■雑記帳■
思いついたことを気楽に書いてみます。「日々随想」の方はどちらかというと「警句」風ですが、こっちはまったく気ままにあれやこれや書いてみます。まあ、雑日記みたいなもんかな。
■2003.12.04
今日の晩に、武術研究家の甲野さんから、突然お電話をいただいた。(リンク集にある松聲館のHP参照)
10月から11月にかけてNHKの人間講座で放送された内容とか 、著作で読んだ内容からいくつか疑問を投げかけたり、ある種の提言をさせていただいたのだが、なにがしか感じるられるものがあったのだろう。
HPなどを拝見して、面識が無い人に突然お電話するということもある人だとは想っていたのだけれど、まさか本当に自分などにお電話をいただけるとは想わなかった。
研究しておられる武術のように、「スッと」気負い無く電話してこられた感じだが、こっちはなんとなく落ち着かず、それでもまあ、せっかくのチャンスなのでちょっと時間を戴いて、直接お話することでいくつかこちらの疑問が解消した。
よく考えると、なぜ私にお電話をされる気になったのか不思議ながら、どういう趣旨でお電話を戴いたのかついぞ聞きそびれたが、まあ、まさかに「どういうご用件でしょうか」とも聞けない。心のそこでああかこうかと想いながらも、半分、居直ってお話をさせていただいた。
お人柄からすると、「先生」扱いするのがかえって失礼な感じさえする位だとも想うが、さすがに直接お電話で話すのに、「そこらへんのタダの人の自分」が自分と同列扱いするかのごとくに「甲野さん」とも言い難く、(気後れしたよ)、「甲野先生」と言ったのだが、そう言ったとたんに、道場主の顔を見てすぐに「参りました」と木刀を投げ出した道場破りであるかのごときイメージがわいて苦笑がもれた。
この手の対話は、今後とも相手にしてもらえるかどうか、ある種の「勝負」といえば勝負なんだからなぁ。いきなり「参りました」じゃなぁ…ということだけど、こりゃま、やはり成るようになったということだろう。
まあ、こちらはTVをみたり著作を読んだりで、(勝手ながら)親近感を覚えているのだけれど、さすがに、それをそのままぶつけるわけにもゆかず、でもまあそれを現わしたい気持ちで、あまり堅苦しくもないようにかつ幾分親しみを込めてと心がけてはみたが、やはりどうも体の中心がどこかへいったようなフワフワした感じの応対になってしまった。
甲野さんは悠揚迫らざる応対をされたのだが、なにせい、こちらが遠慮してしまう。HPを拝見しても最近は何せ尋常の忙しさではなさそうなのだから。
まあ、それでも15分くらいはお話させていただいたのだろうか。まことにありがたい経験をさせてもらった。実際にお目にかかれる機会があるなら、是非間近で技も見たいしまた、時間を気にせずにもうすこしあれこれ聞いてみたいものだ。
そういえば、午前中もいきなり、私の仕事用のHPをみて…という人から電話があり、大雑把でいいから見積もりをといわれた。これにも少々どぎまぎした。
というわけで、今日は脇の下に汗が流れる経験を2度もした、希有な日となった。
■2003.12.01
今日からNHK地上波デジタル放送が大都市圏で始まった。NHKでは大々的に特集を組んで放送していたが、そのなかで、東京大学の坂村教授がでてきて、「ユビキタス」社会のお話をひとくさりやっていた。
技術的に結構なことであることはわかるのだが、私はどうもうさんくさい気がしてならない。大の大人が「どこでもテレビが見れる時代がやがて来る。こりゃすごい。」なんて喜悦の表情で言ってるのだけど。気が知れない。
大体、良いことずくめのように放送されるものはウサンくさいと相場が決まっている。どんな技術革新にも光と陰があるので、ユビキタステレビで心配される社会現象も併せてとりあげてしかるべきだろう。
そうでなくても子供はテレビ中毒だと言われているし、携帯電話の弊害などは他ならぬNHKが取り上げたりしているではないか。どこでもテレビの時代は、どこでもテレビ電話の時代と同じ事だ。ますます、コミュニケーションの矮小化(仲間内だけのつきあい)が進行し、社会性が失われるのではないか。
また、どこでも受信できるということは、ますます自分で考える時間がなくなるということではないのか。
無論「ユビキタス」はコンピュータの世界の話でもあるけれど、ICタグの機能とくみあわせてその利便性が紹介されていた。(例えば商品情報の表示)けれど、こういうものはともすると、ますますグローバル化に拍車をかける。
