02.04.30
最近、「苦しかったけどがんばった」という経験をしなくなった。仕事でもなんでも、「追い切り」をしないとうまくゆかないことっていうのがある。その「追い切り」は大なり小なり苦しいもんだが、最近そういう経験をしていない。
昔は結構仕事で「追い切り」をやっていたものだが、やはりそれがないと仕事の力は付かないように思う。そういう意味で少し焦りのようなものがある。
ただし、「追い切り」をしないでやれる人というのもいる。「毎日1時間」というような習慣的行動のとれる人だろうが、そういう行動のとれる人は精神的にしっかりしていると言うことなのか。単に好みか。あるいは習慣の問題か。
02.03.29
突然だが、近所の八百屋で買ってもらう「ラスク」が好きだったなぁ。あれって当時5円だったろうか。八百屋さんで「ツケ」で買い物して、その「ツケ」は本当に帳面に「つけ」るので、ああそうかと思ったものだ。
お小遣いは10円くらいのものだった。たしか「たこ焼き」が10円で6個買えた。
ちなみに「ラスク」とは堅焼きトーストの片面にバター塗って、クリームと粗目の砂糖がこってりまぶしてあるようなものだった。
02.04.24
自分が女友達との間だにも「乾いた」「男友達のような」関係を築くのは母親のべたべたとした愛情を記憶していないからかしら。と、ふと思った。
どちらかというと厳しい人だったという記憶。けれど、「月が僕と一緒にあるいている」というと「そうやね」と答えてくれていた。あの甘やかさはやはり子供と母親のものだった。
元に返って、女友達とはさすがに男友達のようなことはなく、雰囲気は柔らかいのだが、やはりさっぱりした感じから先には進まない。まあ、「同級生」としての女友達ということなのだろう。
「乾いた関係」とは、実は、単に勇気がない、あるいは自分に自身がないだけだ。という事だろうか。
02.04.24
「一を聞いて十を知る」ということがある。
それがどういう事なのか、今日ふと解った気になった。
本では一つエッセンス(その本が訴えようとしているメインの価値)があれば、そのことの大切さを証明し、事例をあげ、権威をつけるための参照を出しということにその九倍位のページを費やしている。
ならば、分量としては一部に過ぎないエッセンスだが、そのこと自体に意義がなければ後の大部分は読まなくてもいい。
つまり、「エッセンスについて異議がなく、事例も大体見知った内容だったり展開が判るものであったり、権威付けには興味がなかったり」ということならば一の部分で全体の十がわかることになる。
02.04.19
今は言わないが、昔、父が「引退したらカウンセリングをやる」と言っていた。
これは今になってわかるような気がする。何らかの形で自分の経験を社会へバックしたいという要望だったに違いない。
カウンセリングがビジネスになるか、軌道にのるか、そのことで自分をダメにしないかという心配がこちらにあったのだが、そういうことも引っくるめて支援してあげればよかったようにおもう。
話は変わるが、社会の機能として、年寄り(人生経験を積んだ人間)が知恵を貸したり、誰かを慰めてあげたり、ということは必要ではないのだろうか。
西洋ではキリスト協会の活動がそういうものを引き受けているようであるが、日本の場合、町内会というもの(江戸時代なら、長屋の大家と店子)がそういう機能を果たしていたのではないか、ふとそう思った。
ただし、現代人のかかえる悩みは多様であり、本来心の問題に発するものでも当の本人はそうはとらえてないということもある。
まあ、そうなってくると、町内や長屋というようなレベルでは解決できないような相談事の方が多くなってくるだろう。案外、ネットでよく見かけるオークション方式で相談者とカウンセラーをマッチングさせるとうまくゆくのかもしれないと思ったりするが。
02.04.14
土曜日の経済レポートで、小売りの場合人を減らしたからといって利益が伸びるわけではないということの解説をしていた。
日本では競争が激しいのでサービスが落ちると客足が遠のくということ、人件費はアメリカの1.3倍だが、設備費はアメリカの1.6倍であり、人を減らし、設備投資で大規模店舗をもうけても利益はあがりにくい(大店法の改正で競争が厳しくなっている)ということなどがあった。
思わずあっと思った。はたして自分にこういう冷静な「データの確認」ができるだろうか。直観を重視しがちな自分にとっては冷水を浴びせられたようなショックがあった。
心して事象をみるべきである。
02.04.14
柳田邦男がNHKのインタビュー番組に出ていた。そのなかから、うんうんと思ったこと。
ちなみに、彼の息子は自殺で25歳の命を閉じ(「自死」という表現を使っていたのが印象的だった)、脳死の時に臓器提供をしたということだ。
死は残されたものにすごく大きな力をもって迫る。死は単に死ではなく、生を生む。というようなことを言っていた。
また、人間は合理的、科学的なものだけでは生きられない。息子の遺体が帰ってきたときたまたま衛星放送で彼の好きだった曲がかかり、(「葬送の曲」と言っていただろうか)科学的にはそこにはなんの因果もなくて偶然だとは思うけれど、いかに自分の心がそれで癒されたかということ。そういう事実があるということを言っていた。それも心に残った。
02.04.14
人間、与えられた生をよりよく生きようとする者が、より神から祝福されるような気がする。
何事も与えられたものを粗末に扱うことはできないのだ。だから、医療もできるだけの事をすればいいのではないか。それも、与えられた条件の一つなのだから。
戦争中でも必死に生きる思いでいたものの方が生き抜くことができたのではないか。
02.04.12
