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(03/08/30 up) 子供と魔法と世界(1)ここ数年、童話や民話の類いを読む機会が多い。 別に誰に言われてそうなっているわけではない。何故か、そうした世界に惹かれ てしまって、年にほんの数冊程度ではあるが、その手の本を選んでしまうのである。 子供の頃はともかく、学生時代やサラリーマンの時代は、もっと硬派(?)な本 を読んでいたような気がする。ただ、フロイトの周辺ということで、ユングにも一 時期、傾倒し、そのユングの日本への紹介、そしてユング研究の第一人者というこ とで、河合隼雄氏の本を出版されるたびに読んでいた時期があった。 その中に『昔話の深層』という本があった。まあ、ユングにしても、人間の心の 古層を探り、普遍的な精神の層を探り当てたというし、そこには直接、昔話とか童 話ということではないとしても、トリックスターとか、大人の心に潜み動く子ども の心とかに焦点が合わされることもあった。 その関連もあり、河合氏は、上掲の書でも、童話や民話、そして昔話に人間の生 の感情や欲望などを探求したのだ。 そう、まさに昔話とか童話には人間の赤裸の心や欲望が余計な修飾なしに現れて いるのである。きっと、今になって改めて昔話の類いに折に触れ惹かれていくのも、 自分を見失っているという危機感めいたものが、そうさせているような気がする。 赤裸の心、そして体に触れたいのだ。 が、今更、自分を無にして、心ならずも背負った社会的な鎧を捨て去って、人の 懐に飛び込んでいく勇気などない。 それほどに人の肉と心に触れたい、直に向き合いたいという欲求があるというな ら、遮二無二なって人と関われるはずではないのか。そう、誰かに言われても返す 言葉はない。勇気がない奴だと言われたら、すごすごと退散するばかりだ。 でも、きっとアスファルトやコンクリートやプラスチックやガラスやスチールな どに隔てられた向こうの世界、分厚く華麗なる化粧に遮られて素顔など垣間見るこ ともできない足下の世界。そう、一言で言うなら大地とでも呼ぶしかない生の世界 に塗れてみたい、というのは、やっぱり真率な願いなのだ。 男が女の肉体に、女が男の肉体に触れたいと願うように。 でも、それは年とともに切なる、けれど侭ならない願望と成り果てていく。 大地を裸足で踏み締める、あのひんやりとした不思議な感覚。安定感と生命感と、 ある種の信頼感とに溢れた感覚。ガキの頃に、雨の日など、靴など脱ぎ捨てて、泥 んこの道、グジャグジャの庭をわざと水溜りに嵌りながら遊び回ったりしたものだ った。 そんな無邪気な戯れは、都会にいたらできっこないし、仮に何処かの田舎に行っ たって、きっと何だかんだと理屈をつけて、やっぱりしないに違いない。窓の向こ う側の命の雫の満ちる世界を眺めているだけなのだろう。 でも、命に触れたいのだ。 さて、ところで、話がやや漫然としてきた。今日は、魔法(魔術)に焦点を絞ろ うと思う。童話といえば、魔術だし、魔法使いのお婆さんだし(どうして魔法使い のお爺さんはいないんだろう。この疑問を考えるだけでも、ちょっとした一文は出 来そうだ)ね。 それに小生、この頃、『グリム童話』に御執心だし。 [余談だけど、童話って、なんとなく誰か特定の作者が作ったものっていう先入 見がある。ところが、『グリム童話』って、グリム兄弟がドイツ各地を回って、昔 話や民話を収集したもののはず。つまり、相当程度のグリム兄弟による修飾や脚色 は免れないにしても、創作ではないはずだ。なのに、何故、童話と訳されたんだろ うか。 と、思っていたら、『グリム童話 T』の解説に、本当の題名は、『子供と家庭 の昔話』だと書いてあったよ。 つまり、グリム兄弟が活躍した時代に「童話」が流行していたらしい。が、その ほとんどが正に童話であり、ストーリーを採集した原形からは似ても似つかぬもの に作り変えたり、啓蒙的な結末に持っていくものが多かったというのだ。