01.12.27

国の礎というものは結局、教育であり、個々人のがんばりではないのか。「なぜこの人たちが金持ちになったのか」(こんなタイトルだった?)という本でも、結局、平凡でも努力した人が金持ちになったというデータを紹介していたと思う。


01.12.27

もと国連の難民救済高等弁務官(?)だった、緒方さん。何日か前のTV番組でいっていたが、いまより少しでもよくなるようにする仕掛けが必要であるということ。その点、「教育」は将来に成果が残る。国レベルの保障では役にたたない。ここ最近の紛争はその国内のものを使い、それぞれの個人の人生を保障するようなものでないと機能しないのではないかというようなことであった。

また、だれか他の人だったが、物事を成し遂げるのは結局は信念であるというようなことを言っていたのがなぜか記憶に残っている。 P>
01.12.12

昨日のNHKの10時からの教育番組で、岩手の中小企業起業支援センターの活動が紹介されていたが、地場の振興ということは設備をいれて企業を誘致するだけではなく、細かいサポートで起業を支援することも考えないとならないというようなことを言っていた。

その最後に、設備をいれてできるものはまねされるけれど、努力と忍耐で積み上げたものはすぐにはマネできないというようなことを言っていた。それはそうだといまさらのように感心した。

ただ、「ろうそく」のようにその用途が大きな枠組みのなかで変わってくるならばいくら「ろうそく作り」で優れた記述をもっていようと、それは現代の生活には組み込まれえない。生活の彩りを添える役割にしかならないのである。

そういう意味で、新しい価値にどんどんと飛びつくということは結局古いものの切り捨てにつながる。古いものの切り捨ては結局自分自身に跳ね返ってくる。人間、いつまでも新しく有り続けるわけにはゆかないのだから。


01.12.12

昨日、中学生のグループ10人ほどが美人局で逮捕されたとのニュースがインターネットにあった。そこで得た収入はせいぜい3万とかなのに、そんなことで未来をほとんどフイにするというその馬鹿馬鹿しさかげんが分からないのがかわいそうだ。

未来のことを考えたら割りにあわないとおもうのだが、自分達には「未来」なんてないと感じているのかもしれない。それは現在にも絶望していると言うことを伺わせる。

本当は何でもないことで人間は幸せになれる。けれど、その何でもないことには何の価値もないというがごとき世相なのも事実である。子供の時に、友達と鬼ごっこをし、缶けりをし、縄跳びをし、草野球をする。そんな金のかからない遊びを知らない今の子供達がかわいそうである。

本を読むだけでも楽しいのに、音楽を効いているだけでも楽しいのに、仲間と話しをしているだけでも楽しいのに。


01.12.06

人間いつかは姿をけす。それが、与えられた、強いられた形で現実のものとなる前に、忘我の打ち込みができるものがある方が納得して死を迎えることができるのは、それが死の予行体験というようなものになるせいなのかも知れない。

自分のためだけでなく、なにか人のため自分を忘れて取り組むことが出来ることができる事を幸せに感じるのは、死の準備のために与えられた天恵だということができるだろうか。愛というものもそれが幸せを呼ぶものならば、相手のことだけを考えることが出来るという滅私の瞬間なのかもしれない。


01.11.08

自分がテレビをよく見ているのは、つい分かりやすいモノに引っ張られるということではないか。本を読む面倒より、解説付きのTVをみて、たまには「その位の事はオレにも分かる。あんまりテレビの解説者のレベルも自分も変わらないのではないか」と思う方が気持ちが良くて楽である。

つまり、チャレンジしていないのである。もっと分からないモノに取り組んで分かるようにするという前向きの姿勢が必要ではないか。


01.11.07

何らかの形で「自己実現」タイプの目標の達成を喜ばしいとおもうようになったら、そのための過程として傍目には「苦しい」内容としか見えないものも、自分のやりたいことの一部になってしまう。

そうやって、人にはできないことができるようになるのである。「自己実現」タイプのどういう目標を持つことになったか、あるいは持つことが出来るかにより差が付いてくる。もちろん、能力のあるひとは人が努力して到達する地点が出発点だったりするが、それでも「努力にまさる才能無し」というのが支配ルールだということを忘れてはなるまい。


01.11.06

NHKの番組「プロジェクトX」で、カップヌードルの話の時、浅間山荘事件で隊員が湯気の出ているカップヌードルを食べているのが報道されて、一気に知名度があがったらしい。


01.11.06

昨日、BSの「ヨーロピアンライフ」という番組で、ポルトガル(?)の空軍の将軍(軍医:確か52歳と言ってた)が現役で診察もしているという番組があった。

将軍としての仕事がおわれば、病院で診察し、5pmでそこを終わると、民間の病院で6−8pmまで診察。時には10pmにもなるとか。夕食後11pm頃から必ず2時間は勉強して最新の知識も仕入れている。睡眠時間は平均4時間だそうだ。でも特に疲れた顔ではなかった。

週末には別荘に向かうが、そこでも地域の人のために2時間位は診療をしている。絵を描く趣味をもっているが、結局そのために費やす時間は毎週1回4時間位のものだという。それでも将軍は自分の生活に満足している。「世の中には2種類の人間しかいない。積極的な人間と受け身の人間だ。自分は常に何かに積極的に取り組んでゆきたい。医療と絵で自分の取り組んできたことには満足している。」というような発言が紹介されていた。

