レイン『引き裂かれた自己』再読/「廃園にたつ影」とは

 
                                          (03/02/22 up!)



レイン『引き裂かれた自己』再読



 過日、同じくR・D・レインの 『レイン わが半生』を読んだので、懐かしくなって田舎の書架で探し出したブランケンブルクの『自明性の喪失』(みすず書房)と共に、読み直してみようと思ったのだ。
 本書を初めて読んだのは、大学に入って四年目のことだった。読んで衝撃的だっ たし、それ以上にまるで我が事のように、我が身と心を赤裸々に、しかも公然と解 剖され尽くされたようで、自分の他に誰もいない下宿の中で羞恥し、また、我が身 心がやがてはこのように解体され崩壊していくのかと、心底、恐怖したものだった。
 当時、小生は21歳だったろうか。
 そして本書をレインが書いたのは、若干28歳の時のことだった!
 しかし、それでも当時の小生には、ずっと年上に映ってはいたはずだ。その頃に は、哲学に溺れ道を見失って久しい自分は、さらに闇夜の藪の中を深く分け入って 途方に暮れているだろうと、ひしひしと感じていた。それは、変えようのない運命 のようにも思えていた。
 その頃の自分は昼と夜の逆転した生活の真っ只中にいたのだ。数少ない友人も、 それぞれの道を進んでいって、会う人は誰一人いなくなっていた。翌年には、哲学 科に在籍しているにも関わらず、卒論に『闇の世界へ』などといった虚構作品を提 出し、案の定、卒論として認められず留年が決まったりした。
 きっと、自分の道が、あるいは自分の正体がまるで見えなくなっていて、思わず 知らずモラトリアムの方法を選び、進路の決定を先延ばししていたのだろう。
 そのまた翌年には、形だけ哲学論文らしいエッセイを提出して、体よく卒業させ てもらった。大学入学の頃はかすかに思い描いたかもしれない哲学を専門的に研究 するという道は、消えたし、魅力を感じなくなっていた。
 卒業したあとも、数年ほど、今で言うフリーターをして、とうとう書くこと、考 えることから撤退した。自分としては敵前逃亡したような敗北感を味わっていた。 仕事など定職であれば何でもいいと、紹介してもらった会社に素直に入った。
 入社したその翌年、レインが『引き裂かれた自己』を書いた28歳を迎えるのであ る。彼我がの差のあまりの大きさ。
 自分の能力のあまりの乏しさを実感して哲学とか宗教の世界から逃げ去ったのだ が、実際には、夜、一人きりの部屋で、あるいは住む町に誰一人知る人も、挨拶を 交わす相手もいない中で、とことん哲学的瞑想に耽る気力など自分には到底ないこ とを悟ったから、だから能力のなさを言い訳に尻尾を巻いて考えることを止めたの だということは、分かっていた。
 本書の末尾に、「廃園にたつ影――ある慢性分裂病者の研究」という一節がある。 それは17歳の頃には母親を含めた親族の誰にも異常が明白となり、精神科医のもと に連れていかれた女性患者を扱っている。
 彼女を診察した記録によれば、「臨床精神医学的用語を使えば、彼女は、離人症、 実在感消失、自閉、虚無妄想、被害妄想、全能感をもち、関係妄想、世界没落体験、 幻聴、感情鈍麻等をもっていた」
 彼女の幼い頃や赤ん坊の頃を振り返って観察してみると、ジュリーと呼ばれる彼 女は、「全然手のかからない赤ん坊であった。離乳も容易であった。生後十五ヶ月 でおむつがすっかり取れてから、一度もしくじったりしなかった。彼女は<困り者> になることは決してなかった。彼女はいつでも言われた通りのことをした」という。
 ジュリーはいつも<良い>子だったのだ。
 ところが、レインによると、「これは、ある意味で、真に生きたことのない子供 の記述である。なぜなら本当に生きている赤ん坊は、手がかかり、困り者で、決し ていつも言われた通りのことをするわけではないからである」
 ジュリーの母親の述べるところによると、ジュリーは「全然ねだらない赤ん坊」 であり、「おなかがすいたといって、焼けつくように泣き叫んだりしなかった」し、 「乳を力づよく吸うことはなく、哺乳瓶をからっぽにしなかった」「<あの子は何 も欲しがりませんでしたが、満足していないのが私にはわかりました>」
 こうした観察からは、「何らかの遺伝学的因子によって、この赤ん坊は、本能欲 求や欲求満足が容易に生起しにくい素質の生体を生まれながらにそなえていた」可 能性をレインも指摘する。純然たる精神的なる病とは言い切れないのだ。
 現代なら遺伝学的診断が下されたりするのだろうか。それともあらゆる精神の病 は、何らかの器質的生体的的因子に還元されてしまうのだろうか。脳波などによる 画像診断の進展は、精神の病に止まらず、凡そ精神の動き一般を脳の器質や遺伝子 構造に還元しないまでも、相関させようと躍起になっているように素人の目には映 る。
 仮にそうした研究方針が正しいとして、しかし、それでも、物質(下部)構造と 上部構造との相関は、あくまで相関であり、上部構造の複雑さはそのままに残るだ ろう(極めて単純化した説明で申し訳ないが、研究の目覚しさの割には、肝腎の人 間や人間の精神が置き去りのようで、そうした研究を前にすると、隔靴掻痒の感は 否めないのだ)。
 さて、ここでジュリーの精神的症状の探求をしようというのではない。
 むしろ、病の渦中にあるジュリーの悲鳴、そして悲鳴から発せられているメッセ ージを少しでも感じとりたいのだ。
 実際のところ、単なる症状として、小生は彼女の、内から何らの意欲も本能的欲 求らしきものの湧いて来ない病状にある種の親近感を覚えていて、他人事に思えな かったのである。というより、何かの本能のマグマの噴出口を見出しかねて、方向 を定めることもできず、岩盤のあちこちを彷徨っている、そうしたことの遠い予感 を感じていたのだ。
 それとも、岩盤の上の、つまり、その人の内面の外の現実に圧倒されて、マグマ さえもが萎縮し、怯え切っているのかもしれない、そんな気がして、彼女の事例が、 共感されてならなかったのである。
 以下、いくつか、ジュリーの言を断片的に再引用しよう。

