小谷野敦氏著の『江戸幻想批判』雑感

[ 以下の稿は、一昨年6月にメルマガにて掲載済みの文章です。掲示板にて、ろんさむけんさんの言及に端を発し、michioさんをも巻き込んでいる幽霊談義(怪談談義)の主な舞台が江戸時代にあることもあり、無縁ではない書評エッセイということで、ここにアップするものです。 (04/04/25 up) ]



1.小谷野敦氏著の『江戸幻想批判』雑感  

2.小谷野敦著『江戸幻想批判』雑感(続)  



1.小谷野敦氏著の『江戸幻想批判』雑感  






 
 過日、読了した『裸女の秘技絢爛絵巻 ストリップはいま……』(谷口 雅彦著、河出文庫刊) の流れで、今、小谷野敦氏著の『江戸幻想批判』(新曜社刊)を読んでいるのだ が、その中で、ちょっと驚いた記述を見つけた。
 ちなみに『裸女の……』は、写真家である谷口雅彦氏の著である。220頁ほ どの文庫本だが、その半分以上が著者による写真で満たされている。とにかく踊 り子さんたちの写真が美しい。写真も素晴らしいが、被写体である踊り子さんた ちの鍛え上げたであろう裸体の数々は、垂涎ものである。
 念のため、出版社/著者からの内容紹介を転記しておく:
「ストリップ劇場の舞台で踊り子たちはどんな芸を演じているのか――ソロベット、タッチ、天板、本レズ、白黒、SM自縛、花電車など舞台にひらく艶技の華を迫真の写真とともに詳しく紹介する」
[ 恥ずかしながら、出不精の小生、未だ一度もストリップを観に行ったことがない。なんとか近いうちに観劇して感激したいものである。 (04/04/25 up時、記す) ]


 さて、本題に入る前に、本書『江戸幻想批判』について説明しておく。
 帯の謳い文句をそのまま引用すると、「「江戸の性愛」礼讃論を撃つ」とか、 「江戸は明るかった? 江戸の性はおおらかだった? トンデモない!」「江戸 の制的自由とは、強姦、セクハラの自由であり、その洗練された遊郭文化とは、 女性の人身売買の上に築かれた悲惨なものだった。トンデモない「江戸幻想」を 該博な体験的知識を総動員して木端みじんに粉砕する」とある。
「江戸幻想」とは、著者によれば、生半可な近世(江戸時代)の知識に基づき、 近代の資料だけを対象にして行われる「近代批判」の結果、「あたかも前近代が 自由で無垢な空間であったかのような幻想を作り出し、近世文化への批判がなお ざりにされる傾向」(p.41)のことである。
 結果として、「近世から明治・大正・昭和初期の娼婦が、人身売買による奴隷 制の産物」であるにも関わらず、そうした娼婦に「聖なるものとしての性」など を見て取ろうという傾向が一部で生じているというのだ。

 さて、本書の中で小生が驚いた記述というのは、

 …この三年ほどの間にフェミニズムのなかに生じた「売春」をめぐる価値  の転換と関係している。十年前のフェミニズムは、売春を、男による女の  搾取としてほぼ全面的に否定していた。それが今では、「性的自己決定権」  という言葉で、自由意志による売春は容認し、労働者として権利を保護し  ていくべきではないかとう方向へと転換しつつあるのである」(p.37)

という一節である。

 本書は別にそうした売春論とか、性的自己決定論について語る書ではないので、 その点についての詳述はない。
 が、世情に疎い小生は、そんな動きが一部にしろあるのかと、カルチャーショ ックを受けたのである。
「売春」と「性的自己決定」で検索してみると、結構、データが出てきた。以下 は、代表ということではなく、あくまで上記のタームの出ているサイトを無作為 に近い形で選んだものである:
 http://www6.plala.or.jp/fynet/2book173-175enkou.html
 http://www.app-jp.org/voice/01.10.09-2.html
 http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~ebhsasa/baishun.html
 最後の「買売春問題を考える  笹沼弘志」という論考は、今の段階では、小 生は一番参考にすべき主張だと考える。
 しかし、「自由意志による売春は容認し、労働者として権利を保護していくべ きではないかとう方向」を主張する論者の主張に直接、触れたことがまだないの で、今のところ、自分の意見としては保留である。
 大方の意見を請うところだ。