そうやって考えると、自分は「受け身」なのかもしれない。自分でいろいろとやることもするが、人が何をしているかも非常に興味をもってみている。基本的には人間の観察者であるようだ。

上記の将軍の生活では、ニュースや他人の生活などに注意を払って見る時間はないのではないか。(将軍としての時間にそういう情報には目を通しているかも知れないが)基本的には人のことをあれこれ考える時間をもつより、自分のやりたいことをする時間を充実させたいという事なのだろう。

世の中には2種類の人間しかいないという表現は色々な使い方ができるが、すべて0と1の2進数ということになる。ただし、世の中は1ビット(2進数での1桁)で決まるわけではなく、上記の積極性でも実は「これこれの分野では」という但し書きがつく。そうしてそれぞれの分野で、同じ人がそれぞれに積極的だったり消極的だったりするのだ。そうやって分野が10もあれば、たちまち1024通り(2進数での10桁分を10進数にした時の数字)ものパターンができることになる。

単純な切り分けは力強い説得性をもつが、その実態には上記のようなこともあるので、十分は考察が必要な場合もある。


01.11.02

ヤンキースが昨日ワールドシリーズの第4戦、9回2アウトから同点に追いつき、ジーターのサヨナラホームランで勝ったが、本当に強いチームである。ヤンキースにコーチ留学していた人に言わせると、新人の時代からチャンピオンらしくプレーせよと教え込まれるそうである。確かにそういう気持ちが、「俺達がまけるわけがない」というプレーになるのかもしれない。

ワールドシリーズでは、豊富なデータをもとに準備もおこたりないが、早い回からバントを使ってきたり、シーズン中とは戦い方を変えるとか。「勝ち方」を知ったチームというのはどこの世界にもあるものだ。


01.11.02

10/31にブリヂストン株を1142で手放したら、翌日150円近く上昇していたのはショックだった。別にソンをしているワケではないのだが、「取らぬ狸の皮」にどんなに心が動かされるものかを甘く見ていた。実際は1600+の時もあったのだからそれから比べると「想定損」は小さいのだけど、「1日違いで…」ということも大きい。

実際は、株とはそういうものだということなのでしかない。本来、なかなか予測が付かないものを相手にしてるのだということだ。そのつもりであらためて腰を据えて「投資」をしてゆかねばならない。大局的にみて、今が「買い」のチャンスであることは間違いないとおもう。


01.11.02

考課会議で、S氏にSEをやらせるのは問題ではないかという質問をO氏にしたが、「だって、人がおらんのだから」という。これは極端なことを言えば、医者が不足しているときに、同じ病院に勤めているのだからといって看護婦さんに医者の役をさせるようなものだ。そのO氏の考え方を不思議に思わないA氏もあんまりマネージャとしての資質があるように思わない。


01.11.01

自分は、郵便局に勤めるアインシュタイン、ユニクロに勤めるベルサーチであるとおもっている。いかにまれにみる能力でも、能力はそれが必要とされる場所でしか評価されないのだ。そうして、まれにみる能力というものはそれが必要とされる場所すら未だ存在しないということも多い。

理学系の人間は、「原理原則」自体を自分で再評価しようとする。そうでなければ理学における発明、発見、研究はすすまない。工学系の人間は、ある程度過去の知見を無条件に受け入れてその範囲の応用に知恵を巡らせるものだ。工学的成果を求められているところで理学的アプローチをしても評価されず、また、評価につながる成果にたどり着くには長い時間がかかるという事がおこりがちである。


01.10.30

NHKの「夢伝説/ビリー・ジーン・キング」が興味深かった。ボビーリッグスとのゲームは1980年だったようだ。また、彼女の行動がテニスのプロ化を認める契機になったとはしらなかった。

また、彼女は女子テニスの賞金が男子の1/10であったり、あるいはまったくなかったりした時代に、賞金の公平化をさけび、女子の締め出しさえ実施した大会があるなか独自のスポンサーを探して女子のプロテニスツアーを成功させた。その大会はバージニアスリム大会だった。タバコのブランドイメージの「自立した女」ということに大会の内容のイメージがピッタリだったようだ。

ビリー・ジーンのゲームの何日か前には、マーガレット・コートが6−2、6−1というようなスコアでまけていたとは知らなかった。ビリー・ジーンは持ち味のサーブ・アンド・ボレーではなく、試合の直前にゆっくりしたストロークでつなぐという作戦にしたらしい。それで、機をみてサーブアンドボレーもおこない自分のペースに持ち込んだ。

3セット連取したということなので、5セットマッチであったようだ。当時BJKは30半ばくらい、リッグスは55歳であった。

米国滞在中に時々コーチしてもらった人に、バート・ブラウンという、もう60を超えた元テニスプロがいて、彼はボビー・リッグスとは友人だった。そのバート・ブラウンに言わせると、その時リッグスは体調がわるく、ひどい熱があったそうだ。

ただ、テレビで見た限り、ゲームが終わったときにはボビーはネットの上を飛び越えキングのところへ歩み寄り、背中をたたいて祝福を述べていた。負けっぷりとしてはよかったとおもう。

BJKはイギリス人はゲームの内容がよければそれをたたえるが、アメリカ人は勝ったかどうかしか気にしないと言ってたのが、いまさらながらカルチャーショックだった。ゲストの佐藤直子もアメリカのトーナメントを回っていて何時も聞かれるのは"Did you win?"だったそうだ。勝った子には一緒に練習してくれと言うが、まけた子は見向きもされないらしい。


