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1.S坊 サンフランシスコで元気です。

みなさん、お元気ですか。日本を離れてから3か月半も経ちました。
渡米直後は、右も左もわかりませんでしたが(文字通り、道を渡るときに思わず右から確認してしまうのですが、手前の車線は左から車が来るんです)、英語だらけの環境にも慣れ、なんとか生活も落ち着いてきました。英語クラスも無事修了し、秋学期開始寸前、といったところです。
サンフランシスコは7マイル四方の小さな町で、市バスが縦横無尽に走っているので、バスを乗り継げばどこにでも行けます。学校もバス通学なので、最初は時刻表を確認しようと思ったのですが、そんなものはここにはありません。それなら、と、だいたい何分ごろに来るのか気にしてみたのですが、毎日まったく違う時間に来るので(バスを30分待ったと思ったら2台連続で来たりもします!)、ついにあきらめ、待ち時間のためだけに30分も早めに家を出ることにしました。まったく、日本にいたときは考えもしなかったことです。
この町は南から北に伸びる半島の先端にあり、北の対岸へはゴールデンゲートブリッジが、東の対岸(バークレー・オークランド)へはベイブリッジが架かっています。西は太平洋で、見渡す限りの水平線です。いつも風が強く、鳥たちも流されそうになりながら一生懸命飛んでいます。夏が近づいて来て、霧のために涼しくなってきましたが(サンフランシスコを出さえすれば、北の対岸でも暖かいのですが)、日差しが強いので、休日には港のデッキでキレイな景色を見ながら、友人とおしゃべりして過ごしています。
最近のお気に入りはミッションというヒスパニック系移民が多く住む地区で、いつも天気が良く、町じゅうが陽気なラテン音楽であふれ、美味しいメキシコ料理が安く食べられます。
ほかにもアジア系移民の地区、ヨーロッパ系移民の地区、ゲイの集まる地区など、人種も嗜好も様々な人たちが集まり、この町独特の自由な気風と相俟って、とても開放的な雰囲気を作り出しています。
自由というと、サンフランシスコは60年代末から70年代にかけてのカウンターカルチャーの発祥地として有名ですが、その中心となったヘイトアシュベリー地区は、いまでもサイケデリックなお店が立ち並び、ヒッピー文化の名残をとどめています。そのリベラルな気風は今も変わらずサンフランシスコの1つの特徴となっています。
とにかくこの町の魅力は1頁でなど語りつくせません。時々こうして町の様子を紹介できる機会をいただけるようですが、百聞は一見にしかず!
ぜひ遊びにおいでください。
(2007年8月)


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2.ボミーアレイ通りで考えたこと

サンフランシスコにミッションという地区があります。メキシコがアメリカとの戦争に負けてその領土のほぼ半分を割譲する以前、まだカリフォルニアがメキシコ領だった時代、さらに言えばそれ以前、スペイン植民地だった時代の、カリフォルニアの中心地です。今もなおヒスパニック系の住民が多く、ここの公用語はスペイン語か!?といった状態ですが、スペイン時代の栄光とはうって変わり、「Pay day loan」という、サラ金のような業者が軒を連ねる、低所得者層居住区となっています。とはいえ、あまり天気がいいとは言えないサンフランシスコにおいて、いつも太陽が輝き、どこでも陽気な音楽が鳴り響き、中南米料理が美味しく安く食べられる、魅力的な街でもあります。
そのミッション地区に、この小さなボミーアレイ通りはあります。1900年代初頭、独立後、世界に追いつこうとひたすら西洋化の道を走ってきたメキシコが、インディオとスペイン人、さらにアフリカからつれてこられた黒人奴隷の混血というアイデンティティを確立すべく、ミューラルアートという壁画芸術に力を入れました。有名な画家はディエゴ・リベラですが、フリーダ・カーロの旦那と言ったほうが分かりやすいかもしれません。ボミーアレイ通りは、その道の両側の壁が、すべて壁画で飾られている、という、ほんの1ブロックの通りながら、なかなか興味深い道です。エルサルバドル内戦時の戦火の下の子供たち、内戦の解決に力を注ぎ暗殺された聖ロメロ卿、等の社会的な絵画から、マヤやアステカインディオの伝説を描いたものなど、さまざまな絵が描かれていますが、中でも興味を引かれたのは、右手に豊かな大地と農夫と野菜が描かれ、左手には燃える家や軍靴、身内を亡くした人々が描かれた壁です。空っぽのお皿をひざに置いて、うつろな目をした女の子が座りこんでいる、その木箱には「For export only(輸出専用)」と書かれています。以前に中島先生の勧めで読んだ社会学者の本に、人々が飢えのために死んでいっているアフリカから、ヨーロッパに食料が輸出されている、と書かれていたのを思い出しました。ラテンアメリカ史でも、メキシコ政府がインディオをグローバル化を阻む存在として、彼らの豊かな土地を取り上げ、鉄道の敷設や、海外資本のプランテーションへと転用していった経過を学びました。まさにNAFTA発効の日に蜂起し、グローバリゼーションへの抵抗とインディオの権利を求めたサパティスタも、最も貧しいといわれるメキシコ南部のインディオ達を中心としています。
そのようなことを思い出しつつ、ふむ、世界共通の貧困の構造というのがあるのだなぁ、と、ボミーアレイ通りで日本人が1人ぶつぶつ言っているわけです。(2008年2月)