02/06/25 作





1.小谷野敦氏著の『江戸幻想批判』雑感(続)  






 前回、紹介した谷口雅彦氏の著『裸女の秘技絢爛絵巻 ストリップはいま……』 (河出文庫刊)の中の写真を眺めている。化粧するストリッパーたちの表情や、楽 屋裏へ消えていく素っ裸の女が振り返った時の一瞬の笑みを逃していない。
 彼女たちの笑みというのは、商売人特有の悲しげな、それでいて、これは男の側 の勝手な思い入れなのだろうが、菩薩様か観音様か、ともかく、我々男性陣のスケ ベ根性(いや、そんなに卑屈になる必要などないのかもしれない。ただただひたすらに美しく輝く磨き抜かれた若き女性の肉体と、男性に美を晒す優しさへの渇望の念なのだ。その念そのものに助兵衛も何もない)をどこまでも受け入れてくれるかのような優しさに満ちた不思議な微笑みな のである。
 ストリップを見る男の側としては、きっと勝手に、そう好き勝手に妄想を逞しく して見ていれば、それでいいのだろうし、何も難しいことを考える必要もない、は ずである。

[閑話休題]
 よく、一部の真面目な女性に、どうして男って女の裸を見たがるんだろう? と いう疑問を呈されることがある。
 が、これは男の側からすると全く逆で、まず、女の裸を見たがる本能的心性が厳 然たる事実としてあり(スカートの中を覗きたくなる、入浴中の女性の浴室をチラ ッとでもいいから垣間見たくなる、ちょっと開いたブラウスの胸元の白さにゾクッとしてしまう…etc.のだ)、 それゆえ、見たがる、見ようとする行動へ時に移るわけである。
 どうして男(自分)ってこうなんだろうと、逆に神様か仏様に問い掛けたくなる のである。つい、油断して階段の先を上っていく女子高生のスカートを上向きに覗 きそうになって、白い目で軽蔑がちに睨まれてしまう。場合によっては吊るし上げ を食らう恐れだってある。なのに、見たいものは見たいのだ。
 脱線ついでに書いておこう。育ち盛りの一時期に、男は、身体の奥底からの激し い肉欲的衝動に悩まされるのだが、その本能的衝動に負けて、つい、母親の、姉妹 の、近所のお姉さんの裸を覗き見た(かの如き誤解を受けた)際、過剰な反撃なり 懲罰を受けると、そこで一気に道を踏み外してしまいかねない。
 そのどうにも危うい時期をどう乗り越えたり、かわすしたりするかが、とりあえ ず社会的に認知される男になるための分かれ道になるのだ。

 しかし、多少の後ろめたさと、かすかな良心とが、彼女等の心のうちを、これま た我々をして勝手に揣摩憶測させてしまう。これで、ただのスケベ根性で見ている んじゃなくて、彼女等の生活や過去やを少しはわかっているんだよという、ポーズ を見せたい、つまりはアリバイ証明のようなものだ。
 さて、本書、小谷野敦著『江戸幻想批判』の中で、この観客の心理などについて、 面白い記述があったので紹介しておきたい。但し、本書の中での論述の流れから切 り離しての引用だと理解して欲しい。つまり、本書の主要なテーマでもないし、重 要な論点でもないということだ:

 …ところで私は、「見られる」ことによって孕まれる「怨恨」という 「特権的肉体論」のテーゼを読むたびに、いつもストリップのことを思 い出してしまう。唐(注:唐十郎)も、「浅草ストリップの卑ワイさ」 を語っているが、ストリップの観客は、女性器という「最後の真実」が 開示されるのを観に行くのではなく、女性器が開かれるときの踊り子の <怨恨>を篭めた視線に晒されに行くのだ。その怨恨は男―女の階級性 に根ざしており、その階級性がなければ女性器などなんの意味もない。
(p.148)


