、気がつ いたら体毛が擦り切れてしまったのである。 また、体位に関しても、並みのチンパンジーなど足元にも及ばない可能性を追究 したのであった。バックや正常位を堪能し、横向きから斜めから逆立ちから宙返り から、正面衝突から、草原を(水辺を)駆け巡りながら、可能性の限りを追ったわ けである。 彼らは寝転がってHをするだけではなく、仕事(餌を採集するなど)をしながら もHを欠かさなかった。つまり、立って片手は餌に手を伸ばしながらも、もう片方 の手はしっかり相手を愛撫することを忘れなかったわけだ。Hは全身をフルに使っ てやるものと性的本能が奴等をして使役していたのだ。 気がついたら彼らの身体は、通常のチンパンジーとはまるで違う形態に変貌して いた。 まず、体毛がすっかり擦り切れ肌が露出していた。身体が四足の奴等と違って、 体位の可能性の限界を尽くしえるため、特に長時間の立位でのHに耐えられる体で あることを求められている中で、まさに二足歩行たる人類に既に一歩踏み出してい ることを知ったのである。しかも、Hへの想像力は、二足歩行となって頭蓋の成長 の自由度を既に得ていた頭(脳)を爆発的に膨張させ進化させたのである。 奴等は快楽を得た。が、孤独だったに違いない。なんといっても、そんな容貌魁 偉な(裸で立ちっ放しのサル!)仲間など、圧倒的に少数だったに違いないから。 しかし、奴等は断固、Hを追究するチャレンジ精神は失わなかった。というより新 たに得た快楽の楽園は、孤独を癒すにはあまりある耽美の世界だったし、もう、後 戻りなどできなくなっていたのだ。 そうしたエリートは、やや寂しげに、しかしバラ色というよりピンク色の未来に 希望を抱きつつ、チンパンジーの群れとは別れを告げ、新たな集団を作ったのだ。 なんといってもスケベ心と繁殖力は旺盛だったし、そうした性のエリートに追随 し真似する仲間も少なからずいただろう。 そうしてヒトは人になったのである。 こんな珍説をサル山のサルたちの熱心な営みを羨望しつつ思い巡らしたのだった。 02/04/14 18:42 [ヒトは水中で進化したとするアクア説について、幾つかの難点があり、本稿において紹介したエレイン・モーガン自身、アクア説が壁に突き当たっていることを認めている(『人類の起源論争』参照)。が、彼女のアクア説を救う説が登場した。アクア説でも破綻しているのは海辺進化説であって、「類人猿から分岐したばかりのヒトは、淡水の湖沼や川の浅瀬に住んでいたと考えれば、何も問題はない」のである。以下、新しい説の詳細は、下記のサイトに詳しい: http://www.nagaitosiya.com/lecture/0147.htm (03/05/05記)] ヒトはいかにして…=妄想的考察(蛇足)前回、やや妄想的人類誕生物語を語ったのだが、若干、補足すべき点のあること に気づいたので、ここに妄想ついでに記しておく。 二足歩行の開始については、サバンナ説から水棲説(アクア説)に引き続き、そ れらに負けず劣らずお笑い種の自説を紹介した。つまりは、チンパンジーの中の、 天才的にH好きなサルが、性の倒錯した世界(あくまでチンパンジーの仲間からし たら異常なのである)に耽溺した結果、気がついたら裸のサルになり、且つ、あら ゆる体位の可能性を試行錯誤した結果、肢体の自由度がチンパンジーたちに比して 遥かに増大したのだと述べた。 この性的快楽の世界への飛躍、性の楽園への常時接続の実現には、いかに天才的 に助兵衛なサル君であろうと、相当に苦しい試練もあったはずである。まず、雄に してみれば、通常チンパンジーの雄でもH度は満点であり、日に何十回もHが(つ まり性的興奮状態、肉体的局所の屹立状態が)可能なのだし、一旦、自慰を覚える と死ぬまで局所への変質的摩擦を止めることはない。 つまりは雄は、Hに関して瞬間的に燃え上がり、瞬間的に快感を得る約束があり、 ということは、何も前戯などなくなって構わない単純な機構レベルにありがちなわ けである。相手の雌が誰だって(多少は、互いに選びっこはするだろうが)構わな い。 が、ここである天才的な性的可能性の探求者たる雌は、はたと閃いたのである。 ある可能性に気づいたのだ。何も局所でなくなって、快感の余地は十分にあるじゃ ないか、と。局所は何も局所にあるのではなく、身体中に広がっているのだと(最 初は、お腹から脇腹、脇の下、太もも、背中…と、徐々に広がっていったのだろう が)。それには、瞬間的な快感の成就に逸る雄を制しなければならない。これが至 難なわざであり、大きな越えるべき山場だったことは、想像に難くない。 