| No.566 | |
| 朝日新聞 | 2008.03.16 |
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2008.03.16. 朝日新聞 文化 地方の陰惨な事件から見えるもの 心の閉塞感が絡み合った果て 小林照幸 ノンフィクション作家 こばやし・てるゆき 68年生まれ。著書に『朱鷺の遺言』 (大宅壮一ノンフィクション賞)、『野の鳥は野に』 『21世紀のひめゆり』 『熟年恋愛革命』など。 ここ数年、地方での陰惨な事件が耳目をひく。地方での事件に衝撃を覚える人が多いのは、「忙(せわ)しく殺伐とした都会ならともかく、自然が豊かで、近所付き合いもあり、伝統や文化が息づく地方での陰惨な事件の発生は不自然」という先入観があるからだろう。 長野市で生まれ育った私は20代の10年間は東京で暮らし、30歳から信州大学に社会人編入して8年間は長野市で暮らした。現在は東京に拠点を置き、月に1、2度長野市に戻る。往復生活と呼ぶには大袈裟だが、これは東京の視点と地方の視点をバランス良く、と意識してのものだ。 東京にいると不思議なもので、自分も一地方出身者なのに中央的な視点、大所高所の見方で物事をとらえてしまう。帰省すると地域の事情を否応なく考え、一刀両断する中央的な見方にブレーキがかかる。そんな経験や生活を踏まえ、全国の地方を歩き、私は「癒しや楽園という言葉で象徴されがちな地方礼讃は、中央のメディアや旅人が生み出した言葉。地域住民が生み出した言葉ではない」と、感じ取るようになった。 スローライフ、スローフードヘの注目もあり、ネット上には地方に対し、「日本が失ったものが存在する」と絶賛するコピーも並ぶ。旅人にとり気取りのいらない装いには、癒しや楽園の言葉を当てはめる。こんな時流に刺激され、地元自治体も印刷物に同様の言葉を用い、癒しや楽園のイメージを誇張する。 だが、現実は厳しい。楽園ならなぜ地場産業が空洞化し、若者が流出して過疎に悩むのか。旅人が癒しと感じても、そこに根を張り生きる住民は、他の地域と諸々の格差を感じ、ご近所の視線に晒(さら)される閉塞感の中で暮らさざるを得ない。 格差について私が思い出すのは、2006年夏、長野県諏訪市で20歳の女性が連続放火の容疑で逮捕されたときのことだ。タレント志望だった容疑者は「諏訪を新宿のように有名にしたかった」と動機を供述した。 私はこのとき、「自分の地方の視点は、長野市という県の中央が基準だった」と猛反省させられた。長野新幹線の開通、冬季五輪の開催、さらに田中康夫知事の誕生で何かと長野県は国内外の注目を集めたが、それは県庁所在地の長野市を中心とし、県内各市町村が等しく注目されるものではなかったと気付いたのだ。 地方における均衡発展の難しさ。それは都市はますます都市化し、過疎地はますます過疎化する日本の現実も表す。地域活性化を合言葉にしつつも具体的に創出できず、自助努力の限界を露呈した観の方が強い。 冒頭に記した陰惨な事件とは親殺し、子殺しなどの家族殺しが多い。家族殺しの理由を一語で表せば「家庭内の閉塞感」になろう。家族殺しの報に接するたび、私は単調で刺激に乏しい地方生活のテンポやリズムが生む閉塞感も影響しているのでは、と邪推してきた。地方の時空間に対する中央メディアや旅人の見方に、当地の住民の多くは共感できない。地域と自らに明るい展望を描く難しさ。消費社会は自己実現を促したが、自らの住む環境が成り行きを大きく左石する。 地方での陰惨な事件は幾つもの閉塞感が複雑に絡み合った結果、と私には映る。住民の心の閉塞感も今日的な地方の問題、と考えるのは的外れだろうか。 忙の字は「心を亡くす」と書く。とかく都会生活者の指標とされてきた忙の字だが、地方生治者にも該当する時代となったようだ。
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