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くさやの起源
 三宅島は、徳川時代、幕府の天領であった。当時の地域住民が、領主に対して年貢を納めるのは当然のことであり、現在の租税制度の前身といえるだろう。
 封建時代の租税は、米の物納が主であったために、これを年貢米と呼んでいた。
 水に乏しい三宅島には水田がなく、島民は僅かに麦や、芋類を耕作して漸く糊口をしのいでいたので、年貢米を納める余裕などは全くなかった。
しかし、四面を海に囲まれた地の利をいかした、製塩という特殊な生産物があった。幕府は、これを年貢として上納することを命じたのである。これを塩年貢という。
 年間の割当量は、三斗五升入りの袋で、九百九十五俵という大変な量であった。この塩年貢を完納するためには、島民全体の力を結集しなければならないところから、島を二分し、伊豆、阿古、坪田の三ヶ村が炊方となり、伊ヶ谷、神着の二ヶ村が、運搬方を担当したのである。
現在、三宅島の海岸に、釜庭、釜潟、釜の尻などの地名が残るのは当時の製塩所のあった名残である。
 年貢に使われるこの塩は、生産地においても貴重な物資であったことは言うまでもない当時、この塩を盗んだ男の、一族郎党まで断罪を受け、その部落までが、お取り潰しの憂き目にあった事例を知れば、この塩が、いかに貴重な物資であったかが推察できる。
 冷凍技術の無かった当時としては、獲った魚を保存するためには、干物にすることが唯一の手段であったが、さりとて、この貴い塩を無造作に使うことは許されない。
窮すれば通ずとか、又、三人よれば文殊の知恵とか言うが、窮地の一策として、大変合理的な解決方法を見いだした。
つまり、魚を獲るたびに塩を使うのでは、大量の塩を必要とするが、一回塩水(たれ)を造っておけば、この中に魚をひたしただけで、塩を使ったのと同じ効果があり、何回でも繰り返し利用ができることになる。
そして数回後に味がまずくなった時点で多少の増塩をすればこと足りる事になる。しかも、この塩水は腐敗するおそれは全くなく、それどころか、この塩水が古いほど、干物の味がよいということまで発見されたのである。いま数軒のくさや製造業者が使っているこの塩水は、数百年来の、時代がかったものであるといわれる。
またこの塩水には、甘口、辛口と、業者によってそれぞれの特徴を持っているが、これは一種の秘法であり、伺い知ることはできない。
 このくさやは古来より、粋人の間でもてはやされた高級な食べ物であったが、近年では一般化して、観光土産品として幅広い需要があり、わたしゃ三宅のくさやの干物 主にやかれて身をこがすと、島の民謡、島節の一節にまでうたわれている。
 くさやはもともと、塩を節約するという、苦しまぎれに生まれた生活の知恵であることは、以上の通りであるが、その生年月日については、さだかな記録はない。
 絵師の藤原信香(後の英一蝶)が、三宅島に流罪になった折、その友人たちに「三宅島はくさやの名産地だと聞いている。彼地から、江戸に送られてくる干物の口に、笹の葉がさしてあったら、信香は丈夫でいると思ってくれ。」と言っているところをみると、くさやの歴史は大分古い物であり、当時、江戸にまで出荷されていた産物であったこともわかる。
ちなみに、藤原信香が流罪になったのは、元禄十一年(一六九八年、四十六歳)である。

                    池田信道 著 「三宅島百話」より



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