解離性大動脈瘤という奇病になり、慶応大学病院で手術をしましたが、下半身麻痺となり現在の車椅子の生活になりました。小田原市立病院に1ヶ月・慶応病院に6ヶ月・国立箱根病院に2年
家をバリアフリーに改造して、生活を始めましたが、何度か高熱をだして、
箱根病院に入院しました。
まだ暑さのこる、1997年8月30日 私は子供会の会長として喫茶店の3階を予約してありました
皆より15分ほど早く着きました、ふだんは使っていないので、猛烈な暑さがこもっている3階の
冷房を最強にしてもらい、これで19時までには涼しくなると思いました。
私は頭の後ろに最強の冷房の風をずっと、あびていたのでした。
皆も集まり会が始まって30分くらいたちました、私は吐き気を感じ、1階のトイレに行ったのです。
少し落ち着いたような気がしたので、また3階に戻りました。又気持ちが悪くなり、
皆に横になった方がよいと言われ、横になりました。家に帰って休めば治ると思った私は
家に電話して、迎えに来るようにたのみました。そのうちに右足の感覚がなくなってしまいまし。
奥さんが市立病院の婦長をしている、役員のIさんが「救急車を呼ぼう」と言って
救急車で市立病院に行きました。右足に血液が流れなくなってしまったので、緊急手術をして、人工血管を通して、右足に血液を送りました。私は「あー、これで助かった」と思っいました。
プロローグ
主治医よりの宣告
CTを撮り大変なももができている、と告白された私は、頭の中が真っ白になってしまいました。
絶対安静、点滴で血圧のコントロール。
解離性大動脈瘤
市立病院でも過去に3回手術の経験があり、1例だけ生存してるという、けれども今回のような
心臓の近くで解離が起こり脳にゆく血管もあるので、大変な手術になるという。
右足切断の危機が去ってほっとしている矢先
主治医の先生に呼ばれみせられたCT
良く解らないながらも、普通でない事は一目で解りました。
数えてはいなかったですが、先生の口から”死”という言葉が限りなく飛び出していたような
記憶があります。医者はいつも最悪の事態を考えて話をしますから、と言われても
スーッと血の気が引いていくのを感じました。
チラッと横目で夫を見ると平然としている様子、”すごい人だなー”と思いました。
後で聞いてみると、説明の内容は全く覚えていませんでした。
私のかろうじて取ったメモを頼りに、夫の両親に病状を伝えました。
電話があってすぐ迎えに行きましたが、その日はいつもの会合場所と違う喫茶店である事を
忘れ、一方通行の道沿いにあるその店に着いたのが少し遅れました。
あとで考えてみるとこの遅れが彼にとってはラッキーの一つでした。
Iさんは当日遅れて見えられ、私が回り道をしなければお会いできなかったでしょうし、
きっと救急車も呼ばなかったし、市立病院にも搬送されずにいたことと思います。
そのまま私が家へつれて帰っていたことを考えると恐ろしくなります。
あの電話を受けた時、お父さん子の娘がポツリとこういったことが忘れられません。
”お父さん、このまま帰ってこないなんてことないよね”
手術に取り掛かったのは31日に日付けが変わろうとする深夜から夜明にかけての4〜5時間で
あったと思います。夫の父、私の母と弟も心配して付き添ってくれました。
慶応病院へ転院
石原裕次郎が解離性大動脈瘤を手術したことで、有名な慶応大学病院を紹介してもらい
入院することになりました。
入院して2日目に、カテーテル検査をしたときに、動脈瘤のため血管がボロボロだったため
脳に血栓がとんでしまい、脳梗塞を起こしてしまいました。
夫の手術は大動脈の主要な部分をかなり大幅に置換しなくてはならず、
術後の管理のあり方が生死を分ける大きなウエイトを占めることを考え
設備の整った、なおかつ沢山の症例をもつ慶応病院にたどり着けたのも沢山の友人のおかげでした。
1週間の死の世界とのさまよい
脳の半分が真っ黒になってしまいました。けれども、次の日にMRIを撮るとつまった所が
流れ始めていました。それでも私は分けのわからない事を口走り、先生に「この1週間が
山ですね」といわれました。それでもだんだん意識が戻ってきました。
でも、このように脳梗塞をおこしてしまうと、大きい手術は非常に危険です。と言われてしまいました。
大動脈置換手術
1997年11月5日8時30分に手術は始まった、脳梗塞を起している私にとっては、この手術は
一種のかけであった、それでも、手術は始まった。
私は麻酔がかけられ意識がなくなりました。
心臓の側の解離した大動脈がはずされ、その代わりにゴアテックスでできた人工血管に
代えられました。18時30分に手術は終わりました。
足が動かない
女房は病院の側のホテルに泊まっていた。夜中の3時40分病院からの電話で起こされた。
「足が動かないので、これから緊急手術します」 開腹手術が始まりました。6時手術は
終わりました。私はどこかのボタンを押せば、足が動き歩けるようになると、