 この子の心は、つぶれてしまったのです。この子の心は閉じられてしまった
 のです。先生は、この子の心を開こうとしていますが、私はそのことで先生
 を決して許さないでしょう。この子は死んでいます。そして、死んでいるの
 でもありません。

 彼女は黒い太陽の下に生まれた。
 彼女は西方の太陽、太陽の背後に没せる太陽である。

 私は草地。
 彼女は廃墟の街。

   彼女は廃園にたつ影です。

   水差しは、こわれてしまい、井戸も涸れてしまっている。

 先生はこの子をほしがらなければなりません。先生はこの子を歓迎してやら
 ねばなりません。この女の子の面倒をみなければいけません。私は良い子で
 す。彼女は私の妹です。この子をお手洗いに連れていってあげねばなりませ
 ん。この子は私の妹です。この子はこういうことを知らないのです。この子
 は手におえない子ではありません。

 私は黒い太陽の下で生まれました。いや生まれたのではなかったのです。し
 ぼり出されてしまったのです。それは、あなたがそのように乗りこえられる
 ものとはちがうのです。私は、母から世話されたのではなく(mothered)、
 息をとめられていたのです(smothered)。彼女は母ではなかったのです。
 私は母のかわりに誰かを選ぶことができます。やめて。やめて。彼女が私を
 殺そうとしています。私の舌を断ち切ろうとしています。私は腐りきってい
 ます。ひねくれているのです。何の値うちもありません……。

