物理学的な事

【相対性理論】
 物理学の理論の中でも、最も有名なものの一つが「相対性理論」でしょう。簡単に紹介すれば、自分の住む世界は目に見えるがごときであると思っているが、よくよく考えると長さや時間の物差しもそれぞれの個体によって違うという理論です。

 もっともこれだけでは何の事やら判らん、いや返ってますます判らん説明が加わったという所でしょうが、詳しくは一杯世の中に出回っている本をご覧下さい。

 でも、世俗的な直感で字義通りの解釈をすれば「世の中のあらゆる価値は相対的な価値であり、何一つとして絶対的価値と言えるようなものは無い」という事の物理学版ではないかと言いたくなります。

 しかし一方で、「世の中のあらゆる価値は相対的で…」なんて判ったような事を言う人ほど自分の信じる価値観をガンとして譲らないものです。そういう意味ではこの物理の相対性理論は、「いかに現実社会で普遍的に見える事が相対的な尺度に過ぎないか」という事を理論的に証明した事に意義があるのでは無いでしょうか。(まあ、相対論そのものがそれを「証明」した訳ではないのではありますが)

 ともあれこの「相対性理論」を一度本格的に学び理解すると、同じ事が人間社会の現象にも言えない筈はないと思えるのです。そうして、自分の(あるいは世界のあらゆる)価値観が実は相対的なものに過ぎないと達観してしまえば、価値観のぶつかり合い、あるいは自我のぶつかり合いによる紛争などは無用の長物だと笑い飛ばせるのでは無いでしょうか。

 もっとも、これは「相対性理論」が誰にでも理解できると楽観するのと同じくらいの楽観的観測に過ぎないかも知れませんが。

【ビッグバンと虚無】
 宇宙がビッグバンで始まったというのは、今やどうも定説になったようだが、ではビッグバンの前には何があったのだろう。「宇宙の始まり」はビッグバンだというと、ではビッグバンの前には何も無かったような気がするが、ではどうやって無から有が生まれたのだろう。

 実は答えは簡単で、「無」から「有」は生まれないのだ。宇宙以前の何かがある状態からビッグバンで宇宙が生まれたので、虚無の世界から突然ビッグバンで宇宙が生まれたのではない。一切虚無の世界というのは「ゼロ」という概念を間違って演繹したものだ。

 「無」というのは「有」があって初めて意識される概念であって「無」自体が存在する訳ではない。無というものが絶対的に存在する概念ならそれは永遠に無だけであって、変化はしない。また、「有る」という事は基本として2つ以上の違うものが存在するという事だ。たとえばある一つの色(白でもなんでも良いが)しかないとすればそれはないのと一緒だ。「有る」というのは2つ以上の識別できる違いを認識する行為なのだから。その意味で、0,1の2進数で相当の事が実現できるのは当たり前なのかもしれない。

【エネルギー準位】
 物理の世界にはエネルギー準位というものがある。簡単にいうと、原子の持てるエネルギーの状態は飛び飛びで、連続的ではないという事だ。当然、あるエネルギー準位から別のエネルギー準位に移るには特定の量のエネルギーのやりとりが必要になる。

 実は、このエネルギー準位の考え方は人間社会のあらゆる局面で見られる。つまり、社会的な仕組みになにがしかの変化をもたらすには、ある一定以上のエネルギーが必要という事である。このエネルギーが少しでも少なければそれは変化をもたらすに至らない。

 特に、最近は政治の世界でこの現象が見られるが、我々が会社でも普段に経験する事でもある。何か問題が起こってその時はひとしきりワーワーやって体制が変わったかに見えるのだが、少し時が経つとほとんど元の黙阿弥というわけだ。

 何が言いたいかというと、何か変化をもたらすにはある特定のエネルギーが必要という事で、少しやり過ぎではないかという位のある覚悟をもったエネルギー量でないと体制のエネルギー準位はあがらないという事だ。我々は得てして、やったらやっただけそれなりの効果は有るだろうという意識で事に当たりがちだが、それはそんなに甘くないのではないか。本当にエネルギー準位が上がるまでのエネルギーを費やしたのかどうか常に自問する必要があるだろう。

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