ずっと思っていました。
リハビリ開始
箱根病院へ転院
突然ですがカテーテルの検査をしますと慶応病院から電話が入ったのが10時ごろだったと思います。
エッなぜ?といやな予感がしました。
大慌てでロマンスカーに乗って慶応病院に着いたら、もう謙二は検査を受けている最中でした。
しばらくしてストレッチャーに乗った夫がベットに戻ってきました。
にこにこしていたので、”痛くなかった?”と問い掛けたら返ってきた言葉が”ハニャムジャピー”
なにふざけてんの!?と思い、色々話し掛けてみるとわたしが妻だと言うことは解ってはいるものの
言葉が出てこない様子なのです。麻酔から覚めていないのかと思い看護婦さんに言ってみると。
”検査します”と又連れて行かれてしまいました。
結果は脳梗塞、これから脳の浮腫が始まって1週間が山でしょうと言い渡されました。
このままだと、大動脈の置換手術はとうてい無理だし、無理にやって又同じ事が起こってしまうと
植物状態になる危険もあります.と、また”死”と隣り合わせの席に座らされてしまったのです。
あの時のいやな予感はこのことだったんだ。まだ入院して2日目の何もわからない病院で、
これから一体どうしていいのか一人途方にくれました。
幸いにして、次の日に撮ったMRで詰まっていたところにまた血液が通り始めたのが確認され
右目の視野狭窄と一時的な記憶障害が残っただけで、麻痺は起こらずに済みました。
長い長い一週間でした。
その間主治医の尾元先生にそっと呼ばれ”奥さんはこれから先、ご主人のことにすべてを捧げる
のではなく、自分の道を探しておいたほうがいいですよ。”
とアドバイスのような言葉をいただきました。一体どんな意味があったのでしょうね
何度かだめかもしれないと言う難所を越え大動脈置換の手術を受けることになりました。
脳梗塞と言う大きなリスクを背負っての賭けのような手術でした。
前日の謙二の日記
11/4 とうとう あした しゅじゅつだ ガンバルゾー まけないぞー だいぶどきどきして
けつあつが高い↑ まけないぞー びょうきなんかにまけてたまるか
しんぞうきのうけんさ(はやごはん11:40まで)体毛をそる、ふろに入る
イソジンでしょうどく。
(記憶障害で漢字がほとんど思い出せなくなっていました)
以下はそのときのわたしの日記です。
**手術の朝7時45分に病院着
もう点滴が始まっている。少し意識が薄れてはいるものの
”精一杯頑張るよ”と言って8時30分に手術室に向かう。
*午後6時30分にCRCUに帰ってくる。足の血圧が少し低いがその他は順調と言われほっとする。
母(私の)といっしょに病院のすぐ側のホテルに向かう。その他は帰宅。
*夜中3:40過ぎにホテルの部屋にTEL有り、びっくりして飛び起きる。
緊急手術となった。足の血流確保のため、今度は開腹手術。
どきどきして、深夜の病院にたどり着くまで”謙ちゃん頑張って””大丈夫、大丈夫”
とおまじないのように唱えて走りました。
60も半ばの母は、突然の事で心臓が止まってしまうほどのショックを受け
具合が悪くなってしまったので、次の日からは私一人で泊まりました。
これから先の、慶応病院を退院する1998年3月30日までの事は彼にとっては
本当につらい毎日だったのでしょう、人間の持つ自己防衛機能に守られ、
ほんの途切れ途切れの記憶のみで形成されています。
私の中では、次から次へとよくもまあこんなに沢山と思えるほどの試練が山のように連なって
押し寄せ、一つ一つの事を乗り越えていった事を書いていったら、
本になってしまうのではないかと思えるのですが、彼にとっては今の現状さえも
まだ心のどこかで受け入れられていないのに、よくこのホームページを作成する気に
なってくれたなーと思うと感慨ひとしおです。
彼にとってはあまり思い出したくない事もあるかと思いますが、
これを読んで、沢山の人に支えられ今の自分が生かされているんだという事を
再確認し、明日からの活力にしてくれる事を願ってあえて書いてみます。
・・・・私自身も感謝の気持ちを忘れないためにも・・・・・
慶応の看護婦さん、Nさんには、本当にお世話になり、ベットを起すのさえ怖がっていた私が
車椅子に乗れるようになり、リハビリまでできるようになったのも
Nさんのおかげです。ベット上のリハビリから始まり、訓練室に行けるようになりました。

リハビリをどうこう言う前に一番大切な問題は血圧のコントロールでした。
2日続けての大手術の後でしたので、集中治療室にはなんと15日間も滞在してしまいました。
本人に当時の記憶は全くありません。
その頃からずっと血圧が不安定で、CRCUでは230mmhg・220mmhg・とか血圧がポンポンと跳ね上がっていました。
HCUに移っても普通病棟に移っても、血圧の不安定さは残されていました。
困った事に、上腕は高くて困っている血圧も下肢は上が70mmhg台と
低すぎて困る数値なのです。