グローバル化と聞くと、日本人は「国際的…」というイメージが好きなので歓迎しがちだけれど、これは現象としては、持つモノと持たざるモノとの2極分化が進むということだ。
私は、この2極化がつまるところ、アメリカ対テロリストの遠因ではないかと思うものである。
新しい技術の波は必ず押し寄せる。避けて通れないものであることは歴史が実証しているのだけれど、もっとそれがもつ負のパワーの社会的研究も進められるべきではないだろうか。
車でもいたずらに大出力のエンジンを搭載しても、それをもてあますだけのことである。「ユビキタス」云々はこの大出力エンジンにほかならない。それを制御する技術、その力をうまく伝える足回り、はたまた交通管制システムのような周辺環境がうまく歩調を合わせて開発されることを祈ってやまない。
■2003.11.28
今日のNHKの教育番組『くらし探偵団「技術者のねがい」』で、ホンダの自動車の安全技術が取り上げられていた。番組は子供向けなのだけれど、エッセンスが抜き出されていて短く編集されているので、なかなかためになる。
そこで取り上げられていた技術は、カメラを使い道路の端と中央の白線や点線を検出し進路を自動的に補正して車線を外れないようにする技術と、前の車との車間距離を検出して、近づきすぎると自動的に減速する技術だった。
これは、どうすれば人間の疲れが少なくてすむかという事も測定しながら開発したらしい。
そこで、技術面に対する疑問が一つ。日本の山道のように片側が山、片側が川というような場合で車が1台通れるかどうかというケースで進路補正が有効にはたらくのかどうか。白線のように明確なものがない(川側、あるいは谷側には普通ガードレールがあるので代用できそうだが)とうまく道筋を検出できないのではないか。
また、このケースでは真ん中に白線がなく対向車との占有範囲が明確でないので、路の真ん中を進んでいるとかえって危ない。やや左よりに走る方が安全だとおもうがそういうケースへの対応はできるのだろうか。
アイデアも一つ。狭い路で離合するときに、自分の車がぎりぎり通れるのかどうかを判断、補助してくれる機能をつけると売れるかも。運転の好きな人はともかく、女性など離合の時に固まってしまって、対向しているこちらが苦労する事がおおい。得てしてそういう時、相手にはもっと端に寄れるスペースがあるのに何もしてくれない場合がある。それを何とかするという機能があるといいのではないか。
そう考えると、バックを安全にスムーズにしてくれる機能の方が便利なのかもしれない。道幅の広いところまで素早くバックできれば離合はもっとスムーズだろう。
驚いたことも二つ。それは本田宗一郎さんがエンジン付き自転車を開発したのは40歳で、車の開発に成功したのは57歳の時だったということ。もっと若かったのではないかと思っていた。新しいことを始めるのに歳のことを気にするのがいかにばかげた事かという思いを新たにした。
それと、上記の安全技術を開発担当したひとが、この技術を17年間研究し続けてきたということ。それも以前に勤めていたのはコンピュータの会社で、本田に転職して与えられたテーマだという。こういう息の長い研究をさせてくれるのはやはり大会社しかない。もっとも、ある程度の成果(あるいは「手応え」)や社会的な(あるいは会社内部の)意義が認められなければ大会社といえども研究が頓挫するだろうけれど。
■2003.03.18
米国が国連の決議をもとめない形でイラクとの開戦を決意し、最後通告をだした。戦争が決まって株価が下がるかとおもったが、株価が上がった。専門家の解説によると、どっちつかずの状態を脱し、先が読みやすくなったということで株価が上昇したらしい。要は、先を読めない不安要因が株価を下げ、先が読みやすくなって不安解除
が少しでも進めば株価の上昇につながるようだ。
■2003.03.18
墓参。父が勘違いをして本日は彼岸の入りであるが実行。なんでも祖母がお墓参りは彼岸の入りにするものではないと言っていたとのことで、本来3/17に計画していたのをわざわざ今日にしたのだが、却って裏目となった。
我が家の墓は実家から車で30分ほどのところにある。昔は夏カンの畑であったとおもうが、その中にポカっとある墓であった。そのご宅地開発がすすみ、すぐそばまで住宅がある。
