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「和解」 マタイ5:21〜


私たちはこの朝も、イエスさまの山上の説教を聴いております。その山上の説教の始まりに、イエスさまはこのように呼びかけます。「あなた方は、私のために罵られ、迫害され、身に覚えの無いことで悪口を浴びせられる」と。イエスさまの何気ない言葉ですが、この言葉の中に、私たちの生活に望まずとも関わって来る困難、トラブルなどと呼べるものの本質があります。困難の本質、トラブルの本質、それらは、ある日突然明らかになる、ある日突然目に見える形となる、ということです。イエスさまの「罵られる、迫害を受ける、そして悪口を浴びせられる」との言葉を良く読みます。これらは皆、受動態、受身の言葉です。つまり、意図していなくとも、突然その身に起こる、ということです。困難や障害、トラブルに進んで身を投じる人はいません。受身なのです。私たちはどこまで行っても受身なのです。例えば何気ない生活を送っている。その生活の中で突然「罵られる、迫害を受ける、悪口を浴びせられる」ということが起こる。「罵られる」「悪口を浴びせられる」というのは言葉による惨い仕打ちですが、それ以上の事柄もされることがある。ある日の突然の仕打ちに驚くことがある。そういう中で私たちは生活を営んでいます。昔の人、聖書時代の人も、その意味で私たちと変らない生を送っていたことと思います。

 

当時の人々、そして私たちに、共通することがあります。それは、私たちがどこで聖書の言葉を読んでいるのか、ということの答えです。それが共通するのです。私たちは聖書を、無菌状態のクリーンルームで聞くのでしょうか? 涙無く、苦しみもない、黙示録が告げるような場所で聖書のみ言葉を紐解いているのでしょうか? 決してそうではありません。声を大にして言うことも無いのかもしれませんが、私たちにはそれなりの経験があります。私たちには、腹立つことも、許せないこともあります。思い出したくもないし、思い出せば腸が煮えくり返る、再沸騰するようなこともあります。皆さまにも、そういう経験があることと思います。また、昔の人々の中にも、そういう経験があったことと思います。今日のみ言葉は、端的に言えば「怒るな」ということです。けれど「怒るな」とのみ言葉は、高みに留まっているみ言葉のように聞こえます。いえ、仮に私たちが例えば、無菌状態のクリーンルーム、あるいは、涙無く苦しみも無い、そういう場所にいるのであれば、このみ言葉も多少なりとも受け止め方が違ってくるのでしょう。でも、私たちがいる場所は、なかなかもって厳しい場所であります。挙句の果てには、「腹を立ててはいけない」このみ言葉に腹を立てている自分、「なんと無茶な」と言う自分がおります。



 イエスさまは今日のみ言葉の中で、殺人についての戒めを引用されています。これは、旧約聖書の中の十戒、その第五項目目であります。イエスさまは、その十戒第五項目、殺してはならない、その言葉を引用された後、腹を立ててはならない、と言われるのです。実際に、人を殺めることと腹を立てること、それらのことは重なるのか。怒りが殺意へと繋がる。そういうことはあるのでしょうか。自分のことを引き合いに出しますと、恥ずかしながら「ある」としか答えられません。怒りの最中にあるときに「相手がいなければ、こういう思いを抱くこともない」「相手がいなくなれば、こういう悲しみ、怒り、憤りとは分かれられる」と考えることもあります。その意味で、怒りの最中にあるとき、憤りの中にあるとき、相手の存在を殺している、ということがあります。聖書は、最初の人類、アダムとイブが創造された次第を語りますが一方で、最初の殺人、兄弟カインとアベルの殺人があったことも語ります。心の中での怒りが積もり積もって殺人となってしまう。怒りは、内面の殺人、そしてその内面の怒りが目に見える形となったのが殺人であると聖書は語るのです。

 

イエスさまがここで、「兄弟」という言葉を繰り返し語り、その心に留めていることに注目したいのです。兄弟とは、狭い意味では血縁関係にあるもの、また広い意味では、志を同じくするもの、という意味があります。この「兄弟」という言葉に、今日のみ言葉を解き明かす鍵があるのです。兄弟とは、血のつながりのあるもの、また志を同じくするもの、という意味があると申し上げました。ですから、イエスさまがここで言われること、それは、相手との繋がりを断ち切ってはいけない、ということであります。例えば、相手が自分の兄弟であることを否定すること、相手とのつながりを否定する、相手の存在を否定する。また、相手の志を否定する。そのことが、相手を殺すことになるとイエスさまは言われるのであります。もちろん、議論がすれ違うことはあるかもしれない。意見が食い違うこと、思いが明後日の方向を向いていると思われるようなことがお互いにあるかもしれない。そのように、議論、意見、思いがすれ違うことはあくまでも「議論、意見、思い」のすれ違いのみにとどめて置く。相手の存在を否定するということがあってはならない、ということなのです。