例えば、増岡選手がパリダカで優勝した。そのための努力はかなりのものである。でもパリダカ優勝ということが何か社会を明白に前進させるかというとそんなことはない。
ただ、人はそのことに着目してすごいとおもい、日本人は誇りに思い、そうしてインタビューが回ってくる。そこで、勝つためにどんなことをしなくてはならなかったかその努力が明らかにされる。
そこで初めて、「ああ、あんなに努力するんだ。あんなことまで考えるんだ。そうでなくては物事を成し遂げられないのか」と人は感心し同じ様な行動がとれるように努力するものも出てくるだろう。
何か、困難にチャレンジするということはそれだけで意義があるものである。それはもっと人間の実社会の利益に即した課題にチャレンジするときに、人に勇気を与えてくれるからだ。
ちなみに、彼の努力とは、若い時にフランスにゆきパリダカの公用語のフランス語を学びつつメカニックの技術を学ぼうとした。(それでもメカニックには参加させてもらえず、ガレージの掃除のような雑用ばかりだったとか)。
レースのVTRをすり切れるまでみて、どんなことが起こり得るのかを研究し、対処法をイメージトレーニングする。動体視力を鍛える。レース中の心拍数120を持続できるようにバイクに乗る。(心拍120前後)、仕事の出張先でもマシントレーニングをする。特注のメガネで、裸眼1.2の視力を2.5まで高める。篠塚のサポート役を長く務める…。
02.04.12
「一流」のレベルにチャレンジしないと本当のモチベーションは湧いてこない。
人が既に達している内容をフォロー研究するということで満足する人もいるかも知れないが、自分は今までの常識を覆すようなものを研究してみたい。だから「一流」のレベルにチャレンジしなくてはならない。
02.04.11
今自分は、成果をあれこれ前もって予想してその結果が大したことなさそうだというので何をやるか目標を見失ったようなことになっている。
でも、そんなアホなことではいかん。生き生きとチャレンジし続けること、そのこと自体が貴重なのであり、結果がそんなに一度に出るわけがない。
何か人の耳目を奪うような成果を願望するのは、低次元の自己実現欲ではないか。
しかし、うまく成果の出そうなことがないからといって何の努力もしていない現在の自分は、口先だけの人間だということになる。
自分の、「何か適当なテーマがあれば、たいがいのことは人よりうまくやってみせるという「自負」(仮想、あるいは懸想している自己があるが)」がホンモノなら、何をとってもその鮮やかな切り口を見せることができるはずである。まずはトライだ。
外のセミナーでさえ、かけている時間に比べて学ぶことのできる内容が薄いと心で思って遠ざけているのなら、簿記の3級なんて通って当たり前と思っているなら、それを実際にやってみなくてはなるまい。
それで初めて、自分も感動し、周りも感動させることができるだろう。
「できるものはすべて」、その雑食精神が自分の特色であったはずだ。それを極めてみることに意義があるのではないか。HPにしても、その内容が自分でものたりないなら、もっと勉強して厚みをつければいいではないか。
立花隆のような仕事ができるとおもうなら、時間をかけてやってみればいいではないか。「今自分に取れる時間ではとても…」というのは立場の自己矛盾であり、ご都合主義である。
当たり前の話だが、階段は一歩一歩あがってゆくしかないのである。
02.04.10
経済を考えるときに、熟練の手作業の価値を忘れてはならないとおもう。
機械化によってできるものは資本さえあれば先に導入したものの勝ちになる。しかし、機械化できない領域では熟練者のマーケットが残るわけである。
機械化できない領域とは、マーケットが小さすぎて引き合わないものや、技術的に機械化できないものである。
02.04.08
強さということは、たたかれて、鍛えられて出てくるということがある。耐える経験がなければでてこないモノがある。
自分に何か好きなものがあって打ち込む場合にはその活動を通じて鍛えられる。運動をする場合には強制される内容を通じて鍛えられる。
昔の人は「可愛い子には旅をさせよ」といった。鍛えるということの意味を分かっていたのではないか。
02.04.01
生存をかけて戦う。生き残る。そういうものが一番「生命」を感じるものなのかもしれない。
人間社会としては、そういう生存競争をどれくらい避けうるかという課題を追求するべきだとおもうが、かといってこういう現実を無視するわけにはゆかないだろう。
02.03.29
男と女は、無論「同格」であるが、そのことは必ずしも「同列」である必要も「同様」である必要も問わない。
男と女の一般的な役割の違いというのは社会的、歴史的に存在し、それはその意義があったのであり、それが性別のみで強要されることもあった。
無論そういう面は是正されるべきだが、逆に、一般的な意味で「同列」あるいは「同様」の扱いをしようとすると、せっかく「男」「女」に分かれて生まれたことを無駄にする方向にゆきかねない。
02.03.29
「やってみるまでわからない」という言葉は使う人によって随分と意味が違う。
できる人は、「あらゆる検討をして、まず99%はOKだと思うが結局のところやってみないとなんともいえない部分は残っている。」という意味や、「あらゆる検討をしたが、実験的にやってみないと反応が予測できない面がこれこれ。」という意味で使う。
つまり、できることはやった上での慎重さ、あるいは「ある程度予測のつくことと、やってみないとわからないことをわきまえている」ということを示すために使う。
