心揺編
「知れば迷ひ 知らねば迷はぬ 恋
の道」
ここの章では、拙者たんちが心震え、胸がしめつけられる様な、幕末の話題を発表致そうかと存ずる。
確かに、拙者は気が弱い。おまけに弱虫でござる。
その拙者が、維新史を前に心揺らぐのは致し方ない(特にラブストーリーに弱し!!)、皆も共感していただければ幸いの極みでござるな。
あ
愛に昇華した政略結婚
あ
あ
・・・・和宮内親王。彼女は、
幕府・朝廷間の 「公武合体」
という政治的意味をもつ為の政略結婚をする事になった皇女
です。
「公武合体」という政略。
幕府側は激しくなる
「尊王攘夷派の牽制」
をするための政策としてーーーー
朝廷側は
「幕府が遂に攘夷を実行に移す」
という約束を守らせるためーーーー
反対していた孝明天皇を説得し、
将軍家茂と皇女和宮の結婚。これをもって公武合体を実現しようとしました。
朝幕間の利害が一致する、政策のための政治的結婚・・・・・。
この時代にとってこの結婚は大きな意味をもつはずでした・・・・・。
和宮は、その頃まだ16歳という若さでした。
そして、
許婚だった熾仁親王
という憧れの男性もいました。
もちろん、断固拒否の構えではありましたが、いろいろな理由から和宮は悲しみを堪え承諾する事になります。
和宮降嫁の際の大行列は当時の幕府の勢力を示す為、数万におよびました。
京の都を離れ、一人嫁ぐ和宮。
彼女は江戸に着くなり、すぐに江戸風と京風の違いに悩みます。
更に
天璋院との嫁姑問題
にもぶち当たることに。
そんな彼女を、将軍家茂公は誠実に思いやりをもって労わりました。
今まで、自分も政略によって翻弄された経験があった為、彼女の気持ちを理解していたのです。
はじめは、
江戸人は気性が荒い
だろうと、偏見の目で見ていた和宮でしたが、
家茂公は同じ年ながら、多くの幕臣からも、公家からも、
とても信頼される程の人格
者でした。
彼の行動と言動に安心した和宮も彼の気持ちを理解して、周囲に溶け込む努力をします。
時代のうねりが凄まじかった時であった為、若かった家茂公は激しく変化する政局に翻弄されました。
しかし、勝海舟ら、有能な幕臣達に励まされ、将軍として時代の難局に立ち向かい続けます。
彼女は、そんな彼を応援しました。
それはまさに・・・・・・・、夫に対する愛でした・・・・・・・・・。
下女の仕事であった
将軍様の履物を揃える
という行為を、彼女は自らすすんでおこないました。
大奥の女性が・・・・・ましてや、皇女として育てられたプライドの高い彼女がそういった行為をする事は、ほとんど信じら
れない出来事だったのですが。
一方・・・・彼女だけでなく、
家茂公も彼女を大切にします。
政務に追われる将軍職を全うする彼と同じく、
気苦労が多かった
十四代将軍正室
という立場。
そんな和宮を絶えず気にかけ、
家茂公は彼女の歌のお礼にと、
鼈甲のかんざしをプレゼント
したといわれます。
揺れ動く時代が、二人の絆を一層深めていったのでしょうか・・・・。
夫婦意識が薄れていた時代に、二人には、お互いを尊重しあう“かけがえのない愛”が生まれていました。
そんな二人の愛は永遠に続くはずでした・・・・・・・・。
しかし、時代はそれをーーーーーー許しませんでした。
あ
愛する、貴方あってこそ。
あ
あ
幕末でもっとも尊皇攘夷の気運が高まった時代・・・・・・。
高杉晋作が自藩でクーデターを起こすことに成功します。
これにより、
長州藩は「倒幕」という思想
をもって動き出すことになりました。
そんな時、
彼、家茂公は慶応元年5月16日第二次長州征伐のため上洛する事になりました。
これまでにも何度か上洛を続けてきた家茂公ですが、
将軍が上洛するという行為は、
家茂公が上洛するまで230年間無かった
事なのです。
それを何度も行き来するという事は、
まさに幕府が京(朝廷や尊攘志士)の政界を軽んじられないという事でしょう。
そして将軍後見職であった、
一橋慶喜(後の徳川15代将軍)とともに大阪城に入城し、
長州征伐隊の戦況を見守りました。