 ここで言う「特権的肉体論」というのは、「昭和四十三年刊行の『腰巻お仙』に 併せ収められた短文集」のことだ。小谷野敦著『江戸幻想批判』の中では、小谷野 は「渡邊守章による簡潔な唐理論の要約を引用」しているので、それを再掲する:

 唐にとって「特権的肉体」とは、単に醜悪異形の肉体の露出や、アポ ロン的身体美のナルシシズムなどではなく、他者の視線に晒されたとき の肉体の深い痛みと恨み、いわば恥の部分の鋭い自覚によって捉えかえ された身体であったし、だからこそ、役者の演戯というものは、おのれ のディナミスムを、肉体の<他者性>(注:アリエナシオン)の体験そ のものの上に築かなければならないことになるのであった。
      (「演戯・肉体・言語」『虚構の身体』中央公論社)(p.142)

 さて、小谷野の論じる「男―女の階級性」と「女性器」、そこに絡む「怨恨を篭 めた視線」に晒されるのが、ストリップだという観点は、どうしたものだろう。
 そうか、我々男性陣(もちろん、これを読まれる女性陣のご主人方はストリップ にはいかないのでしょうが)がストリップへ行くのは、階級性に基づく怨恨に満ち た女性の視線に晒されるためだったのか。
 だから、何処か怪しい快感があるのか…。
 どうも、納得がいかない。それでは、ストリップという仕事に携わる女性は、い つまで経っても怨恨の象徴を脱することがありえないことになる。見られることに 快感を覚えたり、脱ぐ技術を磨くこと、踊ることの工夫と創意に拘る女性など、存 在しないということなのか。
 ストリップだけが怨恨の視線に満ちているのであり、宝塚で唄い踊り演技する女 性たちは、全く別世界の住人ということなのか。
 ここには、ストリップという仕事、踊り子(踊りながら裸になっていく女性)へ の蔑視が根底にあるように思えてならない。なるほど、社会にそうした偏見が厳然 としてあるのだろうけれど。

   またまた話が変わるが、「廓」という世界があった。「郭」とも「曲輪」とも書 くようだ。「遊女屋の集まっている所。遊郭。遊里」と、『広辞苑』には書いてあ る。
 遊女…。一昔前までは存在した郭を知る人(男)には、独特な懐かしさを覚える 言葉かもしれない。男にとっては、勝って放題の対象だったのだ。欲望を始末する 世界。男に都合のいい形で「恋」のできる世界の女。異境の女。
 小生は、昔、読んだ西口克己著の『廓』を思い出す。読んだのは昭和五十年頃で、 東邦出版社刊の古風な装丁の単行本だった。これは名作である。もっと世に知られ るべき作品である。(西口克己
 遊郭に関係のある作家というと、『鬼龍院花子の生涯』や『陽暉楼』などで有名 な宮尾登美子がいるが、西口克己も縁が深い。その西口克己が書いた『廓』(西口 克己小説集 新日本出版社)は、京都、伏見の遊廓で女郎屋を営む父親の生き方と、 やがて政治運動に身を投じていくその息子の物語だ。
 しかし、女郎や遣り手婆や、女を食い物にする男どもや、政治家などが生き生き と描かれている。生々しく、といったほうがいいかもしれない。
 女郎として売られてきた若い娘が、水揚げする前に、女郎屋の主人に女に仕立て 上げられる場面は、若い小生は固唾を飲んで読んだものだった。主人が「仕込み」 をする間、襖一枚隣りに奥さんもいて、黙って終わるのを待っているのである。
 老婆心ながら忠告しておくと、小説の末尾の数十頁は破棄すべきである。読むと 後悔する。あまりに型に嵌った社会主義(共産主義?)の文学理論が踊っていて、 それまでの人間の生きていた小説世界が一気に抹殺されているからである。
 最後に、「自由意志による売春は容認し、労働者として権利を保護していくべき ではないかとう方向」を主張する論者の論旨は知らないが、男の欲望の激しさと時 には暴力性と紙一重な際どさをよくよく知るべきだと思う。カネで買った女への蔑 視と暴力性の発露にコントロールは難しいのだ。
 そうした現実に一人で対処できるほど、日本の女性が自立しているだろうか。


02/06/29 作