しかし、できんやつは「なんの前準備もせず、とりあえずやってみる。」ということの免罪符として使う。失敗しても「やはりやってみるまでわからないモンだ。」というための伏線として使うわけだ。こうなるとなんの計画も思慮もないことを攻められないようにするための呪文にすぎない。
会社で会議をしていて、この「やってみるまでわからない」が出たとき、それがどちらの意味なのか確かめるものはまず居ないだろう。皆、自分の感じる理解をするまでである。
こういうものの理解が、何も言わなくても統一される文化を持っている会社が強いのだとおもう。
この文化を社風といってもいいかとおもう。
02.03.28
動物は自分のために、あるいは自分の子孫のために、あるいは部族のためには戦うけれど全くの他人のためには戦わない。
人間だけが「社会正義」というもののために戦うことができる。
であるならば、「人間存在」をかけて自分を問うならば他人のために戦う事が一番価値のあることかもしれない。
02.03.26
「売れる」ということが企業の場合の金科玉条のように言われる。
だが、果たして「売れる」だけでよいのか。それだけでは十分ではないのではないか。
「どう売れるか」「なぜ売れているのか」その判断は私企業には必要ないのだろうか。「顧客の買いたいという気持ちを刺激する」ものが、大きく見てあるいは長い目で見て「売れていいもの(社会に広がっていいもの)」であるとは限らないのではないだろうか。
02.03.26
自分が、専門領域に特化し多弁教より、広く(浅くなる)勉強を好むのは、無意識に「専門に入り込んで本質を見失う」「知ることで却って抽象化能力を失う」という感覚をもっているからのようにも思う。
しかし、それが時に自分の心に不安をもたらしているのも事実だ。
02.03.20
今、システムの検査をしているが、わかりにくい内容のシステムを、それなりに精魂こめてああかこうかと操作してみて、検出した内容をリポートしている。
それに対するSEの反応で「対応を見送ります」が並ぶ。
事情としてわからなくもないけれど、正直なところさすがにこちらもアホらしくなって精魂こめた仕事がイヤになる。
02.03.19
突然思い出したが、30年ほども前になるだろうか、ある雑誌の「持ち物拝見」とかいうコーナーで、漫画家のさいとうたかお(「ゴルゴ13」という有名な劇画の作者)の持ち物に「ティッシュペーパー」というのがあって、何をするものか知らなかった。
状況からみて「チリ紙」の類であるとは思ったが、こんなたわいもないことながら、自分の知らないものを普通に持っている様子に、なんだかすごくリッチな人だとおもったのを覚えている。
今や昔の感が強い。
02.03.14
今朝のK氏のコメントの件、開発中のプログラムの見積の計算式が複雑ということだったが、そんなのは表計算の機能でで処理するのが一番いいのではないか。それに多額の開発費をかけて固定化しようとすることの意味が分からない。
「着想を誤ると途中で中止したり方針変更したりするのは難しい」ということだろうが、もったいないことだ。
02.03.14
私はグローバルスタンダードというものに疑問を呈する者であるが、「最大多数の最大選択」ということからしても、グローバルスタンダードは悪であり、誤りであると言えるだろう。
というのも、それが単なる一つの選択肢という位置づけでなくたった一つの選択肢ということになりがちだからである。
02.03.14
昨日のNHKの「その時歴史が動いた」で、ある外務大臣の「最良の外交策は正直であること。」というような言が紹介されていた。
ちょっと意外なような、さりながら「やはり。成る程。」というような感あり。
02.03.14
今朝のK氏のコメントで、S社向けのシステムは何がきても処理できるように仕様を決めたらしいが、実際に操作してみるとどうもわかりにくく使いにくい。
設計者のO氏自身がよくわからない仕様であるとのこと。また、通常の日常業務にも使いづらいということらしい(誰の言か知らないが)。
「お客様に慣れてもらうしかない。」と言ってたがなんだか失敗するプロジェクトの典型みたいなことになっている。
02.03.13
NHKスペシャルで「定置網」の知恵について特集していたが、入ってきたサカナの2割くらいしか補足しないらしい。それが取りすぎないということにもつながっていた。
ただ、「取りすぎない」というルールはローカルなものでしか成り立たない。お互いの合意で成り立っているルールである。ヨソモノがそんなもの知るかといえば途端に資源をかっさらわれてしまう危険が出てくる。
グローバルスタンダードというのはこの「ヨソモノ」の論理である。やみくもにすべてのグローバルスタンダードを受け入れては地域の生活が成り立たなくなるのである。グローバルな競争をするべきものはグローバルスタンダードで競争すべきだろうが、たいがいのものはグローバルでないルールを摘要したほうがよいのではないだろうか。
その意味でシンガポール、あるいはマレーシアだったか、この「グローバルスタンダード」への反発は正しい反応であると思える。
02.03.13
マスコミは「マスゴミ」というがごときなり。
目先おもしろい取り扱いをして毎日お祭り騒ぎをしたいだけではないのかと思えるようなことがおおい。衆愚という言葉があるがそれを助長するだけのようにさえ思える。あるいは「烏合の衆」徒というべきか…。
02.03.11
一昨日に行った結婚式は仲人無しの結婚式であった。最近はけっこう増えているとのこと。
それはそれとして、校長先生のスピーチに含蓄がなくて驚いた。また、詩吟をやった女の先生がいたが、その詩吟がシロウト耳にも雑であるという印象をもった。
こんな人たちが中学校の先生なのか…、という感じ。こう言っては何だが、われわれの時代の先生はもうちとマシだったと思う。