 

イエスさまは、この戒めを語った後、二つのたとえ話をなさいます。このうち、後の方のたとえ話では、訴える人と訴えられている人の話が出てきます。そして、訴えられている人の目線でイエスさまがお話をされています。この中でイエスさまは「許しを与える」側ではなく、「許しを請う」側としての話をされています。そうです。許しを与えるのではなく、許しを願う立場に身を置く事をイエスさまは求めているのです。自分を、許される側ではなく、許す側に置くと、いつしか許しのハードルが高くなっていってしまいます。例えば、1000円の損害を受けたので、1000円の賠償金を受けます。許そうと思います。けれども次には、なかなかその1000円の賠償であっても許せない。どんどんハードルが高くなってしまう。私たちの許しは完全ではなく、また私たちの気持ちも全てに行き届くというものではありません。ただ一人、許すことが出来たのはイエスさまのみ、そして「腹を立てるな」という言葉を責任をもって言うことが出来るのもイエスさまのみなのです。

 

私たちは、目の前にいる他者を、あるいは、それぞれの心のうちにいる他者をについて、神さまに作られた存在として見ることが出来るならば、罪を犯すことはないのだと思います。また、そのように作られた存在として、自分の兄弟とみなすことが出来るのであれば、これも憤りや怒りから遠くあることが出来るのでしょう。イエスさまはこの私たちを、ときに兄弟と呼びまたときに友と呼びかけてくださいます。イエスさまは私たちの存在を否定することはしません。私たち一人一人の存在に意味があり、その私たちに愛を注ぐのです。私たちは、あいも変らず時に怒り、時に憤りを抱く歩みを成します。その私たちに向けて、時にイエスさまがいつくしみの眼差しをもって眺めていることを、強く自分自身に言い聞かせる歩みを成したいと思います。怒りも、また憤りの思いも、自分だけの中にとどめるのではなく、主に委ねてゆく、その歩みを成したいと思います。

 

 

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 本日は、与えられました福音書から、みことばを聞いていきたいと思います。

 

聖書の中には、ご存知のとおり、福音書と呼ばれる部分があります。かつてこの地上に生きたイエスさまがお話をされたこと、お考えになられたこと、その事柄が福音書には記されております。そして、福音書を記した人、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、4人いると信じられております。この方々は、誰もが誰もイエスさまの事柄を記した、そのことに変わりはないのです。が、やはり少しずつ語ることは違ってきています。本日私たちが読んでいる福音書を記したルカと言う人、この人は、自分の書物を、歴史に即して記したのです。つまり、ルカ福音書2章に記されていて、クリスマスの時期に読むことが多いのですが、皇帝アウグストゥスが人口の調査をした。その年にイエスさまがお生まれになった、と。そしてまたルカが意図していたこと、それは、歴史に即して自分の書物を記すということだけではなく、歴史を記すことだったのです。歴史を記す、有体に言えば、昔の人の生き方を書いた。昔の人々の生き方を書いたのです。それで、ルカ福音書の続きの書物、これは、新約聖書の使徒言行録という部分ですが、そこには、人間の集まりの様々なトラブル、困ったこと、悩んでしまうこと、そういうことも記されているのです。人間関係、人とのかかわりの事柄、その問題は、実は今日の福音書にも記されていることなのです。

 

イエスさまが生きておられた時代、イエスさまの周りにも大勢の人が集まっておりました。そして、その中でも、使徒と呼ばれる人々がおりました。この使徒、と呼ばれている人々の役割は、イエスさまの周りに集まっている人々のお世話をすることだったのです。人間の集まりです。その集まりの中には、なかなか難しい問題が起こっていたことでしょう。誰かが誰かに何かをした。あの人がこの人に悪いことをした。そういう問題は絶えず起こっていたことと思います。その中で使徒たちは、そういう問題の解決に当たっていたと考えられます。また、実際にそういう問題に直面するとき、使徒たちも一人の人間です。解決できない問題、手に余る問題が目の前に降ってきたこともあった。また、ますます入り組んでいってしまう、うまいこと仲裁が出来ないで、事態はますます困った方向に進んでいってしまう、そういうこともあったことと思います。謝罪を促す、うまく行かない。とりなしをする。しかしうまく行かない。アドバイスをする。しかし事態はますます複雑になってしまう。そういうことが起こりえたことと思います。