 この中の私も、母も姉も妹も、それぞれ現実の私や母や姉や妹であると同時に、 決してそうではない。彼女ジュリーはジュリーであり、妹(実際に姉がいる)であ ると同時に誰でもあり、誰でもない(父親は母親からすると性的野獣で家庭内のこ とには一切、顧みない親だった。娘であるジュリーに冷淡であり、娘が病気を装っ ていると見なしていた。うがった解釈をすれば、父親への母の復讐の念、枯れた愛 情の完璧な反映をジュリーが演じていると理解することもできないことはない。き っと、ジュリーの父親は、自己中心的にも、そのように解釈していて、母親にも娘 のジュリーにもうんざりしていたのだろう、と)。
 ジュリーの悲鳴が聞こえるだろうか。彼女は闇の中に迷っている。現実の世界を 恐怖している。しかし、切望もしているのだ。
 廃園にたつ影であり、水差しはこわれているし、井戸も涸れている。それでも、 彼女の引き裂かれた心の底には、豊かな情の世界があることを小生はレインと共に 予感する。
 彼女のなかには「何か大きな価値あるものへの一種の信仰」がある。彼女自身を 評価する一つの信念がある。「その信念とは、何か大きな価値あるものが自分の内 部に深くうずめられ、失われてしまっていて、彼女自身にも、また、他の何人にも、 まだ発見されていないというのであった」「だから、もし、誰かが、この暗い地球 の奥深くに進みえたならば、<かがやく黄金>を発見しうるであろうし、また、千 尋の深みに潜って行くことができれば、<海底の真珠>を発見しうるであろう、と いうのであった」
 若い小生が密かに心中で感動したのは、実は、このレインの末尾の一文にあった。
 ガキの頃から、自分のなかに意欲というものが見出せない、現実のなかに居場所 を見出せない自分であっても、一見して貧相極まりない自分であって、いな、およ そ誰であっても、その胸中を分け入ったなら、木の葉を伝う水の雫に過ぎないとし ても、その潤いへの予感があるに違いないのだと、信じたかったからなのである。
 小生はよく自分のことをおちょくって評することがある。自分が哲学や宗教など に関心を寄せるというのも、枯れ木である自分に花を咲かせたいからなのだ、と。

                                            02/05/27 15:38



「廃園にたつ影」とは



 表題の「廃園にたつ影」というのは、R・D・レインの『引き裂かれた自己』か ら借用した言葉である。
 ある慢性分裂病者である女性の研究の中で、その患者である女性の言葉としてレ インが引用している言葉なのだ。
 上記の本についての詳細は下記を参照のこと:
 https://enter.nifty.com/iw/nifty/fbungaku/mes/14/6570.html
 参考にだが、上記の書から精神分裂病質者についてのレインによる説明を引用し ておこう:
 精神分裂病質者というのは、その人の体験全体が、主として次のような二つ
 の仕方で裂けている人間のことである。つまり第一に世界とのあいだに断層
 が、第二に自分自身とのあいだに亀裂が生じているのである。このような人
 間は、他者と〈ともに〉ある存在として生きることができないし、世界のな
 かで〈くつろぐ〉こともできない。それどころか、絶望的な孤独と孤立の中
 で自分を体験する。その上、自分自身をひとりの完全な人間としてではなく、
 さまざまな仕方で〈分裂〉したものとして体験する。たとえば身体との結び
 つきが多少ともゆるくなった精神として、あるいはまた、二つ以上の自分と
 して……

 精神分裂病が、最近になって統合失調症に変更されたことは、御存知の方も多い と思う:
 http://human.kdn.ne.jp/
 理由としては、精神分裂病では、そうした病への偏見を助長するからということ だ。
 しかし、単に名称の変更で偏見がなくなるわけでも、理解が深まるわけもない。
 和をもって尊しとなす日本では、昔も今も村社会であり、その中で異なる意見を 持つことは依然として難しい。
 というより、不可能に近い。上司や親や社会的常識に反するような意見を持った り表明したりすると、相手(親、上司、社会)のモラルや人格そのものを否定する かのように受け止められかねないのである。
 意見と人格は別だとは、なかなか思えない民族性を有している。
 そんな社会性を帯びているだけに、精神の病というのは、欧米よりも遥かに厳し い偏見と差別でもって遇されることになる。
 しかし、ここではこの問題に深入りするつもりはない。
 それより表題の「廃園にたつ影」である。もう少し、患者である女性の言葉を引 用しておこう:

 彼女は黒い太陽の下に生まれた。
 彼女は西方の太陽、太陽の背後に没せる太陽である。

 私は草地。
 彼女は廃墟の街。

   彼女は廃園にたつ影です。

   水差しは、こわれてしまい、井戸も涸れてしまっている

 注意すべきは、太陽であり、街であり、水差しであり、草地であり、井戸だと思 う。つまり、彼女は、黒い太陽と言い、太陽の背後に没する太陽だと言い、廃墟の 街だと言い、廃園にたつ影だと言いつつ、実は、そうした語彙(太陽、街、水差し、 井戸)が、何か豊かなる世界を示唆していることだ。
 それは、彼女が豊かな世界を欲しているとか憧れているとか、逆に、豊饒すぎる 太陽や井戸の水とかに圧倒されているということと同時に、それ以上の示唆として、 彼女の内面にはマグマのように煮え滾る豊かな世界が潜んでいるのだということな のだ。
 つまり、廃墟の街と化しているようであり、黒い太陽の下に生まれているとしか 思えないようであり、涸れた井戸かこわれた水差しとしか誰の目にも(彼女の目に さえも)映らないとしても、それでも、彼女は依然として豊かな世界への窓口であ るということなのである。
 あるいは端的に彼女は豊かなのだと断定しておこうか。
 否定的な表現の裏に悲鳴の声を聞くのは容易い。廃園や廃墟には、過去の殷賑な る世界を示すだけではなく、未来への切なる希望の念も篭められているのだと思う。  廃園にたつ影。この言葉を読むと、どんな詩文より詩的な瞑想を誘う。胸を打つ。 影は何者かの影であるしかないのだ。けれど、誰の目にもその人の姿は映らない。 そう、本人にさえその姿かたちが幻と化している。
 でも、それでも、やはり影は何かの影なのであり、何かを暗示しているのであり、 その何かというのは、やがては豊饒なる世界へとわれわれを誘ってくれるのである。
 影しかない世界。そんな世界はないのだ。闇の世界に迷い込んだとしても、その 闇夜のなかで悲鳴の声をあげる時、時空を引き裂く金属的な響きが走る。それは摩 擦を生じ、火花を生じるさせる。
 変幻し、掴み所がなく、実感など遠い記憶か夢に過ぎないとしても、それでも、 心の影は、そこにある。心の影とは、きっと肉体の悲鳴なのだ。肺腑のシグナルな のである。
 涸れ果てた心。疲れきって摩滅した精神。肉体と分離してしまった心。
 でも、廃園に影がある限りは、肉体と心とは決して決定的に分離しきっているわ けではない。そのことの証左が影なのである。影は何者かの影。そう、心と肉との 諧調の予感なのである。

                                            02/05/27 20:32



「廃園にたつ影」とは(寄せられたコメントへのレス)



 SDさん、こんにちは。「福島章さんの『天才の精神分析』(新曜社)」は、 小生にも懐かしい本です。学生時代に読みました。若い頃って、心理学の本(凡そ 医学関係の本)を読むとき、何処か身につまされる思いで読むものですね。
 分裂症の叙述を読むと、みんな自分に妥当するような。ああ、これじゃ、そのう ち俺もこうなっていってしまう…と、結構、マジで心配したものです。
 肉体的な病気の症状の本を読んでも、なんだか自分にも当て嵌まるようで、もし かしたら自分は本当は病気なんじゃないかと勘ぐったり。
 で、福島さんの本を読んで、自分にも何か天才の徴候の欠片でも見つからないか と、鵜の目鷹の目だったりして。でも、雲泥の差ってことが分かって(こういう違 いはすぐ分かる)、ガッカリしてしまう。
「精神分裂病は有り余った才能だと思います。偏った衝動を職業という形で社会化 できれば天才になり、社会化できなければ心が病んでゆきます。」というのは、全 く大賛成です。平凡から多少でも離れるものは、みんな病気なんです。
 そう思っておけば、自分の平凡さにホッとしたりして(苦笑)。
 今も、ゲオルク・カントールの評伝というか、数学の無限の歴史を扱ったアミー ル・D・アクゼルの『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(早川書房刊)を読 んでいます。中学校で(もしかしたら小学校で?)早くも数学の能力に限界を感じ た小生には、雲の上の存在なのですが、しかし、凡人には(傍目には)すぐれた能 力があって羨ましいと思われる方の、そうした才能溢れる方であるが故の孤独な苦 しみは想像を絶するものがあるのですね。
 じゃ、また。

                                            02/06/01 01:09