01.10.30

評価というのは、目標が適切に設定されてなければ正しくなされない。標準化チームの開発目標にしても、どういう内容でどういう人間が担当すればどの位の時間がかかるのかという見積が十分なされておらず、「希望的」納期で新人を頭数に入れて目標をたて、その納期が達成されてないといって担当者の評価がさがる。

これはマネージャの能力がないだけだ。納期が遅れそうになったら当人がいっそう努力するということではなく、マネージャが遅れの原因をつかまなければならない。それに対する打開策なり、線表の引き直しをする必要がある。そういうことを無しにして感覚的な評価をする限り、プロジェクトの進め方のノウハウは一向に蓄積されないだろう。

評価する側のマネージャもマネージャとしては未熟なものばかりが集まっている。プレーヤとして優秀な人間がまず認められて上に上がるのだが、プレーヤとしては優秀でも指導者としての力量がどうかはまた別物だ。そのことは日本のプロ野球を見ていてもよく分かるのだが、まったく同じ社会構造になっている。

専務は人が育たないと言ってるが、育ててないだけだろう。リーダーにはなってもそれ以上になれない人は責任だけ負わされて権限を与えられていないケースも多いのではないか。ある程度失敗をゆるして育つのを待つということも必要なのだが、何か難があるとすぐにダメやなぁという評価になる。


01.10.29

考課会議にて。日本人の育て方の下手さは伝統なのか。小学生にいきなり、高校生なみの速球を要求してもしようがないし、体力のない高校生にいきなり甲子園のエースのような速球を期待しても無理だ。いくら年をくっていても、適性のないものに過度の期待をしても無理というものだろう。相手の能力にあった、それよりちょっと上の課題を与えてゆくしかない。


01.10.23

国の豊かさは、あんまり取り柄もないような人間でも安らかに暮らせるかどうかということではないか。優秀な人間や、運のある人間はどんな状況でも豊かに暮らすことはできるものだ。しかし、底辺にあるような人間が平穏な暮らしを出来ない限りその社会には不安がつきまとう。

幸せな国民とは、健康に生まれ、健やかに育ち、父母の愛に恵まれた子供時代をすごし、希望に満ちた青春を過ごし、活力に満ちた社会生活を送り、安らかで豊饒な晩年を過ごすことのできる国民ではないか。


01.10.22

人間の社会にはとかく「勝負」というものがつきものであり、それを中心にした社会観とそれとは別の社会観があり、それは一般的には「男型社会観」と「女型社会観」とみてよい。男は概ね競争したがるものであり、女はもっぱらつまらないことでもコミュニケーションを図ろうとする。


01.09.24

本来、政治は対処療法的措置だけではなりたたない。危機管理というのも政府の重要な役割であるが、これには予知・予防という能力が必要になる。日本の危機管理がみごとに後手後手にまわるのは、この予知・予防の欠如にほかならない。また、それは政治が対処療法にのみ終始してきたことの帰結のようにも思われる。


01.09.16

「生かされている」という視点が、人生をよく生きる上で大事なことかもしれない。別の表現をすれば「許されている」ということだ。人より劣って生まれたのなら、それはそれが許されているのである。その人が持って生まれた能力の範囲で精一杯生きることがその人が「生かされている」ことの意味であって、自分で「生きている」と考えれば、なぜ他の人と自分が違うのか、違わなくてはならなかったのかということに出口のない理由を求め始める。 そうして、挫折する。何かが間違っているという観点からは、何が間違っていたかという答えしか視野に存在しなくなる。そうしてその答えは、「自分が間違っている」という自己否定か、周りを否定するしかなくなる。

あるがまま自分を認め、自分に与えられた能力・環境のなかで精一杯生きることがとりもなおさず回りにも良い影響を与え、自分も幸せになる秘訣ではなかろうか。

筋力などは、もってうまれたものが2倍くらい違うこともある。自分の努力で通常補えるのは50%位のものではないか。それを超える才能があればそれはそれでどうしようもない。ただ、自分のやりかたは、手法として、その筋力だけをまともに勝負の手法としないというようなことで、ハンディを補えるのではないか。

生かされているのであれば、子を持ち、育て、精一杯育ててやることもその「生きる」うちの一つなのかも知れない。

「生かされている」のであれば、自らそれを蔑ろにすることはゆるされず、ましてや人の生をないがしろにすることは論外である。

しかし、この「生かされている」という感覚が、「神に生かされている」という事であれば神罰という考え方も出てくる。そうなると、存在が否定されてしまうことになる。宗教が人を幸せにするために出てきたと考えるのか、神との契約であると考えるかで「主」となるものが違うのである。人間をないがしろにするがごとき神の存在はさて受け入れるべきなのか。


01.09.12

昨日、NHKの夜のニュース10の冒頭で、NYの世界貿易センターの一つに航空機がつっこんだという報道で、ビルをTVが撮しているまさにその時にもう一機の航空機がつっこんでくる映像が出た。航空機はハイジャックされたものであり、2機あわせて160人以上の乗客乗員がのっていたらしい。

また、国防総省にも飛行機が突っ込んで炎上。その他、米国各地で11機もの飛行機がハイジャックされたという。その後、世界貿易センタービルは2棟とも倒壊。映像を見る限り自然倒壊ではなく、爆破されたものに見える。 (これは、あとで自然倒壊と判明。自らの不明を恥じる。)

