03.12.31
今年も暮れようとしている。3月初旬に会社をやめ、長くもあり、あっというまでもあった1年だった。

辞める前に色々と描いたシナリオは、最悪側でもなく、最良側でもなくすすんだ。 そうして、そのシナリオは自分が進めたものであってほぼ全部自分の選択である。

そうやって自分を振り返ると、何、やっていることは平々凡々。ひたすら自由を食いつぶしてきた。 引退したような安穏な生活を送ったといってよい。「あれもやってみたい、これもやってみたい」というのはあったが 結局それでは何も実現しない。あたりまえだといえば当たり前。

来年を前にして、物事をすすめるべく 「あれをやるぞ、これもやる」ということでなければ何も実現しないのだ ということを再確認している。

03.12.31
SARSも今年なら、東北で地震があったのも、米軍のバグダッド侵攻があったのも今年だ。中学生が子供を駐車場の屋上から突き落としたり、また小学校で小学生が男にさされたり、確実に世の中が変わりつつある。

20世紀はセルビアのテロで始まった。オーストリア皇太子が爆弾テロに倒れ第一次世界大戦へと世界は進んだ。「世紀末」という不安な響きをもつ言葉があるが、21世紀は開けたばかりだというのにどうも「世紀末」の雰囲気を感じてならない。

グローバリズムは、国家という垣根を崩し、しかし、富裕層と貧困層という新た垣根をつくりつつある。国境をまたがっている問題だけに富裕層から貧困層への富の再配分は限定的であり、貧困国の貧困層に生まれると自力ではい上がるのは難しい。

人間は生まれながらに不平等であり、社会や国家はそれを「不幸」に直結させない仕組み作りが本当の役割であろうと思うのだが、社会や国家が本質的にかかえる「権力」構造が「幸福をよぶ仕組み」作りの阻害因子となってうまく進んでいない。もっと簡単に言うと、「体制」は体制の維持を自律的な目的としがちであり、それは大多数の人間の不幸の拡大再生産につながりかねない。

さらに表現を変えれば、「北朝鮮」一般的国民の不幸は周りからみれば自明の理であると思えるが、北朝鮮の国民には内部からそれを変革するすべがないと言ってもいいかもしれない。

無論のこと、私がここにこんな事を書いても何も変わるわけでもないし、そもそも漠然とした議論ではあるのだけれど、世の中の動きを決めてしまうのは、結局こういう「漠然とした時代の雰囲気」ではないかと思うのだ。

けれど、我々は「漠然とした雰囲気」を制御するすべを知らないし、メディアが送りだす様々な対立し平行する「オピニオン」は「漠然とした雰囲気」をさらに曖昧模糊としているように思える。

こういう時にこそシンプルでわかりやすいイデオロギーが必要なのだろうが、「共産主義」というイデオロギーの崩壊でしばらくはそれも難しいと言わざるをえない。

しかし、希望を失ってはならない。パンドラの開けた箱に残っていた希望は、今の時代にも残っているはずなのだから。

03.09.24
本日、2度目の失業給付の認定にハローワークへ。
高々22万ほどのために「何もしない」というのはあほらしいと思った。

無為に時間を過ごすことで生活のリズムが悪くなり、何もしないことが当たり前になる。事業を立ち上げれば、何も保証はされないが自分の力で前へ進めるのだ。

能動的に動いて自分でお金を稼ぐということの価値はやはり大きい。

もう一度失業給付をもらうというのも金額の面からはちょっと魅力的だけれど、そういうことをあまり気にしないで動き始めるべきだと思った。

03.09.24
人生を肯定的に生きる人が増えて欲しい。恵まれない環境にあっても、人生を肯定的に生きようとする文化が人類に根付いて欲しい。

正悪を論じると往々にして「悪」を否定することになる。むろん明白な「悪」もあるのだが、白黒の階調の様にどの段階から灰色でなく黒なのかなかなか線引きをしにくいものなのだ。

より多くのひとが、自分の人生を肯定的に育ててゆけるように、そのサポートを恵まれた人たちが自然にできるような社会であってほしいものだ。

03.03.22
今でも現実のこととは思えないのだが、2時間ばかり前に友人が逝ってしまった。テニスの最中に突然たおれ痙攣をおこして横たわっているのを、救急車を呼んでそれが来る間に皆で気道の確保やら心臓マッサージやらをして呼吸を回復したものとばかり思っていたが、救急車の中でも呼吸はしていなかったらしい。3時前に倒れ、それから1時間半ほどの後に病院で息をひきとった。