一方でえらく外向的な先生がいて、こっちの席まで酒をつぎにきた人がいたが先生もいろいろでおもしろいモンだという気がした。
さりながら、これらの先生方は自分と近い年齢であることを考えるとどうも忸怩たる想いがしてくる。
02.03.08
人類は「愚直な努力」をもっと評価してもいいんではないか。
それがあって初めて、「うまいことやる」ことが可能になる。
「うまいことやる」のは「愚直な努力」という目に見えないインフラを利用したのであり、何らかの社会的還元が「うまいことやった」側からなされるなくてはなるまい。
02.03.04
今日はB社の株が1880円にまでなっていた。まことに口惜しいことである。まあ、自分の読み違えなのでしようがない。短期の動きの予想は本当に難しいということだ。もともと長期的に保持して3倍くらいになるのを待つつもりだったのに、一度大きく下がったのを見て、また下がり局面があるのではないかそう思ってしまった。むろんこれはチャートの動きをみての「カン」であり、何の根拠もない。
市場は逆に、一次下がったのを買い好機とみて、自分が売った翌日から値上がりし始めた。そこで買い込めばよかったのだが、売った値段との比較で二の足を踏んで、やがてまた下がってくるだろうと「希望」していたのに、二度と1100円には戻ってこなかった。 比較的長期の読みはしやすくても、短期の投機的な売り買いはやはり難しいということである。
それにつけても、U社の株も50万であやうく買うところだったが、25万(100株)に下がってから買うことができた。投資は「買い」のタイミングを根気よくまつというのが基本であると思う。それも、損失がショックにならない程度の額で決めるべきだ。半額になってもその損を容認できる位の金額がよいところだろう。
S社の株も一時買おうかとおもったのを控えておいて良かった。どうしようもなくなるところだった。ただ、別の見方をするなら「カラウリ」の好機でもあったのだが…。
02.03.01
私が使っているシェアウェアのバージョンアップのサイトには広告バナーが張ってある。
定期的なバージョンアップのお知らせを流せばバージョンアップの為のサイトアクセスが見込めるから非常にうまいやり方である。
02.03.01
NHKの「BSマンガ夜話」の「おいしい関係」の回なかで、ストーリテリングの逐次分析をしているところがあったが、蘊蓄を傾けたはなしで非常におもしろかった。ここまでこまかく見るか…、という驚きもあった。
けれどしばらくして、「そんなことにそんなに血道あげてなんになんねん」っていうシラケが湧いてきた。
もっとも、これはそういうチマチマとした蘊蓄に自分が関心がないだけのはなしであって、そういう蘊蓄に「価値」がないと感じてしまうのは本当に「社会的価値」の問題であるよりは個人の好みの問題ではあるが。
02.03.01
ものを集めるのは、そこに「可能性」を感じるからだろう。裏返せば、「無ければ不安」ということになる。コレクションがあれば、「将来、何かのタシ」になるかもしれない。私がモノを集めてコレクションするのは、どうもそういうことではないのかしら。
02.03.01
長期的に見て得になる解決策が、短期的には苦渋に満ちたモノになることがおおい。こうなるとどちらが得策かという議論が通じない。「どちらも得策」なのだから、どちらを選ぶかは「好みの問題」になってしまう。
どちらが好みかといえば「今とりあえず得になる」方を選ぶであろう。
そもそも、「先のことは誰かがそのうちにうまい解決策を考える」かもしれないのであり、「先に良いことがある」とおもってガマンしていても何も良いことが無かったということになれば、「貧乏くじ」を引いたことになるのだから。
02.03.01
「話せばわかる」といったのは、2.26の時の犬養首相だったろうか。けれど「話してもわからない」場合の方が多い用に思う。それ以前に2.26の様に、「話して解決」という価値観を持たないものも多い。
ミロシェビッチしかり、コソボ問題しかり、アフガン問題しかり、イスラエルのベギンしかりである。
02.02.28
ウマの耳に念仏というが、これはウマを馬鹿にするときに使われるのが普通だ。けれど、経世の術としてこれを考えれば、念仏を唱えている方も批判の対象になるだろう。ウマを動かそうと思えば、念仏を唱えるよりはニンジンをかざした方がよいのだ。
けれど、これは政治の現状にもいえる。いかに良い政策であっても国民がウマであるかぎり念仏では動かない。現実の利益をかざさなければ動かないことになる。けれど、念仏で実現できる内容とニンジンで実現出来る内容は自ずから違う。
国民が、ウマから脱却しないかぎり実現できないことがあるということだ。
02.02.27
昨晩のNHKの番組。アルゼンチンのメナム大統領が当初は奇跡の経済復興といわれながら90年代の無為無策で結局国を破綻においやったが、そのアルゼンチンと、トルコと日本が、ヨーロッパからみて世界を泥沼に引き込む可能性のある国と見られているらしい。
メナムは、自分の出身地に向け道路を造り、2000m滑走路を造り、自分の一族のワイナリーのためのダム(ずさんな工事で1年で決壊して役に立たなくなったらしいが)を作った。こういうムダ使いが傷口を広げたわけである。
とどのつまりは借金をして、経済が上向いている(というより生活が上向いている)ように見せかけたが借金を浪費しただけに終わったということだろう。確かに、日本でも大いに似たようなことをやっている。
結局、問題の解決は、適切な時期に適切な人がでて、適切な処置をするということでしか解決しないのではないか。「衆知を集めて…」という解決の方策はないように思う。