同時多発テロというわけだが、かなりの組織力をもったものの仕業である。しかし、犯行声明は出ていない。これだけの事はほとんど戦争状態だ。しかし、破壊からは何もうまれてこない。憎悪、悪意により「アメリカ」という仮想実態をいたぶって喜ぶということでしかないのではないか。これによる、自分へのメリットはなにもないわけだから。対象を痛めつけたぞという精神的な満足しかないわけだ。

映画の様に、テロを装った金塊強盗であったり、経済的混乱をベースに金融で大儲けを狙ったりということはないのではないか。

自爆テロという凶行には物理的にはなかなか対抗する手だてはない。これを予防する精神的な仕掛けとして、威圧、道徳心、合理性などがあるのだろうが、威圧に頼りすぎてはテロは防げないだろう。


01.08.29

完全失業率が5%を超えたという。職がなくなっているということだ。ではどこへ職がいったかとうと中国をはじめとする国外へいってるのだ。

では、どうやって職を確保するか。割高でも、国内で調達する。ただし、商品・サービスにそれなりの市場性(価値・安値感)がなければ調達コスト割れする。いままでになかったビジネスなら、競合がいないのだからしばらくは調達コストが高くても、やってゆけるはず。

もう一つは、給料を下げることである。給与を下げても、物価が下がっているならやってゆけるのだ。問題は、教育や住宅の資金などのために給与を下げる選択に抵抗がはたらくことにもある。

経団連の奥田氏が、すぐに出来る雇用対策として、「学校の先生や、警察官を増やす」という発言をしていたが、これは面白い発想だ。一方で、これらの職業の専門性をあまり感じてない発言なのかなと思ったりもするが…。

日本の問題は、大金持ちがいないという事にもあるかもしれない。水でもそうだが、10mmの水深で100m四方に広がっている水は実は100トンにもなるけれどこれでは使いにくい。一ヶ所に集めて初めて有効に使えるのである。

これでいうと、ある意味では借金でも、一ヶ所に集める必要があるのかもしれない。

「なぜ、この人たちは金持ちになったのか - 億万長者が教える成功の秘訣」を7/7に大阪の本屋で立ち読みしたのを思い出したが、経済全般に当てはまるのである。人一倍努力し、出てゆくお金は賢く使う、人の目の付けないビジネスを地道にやる。(一方で、もっているもので感謝する)というような事が本当は大事なのである。


01.08.21

昨日、NHKで遭難というテレビドラマを見た。自分達の力を過信し、山のセオリーを無視したツケが「遭難」ということになってしまうのだが、これは会社の経営でも同じだろう。

いかに死にものぐるいの努力をしても、その努力のしかたが合理的でなければ結局倒れてしまうことがある。そのことをクルー全体が認識してなくてはならない。最終的にはリーダーの責任であったとしても、結論に至る道筋には全員の責任がある。

一生懸命「走る」あるいは「あゆみをきざむ」ことだけに努力するだけでなく、どちらの方向へ向いて進むべきかというノウハウの確立と活用にもっと注力するべきだが、日本では得てして「努力」そのものが過大評価され、「努力」しているから安心とでもいうような「努力教」の信者が多いのは残念でもあり、難儀でもある。。


01.08.08

何故会社が変わらないか。生活習慣が変わらないのとほぼ同じ理由であろう。生活習慣は、病気になっても変わらない人もいるし、大病を契機に変わる人もいる。会社の場合、自分に直接の痛みが無いだけに、より変わりにくいということになろう。


01.07.31

社内で誰も経験のないことは、若手にやらしてみたほうがよい。失敗してもそれ程評価は下がらないだろうし、適度な大胆さが出て功を奏することがある。ある程度の地位にいるとあまり妙なこともできないのでやはり慎重になる。


01.07.27

中国の追い上げがすごいようだ。25日のクローズアップ現代の眼鏡フレームでもそうだったし、DVDなんかも中国の生産が一番らしい。

しかし、大局的に考えると、既存技術による製品は新興国が作った方が安くできるし、それで富む人たちは先進国にいる同様の人たちよりははるかに富む権利(権利と言えるならばだが?)と多く持つだろう。

先進国は、同様の必死の努力でよりすすんだ技術を開発しなくてはならないだろう。常に努力するということを厭う人たちにとっては「この絶え間ない競争」という心理状態は耐え難いものなのかもしれない。「エデンからの追放」の悲哀を味わされるということになるのだろうか…。

けれど、結局、「努力したものが報われる」という世界の方が全体として良い方向へ向かうのではないだろうか。


01.07.26

思えば、細部を気にせずに何となく理屈・理論が分かったらその先へすすむという態度がずっと小学生から続いているように思う。理論の応用は臨機応変に、必要になればいつでもできるという態度であった。

これはいまも変わらず続いている。だから、大抵のことは大体わかるのだが、本が書けるまでの知識はどの分野にもない。ある分野の掘り下げた知識については、時間さえ掛ければいつでも習得できるとう感覚でいる。でも、これではプロとして通用しないようだ。