おそらくは、お弟子さんたちは、こういうことに悩んでいたのだろうと思われます。人と人との行き違いが起こったとき、ボタンの欠け違いが起こったときにはどうすれば良いのか。アドバイスをする。ボタンの掛け違えている場所を指摘する。そして、お互いがお互いに仲直りをするように促す。そのことはお弟子さんたちにも大切なこととして分かっていたことと思います。大切なこととは分かっている。しかし、実際に自分たちがその場所に立たされたときに、その分かっていることが実行できるかというと、そうではない。また、こういうこともあります。相手へのアドバイスをして、相手が納得する。けれども納得したように見えた相手は、そのことをずっと根に持っている。また、アドバイスをする。相手は心から納得する。しかし過ちを二度、三度と繰り返してしまう。また、お弟子さんたちがアドバイスしたことによって、事態はより一艘深刻になってしまう。そういうことが起こったことと思います。そういう、人と人との間に起こる一つひとつの事柄の狭間の中で、お弟子さんたちは、戸惑い、悩み、考え込んだことと思います。自分たちのアドバイスが良くなかったのだろう、と。そこでお弟子さんたちは、考えたのです。なぜこんがらがってしまったのか。それは、きっと、自分の信仰が弱く、脆く、貧しいからに違いないと。そしてイエスさまに求めたのです。「自分たちの信仰を増し加えて下さい。強く、豊かで、幅のある信仰を下さい」と。

 

イエスさまのお弟子さんたちが抱えていたのは、先にも申しました、人と人とのトラブルの解決に際して、どのような思いをもって臨むのか、ということだったのでしょう。その中でお弟子さんたちは、先にも引用いたしました5節の「私どもの信仰を増してください」と望んだのです。お弟子さんたちの望みは、私たちも当然のことと考えます。お弟子さんたちは、自分の信仰を弱いものと考えていましたが、強い信仰が欲しい、豊かな信仰が欲しい、幅があって、奥行きがあって、汲んでも尽きることのない泉のような信仰が欲しい。ただ、ここでのイエスさまのお答えは、こういうことです。「もしもからしだね一粒ほどの信仰があれば、あの桑の木に、海に根っこを張るように命じても、その通りになる」ということだったのです。信仰を増やしてあげよう、ではなく、あなた方はもっと豊かな信仰を持たなければいけない、幅と奥行きのある信仰を持たせてあげよう、でもないのです。小さなもののたとえですが、からしだね一粒。小さくても、たとえばそれが、辛子だね一粒ほどの信仰があれば良い、とそのようにお話になるのです。

 

イエスさまに相談を持ちかけたお弟子さんたち、使徒たちは、このとき、おそらく、手に余る問題を抱えていたことと思います。そういうお弟子さんたちを前に、イエスさまは、「もっと信仰を持ちなさい」「あなたの信仰は貧しい」そういうことはお話にならないのです。辛子だね一つぶなのです。辛子だね一粒で良いとお話になるのです。つまり、こういうことです。小さくても、貧しくても、狭くても良い。吹けば飛ぶようなものであっても良い。辛子だね一粒の信仰でも、つまり、私のところに来る。私の言葉を聞く。私の思いに望みを置く。そのように、今の自分に、もっと厳しいハードルを越えなければならない、もっと高いハードルを越さなければならない、そういう厳しさを課すのではなく、今の自分のありのままを認めること。辛子だね一粒のようであっても、良しとしてくださるお方がいるのだ、ということをお弟子さんたちにお話になったに違いありません。もっと大きく、もっと豊かに、もっと深く、ではなく、今のそのままの思いで良い、とお弟子さんたちをイエスさまは慰めたに違いありません。

 

 そのことは、イエスさまが信仰のお話をされているときに、辛子ダネを引用されていることからも明らかです。大きな種を引用されてはいないのです。その当時知られていた種の中でも、イエスさまは一番小さな種を引用されたのです。小さくとも良い。僅かでも良い。その信仰が、やがては「桑の木に海に植われと命じればそのようになる。言うことを聞く。」そういうことが起こるのだとお話になっているのです。人と人との間の事柄に悩んでいたお弟子さんたち、あるいは、他者と自分との間の事柄に考え込んでいたお弟子さんたちは、持っていた気負いのようなものから解き放たれたと信じます。自分は小さい、けれども、そういう小さなものをも省みて下さるイエスさまに、改めて目が開ける、そのような思いに立ち返ったことと思います。そして、気持ちを新たにし、それぞれの場所へと出かけていった、帰っていったことと信じます。どんなに小さくとも良い。そういう私をイエスさまは愛して下さる。それが他でもない、お弟子さんたちだけではなく、私たちに与えられた聖書の言葉なのです。
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