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(03/04/22 up) 尾崎紅葉『金色夜叉』あれこれ尾崎紅葉(1867〜1903)については、ネットでも相当に触れられて いる。現代においても案外に人気のある作家だと、小生は己の不明を改めて認 識した次第。以下に簡単な紹介を見ることができる: http://www.seikinro.co.jp/info/douzou.html より詳しくは下記を参照のこと: http://www.horagai.com/www/who/050ozak1.htm 今度、自分で読んでみて彼の力量をじっくり味わうことができた。あまりに 人口に膾炙した物語であり、しかも通俗的な扱いに終始しており、小生にして も最初はその文体の古雅さに辟易して、パラパラ捲るだけで何度も読むのを放 棄してしまった。 その断念の一因には、実は最近、頓に進んだ老眼の度という事情もあった。 新潮文庫の、あの細かな活字がぴっしり埋まった紙面を見るだけで頭が痛くな る。 まして、使われている漢字にしても(小生の素養のなさという個人的事情が あることを割り引いたとしても)あまりに我々現代人には縁遠くなった言葉や 言い回しが使われていて、ルビや末尾の注解に頼ることなしには、下手すると 一頁だって読み進められない。 が、過日、ひょんなことからついに小生も老眼鏡を使うことになり、最近は 難業になりつつあった読書も快適に行うことができるようになったのである。 新潮文庫版の『金色夜叉』も、それゆえにこそ、読む意欲が湧いたというも のである。 さて、本題に入ろう。 『金色夜叉』であるが、例によって「青空文庫」にて全文を読むこと ができる。この「青空文庫」というのは、著作権切れの日本文学の名作をボラ ンティアの方の尽力により入力していただいるものである。その御蔭で、広く 容易にネット上においても、読みうるようになっているものだ。興味のある方 は、覗いてみていただきたい: http://www.aozora.gr.jp/cards/kouyou/konjikiyasya.html これが面倒だという忙しい方は、以下のサイトなどで「あらすじ」を知るこ とができる(但し、続編などのあらすじはない): http://www.h4.dion.ne.jp/~mhonda/lecture/05.html この小説の中で最も有名な場面は、【前編】第八章での貫一が宮を罵り蹴飛 ばす場面であろう。熱海の浜辺でのこの山場は、芝居にも必ず取り入れられる し、芝居を見たことがなくても、そのシーンだけはテレビや雑誌で見たことが あるのではなかろうか。 宮の心変わりが否定できないものと知った「貫一は脚(あし)を挙げて宮の 弱腰をはたと」蹴るのである(「蹴る」という言葉は難しい漢字が使われてい てIMEパッドには現れるが、何故か転写できない)。 貫一は宮を蹴る際、恐らくは当時の書生として下駄を履いていたのではない か。下駄で足蹴にするなんて、とんでもない野郎である。 そもそもカネに目が眩んだが故に宮に振られたからといって、女性を蹴ると いうのは、当時の男としては当たり前の風習だったのだろうか。 また、小説では宮は自らの美貌に、なるほど学士というエリートとはいえ、 将来が見えない貫一より、現に金持ちの富山に靡いたものとしているが、もう 一つ、宮(女)の真情が描かれていないのである。 女性であり美貌であり、しかも若い女性が可能性を貫一以外に求めたとして も、必ずしも責めきれるものではないだろう。小説の中では、女の執念は、ど ぎついばかりに描かれるが、女の心中の必然として執念深くなる、という風に は描かれていない。 むしろ、明治の世においては、カネに縛られ、ということは男に縛られる女 であるが故に、親に貫一ではなく、富豪の富山に嫁ぐべしと言われたら、断る 術もないだろう。 また、貫一は、そうしたカネの力が全てである世の中に絶望して、その憤懣 を弱き宮にぶつけたということであろうか。 正直言って小説の主人公である貫一には、最後まで感情移入することができ なかった。宮の両親は、貫一に宮をしかるべき相手に嫁がせることをきちんと 説明している。宮は、心苦しくて貫一に事情を説明できなかったが、それでも 若い貫一であっても、理解はできたはずだ。 