そろそろある分野について深く掘り下げる時間をとるべきなのかもしれない。


01.07.11

人生は結果ではない…、と考え始めたが、これは一般には受け入れがたいものなのかもしれない。

人生は結果ではないとするなら、何かというと「過程」であろう。何を残したかが「A面」ではなくて、それは「どう生きたか」ということの「B面」で無くてはならない。

無論、「過程が大事」なんてことは言い古されて来ているわけだが、それを鵜呑みにすると痛い眼にあう。「結果がすべて」というほうが現実には横行している。それでもやっぱり「過程が大事」そういいたいがための議論である。

もっとも、レコードが一般でない今、若い人にはそもそも「A面」「B面」なんていう表現が通じないかしらん。


01.07.11

世の中には人並みの結果で十分と考える人間と、人並みの結果では不十分だと考える人間がいる。

人並みの結果では十分でないと考える人間の中に、それなら人並みの努力では達成できないと考えて努力する人間と、人並み以上の結果というのは「運」のたまものであり、「運」を探すことには時間をおしまないが、必ずしも人並み以上の結果には地道な努力が必要でないと考える人間がいる。


01.07.05

「人生、何でもあり」だとつくづく思う。「ナニガオコルカワカラナイ」とも「諸行無常」とも表現できるけれど…。つまり、偶然を妨げるものは何もないという事である。

統計学的な見方をすれば、普段我々がみるのは標準値であり、標準偏差のウチにあるものではあるが、3σ、6σ(シックスシグマ)ででも出てくるものってのはあるということだ。いかなるものも「確率ゼロ」とは言えないと言った方がわかりやすいかもしれないが。英語ではこれを”Never say never”と言うのだろう。

標準偏差の間にある事象を本流と見て人生を処すならば、「人生7割主義」というのは本質的な処世術かもしれない。


01.07.02

フェミニズムの主張を聞くと、時に「オトコ社会がすべて悪いのであって、自分たちは犠牲者だ」と言ってるだけのように聞こえることがある。これは子供の論理と変わらないのではないだろうか。「僕は悪くない、○△ちゃんが悪いんだ…」というワケだ。

社会の成り立ちには、偶発的な部分も、サバイバルのための社会構造も含まれているし、それなりに歴史を積み重ねて徐々に出来上がっている部分も大きい。それを理解しようとしない主張が多いように思う。

無論、それを「理解させられて、だから何も変わらなかったんだ。」という主張にも一理ある。

とかく「社会を変える」運動の摩擦の多さに、「慣性を変える必要エネルギー」がいかに莫大なものかを思い知らされて時に暗澹とした気持ちになる。


01.07.02

人間は放っておくと自分のやることを正当化するものだ。自分自身の行動に疑いを差し挟むことができて、なおかつ自分に対して自信を失わない、そういうメンタリティの持ち方が必要だ。


01.06.30

自分がHPに書いていることは凡人の悩みだという気がするが、凡人の悩みでもそれを参考にしてもらって、「よかった」と思ってもらえる相手はいるのではないだろうか。

ただし、こんなものは出版する程のものではない。だからHPが役に立つのだろうけれど、今や星の数ほどあるHPだから上手く探し出されるのは難しいかもしれない。


01.06.06

選択肢が増えることは、豊かになること、良いこと、であるとはおもうが、それが個人の幸せにつながるかどうかは分からない。選択肢が増えれば増えるほど、選択しなかったものが増える。つまり、積み残しが多くなると言うことだ。全体から見て、選択することの出来た比率が少なければそのことだけで満足感が薄らぐことさえある。

選択できる範囲が少ない方が、選択しなかったものとの比較はしやすく、自分の選択に満足がゆく可能性が高いとさえ言える。


01.05.30

軍隊は、「今に生きる」ことが徹底されている。必要最小限のものをきちんと整理していつでも使えるようにしておく、そう言う生き方をするようだ。これはとりもなおさず、何時死んでも良い、いつ召集が掛かってもいいということだろう。武士のたしなみに通じるものがあるようだ。映画の "General's daughter" の1シーンをみてそう思った。


01.05.16

人生には自分の手の及ばないことと、自分の自由になることがある。自分の手の及ばないことに不満を漏らしてみても始まらない。自分の力の及ぶ範囲がどこまでかを認識し、その範囲で最大の結果が出るようにしなければ。


01.05.10

「人を育てて使うといい」というが、実際はなかなか難しい。ある程度の年がゆくとそこからその人のやり方を変えるということはほとんど不可能と言ってもよいくらいだ。30の半ばを超えるあたりがその境目ではなかろうか。育てたくても育たなくなるのだ。「鉄は熱い内に打て」とはよく言ったものだ。


01.05.10

会社はだれのものかというと、ほとんどの中小企業ではオーナーのものである。従業員のためのものでもなければ、社会の公器でもないことが多い。無論、これはオーナーの考え方次第であるが…。ただやはりある程度の規模を超える会社になるには「オーナーのもの」であっては難しい。


01.05.09
人生において大切なことは、まず、自分が幸せであること。 幸せな人間は周りを不幸にはしない。

次に、より小さな材料で幸せになれること。次には逆境でも幸せであり得ること。

そうして、できれば周りの人を幸せにできること。


01.05.01
経済の活性化とは、そこにマーケットができることである。いろんなところからものや情報が流れ込んでまた四散してゆくということ。

単に、ショップが出来ただけではいけない。また、そのマーケットに特徴が無ければならない。海産物ならどこそこ、農産物ならどこそこというわけである。

ローカルな経済を発展させるものはローカルにしかサービスできないものであろう。結婚式のマーケットなどは一つの典型。お葬式もそうである。老人ホームや給食サービス、COOPの食材配達などもそうだろう。