しかし、こころしなければならないのは、メナムを選んだのは国民であり、今の日本政府を容認しているのはやはり国民であるということだ。
2.02.27
昨日のNHKの「ProjectX」。白血病の治療のための、骨髄バンクの話だったが、ボールペンほどの針を骨髄に10回以上も刺す。痛いし、それで提供者の体が麻痺する可能性だってある。それは、二の足を踏むというモノだ。
集会で、正直に骨髄ドナーになることの危険性、どのくらい痛いかなどを正直に話した方が却って希望者がでてきたこと。しかし、実際に移植…という段階になって、登録していてもやはりドナーとなることには踏み切れなかった人も多いと聞く。人間というものを実に如実に表しているとおもう。
自分もそんな勇気はないのではないか。
02.02.27
人間は生まれながらにして不平等である。アジアのスラムに生まれて、善良に生きてゆくならそれはそれで幸福というものもあるのかもしれないが、生まれた境遇からはい上がることはきわめて難しい。選択肢は境遇によって大いに変わるのだから。
であれば、「ジャパゆき」として毎日元締めに金を巻き上げられながらも、不法滞在して体を売って金を稼ぐという選択肢が目の前に現れたとき、それにかけてみようという選択をする女がいたとしても不思議ではない。
02.02.23
テニスコートに行きながら考えたこと。哲学とは「人にとって良い考え」を生み出すこと。正しく考えることで、より多くの人が救われるようになる。その「正しい考え」を編み出すのが哲学ではないか。この意味では宗教も当然に哲学である。
02.02.23
品質管理もそうだが、管理は「何らかのルールをまもることではない」。「仕組みの創造」なのである。何に着目したらよいのかその「指標の創造」、どういうルールが分かりやすく、守りやすく、効果が上がるのか「ルールの創造」、そのルールを簡単に守れる工夫はないか「仕掛けの創造」
なにかを守らねばならないとする。ではそれをチェックリストにしてはどうか。チェックリストを見るのを忘れるなら、もっと目に付きやすいところにおくとか、毎朝口で「チェックリスト…」ととなえるとか、しかけ、歯止めの工夫である。
それを、かけ声だけで、注意力、ヤルキだけで処理しようとすると効果はあがらない。
02.02.23
50歩/100歩というのは、定性的な議論をしようとしているときに、定量的な比較を持ち出しても意味がないということであり、定量的な比較をするときには正しく倍半分という評価でなくてはならない。
時に、定量的な比較の必要な場合にそれを逃れるためにこのたとえを引き出して比較に意味がないと言う人がいるがそれは誤り。
02.02.22
豊かになることを、「選択肢の増加」と考えれば、ウーマンリブというのは女であることゆえの制限の除去の戦いとみるだけでなく、性による制限を取り外して豊かになろうとする動きであったとみることもできる。
02.02.22
誰しも、「何のために生きるのだろう」という疑問をもったことがあるのではないだろうか。けれど、これは質問自体があやまっているのかもしれない。「何のために」という目的意識は人間の社会が生み出した規範であり、また、言葉という人間社会のツールが生み出したものでもある。これを「人間社会」を越える対象に当てはめようとすること自体が無理があるのではないだろうか。
人間社会は「目的」というものを編み出したが、それは人間社会を円滑に回すための知恵であり、工夫ではあるが、我々の存在意義を問うために存在しているのではない。金槌でネジを回そうとして、なんのためにこんなものがあるのだと言っているのではないかということだ。
再度言い換えれば、「何のために…」というフレーズは、「生きること」そのものの為に編み出されたものではなく、それに当てはめて試して見ることができるからといって、当てはめてみること自体が正しいかどうかは分からないということだ。
人間以外に、「何のために」という規範を用いている存在(生命体)がいそうにないこともこの「概念のミスユース」を裏付けるようにもおもわれる。
02.02.20
NHKでライ病患者の帰郷をドキュメントした番組があった。指を失い、顔には鼻が無く目も片方しか形が残っていないし失明している。しかしながら、その姿そのものは愛嬌があるといえば愛嬌がある。ワケさえ分かっていれば姿そのものが阻害の要因になるようなものではないという感じがしたのが小さな驚き。
帰郷先では、いつでも訪ねてきてくれと言われていたが、思わず、本当にTVなしで2度目、3度目に訪問したときに歓迎されるのだろうかと邪推してしまった。邪推と書いたが、「自らの恐怖」という感じでそう思った。思って、思った自分をカワイソウなヤツだと思う自分がある。自分は「人をとことん信じること」に怖さ(抵抗?)を感じるらしい。
02.02.20
グローバルスタンダードということが最近さかんに言われるが、なぜグローバルスタンダードで物事を処理しなければならないかということを意識している人間は少ない。あたかもグローバルスタンダードでなければ勝負にならないかのようだが、グローバルスタンダードで物事を決するならば従来からそれを使っていたモノに一日の長がある。
グローバルスタンダードとは、オリンピックで世界1を決めようとすることだ。確かに世界1になった人間には富や栄誉が集中するかもしれない。しかし、勝者は1人になるのだ。それよりも、町の運動会で1位を決したので十分ではないか。ローカルスタンダードにおける1位をたくさん作った方が人間全体の幸福にはつながるのではないか。
グローバルスタンダードということになればその優劣がより多くの人を左右することになる。振幅の大きいもののコントロールは難しいだろう。