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3.カリフォルニア最高裁
  「同性結婚禁止規定は違憲」


ちょっと興味深いニュースがあったので、ひとつご紹介を。
サンフランシスコ市の現ニューソム市長が就任した直後から、ずっと大騒ぎのトピックがありました。それは同性同士の婚姻を認めるかどうか、ということ。カリフォルニア州の法律では現在禁止なのですが、5月15日、カリフォルニア最高裁が「同性結婚禁止規定は違憲」という判決を出しました。全米、いやおそらく世界のゲイカルチャーの中心地であるサンフランシスコはお祝いで大騒ぎでした。
そもそもニューソム市長が「同性婚姻禁止の州法こそ州憲法に定める個人の平等に反する」として、市として同性婚姻を認め、同性カップルに結婚証明書を発行し始めたのが2004年。それを州が「市の裁量を逸脱する」として無効訴訟を起こしたり、逆に支援者が州法の違憲訴訟を起こしたり、シュワルツネッガー州知事が司法長官に「市に対して法的措置を取れ」と言って、逆に司法長官から「いくらターミネーターでも司法長官をコントロールはできないぞ」などと名言でやり返されたり、いや、それはすごい争いでした。州最高裁から仮差止め命令が出されるまでの1か月の間に、発行された結婚証明書はじつに4000組以上。結婚証明書の有効性については州最高裁で無効とされたわけですが、州法が違憲だと訴えていた裁判で、その主張が容認されたわけです。いや、すごい。さすが、全米で最初に異人種同士の婚姻禁止を違憲だとした裁判所です。さすがのターミネーター州知事も、今度ばかりは「判決を尊重する」と言っています。
面白いなぁと思ったのは、州の差止め訴訟などに対して、市が「市のことに介入するな」と逆に州を訴えたこと。合衆国とその中の州も、州とその中の市も、完全に対等な権力を持つ団体という感覚が徹底しています。州都が決して大都市ではない(カリフォルニア州都はLAでもサンフランシスコでもない。ニューヨーク州都はニューヨークシティではない。イリノイ州都はシカゴではない)ということにも見られるとおり、どこかに力が集中することをとても嫌う伝統があるようです。「小さな政府」の是非はともかくとして……。

さて、私はこの判決、大賛成です。幸せになれる人が増えて何が悪いのでしょう?ただ、アメリカで反対意見が根強いのは宗教上の理由もあり、そうなると宗教について無知な私にはコメントしにくくなるのですが、問題は「不自然だ」「倫理に反する」といった理由です。日ごろリベラルで通っている人であっても、こと同性愛問題に関してだけは頭が固くなってしまう人もいるようです。ご存知でしょうか? アメリカではほんの40年前まで、白人とNegro(黒人)、Mulatto(白人と黒人の混血)、Mongolian(モンゴル系人種)の結婚が禁止されていました。Negro, Mulattoなど、言葉自体がすでに差別的として使われていませんが、どうやら法律にこのように記載されていたようです。そしてその根拠がまさに「倫理的でない」「不自然だ」というものでした。連邦最高裁が異人種間婚姻を認めるよりも20年早く、それを認めたのが今回のカリフォルニア州最高裁だったのです(もっとも同性婚についてはマサチューセッツ州ですでに認められており、カリフォルニア州は2番目ということになります)。
たくさんの異人種カップルが差別と闘ってきたことによって、今となっては「えっ? そんな法律があったの!?」と思えるくらい、異人種カップルも「自然」なこととなりました。ゲイカップルもこの闘いの末に「昔は禁止されていたんだよ」などと言われるくらい「自然」なことになっていくことでしょう。もっとも、サンフランシスコでは、男性同士が手をつないで歩いていることも、すでに「自然」な光景ですが。


