東泉院 禅の書画展解説講演・維摩と在家仏教
平成十四年五月五日

今日は小田原市内がお祭りで賑わっている中、高い志から禅の書画のお話を聴いて
いただくのを有り難く思います。
始めに、「六祖檀経無相頌」を中国で作曲したものを数分間皆様と一緒にご静聴い ただければと思います。
(曲が流れる)
それではお手元の目録に依りましてご説明していきたいと思います。
一番の西有穆山(にしありぼくさん)は個性的といいますか、禅の墨跡といった硬
いものではなく、流れるような感じです。早川の海蔵寺で月潭(げったん)老人につ
きまして十二年間おられました。後に大本山総持寺にのぼりまして、また横浜に西有
寺というお寺も開かれました。一番の功績は『正法眼蔵』を提唱したことでありまし
て、今日では『正法眼蔵啓迪(けいてき)』という本が出ております。
この「正其心養其性」の其の心とは、私どもの持っている感情・意志でして、その
下の性は仏性・本質・真理であります。その心を正すために仏性・真理を養わなけれ
ばならないというものです。
二番は、興山鐵牛です。長興山は入生田にあった黄檗宗の大寺でした。御開山が稲
葉氏に招聘された鐵牛禅師です。その墨跡がこれでして、おととい宇佐見(ミサ子)
先生がお見えになりまして読んでいただきました。「萬縁休影罷 一念絶中邊 常日
閑々地 長年坦々然」というものです。現在小田原でもこの方の書はあまり残ってい
ないと思われます。
三番目の達磨画は、平塚のみの島義一さんの作品です。たいへん特色のあるもので す。顔付きも面白いです。またこの手が面白い。ジャンケンしてるんだろうかと言っ た人もいます。傑作だと思います。
賛をされたのは先の大雄山主の余語老師です。賛は、ハラが出来ている方でないと
書けませんね。これには関防印が左に押してありますから、左から読んでいきます。
四番目の私の後ろにある大きな字は、「石、黙す」と読みます。西岡宜軒は明治の
裁判官で大居士です。小田原の関さんのご親戚の方で、小田原で余生を送った方です。
早川の海蔵寺にたいへん大きな墓がございます。書家としても詩人としても有名でし
たが、今日人が訪うこともせず、その名を知られていないのは残念であります。
五番目、こちらは維摩(ゆいま)像です。インドの人で、居士つまり一般の人であ ります。お釈迦様のお弟子でお金持ちでありました。私はかねてから維摩の像を一つ 手に入れたいと思っておりました。これは落款もありませんし完成されたものではあ りませんが、維摩の風貌を知ることができる思います。
六番目。山本玄峰老師でして、「今白隠」と称せられた名僧であります。豪傑とい われる玄峰老師としては流れるような字であります。
「水を掬せば月手にあり」。掬すというは汲むという意味であります。水を汲んだ
手に月が映っているという意味ですが、それだけでしょうか。水を汲んだバケツにも、
木の葉の露にも、月が映っているでしょう。
唐代の「水を掬せば月手にあり、花を弄すれば香り衣に満つ」という言葉がありま
す。これはどういうことを言っているのか。もちろん月のことを言っているのですが、
これは申すまでもなく、仏性はあらゆるものに公平に満遍なくいきわたっているとい
うものです。
次いで、九番目が「喫茶去」。この去には別に意味はありません。お茶をお上がり
くださいというものです。
よその家に行ってお茶を飲むというのも、またお茶を出すというのも礼儀に係わる
ものでありましょう。
ここで言っている「喫茶去」は、趙州という唐代の名僧の問答です。お茶をいただ いたときには、目を覚まして足もとを固めて出直して来いというものでしょうが、本 当の意味で「喫茶去」と言われてみたいものだと思います。「八十一翁南天棒」と記 してあります。南天棒は明治の高僧です。
その次の十番目「耕雲」は、余語老師の字であります。私は脇に、「月を釣り雲を
耕す」と書いておきました。これは道元禅師の詩に「釣月耕雲」とあるからです。
世間で言えば意味の通らないことです。魚なら釣れますが月は釣れるものではあり ません。雲を耕すもまたおなじです。これは文字通りのことを言っているのではない わけで、魚でなく月を釣る気持ち、畑でなく雲を耕す境地。これは大きな自然の中の 存在からすれば月であろうと魚であろうと一つであります。同じであります。雲も自 然であれば畑も自然であります。そうであれば、大自然も自分であるとすれば、月を 釣り雲を耕し、大自然の中で遊べるのであります。
月を釣るという大きな釣りをやっている。雲を耕すというすばらしい真理の華を咲
かせる心境になっている。この境地を「釣月耕雲」と表現しているのであります。