童話(メ ルヘン)とは、「神話や伝説に対して、全くの空想によって作った物語」(『広辞 苑』より引用)だとしたら、そうした創作されたお話しが横行していたわけだ。 それに対し、グリム兄弟は、採集された原形を大切にしたというわけである。が、 当時としては童話集として迎えられ紹介されたので、『グリム童話』という呼称が 定着したというのだ] で、ちょっと辞書を覗いてみる。困った時の参考書頼みだ。『広辞苑』で魔法を 引いてみる。「魔力をはたらかせて不思議なことを行う術。魔術。妖術」とある。 これじゃ、分からない。で、魔術を引いてみる。すると、「魔力をもって行う不思 議な術」とある(他にも、手品の意味合いもあるが、その方面は、今回は略す)。 やれやれ。どっちも「魔力」がキーワードになっている。じゃ、魔力を引いてみ ると「人を迷わす怪しい不思議な力」とある。なんだ、これじゃ、堂々巡りじゃな いか。 では、事典ではどうか。『NIPPONICA 2001』だと、さすがに詳しい説明が してある。とても、全文を引用する元気はない。魔女(魔女狩り)も含め、特にヨ ーロッパでは魔術は重く深い、且つ血生臭い歴史に彩られた意味があり、一筋縄で はいかない言葉なのだ。 ま、ここでは、簡単に「超自然的手段を用いて、善悪いずれであれ自分が望むよ うにこの世の現象を操作し変えようとするもの」という下りだけを引いておこう。 ただ、魔術と呪術の区別についてだけは、ちょっと触れておこう。古代ギリシャ の観念では、元々魔術と呪術の区別はなかった。が、中世のカトリック世界では、 異教や異端の霊的存在を邪悪視したことから、魔的な性格が与えられた。結果とし て、社会の宗教や信仰の体制に支持されたものが呪術、その支持がないものが異端 であり、反社会的であり、反秩序的である魔術だと見なされた、というわけである。 そこから悪名高い魔女狩りが行われるわけだ。何か災禍が生じると、それは悪魔 に身を売った魔女(男性の場合も魔女と呼ばれたという)のせいだとされ、魔女狩 りが行われたわけである。 さてと、ここまでが前口上である。長すぎる挨拶で、欠伸どころか、ブーイング の嵐に見舞われそうだ。 でも、本題が、ちょっと厄介で取り付きにくくて、つい、本隊攻撃に取り掛かる 前に回り道をしてみたり、どこか、入りやすい抜け道などが見つからないかと、う ろうろしてしまうのだ。 02/03/13 01:49 子供と魔法と世界(2)道を歩くと、子供を連れた親御さんと幾度となく擦れ違った。やけに親子連れに 行き会うなと、思ったら、今日は、他に用件があったので、昼間の外出となってい たからなのだった。 普段、小生は買い物を夜にするので(売れ残りにならないよう、安売りが始まる 時間帯を狙っているのだ)、さすがに夜道を行く姿は見かけない。 そんな中、外出の帰り、2歳か3歳の子供を抱いている若いお母さんを見かけた。 何処となく変な印象を感じてしまった。実は、そのお母さんは、子供を斜めにして、 しかも、子供のお腹に手をあてがっていた。ちょっと見かけない恰好である。 子供は、気のせいか、ちょっと苦しげな表情をしている。あまり長くお腹を圧迫 していたら、そのうち、呼吸困難になるか、あるいは内臓が癇癪を起こすに違いな い。 尤も、その前に子供のことだから、苦しくて泣き出すだろうが。 茶髪の奥さんは、もう片方の手に籠を下げていて、子供の姿勢を直す余裕がない。 急いでもいるらしく、構っている場合じゃないという、やや切迫した様子も見受け られる。 さて、子供だが、子供は、一体、その時、何を感じているのだろう。子供の視線 から見たらお母さんも含め、この世界というのは、どのように見えるのだろう、と、 ふと思った。 ともかく訳も分からずに奇妙な恰好で抱かれて苦しいが、でも、これが与えられ た状況なんだし、我慢できるまではとにかくあのままじっとしているよりない。 物心付くか付かないかの子供というのは、身長がどれほどあるのか知れないが、 いずれにしろ、大人は遥かに見上げる存在である。