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以下は昨年9月初頭に書いた坂内正著の『鴎外最大の悲劇』(新潮選書刊)を元に しての一文である: ---------------------------------------------------------------------- 鴎外がほとんど病的なまでに固執した脚気の細菌説[少なくとも、食物成分に含ま れる何らかの成分(=やがてビタミンだと判明する)不足説の否定]、つまりは白米 至上主義への固執が、明治の日清や日露戦争などで陸軍の兵士に罹患せしめた脚気が 数十万人もの犠牲者を生じる結果に至った。 これは鴎外の自説への異常なこだわりと出世競争への執念の結果であるし、陸軍当 局トップの面子へのこだわりの結果でもあった。 実際、海軍は早くから白米主義から脱却して、脚気の病による死亡などをゼロに押 さえ込むことに成功していたのだ。 だからこそ陸軍幹部は意地もあって脚気は細菌か何か、風土病などの影響だという 説を捨てるわけにいかなかったのかもしれない。 実際、日露戦争で戦闘での犠牲者を遥かに超す犠牲者を脚気が、つまり鴎外らが齎 したのである。 後に明治天皇の崩御に際して乃木希典が殉死するのだが、それももしかしたら、日 露戦争などでの無為な犠牲者があまりに多かったから、しかも内心は、その犠牲者の 大半が脚気によることを知っていて、それで自死に及んだ可能性も否定はできない。 希典の死去の頃には、最早脚気の原因が乃木の親しくしていた森鴎外(林太郎)の 主張する原因ではなく、陸軍の給する食物の偏重(白米主義)にあったことは、ほぼ 明白になっていたのである。 そしてその陸軍の軍医のトップにあった鴎外が、やがて文学へと傾倒していくのも、 彼自身は認めなかったとしても、自らの我執が陸軍幹部であっては責任を問われる可 能性があったが故に、文学へと逃避したのかもしれないのである。 尤も、坂内氏は、そんな単純な主張はしていないのだが…。 ---------------------------------------------------------------------- さて、その後、直接は森鴎外に関する書ではないのだが、脚気を巡る逸話というこ とで、吉村昭氏が『白い航跡 上・下』(講談社文庫)を出されていたことを知った ので、若干、補足しておきたい。 本書は、坂内正著の『鴎外最大の悲劇』の中でも重要な人物として触れられている 高木兼寛(かねひろ。「けんかん」とも呼ぶ。1849-1920)の伝記である。 上で引用した一文の中で、「海軍は早くから白米主義から脱却して、脚気の病によ る死亡などをゼロに押さえ込むことに成功していたのだ」と記してあるが、その立役 者が、高木兼寛その人なのだ。 彼は東京慈恵会医科大学(その前身)を設立した方であり、海軍軍医総監でもあっ た。まさに当時、脚気対策を陣頭指揮されたのである。その結果、陸軍が悲惨極まる 結果になったことに比べるまでもない、輝かしい功績を為したのだった。研究当時は、 ドイツ医学に固執し、脚気細菌説に拘り、ことごとく反対する鴎外らにも屈せず、生 涯をかけて脚気の原因を追求したのだった。 高木兼寛の研究に刺激されたオランダの生理学者、栄養学者、細菌学者のエイクマ ン(1858-1930)が、やがてビタミンBを発見し、ノーベル生理学医学賞を受賞した。 高木の功績を顕彰して、英国の南極地名委員会UK-APCは、1959年に南極のあ る岬を高木岬と命名した。 ちなみに国外で日本人の名が付けられたのは、間宮海峡と高木岬だけである。 大工の息子として生まれた高木の生きざまは、鴎外とは違った意味で、われわれに 示唆を与えてくれるやに違いない。 高木兼寛については以下のサイトを参照:「ビタミンの父 高木兼寛」 http://www.town.takaoka.miyazaki.jp/takaki/takaki.htm 02/01/25 00:01 [残念ながら、本稿に引用した元の書評文を喪失してしまいました。(03/02/16記)] |