皆様の丁度後ろ、十九番、「無」という色紙があります。浜松から少し山に入りま すと大本山方広寺がありまして、そこの管長をされていました藤森弘禅老師の書であ ります。動き出すような「無」であります。書いた人の力量が感ぜられます。
先ほど、維摩像についてお話しましたが、大乗仏教の中心にとなるお経が三つあり ます。般若経・維摩経・法華経であります。大きく絞ればこの三つでしょう。
大乗仏教はだいたいが中国・日本の仏教であります。これに対して東南アジアで戒 律主義の集団生活をしている仏教があります。具足戒といって、男性は二百五十の戒、 尼さんは三百五十の戒があるといいます。お金を持っていてはいけませんので、一人 では汽車にも乗れません。毎日やかましい戒の中で生活しております。 そういうのが小乗仏教です。最近は上座部仏教といっております。
羅漢というのはお釈迦様のお弟子という意味ですが、自分が修行して悟りを開き、
自己完成で終わりです。また、成仏するまでの修行が難しい、学問も難しい。そのた
め羅漢になれない人はしょうがない、運命だから。今の世では無理だから次の世で修
行の継ぎ足しをして完成する、二代がかりになってしまいます。
ところが、大乗仏教になりますと、細かい戒律はない。梵網戒です。一番簡単なの
が五つの戒です。その上に十の戒律があります。どちらにしても緩やか、現実的です。
大乗の菩薩というのは、自分だけが悟りを得て仏の境地に入るのでは足りない、他 人も一緒に悟りを得なければいけないという「自利利他」の教えです。これが小乗仏 教と違うところです。
また、成仏の仕方も「悉皆成仏」でして、人間として生まれた以上悉く成仏する。
エリートでなければ羅漢の位になれないなどということはない。落ちこぼれはないと
いうのです。みんな成仏できる、いや元々成仏しているんだという教えです。
さらに、大乗仏教は人間だけでは満足しないで、草木国土一切ありとあらゆるもの
が成仏しているといいます。大自然そのものが成仏している。これが大乗仏教の思想
であります。
もう一つの大乗仏教の思想は、専門家の仏教ではないということです。この在家主
義は維摩から始まっております。維摩経は紀元二世紀ぐらいといわれております。お
釈迦様がBC四〜五世紀といわれていますから、お釈迦様から約五百年経った時代で
す。エリート主義になって一般信者と隔てが出来ている。それを破ろうとして出てき
たのが維摩です。
維摩はインドのお金持ちで権力家であります。しかもたいへんな学者であり修行者
であります。維摩は実在の人ではございませんが、この人を主人公として維摩経が出
来ております。
この維摩居士のところへお釈迦様のお弟子が出かけていくというお話であります。
一大戯曲であり、一大小説であります。維摩の伝記でなく、維摩に活躍させて大乗仏
教の思想を語ろうというものです。
維摩が病気で寝ているところへお釈迦様のお使いとして病気見舞いにいくお話です。
舎利弗・目連・迦葉・須菩提・富楼那・阿難などお釈迦様の第一等の弟子たちが登場
してきます。この人たちは皆維摩に太刀打ち出来ないと断っています。これが第一、
おもしろいじゃありませんか。これらお経に出て活躍しているお弟子たちが、在家の
信者に負けてしまう。維摩の方が力量が上であるという仕組みになっている。
そこで選ばれたのが文殊菩薩です。お前が行けば病気見舞いも恥をかかないですむ
だろうというわけです。
維摩と文殊の問答がありますが、維摩の病気は、腹が痛い風邪を引いたというので なく、「衆生病むが故に我病む」というものであります。一般の人が苦しみ悩んでい るのが私の病気だというのです。
漢訳で読んでもなかなか難しくわかりにくいのですが、幸い昭和九年に武者小路実
篤先生が『維摩経』を訳されております。私はお経を小説のかたちで表現するという
のが仏教の特色ではないかと思います。キリスト教ではこうはいきません。小説的な
発想で人物に問答させて大乗の教えを表明している。
一番最後のところで、二人の問答が結論に近づいてきます。文殊「あなたの言うこ とはわかった。それではあなたのような悟りに到るにはどうしたらいいか」。そのと き維摩は一言も口を開かず黙していた。黙です。これが古来「維摩の一黙響き雷の如 し」といわれているものです。ここのところに禅の淵源があります。
これは東洋の仏教の、禅のギリギリは言葉ではないということを示しています。キ
リスト教では、始めに言葉ありき、言葉は神なりといわれます。「維摩の一黙響き雷
の如し」とはエライ違いであります。
維摩経は在家信者がお釈迦様のお弟子より上になって展開されるお経です。これが
日本に最初に入ってきたのは聖徳太子の時代でして、聖徳太子が法隆寺で講義された