親も小父さんや小母さんも、家 に来るお客さんも、店で街で見かける大人達も、みんな巨人だ。 子供の視線は、普通、当然のごとく、水平に向かっている。等身大の世界を見る。 仮に目の高さが1メートルだとしたら、その1メートルの地平が、彼らにとっての 与えられた世界であろう。 が、そこに大人たちが介入してくる。まるで2階からいきなり、低い世界である 彼らの未熟な、だからこそ豊かな世界に飛び込んでくるのである。神の手とまでは いかなくても、彼らなりの物語的継続性など頓着しない大人の都合が、子供には皺 だらけの巨大な、クレーンみたいな手という形で突然、姿を現すのだ。 あるいは、大人に不意に抱きかかえられたり、まして肩に担がれたりしたら、そ れは一気に世界を遥か遠くまで展望するかのような、不思議な開示感を抱くに違い ない。身長が10センチと言わず数センチでも違うと、世界の見え方が違ってくる ことは、履物の底の高さが普段と違った厚いものを履くと、実感できる。 それは視線の高さが違うと同時に、視線の向きが変わるからでもあろう。同じも のを見るにしても、その対象の見える角度や相貌が若干ずつであれ、違ってしまう。 そのことの齎す心的効果は、新鮮なものがあるはずだ。 それが、肩に担がれることで、いきなり2メートルほどの高さに舞い上がるのだ。 子供の目の前には、無数の奇妙な物体や事象が鎮座したり垣間見えたりしている。 あるいは親の(大人たちの)声も、遥か頭上から、天からの神の戒めの声、子供の 生活世界の論理にはまるで脈絡のない、命令的指示として齎される。 むしろ、親(大人)の言葉や仕草も、家の柱も天井も壁も、立ち木も、木々の葉 っぱも、あるいは天の青い空も白い雲も、すべて、鮮やか過ぎる、新奇なる感動の 種なのである。 そう、驚きの連続なのだ。 車という物体がある。なんだか知らないが、それに乗せられると、居ながらにし て、当人は座っていながらにして、親に肩を抱かれているだけで、世界をすっ飛ん でいく。窓の外の風景が流れていく。道端の、普段は自分を追い越すか、自分を見 下ろし睥睨していたはずの無数の人々を、あっという間に追いつき追い越し、後に 置き去りにしていく。 電子レンジに入れて摘みを適当に回しておけば、温かな食べものがチンと言って 出現する。壁高くに吊られたエアコンに向けて、小さな箱(リモコン)のボタンを 押せば、部屋の中が暖かくなったり冷たくなったりする。 あるいはテレビに向ければ、勝手に画像が流れ出し、画像は、自分が見下ろす中 で、あっちへ動き、こっちへ動く。気に食わなければ、ボタンをピッピッと切り替 えれば宜しい。それだけで、画像の顔ぶれや風景が一気に変わる。 世界は小さな王様である彼の手中にあるのだ。一切は、彼の足下にあるのだ。 しかも、彼ら子供たちにとって、飛行機に乗って世界を飛ぶことも日常茶飯事に なっている。昔の子供以上に昔の王様以上に、王様であり神様であり全てである。 なんといっても食べるための苦労がないのだ。食べものというのは、何か訳の分 からない紙切れかカードと交換される記号なのだ。人間の汗や労苦などとは一切、 無縁の、ブラックボックスから出てくるメニュー、その気になれば、ちょっと喚け ば、否、何も言わなくても黙って待っていれば現れてくる日々の当為なのである。 そこにある、あって当たり前の、自分が我が侭放題に選択できる、ただの餌なので ある。 世界は彼の(彼女の)思いの下にある。世界は彼(彼女)の魔法の世界の中にあ る。まさに前段で引用したように、魔術とは「超自然的手段を用いて、善悪いずれ であれ自分が望むようにこの世の現象を操作し変えようとするもの」だとしたら、 現代という飽食の時代にある子供たちにとって、魔法は仕えて当たり前の世界にな っているのだ。 しかも、幾つになっても魔法は解けない。食べ物を得るために汗水を流す必要が あるという現実から遠ざけられいる以上は、魔法が解けるはずもないのだ。子供の 無邪気な、そして残酷な心をずっと抱きつづけることができる、それが現代なので ある。 