倒れる瞬間は誰も見ていないが、グラウンドに横たわっている姿を見ても、最初はてっきり妙な具合にスリップして倒れ、自ら安静にしているものとばかり思っていたし、目をひっくりかえし呼吸がおかしいのを見ても頭を打ったせいだとしか考えていなかった。

しばらく意識を失っていても、また元気な笑顔を見せてくれるものだとばかり思っていた。今から考えると心臓マヒであったのかもしれない。

小学校の5年のときに母を心臓麻痺でなくしたときも、現実感がなかった。なんだか他人事のようであった。それがどういうことなのかわからないが、ともかく現実の悲しみにつながらない。唖然としているばかりの自分がいる。昔そうであったように、やがて「二度と会うことがない」という現実が胸にしみてきて喪失感が胸に住み付くのであろうか。

奥方は涙し、声をあげ、その意味ですぐに現実のものとして受け取って、悲しんでいるのだ。こちらはいまだに唖然としたままだ。僕の心は死んでいるのだろうか。昔死んだままなのだろうか。

それにしても、人の一生はわからないものだ。そんなことを、よりによってあの素晴らしい人間であった、友人の死で確認することになるなんて。

彼の分まで大事に生きなくてはと思う。

03.03.07
会社へ出社する最後の日。片付けに終始。パソコンのハードディスクもフォーマットして引き渡す。晴れ晴れとした気分。


03.01.22
創業者の思いを全員が吸収して、「俺達の会社」と思えれば、それぞれがお互いを信頼できるし、そうでないと会社がある程度以上の規模になることができない。そういう意味で会社をcompanyというのだろう。

雇う側と雇われる側という形では、あまり日本では会社が大きくならないとおもう。もっとも、ある程度以上に成功すると会社が大きくなるのに「惰性」とでもいう力が働くことがある。


03.01.22
テレビの見方。娯楽のために見るモノと、問題発見のために見るモノ。学習のために見るモノ。無論それらがミックスされているものもあるだろうが…。

娯楽のためのものはだんだんと減らして行こうではないか。 問題発見のためのものは、あまり分野を広げずに。 学習のために見るモノもあまり分野を広げずに。

この他に、記録のためのもの(「ナンカ、イツカ必要になりそう…」)というカテゴリーがあってこれがクセモノなのだけれど。これも、目先に必要でないものには手を出さない。そうでなければ整理が追いつかない。


03.01.22
PM(ProjectManager)の必要性が大分喧伝されてき始めているが、結局のところ、「人間」というやつをよくわかった人であることが一番ではないのだろうか。人を動かさずしてマネジメントはあり得ない。


03.01.21
日本人が相対的にシャイであるのは、その方が物事が上手くいく文化があるからである。やはり違う文化圏に占領されてずたずたにされた経験のない国だという特殊事情のせいではないだろうか。基本的に周りの人は信用できる文化なのである。

他の国では歴史上一度は他の文化によって支配されている。そういう歴史をもっていると、「戦い」をベースにして考えざるを得ない。

日本では基本的に「不戦」がベースだと言えよう。

そういう意味では、アメリカも基本的に外国に侵略された経験がない特殊な国だということができる。ある種、日米の文化に近いものがあるのはそのせいかもしれない。


03.01.21
世の中には、運、不運ということもあるけれど、やはり努力したひと、才能のあるひと、他人に貢献した人が概ね成功する社会にしたいものである。

その方が総体としてうまくゆくのは自明の事ではないだろうか。

日本は基本的にはがんばった人が報われる社会であったからここまで発展してきたのだとおもう。ただし、マネジメントの無策・無能には時として目を覆いたくなるが。


03.01.21
サービスとは、一方で余剰のあるもの(無価値なもの)を価値のある形に再生産して、あるいは価値を認める場所に移動して、価値のムダ使いを防ぐことに意義がある。

つまり、人々が様々な価値感をもち世の中にいろいろのものがあればあるほどサービスの役割は増えるのであるが、交換すべき「モノ」の価値に余剰がなければサービスだけが延びてゆくことはかんがえにくい。

であるから、第三次産業への人のシフトも結構だけれど、第二次産業への影響力(あるいは直接・間接の支配力)と第二次産業の成果物(従事者ではなく)を抜きに一人歩きはできないであろう。


03.01.18
「話せば判る」と言いいながら青年将校に拳銃で撃たれて死んだ人がいた。しかし、本当に「話せば判る」のだろうか。

この世には、「話しても判らない」ことだらけのように思う。しかし、「どうやっても判らない事」は少ないのではないか。

どうやって判らせるか、お互いが判るか、その事をもっと考えるべきであろう。

さて、NohmChomskeyはこの主題にどう反応するであろうか。


03.01.18
「どちらが強いのか」というのは造物主から与えられた現在のところのテーマである。結局のところはこの命題をどう処理できるのか、それが人類に与えられた最大のチャレンジではないだろうか。