このままほおって、置くと心臓や脳そして他の臓器、にも負担がかかりすぎて、
生命の危険が出てくると言う理由で上腕から下肢へのバイパス手術を強く勧められ、
12月の半ばに慶応で3度目の手術をする事になりました
わたしのなかではまだ手術は回避したい気持ちでいっぱいでした。
これでもか、これでもかと次から次へとのしかかって来る不気味な存在が怖くて怖くて仕方なかったからです。
いよいよ明日が手術と言う日、夫は見事に熱を出してくれました。、
原因は前立腺炎、治るまでバイパス手術は延期となりしばらく様子を見ることになりました。
”謙二はこのままで自然に良くなるんだ”なんだか直前の発熱に運命的なものを感じました。
祈りが通じたのか、順調に前立腺炎も良くなり血圧もすこしずつ安定の兆しが見えて、リハビリが手の届くところまでやってきました。
夫にとってのリハビリの第一歩は、ベッドを起こす事でした。
食事のわずかな時間のみしか起きる事が許されなかったので、ベッドを60度近く起せるようになるのに、何日もかかりました。胸から下が麻痺してしまっているので重心がとれません。
看護婦のNさんは、ありったけの枕を持ってきてくれ支えにしてくれました。
血圧に問題がある夫は、ベッドを起すと急激に血圧が下がり眩暈を起します。
本当にこんななんでもないことにも根気がいりました。
ベッド上で足のマッサージを受けながらお正月過ぎには車椅子に乗れるようにもなりました。
もちろん、自分では乗れずみんなでヨイショと、移して貰うのです。
おりしも世間は長野冬季オリンピックが終り、冬季パラリンピックが開催されていました。
こんなに大きな障害をもつ人も雪をかき、氷の上を走り、前を向いて懸命に目標に向かっている姿がブラウン管の中から励ましてくれているようで、
夫にも”ほら、こんなに素晴らしい事も出来る様になるよ”と何度も何度も語りかけました。
けれども彼の目に、それは映ってはいませんでした。
自分の障害を全く理解していなかったからです。
スイッチを入れたら、この足はまた必ず動き出すと思っていたのです。
彼にとっての本当のリハビリはまだまだ遠い道のりでした。
大動脈置換手術後から夕方になるとずっと出ていた吸収熱らしき熱もだいぶ収まってきて、
主治医のS先生から転院を勧められました。
とても不安でしたが、いつまでもここにお世話になれるわけではないので
家に近い国立療養所箱根病院に転院することにしました。
慶応病院に入院した時は救急車だったので、今度はどうしたら良いのだろうと
困っていると、またもや助けてくれたのが友達でした。
小田原に住む夫の友人のSさんが、やさしく言葉掛けをしてくれながら
ゆっくり時間をかけて連れて帰ってくれくれました。
Sさんには、この後8月末にもう一度運転手をしてもらい
本当にありがたかったです。
1998年3月30日、家から車で10分位の所にある、国立療養所 箱根病院に転院しました、
友人のSさんの車に乗り、東名を走っているときには、このまま家に帰れるような気がしました
箱根病院では、リハビリ中心で、ここで、普通に生活するための、色々な訓練をしました。
転院してから、2ヶ月くらいたつと血圧が高くなり、結局、慶応病院にもどることになりました。
救急車に乗り、血圧計をつけていると、250ぐらいまで血圧が上がっていました。約2ヶ月の
入院で血圧も安定したので、8月30日に箱根病院に帰ることができました。
高熱を何度もだしたり、褥瘡ができたり色々ありましたが、1999年12月24日に退院することが
できました。
箱根病院では、患者さんからいろいろな事を学ばせてもらいました。
車椅子の使い方・看護婦さんとの接し方・何より障害との付き合い方を本当に教えてもらったのが
ここの患者さんたちからでした。
現在にいたる
何度か高熱をだして、箱根病院へ入院しました。だんだん、高熱をだす回数も少なくなり
熱を出しても、最近は病院へ行かなくても熱が下がるようになりました。
1週間に2回 異所性骨化の治療のため、リハビリに行っています。
異所性骨化とは
体内に取り込まれたカルシュームは本来骨の活性化などに使われるが
何らかの原因で大関節や股関節などに軟骨として、関節の周りにできてしまい
関節の動きが悪くなってしまうこと。
10月9日心臓カテーテル施行中、軽い違和感を感じていた。帰室後意識レベル低下し、
失語、右同名半盲出現。緊急頭部CTでPCA(後大脳動脈) 領域に広範囲の低吸収域あり
脳梗塞と診断される。
基本的に血圧のコントロールは大動脈瘤では 100〜120、脳梗塞後は 140〜160で行う。
今回瘤の破裂を予防しつつ、脳血流を守るため、ヘルベッサーを使用し目標血圧は 130〜150
と設定し、ベット上安静としたが、実際の血圧は 150〜160.。頭痛の訴え共に血圧は180を
超える事も多かった。約1ヶ月かけ、血圧のコントロールと脳梗塞の評価、術前評価を行う。