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| 「疲れた者は来なさい」 |
本日の聖書には、「疲れたもの、重荷を負うものは、誰でも私のもとへ来なさい」とございます。聖書の中でもまことに広く知られた言葉であります。戦争が終わり、キリスト教のラジオ伝道が盛んだった頃、この言葉によって、新しい望みを頂いてこの世に再チャレンジされた方もおられます。また、この聖句を、聖書朗読台で皆さまと共に聞くとき、ひとりの女性のことを思い出さずには折られません。それは、Eさんです。昨年の11月に召され、もう半年が過ぎようとしております。Eさんも、この聖句によって、この世への再チャレンジを決意した人でありました。戦争が終わり、久留米市中心部で焼け残ったのは、この教会と、今は井筒屋デパートの建物だけだったそうであります。JR久留米駅からこの教会が一望できたそうであります。それほどに久留米の空襲は惨かったのです。Eさんは、外地で、全てを失い、家族とも離れ離れになった。失意の中でこの教会の前を通った。すると教会の入り口から声が聞こえてくる。何かと思い教会に入ると、ちょうどこのみ言葉が語られる時であった。担っている自分の疲れ、重荷を、担っていることすら忘れるほどに疲れ果てていた。けれど、自分の休む場所がある、自分の居場所がある。教会が、聖書が、自分の居場所に他ならない、そのようにEさんは思われたのです。いつしか涙が流れていた、と教会の記録にはございました。
普段私たちは余り意識することはありませんが、私たちは時にこの「居場所」を失う、という経験があります。場所があっても居場所がない。片身の狭い思いを強いられる。居たたまれない思いをする、私たち一人ひとりの心の中に、そういう経験が浮かび上がって参ります。先に挙げましたような経験、家族を亡くす、ということは、「居場所を失う」ということに結びつきます。つまり、私たちは普段、関係性の中で、それぞれの役割を持って生きております。家族の繋がり、職場での繋がり。生活環境の中での繋がり。その中で私たちには、それぞれの役割が与えられております。死は、その私たちから、関係性を奪って行きます。言い換えれば、暖かな交わりを奪って行きます。愛する者を亡くした後はまだ実感が沸きませんが、数日後、数ヵ月後、数年後に至るまで、私たちはそういう喪失感を味わう、ということがございます。また、職場での大変なこと、生活環境の中でのしんどいこと。それも私たちの居場所を無くさせる、片身の狭い思いを強いる、ということにも結びつきます。本当に私たちはストレスが多い、悩み多い世の中に生きております。何でもないようなこと、それが突然ある日、尾ひれが付いてあたりを駆け巡る。気づいたときには肩身が、居場所がなくなっている、ということもございます。
「自分の居場所」と言いますが、それはただ単に場所だけを指すものではありません。場所だけが残っていても、そこにやはり人が居なければ、そこは居場所にはならないかと思います。場所に加えて、そこで一緒に過ごした人との暖かな思い出があって、初めてそこは居場所になるのでしょう。先に会議が東京の三鷹という場所でありまして、そこは私が学生時代を過ごした町でもありました。約10年を、大学と神学校で過ごしましたので、それなりに思い入れも深い町です。駅から大学までの道、大学周辺の店や銭湯。近くの別の大学。変っている場所もあり、そのままの姿を留めている場所もありました。三鷹にはかつて、たくさんの私の場所がありました。大学の中、学生寮の部屋。ひさしの付いたバス停。店。そのように、場所だけは残っていても、先の5月にそれらの場所に行ったとき、そこはもう、ただの場所であって、自分の居場所ではないのです。なぜなら、そこには友だちが居ないから。自分の親しい人が居ないから。それぞれ、日本のいろいろな場所に散っていったり、あるいは天国にその人々はいるからです。居場所、というのは私たちにとって、それぞれの場所に加えて、その場所で過ごした人が居る。場所に加えて、親しい友達との思い出、愛する人との思い出があって初めて、居場所となるのです。