つまりは、思春期になっても夢から覚めることがないのだ。 が、人間(自分)にとって一番、身近である現実、つまり自分の体は、現実に目 覚めよと命じてくる。その前に、ほんの少しでも肉体の枷を実感できていればいい のに、様々な家事や労働などで肉体を通しての現実との接触が、つまりは準備運動 ができていればいいのに、それが先延ばしにされたままに、ある日突然、思春期を 迎え、現実と格闘することになるのだ。 どうやら、また先走りし過ぎてしまった。 もう少し、魔法の世界を観察しておこう。 02/03/13 01:58 美女と野獣の夢物語)「グリム童話 U」の解説は、風間健二氏によるものである。数頁ほどの短いも のだが、密度が濃く、いろいろ示唆されるものも多かった。 フランスの詩人・作家のロス・ペローが発表(1697年)した『過ぎし昔の物 語』の中には、「眠れる森の美女」、「赤ずきん」、「青ひげ」、「長靴をはいた 猫」、「シンデレラ」「親指小指」などが収録されているが、これらの元ネタはイ タリアの作家などの書において再話された口承おとぎ話の数々だった、とか。 ロス・ペローと同時代のフランスの婦人作家の手になり有名になった「美女と野 獣」は、その元ネタが、ローマの詩人アプレイウスが紀元二世紀半ばに書いた『黄 金の驢馬』所収の「キューピッドとプシケー」である、とか。 ただ、本来は民話や昔話として民衆の間で口承という形で伝承されていたものが、 活字される段階で、その時々の文化や政治に影響されるのは、避けられないことだ った。昔話に王様が出たり王女が出たり王子や、魔女やが登場することが多いが、 口承されていた段階で、登場人物がどういう人物だったのかは、定かでないようだ。 さて、グリム兄弟(1785-1863、1786-1859)が活躍するには前史がまだある。 その筆頭は、若き日のゲーテやシラーであり、所謂、「疾風怒濤(シュトルム=ウ ント=ドランク)」と呼ばれる文学運動である。 19世紀のヨーロッパ文化を参照: http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/92-19bunka1.html この運動は古き世俗的道徳や因習を打破するという謳い文句だったが、彼らの運 動は10年ほどで衰退し、彼ら自身は古典主義と呼ばれる文学を目指していく。そ れに対抗したのが、ハイネやバイロンであり、ノヴァーリス(やティーク)なので ある。特にノヴァーリス(1772-1801)はゲーテやシラーが取りこぼしていった幻 想性やロマン性をとことん突き詰めた。 その代表作が『青い花』だ。 風間健二氏の解説に引用されているノヴァーリスの言葉を再録する。「メルヘン は、いわば文学の規範である――すべての詩的なものはメルヘン的でなければなら ない。詩人は偶然を敬愛する」、「メルヘンの世界は現実(歴史)の世界に徹頭徹 尾対立した世界である。だからこそ、現実の世界に徹頭徹尾似ている」「真のメル ヘンは同時に予言的表現――理想的表現――絶対に必要な表現でなければならない。 真のメルヘン作家は、未来を予見する人間である」 一読されて分かるようにメルヘンという言葉に、われわれが持つ童話というニュ アンスを嗅ぎ取るのは、難しいだろう。メルヘンというのは、風間氏によると、 「中世のドイツにメールという言葉があって、これは「ニュース」とか、「ゴシッ プ」を意味した(つまり、話を伝達するとか、広めるということ)が、転じて"作 り話"(事実が伝わる過程で脚色され、尾ひれがつき、嘘になってしまうというこ と)の意味をも持つようになった。そして、十五世紀には、メールという詩の形式 で語られる小話のジャンルが誕生。このメールに、さらに "小さい"を意味する語 尾、"ヒェン"が付いて、メールヒェン(短い作り話)という言葉が生じたらしい」 とのことである。 その上で、再び風間健二氏の解説から引用する。 「メルヘンという言葉から今日のぼくたちが連想するような優しくて甘い乙女チッ クなものではない。