のが『維摩経義疏』でした。聖徳太子には私は今の維摩であるという自負があったの
ではないかと思います。
武者小路先生の訳も今日では一遍読んだだけですぐ分かるというものではなくなっ ておりますが、在家が主であるという内容は皆さんも検討してみる必要があると思い ます。
今日は、ここに在家の方々のものを六点あげてみました。先ほどの達磨の画のみの 島義一先生。そして、十一番目「平常心是道」の伊豆山善太郎先生。先生は入生田の 長寿園におられまして、私も始終ご指導いただきました。 十四番目、大内青巒。明治大正期のすばらしい人であります。
二十番目、坂村真民。詩人であり、有名な「念ずれば花開く」の詩があります。
全国に朴の木を植えることを勧められました。私のお寺にも二本植えてございます。
昭和の維摩居士ではないでしょうか。
二十三番目の般若心経の偈、次の獅子図、そして瓢箪鯰などは先代の間中病院長の
間中善雄先生のお書きになったものです。
私がどうして間中先生と知り合いになったのか、昨夜考えてみました。二つ縁があ りました。三男の方を和田重正先生の「はじめ塾」に預けておられました。また、彫 刻家の片野不空蔵さんと知り合いだったんですね。どうもこのお二人の関係だったと 思います。
間中先生の出版記念会で挨拶を頼まれたときに、「僕は東泉院とは商売敵だ」と紹
介されたことがありました。そこで私は、「医者と僧侶はもともとは仲が良かった。
鑑真和上は医学も持ってきた。それが逆転して商売敵となってしまった」という話を
してお茶を濁したことがございます。それは半分冗談ですが、半分本音であります。
間中先生が漢方に手を染められた頃は変人か気狂い扱いで、医者仲間はまともに仲
間にしてくれないと言っておられました。久野の三代前の窪倉老先生は漢方のお医者
さんでした。また柏木正賢翁のお父さんは正敬という江戸時代からの漢方医でした。
明治以後は西洋医学をやらないと医者になれなかったのです。ですから一般の人も東
洋医学を馬鹿にしておりました。今でも医者でないと漢方治療をおこなえません。
間中先生は鍼灸もされておりました。なぜ東洋医学に関心を持たれたのか伺ったこ とがあります。先生の専門は外科で、昔は*疽(ひょうそ)という指の病気ものがあ りました。抗生物質がない時代ですから指を切らなければならないこともあり、こわ い病気でした。。*疽だと診断すると、翌日は来ない。次に来るときは指を隠す。聞 いてみると、静岡の*疽のお灸をやってきたと言う。それで効くかねと聞くと、他に 方法がないからやったんですが効と思いますと言うのだそうです。
先生がその後満州に行って軍医をやっていたとき、盲腸炎で苦しむ現地の人に薬も
ないのでお灸を据えたいがそれもない。高粱の茎か何かを使って灸*(きゅうてん)
てんをしたこともあるそうです。窮余の一策ですね。終戦は沖縄の八重山群島で迎え、
そのとき捕虜になった経験を『PWドクター』という面白い小説にしております。
西洋医学をやった人がなぜ東洋医学を難しく敬遠するのか。それは世界観が全然違
うからです。西洋医学は病気があるという前提でやるんです。病気を捕まえるのが第
一です。検査し発見しそれを攻撃し撲滅するんです。ところが、東洋医学は病気がな
いというのが前提です。何があるのかというと健康があるんです。健康が本体で、そ
れの損なわれた部分を病気というのです。そういうふうにまるきり世界観が違うんで
す。それほど違うものを一人のお医者さんが理解出来っこないですよ。それが間中先
生には出来たんです。間中先生は最初に道を開いた偉い人だと思います。
私も五十代頃二度、間中先生のところに入院したことがございます。「注射はやら ないで下さい」と申し込みまして、私のわがままを許してもらいました。手術もせず に済んで今日に至っております。
人間というものは五十代・六十代に一度は病気になるものです。それを上手に乗り
越えると長生きできます。病気と上手くやっていくと向こう(病気)も年をとります
よ。ですから、早く病気になった方がいいです。一病息災と言うではおりませんか。
東洋医学は、病気に対する治療ではなく症に対する治療です。これも東洋医学の大
事なところではないでしょうか。
今日は皆さんに、大乗仏教の大きな基礎が在家主義であり、維摩がその代表である ということを申し上げたかったのです。維摩は我々の大先輩で、これからの新しい仏 教は在家も出家もない、一緒に仏道を行ずることが大事だと思います。そういう意味 で駅前の本屋さんの二階でお話しするのもたいへん意味があると思います。
また、今日の東洋医学の草分けであります間中先生のお話をいたしました。少しで
も御参考になれば幸いであります。
(小田原八小堂二階ホールにて禅の書画展解説講演)