| シイラ君は商品名では有りませんが、この物語の中ではシイラのくさやを「シイラ君」と呼び、シイラのくさやの商品案内をしてもらいます。 | ||||
| 僕の名前は「シイラ君」。平成元年3月生まれ。ここの店主が僕のお父さんです。 生まれるキッカケはとても簡単でしたが、ここまで大きくなるには大変でした。 |
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| まずは、お父さんを紹介します。 お父さんは通称"とし"と呼ばれ、若い頃には遠洋マグロ船に乗ったり、三宅島では自分の船を持って漁師さんをしていました。 年明けとともに、黒潮に乗ってやってくるカジキの突棒漁をしたり、春になると春飛魚の流し刺し網、夜には赤イカも釣れました。 鰹の引き縄漁も始まり、三宅島が活気付く季節の到来です。 夏になると夏飛魚、秋口から暮れに掛けては、同じくさや仲間の青むろアジも捕っていました。 そうそう、カジキの突棒漁と言えば、それはもう豪快な漁法でした。 お父さんは、魚見と呼ばれる籠の中で船を操り、突き手の人が水中を泳いでいるカジキめがけて3mもあるモリを投げて仕留めるんです。 |
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| その頃のシイラと言えば、魚としての価値がとても低くて、築地魚市場に出荷しても赤字になってしまい、釣り上げられても喜ばれる魚では無かったのです。 大量に漁獲されても海に捨てられたり、ほんの少しだけ家に持ち帰ってその日のおかずになったり、そんな程度の価値しか有りませんでした。 そんな環境の中から僕が生まれ、ここ新島営業所でも商品になり販売されるようになりましたが、僕がうまれ成長するまでの、ほんの短い物語です。 |
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僕が生まれたのは、ほんの些細なきっかけでした。 当時のお父さんは、持ち船を手放し、先代が始めた"くさや加工業"で生計を立てる決心をしたばかりのこと、船を手放した翌年の春のことでした。 カジキの突棒漁をしていた仲間達が、はるばる九州からカジキを追いかけて三宅島の阿古港に入港したのです。 一年振りの再開を喜び、お父さんは友達に会いに行きました。 別れ際、彼らは今日釣ったばかりの大量のシイラを今夜のおかずにして食べるようにと、お父さんにくれたのでしたが、その数は、約30匹、ゆうに100kgを超え、車のトランクにやっと入るほどの量でした。 |
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| お父さんは友達の気持ちに感謝しながらも、処理の仕方に困ってしまい、いっそのこと、くさやにして食べてみることを思いつきました。 家に帰ったお父さんは早速作業の開始です。 頭を取って内臓をはずし、三枚に下ろしたシイラの皮を剥ぎ、骨を全部取って短冊にして水にさらします。 その後くさやのタレの中に漬け込まれ、丁度良い頃合を見計らってタレから出され水洗い。 セイロに並べられて干し終わると乾燥機へ。 気持ち良〜く一晩寝ていると、僕の誕生です。 さて、いよいよ試食です。 お父さんは僕を焼くと恐る恐る食べてみましたが、驚く程に美味しかったのです。 早速近所に配られ、食べられた僕のお味の感想は 「おいしいね〜!柔らかくて骨や皮も付いてなくて食べやすい。子供が食べても安心だね。食べ終わった後にカスも残らないし。」と、意外なほどに評判が良かったのです。 |
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| いつの事だったでしょう?この時には試作品としてのシイラ君でしたが、こんなこともありました。 ある日、一台の観光バスが加工場の前に止まり、中から10人くらいの人たちが降りて来ました。 観光バスなんて止まったことが無いのになんだろうと思っていると、バスの運転手さんが 「おーい、ちょっと見学させてくれよ。シイラのくさやは無いの?」 ちょうどその時、お父さんは偶然にも僕を取り込んでいる最中でした。 「有るよ。」とお父さん。 するとバスから降りてきたお客さん達が言ったんです。 きっとお父さんがあちこちに配った試作品を食べてくれたんでしょうね。 「俺達は関西方面(確か兵庫県の人たちだったような)から来たんだけど、あのシイラのくさやって、あれは何だろう?俺達はくさやを誤解していたようだ。今までは臭くて食べられなかったけど、これは違うね。これを食べたらくさやの認識が変わっちゃったよ。匂いは少ないし骨も無い。あっさりとしていて、酒の肴じゃなくて、お茶受けなんかにも最高だね。ところで、これ売ってるの?」ということで、お買い上げ〜。 これには驚きました。 くさやは関東近県を中心に知られる食品で、関西方面の人たちが口にする事はあまり有りません。 この頃の僕は、くさやとしてのデビューを待っている時期で、これが商品として初めてお買い上げいただいた、記念すべき日となったわけです。 |