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4.映画「ミリキタニの猫」

私が住むサンフランシスコは、シアトルと並ぶ日系移民史の中心です。この映画「ミリキタニの猫」を薦めてくれたのも、日系移民であるハワイ生まれの友人でした。
物語は、NYの路上で猫背気味に絵を描いて暮らす、白髪混じりのホームレスのドキュメンタリーです。「あなたはアーティスト?」と声をかける老夫婦に、ジミー・ミリキタニ氏は「アーティストだよ。日本人だ」と答えます。「この絵にはストーリーがあるの?」と尋ねる老夫婦。「ああ。本当にあった話だよ」と答えるジミー。老夫婦が見ているその絵は、第二次大戦中に日系人を収容したキャンプの風景を描いたものでした。
ジミーはカリフォルニア州生まれ日本育ち。18歳の時、兵学校に入れという父親と喧嘩し「僕は芸術家だ。兵隊じゃない」とアメリカに戻りました。そして第二次大戦が勃発。アメリカ国民であるはずの彼も、日本の血を引くという理由で収容所に送られたのです。砂漠の真ん中を鉄条網で囲った収容所。収容された日系人の3分の2はアメリカ国籍だったそうです。そして彼らは国籍放棄を事実上強制されました。
大戦が始まった・・・…家も何もかも取り上げられた……分かるかい?取り上げられたんだよ。3年半キャンプで暮らしたんだ……。キャンプに行くときに妹と別れた。それが最後だ。50年間会ってないよ。
「これは広島の柿だよ。私は広島で育ったんだ」と話しながら描いていく鮮やかなオレンジのクレヨン。その色は原爆ドームを包む炎の色でもありました。「明日は8月6日だ」。2001年8月5日。カメラにはまだ世界貿易センタービルが映っている。「8月6日。全部灰になった。私の家族も吹き飛んでしまったよ」そう言って見せる、赤く燃え上がる原爆ドームの絵に、崩れ落ちるビルの映像が重なります。
2001年9月11日。彼は煙の中で黙々と炎上するビルを描き続けていました。「戦争なんかしちゃいけない。5秒で灰になってしまうんだ……」 
パールハーバーが襲撃された! NYが攻撃された! 「テロを許すな!」とテレビで繰り返すブッシュ大統領。
国籍を剥奪された日系人達は戦後、謝罪と共に国籍を回復しました。しかしジミーはこう言い放ちます。
「アメリカのパスポート!? そんなものはいらん。ゴミだ!」
「私がアメリカ国民だって? 政府が取り上げたんじゃないか。戦争のときに、何もかも」
あるときは国籍によって差別され、あるときには国籍にかかわらず血によって差別され、国の都合によっては取り上げられもする国籍。
人種差別。テロと戦争。原爆。ホームレス。この映画はたくさんの重いテーマを含んでいますが、声高にメッセージを掲げるわけではありません。ジミーの絵の鮮やかな色彩と、彼の飄々とした風貌、誇り高い生き方、監督との友情などによって、不思議なほど爽やかで、暖かくユーモラスですらあります。
施設に絵を教えに出かけた日。「また教えに来てね、って言われたよ」と嬉しそうに話すジミーの笑顔には、人間の尊厳を教えられる思いがしました。



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5.アメリカ社会と移民

どこから始めたらいいのか、しばし悩みますが、今日は移民労働者のことについて。
日本が「単一民族」などと言う気は毛頭ありませし、それでも、日本国籍の両親を持ち、日本で生まれて、日本でしか生活しない人が大多数の国に育った私にとって、日常生活で様々な人種と言語に囲まれ、移民労働者達がひどい格差と差別の中で汗を流しているのを目にすることは、頭では分かっていたはずなのに、衝撃的ですらありました。車で国境を越えてみたり、メキシコの最貧エリアを旅してみたりして、国際的な経済格差の片鱗を目にしたことも、思いを深くするきっかけになりました。

いろいろ思うところはありますが、とりあえず話をメキシコ移民である友人たちのことにしぼりましょう。学者でも政治家でもない私が、友人たちから聞いた話なので、不正確なことも一般的ではないことも含まれているかもしれないことを念頭においてください。
現在のアメリカの移民問題と言えば、やはり焦点はラテンアメリカ諸国、特にメキシコからの移民と言っていいでしょう。和食レストランの厨房にもいるし、よく行く中国系スーパーでも段ボール箱をかついでいるし、建築現場では陽気なラテン音楽を流しながらスペイン語で仕事をしています。滞在資格のある人もない人もいます(イリーガル=不法という言葉はあまり好きじゃありません)。