我が家の墓だけはまだ土のお墓で、墓参とはすなわち、墓掃除、草取りである。父は表面をこさげるようにクワを使い草をとるが、自分はもっぱら草を引き抜いている。ただ、草を根からとっても、その次に墓を訪れたとき父の除草したところとそれ程雑草の生え具合に差があるというわけでもない。ただ、今日はしばらく雨が続いたあとの晴れの日であったので、草は抜きやすく楽であった。
何というわけでもなくお墓を見ていたら塔婆の文字の違いに気がついた。いろいろな宗派の塔婆がある。寺の墓というわけでもないので、こういうことになるようだ。このあたり、外国の事情はどうなのだろうと考えてしまった。キリスト教でもイスラムでも宗派の違いがあるとおもうが、それらの宗派の違いをこえて同じ墓地に眠るということがあるものだろうか。
宗派の違いだけでなく、宗教の違いを超えていろいろな墓が並ぶ。そういうことが実現するならば、案外それが人間のありかたとして一番いいのではないかという気がした。
■2003.03.17
久しぶりの書き込みである。実は、先週の3/10から今日で1週間目だけれど、会社へ行っていない。3/31で退職の予定で、3/7が最後の出社日だった。思うようなことはできてないけれど、先週は確定申告やら、高校の部活のOB会の総会の準備やらで忙しかった。
今週からは、ちょっと落ち着いてあれこれできるかとおもったけれど、どうもやはり雑事に取り紛れてしまいがちなものだ。かろうじて、朝の新聞はゆっくり読んであれこれ考えることができているのはいい。
多分、家の中が雑然としているのを片付けるのが先だけれど、気持ちがのっている内にあれやこれやの検討に手を染めて見たいとも思うと、どっちつかずになる。多分、どっちであれ、早く態度を決めて徹底的にひとつづつ片付けるのが正解なのだろう。時間はとりあえずあるのだから、いままでのように中途半端な使い方ではせっかくのチャンスがもったいないというものだ。
ともあれ、3/10は退職の挨拶のメールに対してもらった「エール」へのお礼。11日はなんだかだの雑用。12日は確定申告の準備と確定申告。13日は幼馴染と、14日は同期に近いの友人たちと夜飲み会があり、昼間はなにやかやの雑事ですぎ、15日は一日テニス、16日はOB会。あっという間に時間はすぎる。
■2001.04.29
しばらく何も書く気がおこらずに、ホームページが更新できなかった。あまり、ホームページを書くことに自分自身で意味が見いだせなくなってきたことが原因である。
もともと、自分の考えることにある程度の社会的意義があるように思いそれを発表する場として書き始めたのだけれど、自分の書いていることにはそんなたいそうな価値がないように思えてきた。
それは、共著だけれど本を書いたということと関係がある。共著者は大体私より年若いが、内容のまとめ方、文章の詰め方など大いに教わることが多かった。それはそれで良かったし、自分の「書く力」がそれほどのものではないということを大いに思い知らされて、あらためて学習の必要性を悟らされたのはこれまた良い経験だった。
しかし、自分が自信を失ったのはそういうことではなく、自分が「異端」であることに気が付いたからである。他の人たちは参考文献をあたり、注目すべきポイントを要領よくまとめ、その編集とそれにのっとった自分なりの解説に自分の力を発揮していた。自分はというと、注目すべき点をピックアップするまでは同じだが、そこからその素材の「料理法」や「見せ方」にいままでには無いやり方を示そうとするのである。意識としては新しいものの見方を「発見」あるいは「発明」しようとしていた。またそれらの自分なりの「発見」や「発明」を自分なりに楽しんでいたのも事実である。
書こうとしていたのはビジネス書であり、それはある意味で「参考書」であるから、他の人のスタンスの方が正しかっただろう。けれども自分には、そんな要領よくまとめられた学習ノートのようなものにはあまり関心がないことに自分で気がついた。大げさに表現すれば、自分が「異端」だと感じたのである。
こう書いてみても、自分の思いを上手く紹介できたかというとはなはだ自信がない。これを読んでくれた人がそんなものかと納得するかということにわ我ながら希望が抱けない。
まあともかくも、「自分はどうも他の人には受け入れてもらえにくいのかもしれない」という思いで意気消沈してしまったと理解していただければそれで事は足りる。