もっとローカルスタンダードを大切にすべきだ。「分社経営」を大事にするべきではないだろうか。
02.02.20
「何がよりよい意見か」(より普遍的なモノの見方であったり、より応用の利くものの見方であったり)という関心の上での議論より、「誰の意見が勝か」という議論の方が多い。(アメリカ文化の「ディベート」というのはそういうものであるようだ。)
戦いによって議論を決着させるのは、よりシンプルであるが、それがいつもよりよい解決であるわけではない。それでも戦いによって議論を決するのは、勝敗はほとんどの場合何らかの形でつけることができるが、何が「よりよい」かということにはなかなか決着がつかないからだ。決着がつかなければそれによる行動はとれないことになる。
であれば、どんなつまらない事柄における「勝敗」であっても、勝敗にこだわるという生き方は一定の価値があることになる。しかし、日本人には、少なくとも私には「争って決着をつける」ということにはその事自体にストレスを感じるという風がある。
近年、日本で暴力事件が増えているが、あるいはこれは、文化がグローバルスタンダードである「勝敗」決着主義にシフトしようとしている過程での社会のきしみなのだろうか。
02.02.19
先日のショートトラックの寺尾選手の妨害裁定に対しての抗議は却下された。日本の提出したビデオも見られることはなかったようだ。ビデオによる判定は、日本では相撲協会もそうだし、国際的には柔道でも採用していないようだし、アメリカではNFLでは採用しているが、MLBでは使っていない。
それぞれ競技の性格が違うので一律に比較はできないが、結局審判の権威がどこまで重視されるかということだろう。ビデオを見ることで権威が落ちるのかどうかということである。人間のジャッジによる誤審も競技の一部とみるかどうかだ。
寺尾選手のケースも日本人だからあれだけをとらえているが、全般的にみて同様の裁定が他の国の選手の場合にもあったのかどうかというようなことを報道機関は着目して報じるべきではないか。
02.02.18
昨晩のBSでイエローストーンの特集をしていた。1988年、落雷による大火災で森林の40%が消失したらしい。こういう火災は200年に一度程度発生するのだそうだ。そこで、焼けた木の根本の草や若木に日光があたるようになり、新しい植物がでてきている。火事の時にだけ松傘をひらく松もここぞとばかりタネをとばす。人間が考えるよりもよく自然にはいろいろな仕組みが組み込まれているということのようだ。
一方オオカミは一度絶滅したものを、カナダから持ち込むことで頭数が増えているらしい。オオカミのおかげで、エルクは数が減り、そのため食べ尽くされていた草が戻って、いなくなっていた小動物が帰ってきたというようなこともあるらしい。しかし、最近はオオカミが増えて民家の家畜がおそわれる被害もでているらしい。共存ということはなかなかに難しいものである。
02.02.18
従来の日本型政治は、なにをするべきかという目標がはっきりしている場合には有効に機能していた。日本人の努力と勤勉がそれとうまく相互作用をもっていた。しかしながら、結局のところそれは大量生産型の産業に合致し、人件費が比較的にやすい状態でなければ継続が難しいだろう。そういう意味で今の中国には日本はかなわない。
02.02.14
戦争は愚かしいことではあるが、基本的にはこれはナワバリ争いであって、テリトリーの広さよりそのテリトリーに生息する生き物が多くなれば必ず発生する。種の間の淘汰や食物連鎖による数の抑制がなければ、繁殖する生き物は増大するのであって、そうなればテリトリー争いは早晩どこにも発生するものだろう。
また、所有は基本的には偶然によるモノであるが、テリトリー争いはこの偶然が弱肉強食による争いの結果必然に置き換わるための課程である。
02.02.14
オリンピックのジャンプで日本は惨敗だったが、「惨敗」とは何か。そもそも今の実力ではメダルなんてほど遠い状況だったのだから「惨敗」などという必要はないとおもう。4年前のオリンピックの時とは条件も異なっているのだから同じ結果を期待する方がおかしい。
それを、マスコミはバカの一つ覚えみたいに「4年前は…」とやる。挙げ句の果てに「良い風が吹けば…」ときた。これって、「神風」の発想ではないのか。バブルの時の幻想をいつまでも引っ張っている政治の体質、企業の体質そのままではないのか。
報道というのは、事実をありのままにぶつけることである。ジャンプならば他の国の有力選手を冷静に比較することである。スイスのアマン選手なんて突然ふってわいたようにでてきてノーマルヒル、ラージヒルともに優勝したが、こういう選手こそ紹介されていてしかるべきだろう。
また、英字誌の「TIME」を見れば女子で4回転にチャレンジするかもしれない選手がいるのに全然照会されていない。そういうモノの見方をしてみることこそ報道の使命ではないのか。
マスコミというのは、特にNHKは、国民に講釈をたれるのもそれはそれで良いのだが、あえて反対意見やら、全体のバランスやらという視点を提示して、国民に議論をさせる必要があるのではないのか。
メダル、メダル、メダルというが、日本が国を挙げてメダルをとるという姿勢でない以上、もっと各個々人の努力にスポットをあてるべきでないのか。結果だけを追い求めるという風潮のお先棒を担いでいるNHKにももうすこし自己反省があってもいいとおもう。
02.02.14
若いウチは理想を追う。それが若いときのエネルギーでもあり、よりどころでもある。しかし、理想を追うと現実的な選択をすることにはプライドが許さない場合がある。