宮に振られたからと学問を止めてしまって、貫一は、守銭奴になることを誓 う。 ここに貫一という人間の正体が現れているわけである。女に振られたから絶 望的な気持ちになり、自棄的な行動に走ることは分かる。が、それがゆえに学 問に走る人間もいれば、社会的な運動に走る奴もいるだろう。 それとも、若く、従って軽率な判断で早まって、宗教的な救いを求めようと する奴もいるかもしれない。 が、貫一は、カネが敵(かたき)とばかりに高利貸(ちなみに小説の中では、 アイスと読ませている。高利貸 → 氷菓子 → アイス という洒落である) になってしまうのである。 振られたから宮を蹴倒すという態度というのは、男として甘ったれている感 は否めない。宮がどうしても欲しければ、一旦は富山に奪われても、いつか奪 い返すとか、あるいは二人で駆け落ちという手もある。 けれど、貫一は、一番、卑屈な生き方を選んでしまう。こういう場合、他人 は、彼の振る舞いを見て、彼は振られたことを口実にして学問を止めたかった のではないか、ホントはカネが宮より好きなのではないか。そうした自分の人 間性が情なくて、愛する宮を蹴ったのではないか。 つまり貫一は宮に、人生に甘えていたのではないかと考えるのである。 が、あくまで小説であり、尾崎紅葉は、そうした男として何処か優柔不断な 性格を敢えて描いているという理解が無難ではある。 後編での焦点は、宮と、もう一人、貫一に思いを寄せる女性・赤樫満枝との 間で板ばさみとなる貫一の狼狽振りである。 宮は経済的事情と、社交界で華々しく活躍できることへの憧れで富山という 富豪に嫁ぐのだが(美貌の女性なるがゆえの迷い、可能性への憧れ)、一方、 満枝はカネ(借金)で意に添わない男に縛られている女である。彼女は高利貸 の妻女なのである。 彼女は、高利貸をしている男にどう思われようと平気で、貫一に迫る。求婚 する。 その満枝が宮の存在を知る。貫一が宮に思いを寄せているから自分を冷たく 拒絶するのだと勘ぐるのだ。満枝にしてみれば、宮という女は所詮は一旦は貫 一を見限った女ではないか、そんな女に未練を持つ貫一が憎いのである。憎い ほど貫一に惚れているのである。また、惚れたい相手に真っ直ぐになれる自分 が、カネに縛られて汚れしまっていることに絶望しているのだ。 宮も富山に若き日の迷いで嫁いだことに後悔して、貫一に許しを請うている が、そんな宮が満枝には調子良すぎるように思えてならないのだ。 そして、ここからこの小説の、小生が思う最大の山場、愁嘆場が始まるのだ。 二人の女の格闘。その間でただオロオロするばかりの貫一(まさに貫一の苗字 は「間=はざま」なのである。貫一は終始、煮え切らない男として描かれる。 だからこそ、女たちは焦れ、悩み、迷い、ドラマが生まれるのだろう…が)。 そしてついに満枝が宮を殺そうとして、逆に満枝が宮に刺し殺されてしまう。 宮も深く傷つく。息も絶え絶えになる。宮は、自分の若い頃の過ちを許してく れと懇願する。貫一は、この期に及んで、やっと宮を許す。許されたと知った 宮は、何処へとも知れず、貫一の前を去っていく。 去りゆく宮を貫一が追う場面は秀逸である。何処かの藪の中、巌のある滝壷 に宮は身を投げるのである。 明らかに、この場面は、シェイクスピアの『ハムレット』で有名なオフィー リアの水辺での死の場面を意識している。あるいはジョン・エヴァレット・ミ レーの描く「オフィーリア」(1852)そのものだ。 愁嘆場は屋敷の中なのが、絶命寸前の宮が、貫一に許された以上は、宮が彼 の前を去る必要もないのに、わざわざ屋敷の外に出、しかも好都合にも終焉の 地としてオフィーリアの死を思わせる場所へ向かわせるのは不自然なのだ: http://www02.so-net.ne.jp/~ars/v0-data.html 尾崎紅葉は、上記の絵を見る機会があったのだろうか。 尾崎紅葉は、名は徳太郎。江戸の芝中門前町に生まれ、近くの紅葉山という 場所にちなんで、その筆名をつけたという。 以下に尾崎紅葉誕生の地が見られる: http://www.kissport.or.jp/guide/bunkazai/b/2.html 最後に小説の登場人物の名前について一言。 宮が嫁ぐ富豪は富山という。まさに富の山ということだ。カネを象徴させて いるのだろう(か?)。が、富山県生まれの小生としては、富山がカネ塗れの イメージに染められるのは悲しい。