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今日の聖書の中には、9:36「群集が、飼い主のいない羊のように…」という言葉があります。また、10:6にも「イスラエルの家の失われた羊…」そのようにもあります。いずれも、人が羊に例えられています。このように、人が羊に例えられるのは、聖書に特有のことと言えます。イエスさまはそのお話しの中にしばしば旧約聖書を登場させます。その旧約聖書の中には、エゼキエル書という書物があります。エゼキエル書という書物には、悪い羊飼いの話が出てまいります。イエスさまはそのエゼキエル書の話をご存知だった。そして、「悪い羊飼いに苦しめられる羊」たちの状況は、エゼキエルの時代から変っていない、そのような憤りを持たれていたのです。エゼキエルの時代も、またイエスさまの時代も、羊飼いは、羊飼いと名付けられていることすらおこがましい、つまり、自分の羊たちを飼おうとしないのです。飼うもののいない羊こそ哀れです。エゼキエル書の言うところによれば、弱い羊は見捨てられる。病んだ羊も顧みられることはない。だから野の獣たちが羊を襲い、追い散らしてしまう。離れ離れになった羊たちは、在るものは高所に、在るものは荒野に逃げる。羊飼いに例えられているのが、当時の宗教者、羊に例えられているのは人一人ひとりです。イエスさまも、当時の宗教者への憤りを抱いていたのであります。
イエスさまの時代から遡ること昔エゼキエルは、そのような羊飼いを語ります。ただ、そのような状況を見るに見かねて、エゼキエルはこう語るのです。「神さま御自らがまことの羊飼いとなる」と。その「まことの羊飼い」について、エゼキエルはこう言います。「神は良い牧場で羊たちを養う」「その良い牧場には、良い牧草がたくさんある」と。神さまが私たちを養う、という視点は、福音書でも一緒です。福音書では、弱り果て、打ちひしがれている人々を、何をもってイエスさまが養ってくださるかということが示されています。36節後半には、「深く憐れまれた」とあります。羊飼いであるイエスさまの深い憐れみによって、人々が養われてゆくと記されているのです。深く憐れまれた、と言う言葉は、聖書が記されましたギリシャの言葉で「スプランクニゾマイ」と言います。「内蔵」もしくは「はらわた」という意味の言葉です。イエスさまの時代、「内臓」には人間の感情を司る機能があると考えられていました。その「内臓」という言葉に、感情を表す意味が加えられていったのです。日本語でも「悲しみ」を表すときに、「断腸の思い」という言葉があります。不思議なことに、日本でもまた遠く離れた場所でも、憐れみを表す言葉は一つなのです。ご自分の体の中心で、イエスさまが私たちを憐れんで下さるのです。
今日の聖書は、マタイ福音書9章に載せられております。このマタイ9章は、ざっと見ただけでも、病に苦しむものが出てまいりますし、病だけではなく、その心に大きな重荷、悲しみを背負っている者が出てまいります。9章前半より少し遡って、8章後半から数えますと「悪霊に取り付かれた人」「中風の人」「孤独の中にある人」「お嬢さんを無くした父親」「不整出血に苦しむ女性」「目の見えない人」「口の聞けない人」です。一人ひとりのことに詳しく触れる時間は残念なことにありません。しかし私たちには、聖書に書かれている一人ひとりの話を、自分のこととして、あるいは、自分の群れのこととして受け止めるだけの心はあります。「悪霊に取り付かれた人」とは当時の言い回しですが、これは、一人では抱えきれないほどの心の重荷を負わされた人、という意味です。大変な重荷を負わされた人がいる。私たちの心にも何人か浮かびます。「病の人」私たちの心にも、何人かやはり、祈りの一つに加えられているものがおります。当時としても、具体的な助け、生活への援助は難しかったのかもしれません。せめて、せめて神さまの愛がある、ということが伝えられれば、少しは人々の心もその雲が晴れたのかもしれません。しかし、先にも申しましたように、宗教者たちは自分を養うことに一生懸命でありました。
イエスさまは、そのような人々の現状、つまり、病を負い、孤独の中にいた。宗教者も何も働きかけようとしない、そういう現状をご存知でありました。それで、36節、「深く憐れまれた」のであります。これは、聖書は少々日本語を美しくしすぎたか、と思わされます。もともとの言葉の意味はもう少し激しいのです。「腸が痛む」「内臓が震えるほどに痛む」という意味の言葉だからです。イエスさまは一人ごらんになった。病の人、重荷を負わされている人、その一人ひとりが、それでも、それぞれの場所で懸命に生きている様子をご存知だったのです。ここで私たちが覚えたいのは、それほどの痛みをもって、この世の病、悲しみ、苦しみに立ち向かってくださったのがイエスさまだ、ということであります。しかし、イエスさまがこのとき覚えられたのは、ご自分の限界、ということでありました。自分だけではどうしようもない、自分ひとりでの働きには限界がある。そこのところでイエスさまがなさったのが、弟子たちをそれぞれの場所に派遣する、ということでありました。
イエスさまは12弟子を召しだされます。この弟子たちについて、聖書が語ることは余り多くのことではありません。イエスさまがお弟子さんたちに語りかけたのは、み言葉を伝える、聖書の言葉を語る、ということについてですが、私たちはこのことを、自分自身の働きについて、ということで聞くことが出来ます。今日の聖書、10章では実にいろいろなことが言われておりますが、例えば12〜13節「その家に入ったら、平和があるようにと挨拶しなさい。家の人々が、それを受けるに相応しければ、あなた方の願う平和は彼らに与えられる。もし、相応しくなければ、その平和はあなた方に帰ってくる」と。相手のことを覚えて何かをする。それが受け入れられない。でもその平和は帰ってくる、と。これはつまり、無駄骨ということはない、どういう働きであっても、無駄ということはない、ということであります。また、14節「あなた方を迎え入れもせず、言葉に耳を傾けようとしないものがいたら、その家や町を出てゆくときに、足のホコリを払い落としなさい」と。何かをしても、それが受け入れられない。そういうときには、それを引きずらなくても良いのです。無駄骨ということもないし、平和が帰ってくるのです。テモテ書の中には「時が良くとも悪くとも」とありますが、私たちにとって、良いときもあるし、悪いときもあるのです。
今日の聖書は、第一義的には、伝道の働き、つまり教会の働きについてを語っています。み言葉を伝える、ということの困難さ、難しさについてです。しかし、そこから私たちが聞くことが出来るのは、私たち一人ひとりの日ごとの働きについて、なのです。上手く行くときもあるし、上手く行かないときもある。上手く行かないときには、そのことを引きずらないこと。無駄骨ということは絶対にない。そもそも、あのイエスさまのように、み言葉を伝えると言うことに秀でた弟子たちはいたでしょうか? そしてまた、私たちもそれぞれの日ごとの働きに秀でているということはあるでしょうか? 弟子たちにも欠けや欠陥があり、私たちもそれぞれの欠けや欠陥があります。思い描くような働きも出来るとは限りません。しかし、私たちには、たとえ時が良くとも悪くとも、そのことを引きずらなくとも良い、と言ってくださる方がいるのです。あなた方は地の塩である、という言葉があります。イエスさまは、失敗をしてしまった私たち、あるいは、飼う物のいない羊のような私たちを、その心に深くかけて下さるのです。そのことに望みを置きつつも、私たちはこの世での働きに勤しみたいと思います。
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