(03/10/27 up)
日曜日の雨模様の長い午後、雨だれの音を聞きながら、退屈の徒然に小林一茶の
『我春集』を読むともなく眺めていた。
すると、ある一句(「臼歌のわか松様もねたましや」一茶)の脚注に"「目出度目
出度の若松さまよ、枝も栄える葉もしげる。」(山家鳥虫歌)。"とあった。
え、この有名な一節って、江戸時代のものなのと、素っ頓狂な驚きを覚えたので
ある。
で、早速、ネットで「山家鳥虫歌」を検索してみた。恥ずかしながら小生はこの
「歌」は全く知らなかったのである。
相当に多くの関連事項が検索の網に引っ掛かった。例えば以下などである。
「詠むということ、謡うということ------------都々逸 2000「開放区」
その一文に「都々逸→「山家鳥虫歌」→民謡→歌謡曲→(今や瀕死状態の)演歌
という系譜」という件(くだり)があった。知る人には常識なのだろうが、日本語
の歌を大切に思う人には、教養の底にしっかり抱かれている素養なのだろう。
ちなみに、上記の一文に紹介されている都々逸を一つ、更に、明和年間に制作さ
れたという「山家鳥虫歌」からも一つ紹介しておこう。
夢になりとも 情はよいが 人のつらさを きくもいや
咲いた桜に なぜ駒繋ぐ 駒が勇めば 花が散る
幕末に活躍した高杉晋作が歌ったことで有名な歌「三千世界の 鴉を殺し 主と
朝寝が してみたい」も都々逸崩れだという。
更に上記の「開放区」には、木遣りくずしも紹介されている。それが「目出度…」
の歌なのである。そうか、木遣り歌だったんだと、無知な小生は密かに納得し得心
が行った。
「開放区」には、梁塵秘抄も紹介されている。歌の遠い淵源に梁塵秘抄があるわけ
だ。
その梁塵秘抄については、以下のサイトを参考にしてもいいかな。
「[梁塵秘抄口伝集巻第十(その一)]
なぜ、上記を参照するかというと、昔、小生が梁塵秘抄を初めて読んだ時、有名
な今謡の一つである、以下の歌が梁塵秘抄の中にあると知ったのだが、その歌が上
記のサイトにあったからである。
遊びをせんとや生まれけん
たわむれせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さえこそ揺るがるれ
十年近くも昔、梁塵秘抄を初めて読み、それが後白河法皇の手によって編纂され
たものということで、後白河法皇について、ちょっと調べてみたことがあった。が、
すぐに手を引いた。
後白河法皇という日本の歴史の中でも怪物的存在は、あまりに巨大すぎて全貌な
ど、小生の窮屈な視野にはとても入りきるものではないと、痛感したのである。法
皇の息子の娘、つまり自分の孫娘を己の閨(ねや)に入れて愛玩するなど、世間的
常識にどっぷり漬かった小生の神経にはとても堪えられる話ではない。
昔は、そんなことは当たり前のことだったのだろうか。
余談が過ぎた。
近頃の若い人の歌にはとてもついて行けない小生である。歌謡曲や演歌全盛の頃
に思春期を迎えていたこともある。が、そうした歌も、作った人たちは、きっと前
代の財産を背負っていたのだろうと、思ったりする。
とにもかくにも文学の伝統、そして歴史の奥行きの深さの一端を知る切っ掛けを
『我春集』は与えてくれたのだった。
01/09/30 記
3.一茶『我春集』を読んでたら(続)
(03/10/27 up)
一茶の『我春集』を読んでいたら「頑固な老婆」という一節があった。
上総の国の百首(ももくび=千葉県富津市竹岡の辺り)は場所柄、防人(さきも
り=沿岸警備兵)の地として適しているということで、そこに幕府の陣屋(文化三
年、松平定信が江戸湾防備の目的で砲台を築き、陣屋を置いたのである)を築くこ
とになった。
そのために縄張り(縄を張って城の配置を決めること)をするのだが、生憎、縄
張りの一角の畠に邪魔になる家がある。
主は老婆で、一人暮らしである。奉行は、その老婆に話し掛ける。
「汝は子供があるのか」
すると老婆は「男の子が一人いる。けれど、故郷を捨てて、今は江戸の本所で髪
結いのまねをやっていると、風の便りに聞いている」と涙ながらに答える。
奉行は言う。
「その男の子を呼び戻してはどうだ。何処か他の場所に二人で住める家を与えよう。
男の子には髪結いの正式なゆるし文も与えようじゃないか。どうだ、この場所を移
らないか。せっかくの天が与えたチャンスじゃないか」
「何を言うか。この土地は先祖より何代にも渡って住んできた土地じゃぞ。たとえ
大金を積まれても、命を断たれても他所へ移るものか」
奉行は老婆の剣幕に押され「あとで泣くぞ」と言い残して去る。
縄張りはその家を避けてなされた。
その話を聞いた一茶は、愚か者は奉行のほうだと怒っている。一茶は元々農民な
のである。
その時、一茶がひねった一句が以下である。
月さへもそしられ給ふ夕涼み
この<月>というのは、奉行の比喩である。
月日が流れて、千葉県の三里塚は政府の強権で一方的に土地を収奪され、今の成
田国際空港になった。それが今、また、羽田を国際空港にということで、揺れてい
る。
思えば、江戸の役人は横暴だったかもしれないが、現代の役人に比べれば、まだ
ましということかもしれない。
01/10/01 記