今思えば、それぐらいのことで自信を無くすのはなさけないと言えるのだが、一旦沈んだ気持はなかなか浮き上がってこないものだ。
自分なりの意見ということに意識が向きすぎると独善になるということは事実である。既存の知見に十分な注意を払うということは、考え方のバランスをとる上で必要だ。自分の独創だとおもったことが何年も前に提唱されたものであったかもしれない。ある世界では「定見」になっていることに、確たる根拠も示さずに正面からぶつかって恥を掻くだけに終わる事の危険も避けることができるだろう。
自分にある「言葉遊び」の性向も認めなくてはなるまい。独創とおもって得意になっていたのは、単なる言葉遊びの域を出ないものであるかも知れない。
しかし、自分なりの意見を述べることに価値を見いだすというのは、どちらかというと米国型のやり方であって、他の人はいわゆる「日本型のまとめ方」であるという違いに過ぎないようにも思える。
自分が他の人と違うということだけでそれ程気分を沈ませている必要もない。何が正しいのか、その時々、場所場所で考え方は変わってくるのだから。あまり肩に力を入れる必要もないのではないかと思い始めた。
また最近、友人が無料サイトにホームページを作ってそこに日記を書き始めたが、それが肩肘はらず自分を包み隠さず書いた内容になっていて、それを興味深く読んでいる自分に気が付いた。
個人的日記をホームページに載せて何になるのかと、これはどっかで読んで借りてきた「アタマ」であったような気もするが、そう思っていた肩の力が抜けてきた。
まず、自分が運営していて楽しくなければ何にもなるまい。そこから次第に存在価値のある内容になってゆけばよいのだと思い始めた。
ということで、「日記」のコーナーをやってみることにした。もっとも、本当に毎日書けるのかどうか自信がない。自分のための日記は、三日坊主とはいわないまでも1ヶ月も経てば書かなくなるという経験を何度も持っているのだから。
けれど、最初から人の目を意識した日記というのは案外自分には面白いかもしれない。内容が「究極の自己満足」になってしまい、人の目を意識した割には人からみて価値のないものに終わる可能性もありはするが。
「日々随想」よりはずっと気楽な、この「雑記帳」よりは短いエッセーという趣になるだろうと思う。
■2001.01.16
今年のお正月は何かお正月の気分がしなかった。言葉を変えると特別な日という感じがしなかったということになる。その一つの理由は、近くの食品スーパーが元旦にも店を開けていたことだろうか。
良く行く書店も開いていたようだし、「ユニクロ」も開いていたように思う。便利といえば便利なのだが、なんだか妙な気分だった。
これらのお店が開いていたのは、そこで働く従業員が元旦に働くことを承諾したことになる。昔はお正月に働くことなど考えられなかったように思うのだが、それはまあ「休み」が少なかった時代からの感覚ということなのかもしれない。
週休2日の会社も別に珍しくなく、有給休暇の取得も進んでいたり、ゴールデンウィークの連休があったりと、お正月が特別の休みでなくて数ある休みのうちの一つになったということなのだろう。
しかし、お正月は何か特別な日であった方がいいように思う。日本には「禊ぎ」という文化があるが、お正月には「新規まき直し、今年こそ…」という気分があったほうが嬉しいようにおもう。よしんばそれが三日坊主におわる日記への決意であってもである。
「年があらたまる」という感覚がなくなると、なんだか1年損をしたような気になるのは私だけだろうか。
最初に1年損をしたような気になったのは、アメリカのクリスマス休暇にあわせて渡米しお正月の2日に帰国したときだった。全然年があらたまった気がしなくて、新しい年を得たような気分がなかった。つまり、過ぎし年の12月に続く12ヶ月が足されただけで、24ヶ月の1年の半ばという感じにさせられた。しかし、こういうケースは「お正月を海外で過ごすとこんなものか」とそれなりに納得もできるのだけれど、今年はなんだか奇妙だった。
もしかすると、今後は年を重ねて老後を迎えるまで「年の区切り」を感じることなく年が過ぎて行くのだろうか。そんな寂しさが心をよぎる。うちの父に言わせると「年をとってから1年があっという間に過ぎる」らしい。幸いにもいままでそんなことを感じたことはなかったが、これからは年の過ぎゆくのが速くなるということなのだろうか。
■2000.08.14