ただ、文房具などはローカルマーケットだったものが、いまはグローバルマーケットになりつつある。


01.04.27
リーダは自己改革のできる人であって欲しいものだ。放っておくと、「慣性」というものに取り込まれて、進路さえ変えることが出来なくなる。


01.04.11
サービスというのは、基本的にはローカルなものである。しかし、eビジネスの登場で、必ずしもローカルではなくなった。この事例では例えば卸売り業者がある。卸売りが必要だったのはサービスがピラミッド型だったからである。eビジネスでは文鎮型の売買構造になる。だから中間サービスの業者は排除されてしまう。これらの中間サービスの会社は商売代えをするか、自分たちにしか提供できないサービスを考えねばならない。

一方で、キワモノの商売が成り立つ要素が出てくる。提供者と受領者の幅が広がるからである。限られた範囲のマッチングでは取引がなりたたなかったものが範囲が広がることで商売になってくる。


01.04.11
司法書士なんてのは、ネットワーク上でも商売ができるのではないか。社会保険労務士なんかでもそうだとおもう。

これらのサービスは手作業が必要なものである。こういうものは手作業の効率があるところで頭打ちになるし、需要に対して供給能力が限定されておればサービス価値は高まることになる。

また、対面型のサービスはeビジネスがとって変わるわけにはいかない。対面型のサービスにどんなものがあるのかを考えてみるのもよいだろう。


01.04.11
こういう需給バランスをローカルやら、全国的にやらでメーター的に表示するこころみというのは面白いかも知れない。→これは結局株式のマーケットのようなものだろうけど。サービスの売り買いをするマーケットということもできるだろう。


01.03.27
人間は、思考や観察を一度抽象化することで、思考や観察を展開し、過去の経験や他の人の経験と比較して判断するのだが、この抽象化が上手くない人は、思考を展開して問題解決をすることが難しい。


01.03.27
いまの世の中、どうやって「上手く生きる」かという価値が主流であって、どうやって「良く生きるか」という価値がなおざりにされているように思う。


01.03.23
より多様な現実を包括できる理論の方がより真実に近いように思う。ある宗教が、他の宗教を否定するのは簡単だが、それを包括するのは簡単ではない。できるだけ多くの事実を包括して、できるだけ多くの人に幸福をもたらすことが哲学の命題ではないか。


01.03.22
考えてみれば、「アウトローを描いた映画」を何故見るかというと、そういう体験をしてみたいというのがあるのではないか。人間、なんの束縛もなく、思いっきりやりたい放題をしてみたいという願望があるのだろう。


01.03.19
なかなか長期展望に基づいて自分を律するというのは難しい。週刊誌をつい買ってしまったり、野球や、テニスの生放送をつい見てしまったりという行動をやめて、将来に備えて勉強するというのは難しいものだ。しかし、政治に将来を見据えて行動しろというけれど政治もこの延長線上にあるのではないか。やはり、将来の事より目先の処理事項に頭が行くのだろう。


01.03.13
人を「非難」するのには大変な技術が必要になる。そもそも「非難」というからには、相手に改めてもらいたい事柄があるのだが、それを「非難」という形でぶつけて相手が非を悔いるかというと、大抵の場合にはそうはならない。

相手のやり方を変えるには、自分の力でねじ伏せるか、第三者の力を借りてねじ伏せるかしかなくなる。その際の「非難」というのはどちらかというと「自分の正当化」の道具であって、相手を説き伏せるためのものではない。

「批評」というのは、「非難」とちがい、理知的根拠にもとづいてある「もの」なり「行為」なりの価値を論じるものだろうが、これさえも「批評対象」となった当事者から冷静な反応が帰ってくるとは限らない。

人間社会においては、いついかなる場合にも「戦い」というよりは「共生」により問題解決を図るべきだとおもうのだがその意味では「非難」は戦いの道具なのである。


01.03.13
地位は人格を保証しないが、地位は人格を試す。人格は地位を保証しない。人格が地位を試すかどうかは不定である。

地位は、「過去の実績」による「上がり」ではない。地位というのは、坂道を登るエンジンがその登坂能力によって獲得した位置であり、エンジンが能力を失えば当然に位置が下がる。


01.03.13
あいしているなんてヤボなこと
ぼくはいわない

あいしているならば
ぼくはみつめ
ぼくはみまもり
きみをみているだけで
こころがみちてくる

ああでも
ぼくのまなざしに
あなたがきがついて
ぼくをみつめかえして
くれるならば
ぼくはどんなにかうれしかろう


01.03.12
「最大多数の最大選択」というのが人類規模で目指すべき「豊かな生活」としてのテーゼではないか。よくも悪くも個人にとって選択肢が幾つあるかということで気分は豊かになる。ただし、これには「賢く選ぶ」ためのガイダンスがついてなくてはならない。「安かろう、悪かろう」という選択では豊かにならないからである。これはつまり、適切な「教育」を受けることが出来ることも「豊かな生活」の必須条件だということになる。


01.03.05
ソフトウェア開発の場合に、お客さんが「神様」ではなく「『カモ』様」になることがある。能力の低い所にまかせると、踏んだり蹴ったりになる。


01.02.28
コメントの(3/2)準備。希望というのは物事に立ち向かう勇気から出てくるのではないか。ではどうすれば勇気を持つことが出来るか。つらいことでも、あることをあるがままに見つめるということではないか。言葉を変えれば「逃げないこと」。あるいは「やせ我慢」といってもいい。この姿勢がなければ勇気が、そして希望がでてこない。