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| さてお父さんはというと、魚としての価値の低かったシイラを手に入れるのに、苦労をしていたようでした。 三宅島ではシイラは手に入りにくい魚だったのです。 三宅島漁協にもシイラの水揚げはほとんど有りません。 考えあぐねたお父さんは、遠洋マグロ船が大量にシイラを積んで帰ってくること思い出しました。 |
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| (ここからはお父さんの当時を思い浮かべての回顧録です。) 当時の三宅島のくさや仲間と二人、名刺を持って、まずは神奈川県の三浦三崎へと出向いたわけです。 ここはかつてお父さんがお世話になっていたマグロ船の会社がある所です。 早速その会社に行って、シイラの在庫が無いか聞いてみたところ、三崎では味噌漬などにするために、ここで水揚げされたシイラは地元で全部はけてしまうとのこと。 気落ちしたお父さんに「シイラが欲しいんなら焼津に行ってごらん。」と教えてくれて、その足で焼津港へ向かいました。 焼津港は日本でもマグロ船の基地として有名な所です。 焼津港の漁協に着くと名刺を差し出し「シイラが欲しいんですけど、有りませんか?」 職員の方が言うには「ここには無いけどあそこになら有るんじゃない?」と指さす方向を見ると、大きな会社が有りました。コマーシャルでも良く見かけるマーク有る会社です。 野球のチームを持っているほどの会社でしたが、やはり名刺一枚を差出して「シイラは有りますか?」と訊ねると、「有りますよ。上司がいないんで取引できるかどうかは分かりませんが、追って上司と相談の後に連絡をさせていただきます。」との事。 「やっぱり有ったぞー!」お父さんは大喜びです。 |
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| お父さん達は、焼津港と並ぶマグロ船の基地である清水にも行って見る事にしました。 シイラを扱っている会社を訪ね当て、訪ねて見たところ、やはりここにも有りました。 さすがに焼津港も清水港も日本有数のマグロ船の基地ですね。 これで何とかシイラが手に入りそうな手応えを感じて東京に戻って来たお父さんでしたが、さてさてここでもまた問題が発生してしまいました。 焼津港の会社からでしたが、個人経営の所とは取引ができないとのことでした。 ここで引き下がってしまったら、僕シイラ君はきっと生まれていなかったことでしょうね。 |
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| 三宅島に帰ったお父さんは、早速三宅島漁協に行き、貰った名刺を預けると、三宅島漁協を窓口にして仕入れをする相談をしたのでした。 個人経営者には売ってくれなくても、漁協には売ってもらえるはずだと考えたのです。 漁協を窓口にして、手数料、保管料を支払う約束で仕入れを担当してもらうことが出来るようになりました。 この時点で、三宅島近海で水揚げされるシイラを原料に使えないかという事で、東京都島嶼振興公社から「未利用資源の有効利用事業」の補助金をいただき、仕入れや販路拡大の事業費として使わせてもらい、今(2000年の噴火前)では年間扱い量、原料(フィレー)で1・5dを扱う商品として定着するまでになりました。 |
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| そうそう、お父さんに二人目の女の子が生まれた時のことです。 「もう名前は決めたの?まだならシイラにすれば。可愛くていいんじゃない?」 って近所の人から言われたとか。それほどまでに島内では人気商品として認知されていたという事ではないでしょうか。 |
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| こうして生まれた僕、「シイラ君」ですが、ここ新島営業所でも商品として販売されるようになりました。 今ではシイラも食品としての価値も上がり、弁当屋さんの惣菜になったり、給食の食材として利用されたりということで、大分高値で取引されるようになりました。 |
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| 「シイラ君」ことシイラのくさやは三宅島のオリジナル商品でした。 どうぞ一度お試しください。 |
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