あえて世間知に抵抗して自分を試そうとする。それはそれでいいのだが、やはり現実にかなわないことも多い。
でもそれでいいのではないか。チャレンジにしないで世間の知恵のままに動くにしても、いつかお手本のない状況で自分の判断をせねばならないことがあるのだから。「失敗しても良い」とは言いたくないが、一度も失敗のない人生など考えにくい以上、「失敗することも人生の一部品」だという心構えとチャレンジは必要だろう。
02.02.13
ソルトレイクオリンピック:里谷多英の勝負強さには目をみはった。どこにもこういう勝負強い人はいるモノだ。また、カーリートローの断然の強さも格別であった。本命視されていつつ圧倒的勝利を収めるということは難しいモノだが、ダウンヒルの実力差はこちらにもわかった。スムーズで早かった。上村愛子も良かったと思うが5位。後でビデオを見て本人もなっとくしてサバサバしたインタビューであった。あれが実力なのだろう。それにしてもヘリコプターなんて簡単そうに見えるのに、なぜやらなかったのだろう。あっちのほうが簡単に点に結びつきそうだったのに。
スノーボード・ハーフパイプ女子。演技を見てみれば、日本人選手とメダリスト達の技の差は圧倒的である。どこからメダルも期待なんてことがでてきたのだろう。また、ジャンプのノーマルヒルも実力通りであろう。事前報道の盛り上げのバカバカしさ。どうして日本人は現実を直視するのをいやがるのだろう。
男子5000mのスピードスケート。本命が敗れ去るということあり。オリンピックの難しさだろう。高速リンクという呪文にペース配分を間違えたということらしい。
男子500m。清水の銀はさすが。プレッシャーはあったと思うのだが、腰の故障による練習不足を克服して今の実力を出し切る集中力には関心する。カナダのウォザースプーンがつまずいて自滅したのとは対照的である。ダン・ジャンセンを思い出す。ウォザースプーンのつまずきは明らかに緊張で筋肉が堅くなっていたせいである。
清水とのレース順が分からないが、前に走った連中のタイムがあまりのびずに「よしいける」と思ったのかもしれない。それが「勝たなくてはいけない」というプレッシャーにつながるのだ。1位のアメリカの選手も2日目の100m間での走りは硬かった。初日の0.20秒ほどの差が、終わってみれば0.03秒差である。これがオリンピックということだろう。 (ウォザースプーンは1日目の最終組だった。)
02.02.07
情報には、まず接するモノのなかから普通は選ぶという性格がある。なかなか積極的に収集、調査するというものでもない。放送、報道する側の問題意識でまず、選択される。次に情報に接するが興味がなければ意識にのこらない。意識にのこってもそれが行動を起こすための引き金になにはさらに何かが必要になる。それだけの現実感が自分の生活の中で起こるかどうかということである。
02.02.07
昨日の「地球に好奇心」?だったか。NHKの番組で、ロマを取り上げていた。日本ではジプシーとして知られているが、ジプシーとは昔「エジプト」から流れてきたと思われていたせいらしい。ロマとは彼らの言葉で「人」をあらわすらしい。今はルーマニア、オーストリアの辺りで住まいしている人たちのようだ。(本当はインド系らしい)
彼らは冬の間は定住しているが、気候が良くなってくると旅に出るようだ。その旅で回る風景であるが、田舎ばかりである。もちろん道も土のまま。牧草地もけっこうある。
彼らの職にもいろいろあるそうで、取り上げていたのは板金でナベなどを作る人たち。大鍋やバケツを廃材で作るようだ。全部ハゼオリでシールを仕上げている。表面は酸で処理し、そのあとを馬糞をぬりそのアルカリで中和して磨き上げている。
しかし、これが売れなくなっているらしい。バケツなどはプラスチックのものが出回り始めているのだそうだ。
野営地の近くの村に売りにいったときに、インターネットで注文するからURLを教えてくれなどと冷やかされていたが、あんな村でも本当にインターネット環境があるのだろうか、それともニュースで知っているだけなのだろうか。
ともあれ、彼らの生活環境(生きてゆくと言うこと)、周りゆく村の風景、親が決める結婚(10台の半ばで結婚する/18という青年、16という娘は20の半ばに見え、44だという男は60位に見えるが)、生計を立てる技術、1年に1度のお祭りなど、まだそういう世界があったのかという位だが、日本などの先進国が特別なのだろう。
昔から、迫害を受け続け、ナチからは抹殺すべき民族とみなされ、共産政権からも歓迎されず(また、定住を強要され)という部族から見れば、生きてゆくことそのものが人生であり、それを喜びとしているのが当たり前なのではないか。
滞在しようとした村の村長から、アレを盗んだろう、これをとったろうという言いがかり(真偽のほどは定かでないが)をつけられていたが、ヨソモノが疑われるのはしようがないことでもある。しかし、翻って、「ムラ」の政治なんて結局住民の感情の処理をどうするかということでしかないようなきもする。「ヨリアイ」の域を出ていないのではないか。地方政治、役所などというと中央官庁の機能をイメージしてしまうが、地方にゆけばゆくほど、学級委員ほどの役割しかなくなる。ムラの調整役としての機能が一番なのではないか。
02.02.06
対策と対処。「対策した」というが「対処」にしかなっていないことがある。応急処置のあとの恒久対策、予防措置と一連の流れが必要なのだが…
02.02.06
NHK再放送、「データで読むニッポン」?。ベビーシッターの値段が15倍違う。(東京目黒区と沖縄の??島) ← 情報がないと是正の方向性がでない。情報があっても環境はトレードできないので価格差は解消しない◆なぜ価格差があるかの一考察。