韓国では、「義死」という考え方があるそうである。それは儒教文化の影響なのだそうだ。人を助けて自分が死ぬということは価値有る行動とみなされ、遺族への国家からの支援もあるそうだ。そういうお国柄なので、先だって地下鉄に転落した人を助けようとして無くなった韓国の留学生の問題で日本の体制を責めるような発言がでなかったらしい。このことも状況を見つめて逃げない姿勢と無縁ではないようにおもう。


01.02.27
人間なんて、ほぼ偶然に活かされているような面がある。それに気が付かないでも上手く行くときにはうまくゆくが、上手く行かなくなると、このことに気が付いてない人は何が何だかわからなくなる。


01.02.27
頭のいい人間は、しばしば世の中のいい加減さについてゆけなくなる。そのいい加減さに唖然とし、どうにかならないのかと考えるうちに世の中は次々と先にすすみますます取り残される。「何故…」を考える人間にこういうことが起こりがちである。「どう…」という現象面の観察と応用に頭を使えばその現象を自らに利する形で取り込めるのだが…。


01.02.27
出世というのは、自分が世の中に出て行くという面もあるが、世の中を前へ出すという側面も持ち合わせている。自分が世に出ることで、世の中を前に出す。そういう出世なら皆が大いに目指すべきである。


01.02.26
昨日の深夜のNHKアーカイブスを見るともなく見ていたが、大阪の「私立S病院」の日常を通じてあらためて人間の悲しみを思い知らされた。糖尿病の入院患者を退院させてみたり、労災で入院しているものの休業保障の金をもらえずにいたり…。大企業に努めていても安泰ではないと言われるが、この人たちのレベルから見れば大企業に努めるサラリーマンの安定感はやはりすごいモノがある。

どのレベルで、「大企業の安定」を評価するかによって随分とものの見方が変わってくるものだ。以下、NHKアーカイブスで私がみた番組の紹介(NHKのHPより)

『ドキュメンタリー「救急指定 私立S病院」55分/1975年(昭和50年)大阪の下町、とある救急指定の私立病院。急患、行き場のない老人、そして死──。その医療現場の現状を、撮影スタッフが2か月間泊まり込みで密着取材し、病院の日常が物語る、現代日本の医療現場の矛盾や問題などを描くドキュメンタリーである。』


01.02.23
自分は人と言い争うことがいやだから、表面上は何も波風が無いようだけれど、自分にとって受け入れがたい事を我慢しているというのはやはりかなりのエネルギーが必要なものだ。

愛し合っている男女には愛し合っているなりの悩みがある。また、一体感を持っていればいるほど連れ合いがいなくなったときの喪失感というのは大きいだろう。人生、何からなにまで上手く行くことは少ないモノでは無かろうか。


01.02.21
「大岡裁き」というのは、法と人間を両方熟知しなければ達成できない。法治主義というのはある意味で「人間理解の上に立った裁き」をあきらめるということの上になりたつ。「人間理解の上に立った裁き」はバラツキも生じるし、受け止めて理解する側の評価もマチマチになりがちだからやむを得ないとは言えるが、一方で、法治主義の限界を理解する上では「大岡裁き」というようなものの存在を意識する価値があるのではないだろうか。

昔の、ご隠居やお年寄りの知恵というのはこの「大岡裁き」につながるところがあったと思うのだが、いまやお年寄りは「年寄り」「老人」でしかなくなってしまった。


01.02.22
一人前になるには、頭を鍛え、感性をとぎすまし、体力をつけ、肝を練らねばならない。いまの教育は頭さえ鍛えてない。ましてや他のことはなおざりになっていると言わねばならない。知識と教養はあっても知恵の無いのは頭を鍛えたことにはならない。

ちなみに、教養というのは知識の詰め込みではなく、幅広い興味のなかから自ずと学ばれて錬成されたものでなくては本物ではない。そういう意味では生活レベルが自ずから教養に出てくるのであって、昔は貴族のようなものでなくてはとてものことにそんなモノは身に付かなかったはずである。

ちなみに、教養は英語ではcultureになるようだ。


01.02.19
会計プロジェクトが福祉の方に吸収されるようになった。華谷氏が全部まとめてみるらしい。まあ、それはそれでいいが、事前に何の連絡もなく、なんか、ちょっとがっくりときた。こちらの想定では私の方に来るのかなと思っていたが、予想外。営業活動において、華谷氏の方が信頼度が高いということだろう。面目丸つぶれだね。まあ、これではまったくの窓際だ。

金曜日に阿部さんが「華谷には声をかけてないんか」と言っていたのはこういう下地があってのことだったのだろうか。会計プロジェクトでモノを作るという事に、こっちもせっかく乗り気になってきていたのに、なんか突然お預けをくった感じでもある。Magic部隊として大同団結すれば、プロジェクトのタスクの振り方にも自由度が増すのは間違いないけれど…。会計の本をいっぱい買ったのにどうしてくれるんだ、ホント。

