今、車中での待機中に栗田勇氏著の『良寛の読み方』(祥伝社黄金文庫刊)を
読んでいる。昭和60年に刊行された本の文庫版である。
小生は四半世紀以上も昔だったか、栗田勇氏については、同氏著の『一遍上人』
を読んだことがあるだけである。近くの小さな書店で何か、車中で読むに適当な本
はないかと探していたら、昔読んだ『一遍上人』の文章が印象的だったので、久し
ぶりに栗田氏に対面するかと、他の本と併せて購入したのだ。
同氏に限らないが、一遍上人も、良寛も、いろいろ伝えられることが多いのでは
あるが、しかし、実像を知るには、やはり正確なところは分からないままである。
勢い、そうした偉人への思い入れの念を表出することに終始することになる。そ
れは仕方ないことかもしれない。当方も、それを承知で読んでいるわけでもあるし。
また、実際、文中に一遍や良寛の漢詩文などが引用されているので、筆者の読解
とは別に、自分なりの解釈も試みられないこともない。
良寛については、少なくとも伝記的な一面は少しは知ることができる。何しろ江
戸も終わりの頃の人であるし(1757/8−1831)。
大きな庄屋の嫡男として生れながら、後を接ぐことを拒否し、仏門に志し、道元
禅師に傾倒するも、同門の連中に失望し、また、自身、仏門に集中するには、邪念
が多く、また、もっと庶民に近く接することを求める念も強いことを彼は自覚して
もいた。
彼は長い放浪の果て、郷里である新潟の荒磯に帰る。が、家に帰ったわけではな
い。家は弟が継いでいるのだが、あれこれトラブルを抱えていて、その渦中に入る
ことを潔しとしないのである。
彼は仏門の修行にも徹底できず、かといって、世俗に塗れることも、できない。
非僧非俗の境で迷いつづけるのである。僅かに、子供との交流の中に救いらしきも
のを見出す。子供等との鞠をついての遊びに打ち興じるのである。
遊びに熱中する、その喜びの中に邪念の付け入る余地のない、宗教的救いを、救
いの代替的境地を得るのだ。
決して偉人ではなく、むしろ中途半端な己に生涯、苦しみ迷う姿。そこに多くの
人は親しみやすさ、懐かしさの念を覚え、共感する。
ところで、この『良寛の読み方』の中で、小生も懐かしい詩の一節に再会した。
それは宮沢賢治の詩、「永訣の朝」の中の一節である。
あめゆじゅ とてちてけんじゃ(あの雪を取ってきてください)
Ora Ora de shitori egumo(私は私で独り死んでゆきますから)
まだ、半分余りを読んだだけなのだが、書中に引用されていたこの詩の一節に今
ひとたび、出会えただけでも、小生には至上の恵みであった。
妹の孤独、妹のやさしさ、兄への思いやり、死の床の静けさ、窓の外の雪明り。
あの雪を取ってきてもらう間に、私は私で独り死んでゆく…。死ぬ瞬間を兄にも見
られたくない。死に直面して、取り乱す自分を兄に見られたくなかったのだろうか。
それとも、悲しみに沈む兄を見たくなかったのだろうか。
雪を取ってきてくださいというのは妹の最後の我が侭。でも、それが思いやりで
もあることに兄は気付かないわけにいかないのだ…。
01/09/16 記