その頃、
和宮は複雑な心境だった
のではないでしょうか。
愛する夫との新婚生活も満喫出来ない程、時代はドンドン騒がしくなっている。
そして・・・・、その年は彼は江戸には戻れないまま和宮は寂しくも、一人で越年する事になりました。
その頃、幕府軍は戦闘準備を整えていましたが、
今回は前回と違って、今ひとつ足並みが揃わない状態でした。
第一次長州征伐時
に、味方の中心だった薩摩藩が、
今回は幕府の知らないところで坂本竜馬らの尽力によって
幕府も全く予想しなかった
「薩長同盟」を締結
していた為、
薩摩藩からは今回の長州征伐の出兵を拒否されてしまったのです。
その為、今回の戦況は幕府軍にとって苦戦を強いられる事に・・・・・・・。
長州軍の3倍以上の兵力で挑んだ幕府軍でしたが、長州軍の少数精鋭部隊は、
天才軍師・大村益次郎の指揮の下、次々に戦果を挙げ、
幕府軍は惨敗を繰り返しました。
そんな折、家茂公が、大阪城で病に倒れてしまいます。
元々、体が丈夫ではなかった家茂公でしたが、いく度もの上洛や激動渦巻く政局の変化に、心身共に衰弱してしまった
のです。
彼は、病床で愛する妻・和宮を思い浮かべていたでしょう。
『余は、宮に逢いたい・・・・』
将軍が脚気という病にかかってしまったと知らされた和宮は、心配に心配されました。
英国船で医者を大阪に派遣したり、見舞いの品を何度も送り届け、回復を祈り続けました。
『上様・・・・・どうか・・・・、どうかご無事で・・・・・・・・・。』
しかし・・・・・慶応2年7月20日。
彼は、帰らぬ人に・・・・・・。
多くの家臣に愛された、誠実一途な将軍様は
20年間の短い生涯
を終えたのです。
その後、和宮の元に将軍家茂公の遺体が帰ってきた時です。
彼女のもとに遺品が届けられました。
その遺品とは、
彼、将軍家茂公が今回の上洛前に
「 故郷の京都土産は何がよいか? 」
と尋ねた時に、
彼女、和宮がねだった
「 西陣織 」
でした・・・・・・・・・。
和宮は、すっと立ち上がり奥へ下がり、
そして、そのまま突っ伏して号泣しました。心ゆくまで、号泣しました。
その時、彼女が詠んだ句です。
空蝉の 唐織り衣 何かせむ
綾も 錦も 君ありてこそ
(どんな美しい織物でも、見せたい貴方がいなければ、何の意味もないのに・・・・。)
彼女は即日剃髪して、髪の一部を自筆の「阿弥陀仏」の名号とともに大坂に送り、家茂の棺に一緒に入れられました。
その後も彼女は、江戸城を離れませんでした、
そして和宮は静観院宮と称される事になりました。
そして彼女が悲しんでばかりいられないほど、
時代は益々、激しくなり、ついに大政奉還を迎えます。
彼女は、官軍となって旧幕府を倒そうとしている新政府軍から江戸を守ろうと、全力を尽くします。
彼女だけでなく、夫の理解者だった勝海舟や山岡鉄舟もまた尽力し、西郷隆盛を説き伏せ
「江戸無血開城」
にこぎつけ
ました。
その時の将軍慶喜追討軍の総帥で江戸城に入城してきた人、
その人は運命の悪戯か・・・・・和宮のかつての許婚者有栖川熾仁親王でした。
彼女はその後、彼の後を追うように
同じ脚気の病を発症
し、32歳という若さで他界します。
遺体は「将軍様の隣に」という彼女の遺言通りに、彼の隣に埋葬されました。
彼女も幕末の時代に翻弄された一人でした。
しかし、血なまぐさい幕末という時代に愛を見つけ、愛を貫いた彼女に、心揺さぶられ、
現代でも多くの人々の心に感動を与えてくれるストーリーが、
きちんと存在していたことを深く・・・・・・・、
深く心に刻んで頂きたく思います。
このエピソードの舞台を熱く熱く生きていた方々には、ご冥福を祈ると共に、感謝の言葉を。
このエピソードを最後まで目にしてくれた方達には感謝の言葉を。
そして、このエピソードを作成するに当たり数々の資料を参考にさせて頂きました、その資料や著書の作成者の方々にも感謝の言葉を。
本当に。有難うございました。
music by Shinjyou's Music Room “白梅抄”