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さやはもともと塩を節約するという苦し紛れの生活の知恵である事は以上の通りであるがその生年月日について定かな記載はない。
 絵師・英一蝶(はなぶさいっちょう)は三宅島に流罪になった折、友人達に「三宅島はくさやの名産地だと聞いている。江戸に送られてくる干物の口に笹の葉がさしてあったら信香(当時の一蝶)は丈夫でいると思ってくれ。」と言っているところをみると、くさやの歴史は大分古いものであり、当時、江戸にまで出荷されていた産物であることがわかる。
 ちなみに英一蝶(当時・藤原信香)が流罪になったのは元禄十一年(一六九八年)のことである。
貢に使われる塩は生産地においても非常に貴重な物資であった。
 
冷凍技術がなかった当時、捕った魚を保存する唯一の方法が干物にする事であった。しかし、魚を捕るたびに塩を使うのでは大量の塩を必要とする。そこで塩水(たれ)を造り、繰り返し利用することを考え付いた。
数回後に味が不味くなった時点で塩を足し、味の調整をしたのだ。しかもこの塩水は腐敗の恐れがなく、それどころか古いほどに味が良いということまで発見された。

今日のくさや業者が使う塩水は数百年来の時代がかったものと言われている。

宅島は徳川時代、幕府の天領であった。水に乏しい三宅島は年貢として米を納める事は難しかった。代わりに四方を海に囲まれた地の利を生かした製塩という産業があったため塩を幕府に納めた。
納めた塩の量は年間、三斗五升入りの袋で九百九十五表という大変なものであった。この塩年貢を納めるため、島を二分し伊豆・阿古・坪田が炊方、神着・伊ヶ谷は運搬方を務めた。
 現在、島の海岸に釜庭・釜潟・釜の尻などの地名が残るのは当時の製塩所の名残である。

釜の尻