03.01.17
できるだけ少ない原理原則で、できるだけ多くの事象を分析・整理し、有用に事象コントロールをすることができないかというのが私の夢である。

発想としては物理学的アプローチであるけれど。


03.01.17
小説とは、作者の「気づき」に読者をひっぱりこんであるものを「気づかせる」ものである。どういう仕掛けをしておくと、その「気づき」という作用が起こるかというのが小説の技術である。

何に「気づく」か、どういう仕掛けが有効かということで、千差万別のストーリが仕上がってくる。


03.01.16
「姿勢」がよければ、成果があがらなくても人を落胆させる度合いは小さい。「成果」があがっていても間違った「姿勢」によるものならいつかその間違いが白日のもとに曝されるものだろう。

その時に世の中に巻き起こす落胆、脱力感というものは軽視してはならないのではないか。


03.01.16
「気」の持ち方は姿勢や表情にでるとおもう。「気」が萎えているとか、「気合いがはいっている」という状態は一見してわかるものである。


03.01.16
「良く、死ぬ」あるいは「良い死に方」というのは生きて残っている人に元気を与えるものだとおもう。その意味でも死は尊く価値のあるものだとおもう。

できれば「良く、死ぬ」ことを実践したいものである。

その人が生きていた生き様がやはり「良く、死ぬ」ということに結実するような気がしてならない。

事故で死んだら「良く、死ぬ」もなにも無いじゃないかという意見もあるかもしれないが、「良く、生きる」ことができていれば事故での死に方ですら「良い死に方」を実現できそうな気がしてならない。

これは、不幸にして不慮の死を遂げた人が「良い生き方」をしてなかったとか、「良い死に方」をしてないとかという事を言おうとするのではない。その点は誤解されたくないものだ。


03.01.16
情報は世代間で遺伝子により伝播するのだろうか。それとも文化的な伝播だけであろうか。たとえば、何が食べられて何が食べられないかは種によって違う。何が食べられるのかという情報はどうやって伝播されるのか。

犬や猫が体調を悪くしたときに草を食べるような知恵はいつ獲得(新しい知識の獲得)されたのか、またこれらに関する新しい知識はどう伝播されてゆくのか。

ある時点で獲得されたのではなく、最初から刷り込まれているのならその情報(あるいは「因果の妥当性」というべきか)はどういう根拠でそう決まったのか。


03.01.16
雇われるべきは「能力のある人」「能力を用いてよりよく貢献できる人」であって、実績・肩書きのある人ではない。実績・肩書きはあくまで能力を代弁・代表しているとおもわれる指標に過ぎないのだから。

つまり、養うべきは能力であって、その能力を用いる機会がない(実績がない)からといってその能力がないとは言えない。宮本武蔵は決闘によって能力を証明したが、決闘(その反省によって能力アップに努めたという要素もあるかもしれないが)を手段として能力を磨いたわけではない。決闘をしなかったとしても宮本武蔵の実力はホンモノであったのだ。


03.01.15
知恵をHPで提供するのも立派な社会奉仕ではないだろうか。


03.01.15
自分は根っからの「観察者」なのかなとも思う。TVもその一つ、いや最たる観察対象かもしれない。社会現象のあらゆるものがそこに詰まっているのだから。ついついTVを見てしまうのも自分の特質に合っているからと言えるのかも知れない。


03.01.14
普通は企業内でかっこたる業績を残せなければ、会社を出てもたいしたことはできないものだ。会社を出てもそれなりの実績の残っているひとは、業績が評価されてなくても、実際にやっていたことはそれなりの内容をもっているものである。


03.01.14
できる人間は、「何をしなければならないか」ということを基準に行動する。普通の人間は「何をするのが一番楽か」で行動するが、それには自分自身気が付いてない。あたかもそれが一番合理的であるかのような理由をもっているものだ。


03.01.14
どうしても、人を非難するのは性に合わない。それが、「検査」をしていて不十分になることにつながっているのかもしれない。指摘が不十分だとは思わないが、原因・対策を追求する姿勢においての話であるけれど。

一方で、合理的に正しいか正しくないかの議論については相手の立場に頓着せずにとことん議論する傾向にあるのだけれど。この「正否」の議論の過程では「人を非難」という事象も発生する。ただ、やはりことが済めば相手を少しでも活かしてあげようという気持ちが先にたつのだけれど。


