中島敦『李陵・山月記』雑感

 

 中島敦(1909〜1942)については、小生などが改めて紹介するまでもないだ ろう。
 念のため、彼は漢文に造詣が深いことに鑑み、「村越貴代美の工房」という サイトの中の年譜を参照していただこう。村越氏は、宋代(960〜1279) を中心とした中国の文学と図書を専門とされているとか:
 http://www.econ.keio.ac.jp/staff/murakosi/cjsanget.html

 御覧のように中島敦は、1942年に34歳の若さで亡くなられている。あまりに 若い。深田久弥に見出されはしたが、時既に遅く、『李陵』『弟子』などは死 後に出版されている。彼の声望が高まったのは死後なので、彼自身は自分が世 にこれほど認められるようになったということを知るはずもなく逝ったのであ る。
 その彼の死は、42年の12月4日。つまり、もうすぐ、死後60年となるわけで、 76年に一度全集が刊行されたことがあるが、昨年より改めて刊行されている。 『中島敦全集』(全3巻・別巻1、筑摩書房)である。
 この秋には、神奈川県立神奈川近代文学館で『中島敦展』が開催されたし、 その際、小生は聞きそびれたが、養老孟司氏による「中島敦の狼疾(ろうしつ) 」と題された記念講演会も開催された。

 彼の不幸な生い立ちと持病である喘息とに苦しんだ。そして時代にも彼は恵 まれなかった。芸術に関して妥協を許さない彼は、戦時下にあって孤高で高貴 な芸術を磨き上げるしかなかった。
 小生は彼の文学に触れたのは、高校時代、現代国語の教科書を通じてである。 勉強、特に国語の嫌いな小生だったが、教科書の中に掲載されている幾つかの 小説や随筆などは、学校の勉強ということを離れて、じっくり(?)読んでい た記憶がある。無論、中島敦の『山月記』もその筆頭である。
 中島敦の『山月記』などは、決して己の能力に自負の念を持っていなかった (正確に言うと、高校生の頃には自分の無能さに気付かざるを得なくなった) 小生も、内心、忸怩たる思いで読んでいた。
 己を恃み、しかし、世に入れられず、時代を恨み、世を拗ねる。
 共感の念で一杯だった。
 しかし、夭逝(と言っていいだろう。しかし、当時の小生には、34歳といえ ば、かなりの年上での逝去で、それだけの時間があれば何事かをなせるに違い ないという漠たる、まさに根拠のない思い込みも自分になかったとは言えない …)したとはいえ、そして数多いとは言えないとしても、まず忘れ去られるこ とのない名作の数々を生み出して去った。なんだい、結構、羨ましい奴じゃな いか…。
 それに引き替え、この俺は…。
 どうしても対比しないでは居られなかった。
 馬齢を重ねた今になって改めて中島敦の文学世界を展望すると(ああ、なん て生意気な表現!)、『山月記』に描かれた主人公ほどの矜持の念さえ、若く して放擲してしまったことを苦く感じる。そして、さっさと文学どころか人生 からさえ降りて、サラリーマンとして真面目に楽しく、しかし何の将来展望も 持たずに生きてきてしまった歳月が長々と横たわっている。
 小生が、ほんの少しでも哲学や文学を齧って、徹底して己の世界に沈潜し、 このままでは狂気の世界に行き去ってしまう、戻ってくることは出来ないと感 じたのは、二十二、三歳の頃だったか。
 それから未だ、数年は意地を張ってはみたものの、孤立した生活の中で文学 や哲学の世界の豊穣さを楽しめず、むしろ山塊に圧倒されて、己の付け入る余 地などないと、まるで敵前逃亡した敗残兵の心境となって、すごすご日常世界 へ紛れ込もうとした。
 そして、それはそれで楽しいサラリーマン生活だった、はずだ。スキーにゴ ルフにテニスに飲み会に、営業に。
 その自分が己に対し、改めて焦りのような念を覚えたのは、もうすぐ三十五 歳となろうとする頃だった。会社で窓際族となり、真面目だけでは通用しなく なって、このまま社会へ放り出されたなら、この自分は一体、何者なのかと問 わざるを得なくなった。
 今度は、自分からではなく環境が己が己自身を問うことを余儀なくさせてく れたのである。
 そして、自分は全く、何者でもなく、何もしてこなかったし、このままでは 何もしないだろうと、つくづくと思い知ったのである。
 それからは、大袈裟な表現をするなら刻苦精励の日々だった。会社では一人 きりの残業が続き、友人との付き合いと興味で引き受けたボランティアをやり、 それだけでも睡眠時間が3、4時間だったのに、その僅かな時間を削って、未 明にワープロに向かい日々に創作作業を続けるようになった。会社では眩暈で 気を失ったこともあるし、両立が出来ずに心労で就寝しようとすると心臓が異 常な鼓動を打って眠れなくなったこともある。
 そして三十五歳になった誕生日の日に、(学生時代などを除けば)最初の作 品を手にしたのである。
 その頃の自分が中島敦を意識していたわけではない。ただ、久しぶりに中島 敦の世界に触れて、彼が死んだ年が34歳だということ、そして小生が曲りなり に世に出るとか、人に認められるとかとは関係なく、とにかく毎日、何かしら 書くと決心したのが34歳だったということに、勝手に因縁を感じているだけで ある。
 ワープロ(今はパソコンであるが)に向かって書く際に心掛けていることは、 画面の向こうには無際限の世界が広がっているということ、無辺大の世界に自 分が今、たまたま生きているのだということ、際限のない宇宙の中で、自分は ほんの束の間の生を受け、生きているという意識を意識しているだけなのだと いうこと、ただそれだけである。
 画面を通して姿なき茫漠たる宇宙、巨象より遥かに巨大な宇宙のほんの僅か な肌に触れているだけの、その微かな現実感を頼りに天の海・星の林に漕ぎ出 している。
 どんな小さな世界でも、それは世界であり、宇宙を映す窓が開いており、ど んな広大無辺の世界も、視点を変えれば塵や芥の豊穣さに優るとは限らないの である。
 そのことは自分のちっぽけな心についても言えることであって、己が狭隘な 心しか持たないからといって、それはそれで一つの小宇宙であり、そんな小さ くて頑なな宇宙も宇宙の示す相貌の一面に他ならないのだと思う。
 中島敦の世界から、余計な世界へ飛んでしまったけれど、彼の世界は人生と か人間とかに静かに心豊かに対面させてくれるのだ。ここにこんな人生があっ た。それを彼は描き切った。その充実した読後感を味わえるなら、それに増す 僥倖はないのだと思う。

   中島敦の作品はネットでも読める:
 http://mirror.aozora.gr.jp/index_pages/person119.html
 例によって、「青空文庫」である:
 http://mirror.aozora.gr.jp/index.html

                                               02/11/19