となると、結局のトコロ、動かし様のないものの値段によって地域の価格差がでる? つまりはその代表の地価の差によって物価が決まるのかもしれない。こういう性向は物理で言う「加速度」として働くのではないか。◆現象の一次ドライブ要因でなく、二次ドライブ要因ということ。
02.02.05
なぜ、建築家などというものが存在するのか。屋根があって、安心して眠れるのが最低線だとすると、外のデザインにこだわりそれにお金をはらうという需要も確かに存在するのである。料理についても同じだろう。服についても同じだろう。生活必需の衣食住というが、必需の部分だけでは多くの建築家、料理人、デザイナーは生きてはゆけないだろう。
02.02.04
戦争が果たす効果は人口削減であり、地球のキャパに適正な人口に抑制する。確かに戦争で失われるものも多いのだが、ベースとなる科学レベルは戦争によってそれほど逆行するわけではない。
そうなると、従来一人あたりでシェアできていた資源より人口が減った後の方が一人あたりの分け前が増えるので、復興後は従来より高度な文明が実現できる。
戦争による一種のショックが逆に人間の心にバネを与えるという効果も見逃せない。復興に向けての動きは自ずと人の心をまとめ上げるものであり、希望が生き生きとしたエネルギーを我々に与えてくれる。
02.02.04
ロボットが身の回りの世話をしてくれるようになったとして、では我々は何をして暮らしをたてるのかというと、従来とは変わらないであろう。ロボットが創造に寄与するわけではないので(人工知能がすすめば別だろうが)
02.02.04
悟りというものは万人のものではない。ある聖者が悟ったからと言って、その悟りをそっくり万人のものにすることはできはしない。あくまで、個々人がその人の悟りを開くしかないのである。
イスラームの世界では、個々人が神との誓いをどうまもるかが問題であって、周りの人は関係ないらしい。そういう意味では、悟りというものの性格をうまく応用しているようにも思われる。
世界を平和にする哲学というものは、このようなさとりの一種といえるだろう。だから悟りそのものを表現しようとせずに、ある「実行形式」に意味を持たせなくて実現できない。
02.02.03
雪印食品が、牛肉や豚肉の生産地の表示などをごまかして販売していた件。大きくとらえれば、「顧客のために自分たちがサービスしてその結果、利益がある」という本来の姿から、だんだんと「自分たちの商売、利益のために顧客がある」というやり方に変わってきたということだ。
これは、どの会社にも起こり得る変容である。会社が大きくなり商品が売れてゆくうちに、楽な売り方ができるようになる。それが、ある時点でもう一度競争にさらされたとき、商品、販売力に実力がともなって成長していなければ競争に負け始める。さてそのときにどうするかである。目先の利益しか目になければ、あるいは商品、販売力でもう一度巻き返しをはかるガッツがなければ、自分たちが食ってゆくために顧客を利用し始めるのではないだろうか。
02.01.31
アメリカの繁栄の原因は何かと考えたとき、「最初から恵まれた国だから」というのが一番わかりやすいのではないか。様々な努力はされているにせよ、様々なシステムが編み出されているにせよ、ベースになっているものが豊かであることの影響はやはり大きいのではないか。
02.01.30
政治には、自覚したオトナの現実的な価値判断と人生哲学とネットワークと言論が必要。政治には魔法は使えない。公的な役割を認識することなく、自分だけの利益を追うならば全体としてガタがくる。
しかし、いまの日本ではまともな議論ひとつとっても難しい。メンツや揚げ足取り、形式的表現のやりとり、責任追及などが横行し、問題解決としての本質論がでてきにくい。
02.01.30
「ビジネス」とは社会的、公的責任を自覚してから始まるのではないか。それまでの取引は、「身過ぎ世過ぎ」というものだろう。コンサルティングも、「見過ぎ世過ぎ」の段階では必要とされないだろうし、意味もないように思う。
02.01.29
子供たちはオトナに反発を感じると、同じ行動パターンを自らがとることができなくなる。自分は彼らとは違うんだと証明しなくてはならないからである。そうなると、行動の選択肢が減って妙な選択をすることがある。しかし、そこから脱出することができないことも多い。純粋さとは単純さの裏返しでもある。また理論絶対主義に陥ることもおおい。幅広い経験がないのだから当然である。
オトナに負けまいとすると、相手の経験則は否定せざるを得ない。かといって、自分の経験則を持ち出して対抗するほどの経験はない。そうなると、武器は純粋さと理屈しかない。
02.01.22
未熟なものが自分の未熟さに気がつかない社会構造がすすんでいるような気がする。もともと未熟なヒトはその未熟さゆえに自分を過大に評価するのだが、競争によって一定の結果がでる。競争もなく、シツケもない、そういうところでは未熟なものが未熟なまま行動し社会にひずみをあたえているように思う。
02.01.17
サンスポの記事?⇒ジャッキーチェンはビビアン・スーの前で、お箸でハエをつまんでみせたんだそうだ。本当にそんなことのできるやつがいるとは驚き。
02.01.10
私の、新聞の切り抜きやVideo収集は、モラトリアム症候群なのか(あるいはオプションの収集−何があっても良いように…)、欲張り過ぎるのか。
いずれにせよ、単に集めただけでは意味がない。単なるゴミ記録になるだけ。整理出来ない分量を集めても労力のムダである。
買い物にゆくとついあれもこれも買い込んで結局腐らせて無駄にする。それと同じ行為の様に思う。