03.01.10
日本人は評価が下手であるようにおもう。その意味で能力考課がうまく機能しにくいのではないか。

年功序列というのはその意味でよくできている面がある。少なくとも誰にもマネジメントのチャンスがある。やらせてみてその結果のよしあしだけで評価できるからだ。

能力考課は、考課する側の能力が足りなければあたら人材をムダ使いすることにもつながる。チャンスすら与えられないことになり得るのだ。

だから、人事異動というものも必要になってくる。


03.01.10
「このわた」は「カラスミ」は発明であろうが、それを食べようというアイデアそのものは「発見」であるかもしれない。

発見、発明は大切なものであるけれど、発明・発見されても万人に歓迎されるかというとそうではない。その事は深く心に刻んでおく必要がある。


03.01.10
学会で権威が構築されなければ、その人の発言に意味がないかといえばそんなことはない。つまり、「哲学」的なのもでも論文形式で発表されなければ価値がないとは言えないだろうということである。


03.01.10
人間というのは、納得すれば少々の困難にも立ち向かうことができるものである。一方で納得しなければいくら命令であろうとも動かない。

そう考えれば、全体の納得度をあげるような行動が社会としては望ましいといえる。その意味合いでは日本人的な合意形成というのは意味がある。

しかし、これは速度をあげる事が難しい。全体としての速度をあげるには、個々人の思考能力(決断力)を上げ、全体としての意見集約の速度をシステム的にあげる他は無いのでは?


03.01.09
たかが言葉というなかれ。一つの言葉で「魂を救われ」、つまり「命を救われ」ることがあるのだ。「言葉とは命そのものなのだ」と言っても過言ではない。


03.01.09
生きているということは命懸け。 生きていくということは、本来それだけでも命懸けである。


03.01.08
本に書いてあることの8割は、読者を納得させるための例証である。言いたいことは実は2割くらいに収まっている。だからその2割を的確に把握しておけば、内容抽出に要する時間は大変すくなくて済む。


03.01.08
日本人は、「普通の社員」までハードワークを厭わないということでこれまでの経済成長をかちとってきたのだろうとおもうが、それは「ミウチ感覚」(ムラ社会)というものと無縁ではなかったろう。

近年、リストラや能力主義ということで組織としての一体感を抱き得なくなっている。そのことがストレスを形成していると考えられる。がんばっても評価されないのだ。がんばることそのこと自体が評価されてきたような面が多分にあった日本社会であるが、それが評価されなくなっているし、効果も現れにくくなっている。

そのあたりが、ストレスの増加、社会的ひずみ、自殺者の増加などにつながっているのだろう。


03.01.08
「武士は食わねど高楊枝」というのは、実態として「やせ我慢」であるのは間違いないだろうけれど、それを精神の問題としても「ヤセガマン」ととらえるのか、「高貴の精神」ととらえるのかで評価が分かれる。

「武士は食わねど高楊枝」という心の持ち方が必要な場合もあると思うのだが、現代はそれがあまりに見過ごされているような気がする。

「人はパンのみにて生きるにあらず」という聖書の言葉もこれに近い側面があるだろう。


03.01.08
もともと人間のやることにはバラツキがある。気まぐれといってもよい。それらにあまり目を奪われると本質(中心的内容)を誤る。やはり総体としての存在を判断の基準にしなければリスクを過度に見積もることになる。

統計でいえば中心値と標準偏差を押さえた認識をしないと、データ個々の値に振り回されて認識を誤ることになる。


03.01.08
人間、生きて行く力がなくなるのが死ということなのだから、その無くなる「生きてゆく力」というのが経済的なものであるのか、精神的なものであるのか、肉体的なものであるのかは死の本質とはあまり関係ないのではないか。

言葉を換えて言うと、どう死んでもそれを恥ずべきものではないということである。死は死であり、厳かであり、聖なるものである。たとえ山で行きだおれて肉体が朽ちても、路上で死を迎えても、山野で戦死しようとも。

生は生きて行く力の実験場のようなものである。あらゆる生の形がある。あるいはどこかでその一つ一つの生に目を凝らして楽しんでいる存在がいるのではないかと思えるくらいである。


03.01.07
朝会社にくると、「柴田昌治 会社を変える日本式最強の法則」という本あり。昨日の社長の年頭の辞で、M社でははコンサルをいれてオフサイトミーティングをやっているというはなしで、その関連だということ。では、そのコンサルとは、柴田氏のところなのだろうか?

それにせよ、コンサルをいれて実際に討論するのと、本を配って管理者に読ますのとではえらく差がありはすまいか。



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