6月の下旬に、会社の面々と北京へ旅行に出た。滞在したのは実質たったの2日だったがそれなりに面白かった。1日目はちょっと郊外で、万里の長城と明の十三稜。2日目は紫禁城(故宮)と、天壇公園だった。
簡単に、印象を並べてみる。
◇もっとデカイ人がたくさんいるかと思ったが、それ程日本人より大きいとも思えなかった。スポーツの世界で登場する背の高い人たちというのは、やはり12億の人口のなせる業であり、アベレージとして、人が大きいというのでもないようだ。
◇あまり、眼鏡の中国人をみなかったように思う。
◇バイクで、卵を満載したリアカーを引いている夫婦を見た。荷物を運ぶにも人を運ぶにもまだまだバイクの果たす役割が大きいようだ。
◇店の入り口にビニールのスダレを垂らしている所をたくさんみかけた。スダレと言っても幅が10cm位で、2cm分位は隣と重なり合っていて、長さもほぼ地面まである。しばらく、なんでそんな事にしているのか分からなかったが、どうやら室内の冷房が外気でムダにされないためだと気が付いた。
日本では自動ドアがその役割を果たしているが、中国では自動ドアはコスト高でまだ普及してないのだろう。ちなみに、アメリカの工場でもフォークリフトなどが通り口にこういうビニールのスダレを使っていたのを思い出した。
◇帰国の日曜の朝、5:30am頃からジョギングしたが、笹の葉のホウキで大通りを掃除している一団を見かけた。バスが路傍に何台か留まっていたが、週末毎にこうやって掃除の人が差し向けられるのだろうか。
◇かなり大きめの道路でも、歩道にスイカの皮とか、結構何でも捨ててある。誰かが結局掃除をするのだろうけれど、このゴミはどこへ行くのだろう。人口を考えると、大変な問題なのではないだろうか。
けれど当局の力が強いから、きっと地元住民の反対なんてものは存在しなくて、ゴミ捨て場の確保にはまだ苦労がないのかも知れない。
◇朝夕の通勤時間帯の道路の混雑は相当なものだ。天安門付近の道路はともかくも、通常の道路は日本と比べてそれ程大きいとは思えなかった。まだ、人口の多さと比べて相対的に車の数が少ないからいいのだろうけれど、道路混雑がどうしようもないようなものになる日も遠くないような気がする。
ただ、下町の繁華街近くの道路の修理(あるいは拡幅か)についても、大胆な交通規制をしいて実施していたから、道路事情の改善には日本ほど時間がかからないかもしれない。
◇中国では、赤信号でも安全を確認すれば右折してよいルールのようだが、右折車はかなり大胆に道に出てくる。直進している我々のバスの前に右折車が出てきてヒヤリとした事は何度もあった。もっとも、直進車の方も慣れているようで、クラクションは遠慮なく鳴らすものの、割に何事も無かったようにやり過ごして行く。
車のみならず、自転車もかなり大胆で平気で直進している車の前を横切ったりする。日本的感覚からいうと危なっかしくてしようがないが、あんがい人間の適応能力は高くて、慣れればこれでもそれ程の事故は起こらないのだろうかと思いもする。
◇まだまだ一杯メモがあるのだが、ひとまずこの辺りで切り上げよう。
■2000.05.29
5/27の土曜に、会社の同年代の人間と飲みに出た。年に一度二度集まる楽しい会である。今回はフルメンバーの7人に3人欠け、4人で楽しく過ごした。年相応にというか、それらしい会の名前も付けているのだが、それは伏せておこう。
さて、夜中の1時前にメンバーと別れてから、「私のお気に入り」でも紹介しているショットバーで飲んで帰ることにした。そこで、近くに座った女性二人とボツリボツリと話し始めたが、いや、ケチョンケチョンにされてしまった。
何かのはずみで、「夜中の3時まで飲んでるなんて異常ですよ」みたいな事を言ったのだけれど、総スカンを食ってしまった。ウチのカミさんはと聞かれて「10時頃には寝てますよ」と言ったのもまずかった。まあ、そう言われてみればイヤミな発言をしている事には間違いがないのだが、当人はそんなつもりで言っているわけではない。けれど、「僕はこういう風な、『異常』というのは好きなんですよ。別に悪気ではない。」と言ってみたところで始まらない。説明すればするほど余計に、非を認めないイヤミオヤジだという事になって、最後には「森サン」なる呼び名まで頂戴してしまった。そう、あの「神の国」の森さんである。森首相である。さすがにこれにはガックリ来てしまった。