せっかく富山県は富の山であり、豊かな風 土に恵まれた県というイメージを抱いているに、これでは台無しだ。 宮の両親の名は、鴫沢である。「しぎ」と「さわ」というと、誰でも、定家、 寂連の歌と並ぶ三夕の歌である西行の 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ を思い浮かべるだろう。 ネットで西行が、かの歌を作ったとされる場所が見られる。名残の小川が見 られるのは嬉しい。あるいは宮の死の場所に、西行をシェイクスピアをジョン・ エヴァレット・ミレーの描く「オフィーリア」を重ねる意味で、宮の(両親の) 名を鴫沢にしたのだろうか。 ちなみに、三夕の歌の歌人、定家の歌は以下のとおりである。紅葉が現れる のが、なんとも床しい気がする。 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 02/09/13 17:42 余談 : 戴いたコメントへの返事Hさん、こんにちは。 コメントをありがとう。 日本の小説は、特に文豪が書いたものであっても、語り手だったり主人公だっ たりする男の優柔不断さが、ハッキリしてますね。 尾崎紅葉の『金色夜叉』も、どう見ても、間貫一は優柔不断で甘ったれで、自 分の不甲斐なさを他人のせいにする人間だと思えてなりません。 それが作家・尾崎紅葉の作品上の意図の結果なのか、それともついついそのよ うな軟弱な男として描かれることになったのか、微妙ですが、小生は後者だと思 っています。 小生の好きな作家に川端康成がおり、名作『雪国』などは何度となく読み返し たものです。 この作品でも、主人公ないし語り手の島村は、親譲りの財産で暮らす男で、雪 深い温泉町で出会う芸者駒子の一途な生き方や惚れ方に心惹かれるのですが、し かし、島村は、どこまでも傍観者に止まるわけです。 島村は最後まで傷つくことなく、雪国を去っていくわけで、だからこそ駒子の 憐れさが際立つという説明も可能だが、やはり男は女を傍観しているのだという 理解は否定しきれないものと思う。 『伊豆の踊り子』を読んでも、かなりの小遣いを自由に使えるエリートである 一高生と、しがない旅芸人一座の女(女の子)とでは、釣合が取れないし、結局 は、やはり女は美しい存在として眺められるだけに終わる。 そこをひねって考えれば、川端の自意識過剰な、人生にのめりこむことの出来 ない観察者に終始する悲しみが投影されているのだという理解も不可能ではない のだが、やはり、語り手(観察者=男)と観察される対象である女との、互いが 二進も三進もいかないような、絡み合う恋が生まれるわけではないのだ。 一般論として、小説の主人公である男は、30台であることが多く(少なくとも 書き手は若くない)、若い頃のように恋や愛に人生に全てを注ぐわけにはいかず、 何かしら守るものがあり、ある種の男のずるさを自覚するかしないかに関わらず 育んでしまう結果になる。 だから、小説においても、何処かしら<逃げ>に近い部分を描き込む結果にな るのだという擁護論も、これまた不可能ではない。 けれど、これでは、いつまで経っても、大人が読むに耐える恋愛小説が生まれ ることはないのだろうと思ってしまう。 一応、時代ということを考えると、『金色夜叉』にしても『雪国』にしても、 封建制の色濃く残る社会での小説ということになる。従って、男が主であり、女 が従である。男は生活費や生活の糧を求めるため、有利・不利を考え、結果とし てずるく立ち回ることになり、女に対しても将来へ向けて都合がいいかどうかを 恋愛感情の只中にありながらも考えてしまう。 それに対し、封建の世の女は、自分が生きる道は、自分で探したり作り出した りすることは、絶望的に難しく、現実的には男に縋るしかない。 目の前の男が情ない男であっても、あの手この手を尽くして男を盛り立てるし か方途がなかったわけで、結果として一途な(男の目から見たら執念深い)生き 方を選ぶしかなかったという説明が、ある程度、成り立つのかもしれない。 さて、女性も経済的に自立できる余地の広がった今日、もう、上記のような事 情など過去のものであろう。では、今こそ、男と女が対等な立場に立つ恋愛小説 が書かれる土壌はあるのだと言えるのだろうか。 そこは、また、別の問題として、いつか考えたい。 お粗末でした。失礼します。 02/09/17 00:33 |