滞在資格のないメキシコ人がアメリカに来るには、ここ西海岸の場合なら海を泳ぐという道もありますが、私の友人達は何日もかけて砂漠を歩いてきたと言います。もう8回も行き来したと手柄話のように教えてくれる人もいます。メキシコ側の国境の町ティファナには、コヨーテと呼ばれる国境越えを手配する商売があって、川を渡る、トンネルを掘る等、様々な方法でアメリカへ導いてくれます。国境を越えた後は、パトロールの目をくぐりながら、サソリもいるという砂漠を歩く日々です。最近は、南米からの麻薬がメキシコを通って陸路でアメリカに密輸されたり、テロリストがメキシコ・カナダなどの第三国経由で入国するというので、パトロールは日に日に厳重になっていきます。ICEのパトロールだけでなく、テキサスなどでは大規模な自警団も組織されているそうです。カリフォルニアも例外ではないかもしれません。
そうやってアメリカ側のサンディエゴ市、あるいはLA市まで送り届けてもらうのに、$1500〜1600かかります。日本円にして15万円くらい。収入格差を考えれば、メキシコ人にとっては150万円と考えた方がいいでしょう。もちろんメキシコでそんな大金を用意できる人はいません。無事アメリカに着いてから、コヨーテへの月々の返済が始まるのです。
たどり着いたアメリカでの生活ですが、私の友人の中に個室を持っている人は一人もいません。皆、1部屋を何人かでシェアし、生活費を切り詰めて、少ない給料の中からコヨーテへの借金を返し、両親に生活費を送っています。昼は建築現場で働き、夜はレストランの清掃という人もいて、今まで「陽気で楽しい」というイメージしかなかったメキシコ人の働き者ぶりには驚かされるばかりです。滞在資格がなければ当然銀行口座など開設できないし、アメリカでは一定の残高がないと口座維持費というものがかかるので、銀行口座すら持たない人も少なくありません。国への送金は、ヒスパニック居住区に行くとよく見かける「Envio de dinero(送金)」という看板を掲げた送金業者に頼むようです。銀行口座を経るより手数料は高くなります。アメリカ版貧困ビジネスといったところでしょうか。
こんな生活をするために、なぜ彼らはわざわざ辛く危険な思いをして国境を渡って来るのでしょう? 答えは簡単。メキシコには仕事がないから。メキシコでの給料では生活していけないから。給料の額までプライベートなことは聞いていませんが、移民労働者として最低レベルであろう給料を得、アメリカの高い生活費を払い、残ったほんの何割かの仕送りでも、メキシコの家族にとっては大きな収入になるのです。別に超大国アメリカの煌びやかな生活に憧れてくるわけではありません。

私の友人は口をそろえて言います。「いつかお金を貯めてメキシコに帰りたい」「アメリカでお金を貯めて、メキシコでビジネスを始めるんだ」。それは漠然とした夢ではなく、手の届く目標なのだろうか、と考えると、胸が痛くなります。歴然とした経済格差が、そこにはあるのです。(ちなみにメキシコは数年前に長者番付世界一を出した国でもあるので、国内の格差問題も大きいと言えます。)
彼ら移民労働者の置かれた労働条件は決して容認できるものではないけれど、もはや安い「不法」労働者なくして経営は成り立たないのだとも言われます。移民労働者は間違いなくアメリカ経済の底辺を支えている。それなのにこの移民政策はどうだ、と憤りを感じずにはいられません。と同時に、世界中の誰もが、生活のためだけに大好きな国を離れて、家族と離れて、慣れない国で差別の中で生きていかなくてもいいような、そんな世界にならないだろうか、と祈るような気持ちにもなるのです。


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2007年5月、当大阪労働者弁護団の団員弁護士であるS坊が、
アメリカのサンフランシスコに留学しました。
3年間の予定だそうです。
学生生活を楽しみながら、日常生活の中で感じたことや驚きなど、不定期ですが時々紹介してもらうことにしました。
ご期待ください。

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 1.S坊 サンフランシスコで元気です。 2007年8月
ララ通信60号掲載
 2.ボミーアレイ通りで考えたこと 2008年2月
 3.同性結婚禁止規定は違憲 2008年5月
 4.映画「ミリキタニの猫」 2008年7月
 5.アメリカ社会と移民 2010年6月
アメリカから こんにちは!

S坊の米国彼方此方
ボミーアレイ通りの写真1
ボミーアレイ通りの写真2
ボミーアレイ通りの写真3
サンフランシスコ名物ケーブルカーの写真
性的マイノリティのシンボルの旗(ゲイ プライド フラッグ)の写真
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