一度こうなってしまうと、当人がどういうつもりで言ったのかは全く関係なくなってしまう。結果だけが歩き始める。会社なんかだと、お互いどういう人間かはある程度分かっているし、この手の事を言っても割にこちらの意図するように伝わる。でもこの手のこと、英語で言えば「サーカスティック」という事になるのだろう、多少際どい物言いは、初対面の人に通用すると思う方が甘いのは間違いない。
後から思えば、座を和ませるつもりの戯れ言が全部思うようには伝わらず、ただ単に妙な事を言っているとしか取られなかった。路線変更すれば良かったのだろうけど、人間、そうは柔軟にゆかないもののようだ。
駄洒落を言ってもそれは「座を和ませるため」なんかではなく、自分に注目を集めたいがための事と決めつけられてしまったが、これも後から考えればそう取られても不思議はないのかなと気が付く。
なんとかもう少し和やかな楽しい会話にしたかったが、どうも「奇妙なオヤジ」のレッテルが剥がれそうにないので退散したのが4時。それから、自転車を漕いで帰路についたが、20分程漕いだ所でへとへとになって、川沿いのお堂のそばで、普段お年寄りが寄り合うように椅子をおいてあるところでダウンして、椅子の上で寝てしまった。これが初めてではないが、どうもちょっと情けない。もっとも、自分では結構自分の行状を面白がっているのだけど。
はっと、気が付くと朝の6時半。もうすっかり明るい。それから再び帰路についたが、家に帰ったのが7時。さすがにバツが悪かった。それから昼までベッドで寝たが、日曜は酒の疲れと前夜の「カルチャーショック」とでもいう会話で一日妙な気分だった。
5/28の日曜はTOEICの試験を受けた。前回の成績をなんとか上回ろうかと思ったが、どうもイケマセン。前回より調子が悪かったのは、この妙な気分のせいだったのか。試験を受けていて、脇の下を伝う冷や汗をはっきりと感じたがこれもまた妙な感じであった。英語の単語に目が馴染まず、見ている単語や文章の意味がなかなか頭に入ってこない。焦る気持ちが冷や汗になったようだ。次回はもう少し、英語を読む訓練をしておく必要がありそう。
■2000.05.25
友人からi−modeへ「山手線占い」なるもののサイト情報が送られてきていたので、試してみた。いろんな事を考える人が居るもんだ。ちなみに、私は「秋葉原」なんだそうである。3つの指標があって、若さ=53、洗練度=47、パワフル度=98だった。最後のパワフル度=98はともかく、若さってのは「歴史的年齢」か「気の持ちよう」の事なのか。洗練度47ってのは「馬鹿にしてるよなぁ」って思う(^^;)。ところでアクセスカウンタは【172316】だった。暇人の多い事…なんて思ってみても、自分も試してみたから同罪か…。それにしても、私のHPのカウンタと3っつも桁が違う…。やれ、かなし。
■2000.05.23
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5/19に、共著で執筆参加した「図解でわかるビジネスモデル特許」の試し刷りが送られてきた。さっそくゲラでの修正漏れ発見。ガックリ。その後、執筆陣とか執筆のメーリングリスト(ML)に参加していた人からのレポートが続々MLに寄席られてきたのを見ると、よく売れているそうである。へーっ、なんて人ごとみたいに思ってしまって、ちょっと奇妙な気分である。ビジネス書で、初版7,000部というのは多い方なんだそうだが、もうほぼ増版は間違いなさそうである。ちなみに出版社は、初版が全部売れると経費がまかなえてトントン、増版があれば出版社儲けが出るんだそうだ。 |
■2000.05.17
先週の日曜に西日本の最高峰、石鎚山に行って来た。土曜の昼に友人の家を出て面河渓でキャンプし、日曜(5/14)の朝7時から登山。約7kmの山道である。一番の心配は5/10の記事に書いたように、靴のせいでマメが出来ないかという事だったけれど、合計で5時間強の上り下りの間、靴に悩まされることはなかった。
5/12に靴を買った店へ行って相談したら、テーピングや、クッション材を使って履きならすしかないと言われて覚悟を決めていた。ちょうど指の辺りで靴が折れ曲がるが、自分の場合は足幅で靴を選んでいるので、指先に大分余りが出る。つまり、靴の折れ曲がり部分が指の折れ曲がり部分にではなく、その先、丁度親指のツメのすぐ後ろにくるのでその曲がり部が指を圧迫していたのだ。そこで、その圧迫部にテープを張って保護し、靴の屈折部の手前の位置にテープを数枚張って盛り上げて、靴の曲がりの部分の下の、指と靴の空間を大きくした。