雄を雌の身体中への愛撫に向かわせなければならず、また、そうすることが愉し いことであると感得させなければならないのだ。性的官能の成就の直前に、自制し て相方を性の沃野へと導かねばならなかったのだ。 この互いの大きなハードルを越えるための努力に敬意を払うべきだろう。 さて、この性の前戯と後戯の快楽の発見は、体毛の喪失と相関しているだけでは ない。実は、それらは、匂いや言葉の発見とも深く関わっているのだ。 体毛の次第次第の喪失は、実は匂いの可能性の発見とも深く相関している。つま り、体毛が薄くなることで、従来は体毛にこびり付いて離れなかった強烈な不快な 匂いが薄れ、それと同時に、性的刺激に満ちた匂いが天才的Hサルの脳髄を直撃し はじめたのである。 裸のサルに近づくにつれ、特に雌の助兵衛なさる姫は、裸の肌から発する匂いが オスを強烈に捕らえて放さないことを発見してしまったのである。そして、魅惑的 ではあるが、やや単調である土臭い汗の堆積から発する匂いよりも、微妙で変化に 富む多様なる匂いの世界、体の方々から発する匂いか体臭か肌の温もりなのか見分 け難い香りが、オスを引っかけるにはもってこいの道具・武器であるとしってしま ったのである。 また、雌は同時に声の魅力をも発見した。Hの際、あるいはHにオスを誘い込む 際、あるいは日々の関わりと交わりの中で、声を多様に変化させることがオスを支 配し、ひれ伏させるのに預かって大なることを知ったのだ。 Hの際のアーとか、オーとか、やや原始的な叫び、咆哮と言うべき叫びが、やが てアハーンとか、ウフーンとかに音韻的変化を帯び始めたのだ。ア行などの吼え声 的音から、Hを繰り返す中で、ア行にHの色合いが混ざって、ハ行の発声が可能に なったのである。英語でいえば、Help Me! と、けたたましく今でも吼えるところ のヘルプ行の発声が可能になったわけだ。 この音韻的多様性の肥大傾向は、以下同様で発展していったものと考えていい。 つまり、音韻の多様性はオスを繋ぎ止める至上の手段でもあったのだ。さまざま な音の変容が、その都度、雄をさまざまに雌の意のままに動かしめる結果となり…、 雌は雄への影響力の行使の上での魔法の武器を手にしたのだ。その声が耳に残って 離れないオスどもは、やがてメスへの性の奴隷と化したのである。 さて、このようにして、Hの快楽のあくなき探求は、体位の可能性の探求に繋が り、やがて体の外見の変化に繋がり、性の快感の極致は恍惚なる天上世界への賛美 と希求に繋がり、そのことが、常時立位への本能的必要に繋がっていったのだ。さ らには言葉の原初の萌芽に繋がったのである。 一言で言うと、性の快楽の追求というのは、五感の徹底した洗練に他ならないと いうことである。それは単に肉体的快感の惑溺に止まるものではなく、折悪しく雌 が雄に、あるいは雄が雌に逸れている間であってさえも、互いの絡み合いの楽園的 境地を追い求めるために、想像力の発達が動機付けられもした。性も常在戦場なの であり、いつでもHを、というわけだ。先述したように、性の常時接続の達成であ る。 さらに、世の諸賢、世の助兵衛族の皆さんなら分かるように、性の倒錯的想像の 肥大と耽溺は、風景をも一変させたのである。一晩中の性の快感の可能性の探求の 挙げ句の明け方に見る夜明けの眩しさ。陽光が黄色く変色しているではないか。 感覚的多様性と可能性の肥大は、見るもの聞くもの匂うもの触れるものの全てを 違う目で見ることを可能にしたのだ。葉っぱは単に食べるためのものではなく、隠 すものとして利用可能なのだと知ったのだし、青い空は二匹で見上げれば、その青 が更に鮮烈に目に映るのだったし、水も土も木々も単なる道具的次元のものから、 何かもっと神々しいような、実用性を越えた新鮮な姿、生き生きと生きる喜びを賛 美し鼓舞し共感しているかのように、この世のすべてが見え始めたのである。 無数の神経網は、ありとあらゆる絡み合いと結び合いを展開していった。生き物 としての生存に有用だろうが無用だろうが、そんなことはお構いなしだった。絡め るものなら、どんな部位にだって絡む。二重に三重に絡み結び合い、雁字搦めにな っても、まだ絡むことをやめず、今では二進も三進もいかないほどに脳髄は肥大し てしまったのである。 そこまで肥大した頭蓋は、もはや四足という獣の格好では、頭が移動や運動の邪 魔になる。邪魔な頭は、それではと上へ上へ、つまり体全体の上においやられ、気 がついたら二足歩行に至っていたということなのだ。二足歩行というのは、人類の Hの快楽の過剰なまでの探求の結果なのである。 天上天下唯我独尊。その唯我とは、Hへの執念に他ならなかったのだ…。 02/04/22 23:45 |