だからこそ、非現実的な要素が導入される場面は衝撃的な美し さと思索に満ちている」のである。 そうした文学背景の中で、グリム兄弟は活躍する。知られているように彼らは、 「ドイツのハーナウに生まれる。言語、文学、神話、法律等の分野において、ドイ ツ古代学の基礎を確立した言語・文献学者」なのである。 彼らは古典主義の文学では消えていく、まして活字文化が広まる中でますます口 承による伝承が消えていくのを、学者として活字化するという危険を犯しつつも、 できるかぎり創作を拝して、ドイツ民族の精神的・文化的遺産を保存・継承しよう としたのである。 ちなみに、風間氏によると、「ばらばらになってしまったものを魔術的に再統合 しようとする意志がロマン主義にはある」とのことである。 [閑話休題] もう、これ以上、贅言を費やすまい。本来のメルヘンは、大人のためのものなの だ。幼い頃に、訳も分からず、膝に抱かれて読んだという、温もりのほうをこそ懐 かしむ童話ではないのである。 が、同時に、ある種の禍禍しさも孕んでいる童話を読むことで、大人と幼児とが ある種の世界を共有できるという幻想を与えてくれるのも、童話の魔術的力なのか もしれないと思う。 多くの文学がターゲットを何処かに焦点を合わせるのに比べ、物心付いて間もな い、それゆえに魔術的世界に一気に没入できる可能性を持った幼児と、それなりの 経験を経た大人が、その曲がりくねった道の果てに、もっと直截でリアルで魔術的 で、えげつなくもある物語を共有できるというのは、もっともっと考えてみる余地 があるような気がする。 そもそも、人間は、誰しも気がついたらこの世に生を受けていて、とにかくこの 親の庇護のもとに生きる。状況は選択できない。その選ぶ余地が全くないというこ とは、つまりはある種の物語世界に、容赦なく放り込まれているということなので ある。生きていることが魔術的物語なのだ。 そうして生きる中で、なんとかかんとか自分を納得させていくわけだが、それで も大人になると改めて、生きることの意味を、ある種の理不尽さと不可思議さを覚 える時、そこに物語というものが、違う色合いを帯びて見えてくるのだろう。 われわれは何処からきたのか、何処へ行くのか、誰にも分からない。きっと分か っている人など、誰一人としていないのではないか。 道に小さな野良犬がいる。あちこち嗅ぎまわっている。親の匂いを捜しているの だろうか。それとも自分を捨てた飼い主を探しているのだろうか。ここにある方か ら戴いた詩がある。題は「捨て犬」である。 どこから来たの? どこへ行くの? 足元でじゃれる子犬 私の中の世界が止まる この腕においで 細い腕だけど 温めてあげるから 腕の中で 小さな震えが止まる これは一つの詩だ。けれど、ある意味で童話の原形があるような気がする。童話 とか魔術というのは、今のどうにもならない情況の中で、でも一筋の光を探そうと する一つの試みだ。力のない自分(大人になればなるほど、己の無力を思い知る) が、ある瞬間、切なる願いのもとで目を閉じてみる。すると、なんと心底、願って いたことが叶ったではないか! きっとこの詩の作者にとって、捨て犬を拾って家に帰り、親に飼うことを頼んだ ら、その願いが叶ったのではなかろうか。だから、詩の中で歌い上げたくなったの ではないか。めったにない願いの叶ったことが忘れられないのではなかろうか。 自分を救いたい、誰かを救いたい。飛んでいきたい。飛んできて欲しい。でも、 生きる現実の中には、そんな夢物語はない。ない。 ないと思い知っている。けれど、だからこそ、夢は切なく、願いは悲しく、ここ ろが張り裂けるのだ。それでも、物語が叶うなどとは夢にも信じていないくせに、 人前ではそんな素振りはチラッとも見せないくせに、夢を追う人をせせら笑い、嘲 ってみたりするのに、実は夢を、魔法を一番信じているのは、<自分>だったりす るのである。 ああ、肝腎のタイトルに絡む話が書けなくなったよ。 02/03/27 01:38 |