実は、どうしてもダメなら靴を履き替えようと思って、リュックに別の靴の左足だけを入れて山へ登った。この靴は足を悩ましはしないが登山用の靴ではない。使わずにすんで良かった。テーピングだけでこう上手く事が解決できるとは、予想しなかった。何事もやってみなくては分からないものだ。登山の当日は小雨で、登山靴でなければそれはまた大変だったろうと思うので、本当に助かった。
登山そのものは、小雨で視界が開けず、本当に「山登り」だけになったが、けっこう面白かった。さすがに足場の良いところだけではなく、ちょっとした足下の冒険がある。大げさに言えば、一歩一歩が「自分の確認」だ。一歩一歩が得意である。それが子供時代に返ったようで楽しかった。
ものは考えようで、最初の登山がいきなり小雨の登山で良かったとも言える。天気の良い日の登山から始まったら、「雨が降ったらいやだろうなぁ」と思わざるを得ない。ところが小雨であったとは言え、少し濡れながらの登山は全然不快なものではなかった。これは防水の登山靴、ゴアテックスのスパッツ、ポリエステルのシャツとズボン、フリースといった濡れても暖かい衣服のお陰でもある。
もっとも、下りには苦労した、結構急な下りは石の踏み段になっているが、下手に足を置くと濡れた石が滑るので大変気を使ったし、随分とヒザがきつかった。晴れていたらもっとずいぶんと楽だったろうと思う。
それにつけても、装備の事を考えると昔の登山は大変だったろう。今の装備は、前日のキャンプで使った熱源でもテントでも拍子抜けがする程取扱が簡単で、軽いし信頼がおける。少し自分でも道具を揃えてみたくなってきた。
■2000.05.10
今週末の土曜から、友人と石鎚へ山登りに行く。自分に取っては「山登り」というのは初めての事である。でも、50歳でこの友人とヨーロッパアルプスへ行きたいと思うのでそろそろ事始めという次第。
先の日曜日にアウトドア用品の店で、ゴアテックスの軽登山靴を買ったので、ちょっと夜中に近所を歩き回ってみた。ちゃんと、ソックスも登山用に2枚はいて予行演習である。ゆっくりと約40分。
「ちゃちゃちゃ」、であった。左足の親指のツメの付け根に靴からの圧迫を感じながら歩いていたが20分過ぎる頃から圧迫感が本物になってきた。右足の方はなんともない。左足の靴をぬいで問題の箇所をてでなぞると、右足のほうにはない出っ張りが左足の方にはある。靴ひも通しの回りを補強する縫製の裏打ち材のようである。あぁ、いまいましいでないか。なんで、右足と左足の作りが違うんだ。まあ、これがイタリア製のイタリア製たる所なんだろうか。ケセラセラという縫製なんだろうか。イタリアの人には悪いが、これは僕のイタリアイメージの一部である。
そもそも、自分は靴に子供の頃から悩まされてきた。遠足などにゆくと必ず足が痛くなって、マメができた。足が靴に合わないんである。要するに、ワガハイの足が、日本人であるということなんだけど。つまり、甲高、幅広である。自慢のタネにはならんが、あんまり滅多な人には負けない幅の広さである。長さでいえば25cmで十分だけれど、EEE位の靴なら26cmを買わないと幅が合わない。26cmの靴だとつま先が2cm近く余る。
だから、靴の購入には慎重である。今回も一応、靴下も店のトライ用をきちんとはいて靴を試し履きして購入した。でもこのザマだ。ガックリというもんである。
一応、さっき靴に鉄アレイをぶちこんでみた。問題のでっぱりに上手く当たって少しでもひっこんでくれることを祈るばかりである。
ところで、真夜中にホロホロと、ろくに灯りもないような海岸沿いの道を歩いていると、学生時代を思い出してしまった。友人の所で遅くまで話し込んで、深夜誰もいない道を歩いて帰っていると盗人のようなアヤしい気分になったものである。あれはちょっとした冒険気分だったんだろうか。
さて、甲高、幅広の足の話に帰るけれど、これはなにを隠そうお袋からの遺伝らしい。オヤジによるとお袋はいつも男物のゲタを使っていたそうな。そういえばオヤジと並んで写っている写真にそんなのがあったような気がする。いっその事、ハダシで歩く時代まで遡れば、この頑丈な足は重宝しただろうに、なまじ履き物なんぞというものができたばかりに苦労をするのは皮肉な話である。