そのように、私たちはこれまでも、たくさんの場所があり、また居場所がございました。同じくらいに、場所を失い、居場所を亡くしてまいりました。それで、今日の聖句です。「疲れたもの、重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい」とあります。イエスさまが言われることは二つあります。一つ目は場所の提供であります。「誰でも私のもとに来なさい」とある。イエスさまは、ご自分のもとに私たちを招く。新約聖書のエフェソ書の中に、「教会はキリストの身体」という表現が出て参りますが、その意味でイエスさまは、教会に私どもを招いてくださるのであります。教会は私たちにとって、かけがえのない場所。イエスさまによって招かれた一人ひとりが集う場所なのであります。それが場所です。もう一つは、場所が場所のままで終わらず、居場所となるのです。イエスさまは「疲れた者、重荷を負うもの」と呼びかけておられます。私に呼びかけている。あなたに呼びかけているのです。もしも疲れていれば、仮に重荷を負っているのならば、どうぞ来るが良い。ヨハネ福音書という箇所には「私はあなた方を僕とは呼ばない。私はあなた方を友と呼ぶ」とあります。聖書の神さま、聖書のイエスさまは、私たちと人格的な関係を結ぼうとされる方なのです。暖かな交わりを結ぼうとされるお方なのです。特に、疲れ、重荷。それぞれの生活の中でそういうものを担いまた背負う私たちと、です。
聖書は、神の恵みは、「知恵あるものや賢いものには隠して、幼子のようなものには開かれる」と語ります。私たちは、神さまの前で、イエスさまの前では、つまりはこの礼拝の中では、幼子のようであって良いのだと思います。幼子が、何も遠慮することなく振舞うのと同じように、神さまの前では、私たちは自分を飾る必要のないことを知らされます。なぜなら、神さまは「私たちの全てをご存知なのですから」。けれど、私たちは残念ながら、この世で生きなければなりません。この世はどういう世の中かと申しますと、先にありました「狼で溢れている」世の中であります。それも、見える形で徘徊している狼は居ません。羊の皮を被った狼がおります。その狼に対抗するために、私たちは知恵を持ちます。また賢さも身につけなければなりません。また、世の中には、知恵は知恵でも悪知恵。賢さは賢さでも、ずる賢さを持つ人が居ますから、それにも対抗しなければ、骨の髄までしゃぶられるということもあります。頭を下げたり、頭を下げさせられたりすることもあります。人と人との関係の事柄は、良い刺激を私たちにもたらすこともありますが、それが疲れの原因、重荷となることもあります。世で生きること。私たちは生活のために、また働きのために、時に不本意を迫られ、また時に納得の行かないことを納得しなればならない、という局面に立たされます。疲れる世の中です。
その疲れを、重荷を下ろす場所を知っている人は幸いです。また、本当の意味での自分の居場所を知る人も幸いです。イエスさまのもとで、教会の中で、私たちは、自分の重荷を下ろし、それを再び背負うのであります。「背負う」と申しました。「また背負うのか」とため息が出そうですが、背負うのです。しかし、それは一人で背負うものではないのです。今日の聖書、最後にイエスさまのこのような言葉がありました。「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」と。くびきというのは、ご承知のように、牛や馬、家畜の首に駆けるものです。聖書の世界では、畑を耕す手伝いをさせたりいたしました。そして、この時代、くびきには二頭の動物を連ねていたのです。私たちのくびきは、一つは私たちが担います。けれど、もう一つはイエスさまが担う。一つはあなた、一つは私、とイエスさま自らが、今日の箇所で断言しているのです。私たちが追っているくびきは何でしょうか。引越し、卒業や入学、就職や離職。問題や試練。結婚や家庭生活の難しさ。そして、新しい命の誕生と、命との別れ。どれもが重たいくびきかと察します。しかし、それはもはや、一人で担うものでありません。イエスさまが担います。そのことに喜び、また、その喜びを伝えるものでありたいと思います。
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