まあ、こういう事はいくらなじってみてもしようがない部分はあるけれど…、一言も事前に連絡やら相談やらがなかったのはショックだ。


01.02.16
スポーツが感動を与えてくれるのは、とても信じられないようなことを人間がやってのけるのをみて勇気が湧くからであろう。気持ちが前向きになるのである。スーパープレイに拍手が湧くのは自分にもなにかすごいことをできる力があるに違いないと思わせてくれるからだと思う。


01.02.15
リーダの役割というのは、皆に前向きの活力を与えることだろう。与えられた環境・資質を最大限に活かして、最大の効果を引き出すためには皆が前向きの活力を持って仕事をしなくてはならない。そういう意味では、共産主義は皆の前向きの活力を押さえ込んでしまったのだ。

コンサルというのは、他人に勇気と活力を与えるモノでなくてはならない。コーチングだってそうだろう。高橋尚子を指導している小出監督なんかはそういうコーチだ。他人に勇気と活力を与えるには自信を与えることである。つまりは自分の診断に自信がなくては、他人は説得できやしない。

森首相のやることなすこと、とても国民に前向きの活力を与える者とは思えない。また、国会議員もそうである。先だっての国会議事でも皆が皆一様に答弁書を持っていって読んでるだけだ。格好悪いったらありゃしない。

他にもっとましな連中を選べなかったのかとおもうと、自分も情けない。


01.02.15
「出世」というのは言葉は古いが、皆が前向きに積極思考で生活改善に取り組んだという意味ではリーダーシップの発揮におおいに役だったのかも知れない。


01.02.15
「共産主義の失敗は自分たちで何も選ばなかったことだ」というようなコメントをどこかで聞いた。それはあるだろうという気がする。


01.02.15
医者は、「しろうと判断」「しろうと療法」を戒めるけれど、結局の所、自分の体は自分が経営者なのだから、自己責任でなにをどうしようと自由のはずである。医者はあくまで会社経営でいうところのコンサルに過ぎない。もっとも誰しもが立派な経営者になれるわけではないように、自分の体のケアも自分のマネジメントが一番いいとも限らないだろうけれど。


01.02.15
生産効率としては、全員が時給自足するよりも、それぞれが手分けして得意な作物に特化した方が効率は良いだろう。そうすると、自分は交換する元になる財が余るし、他人には交換して手に入れたい財が余っていることになる。そこで交換という経済がでる。人間は基本的には出来るだけたくさんのものを手に入れたがるのである。(その方が安心できるということなのだろうか)


01.02.15
自分に余裕がなければ、相手の言うことには耳を傾けにくいものである。武道でいえば相手に存分に攻めさせてそれを受け止めるということで、受けておいて臨機応変に返す自信がなければややもすると相手のいう事を聞いてなかったりするものだ。


01.02.09
物理は自然界の仕組みを考える学問であり、世の中の仕組みを考えるのが社会学であり、倫理学であり、哲学である。重力が働くこと自体を悪いとか、良いとかいってもしようがない。それと同様に、人間のすること、社会の成り立ちに良い・悪いということがあまり意味のない場合もある。


01.01.26
トップランナー・城島の話は興味深かった。お父さんの励まし。工藤との交流。(部屋を尋ねて教えを請うても、部屋の中から「いない」と言われたとか)何くそという気概。正直さ。お父さんには挨拶だけはせよといわれたこと。父母の方針の違い。


01.01.22
山内氏の朝のコメント、大阪で「デフレ時代のもの作り」という講演をしたという話。中味は日産のゴーン、シャープで、原価を抑えたという話。中小企業にはハッタリを効かして、こういう大きなエリアでの物言いが通じるのかも知れない。いかにも実際に知っている様な話し方がポイントなのだろう。

その実、自分の部門に当てはめると具体的な対策は何も打ち出せないでいるのだが…。


01.01.19
日本の文化は、「不可能を可能にする」ということにあこがれるような部分がある。言葉を変えれば「やる気があればなんとかなる」ということである。これは確かにその通りなのだが、どう合理的に考えても難しいことも一方にある。何が「不可能を可能にする」がんばりの対象になるべきで、何はそうならないのか、この見極めが難しい。


01.01.19
欧米の契約は、「騙しあい」あるいは「勝ち負けゲーム」というコンセプトの上に成り立っているように思われる。つまり、「他人は信用するにせよ、信用できないものとして考えて契約を結べ」ということである。日本のやりかたは、「騙されても、それはあの人の真意ではないに違いない…」という様に見える。


01.01.18
何の事業にも、アイデアとそれを推進するパワーと、人、運、金などが必要になるが、案外アイデアについては軽視されているように思う。アイデアというとアイデア倒れになる可能性があるが、局面を打開するのは「発想」であるとおもう。


01.01.15
日本人は伝統的に隠す文化が好きなようである。誰しも「秘伝」の類にあこがれたことがあるのではないか。あるいは、「10年は修行をしなくっちゃ一人前じゃない」というようなことを聞くとひどく感銘を受ける。

西洋的な発想は、「10年修行をせよというが、その根拠はなんだ。なぜ5年じゃだめなんだ。」というアプローチである。それをオープンな資料にしてゆく。これが工業化の発想だとおもう。日本のQCやらTQCの活動というのはこの「秘伝」の工業化だと思うが、まだ先端企業の文化にとどまり日本の国の文化たりえてないようにおもう。

無論、西洋も昔は「秘伝」の類が多かったはずだ。しかし、いち早く「公開」「標準化」の大切さに気が付いて実行しているとおもう。



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