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図書館に来たものの何を見たらいいのかさっぱり見当もつかない鷲士はこまりはてていた。
「はぁ〜どうしよう。こうゆうのって史書さんに聞くしか・・・」
特に大きな声ではなかったが、静まり返った館内にその声は意外なほど大きく響き渡った。
(しまった!)と鷲士が思うのと、ほぼ同時に注意の声と鋭い視線が飛んでくる。
「そこ!館内では静かに!!」
「あ・・・す・すいません。」
鷲士が首をすめながらそう答えた時、ごく近くで「くすくす」と抑えた笑い声が上がった。
(誰かな・・)と思った鷲士が振り向くと、そこにはノイエ・シュライヒャーが本棚に返すのであろう本を持って佇んでいた。
ノイエは鷲士に近づきながら、軽く目を細めた。そして、鷲士とすれ違いざまにポツリとどこか楽しそうに言った。
「まったく日本人ときたら公共スペースのマナーも知らないのかしら。礼節の国が聞いてあきれるわね。」
相変わらずの毒舌だったが、ごく小さい声で言ったために鷲士以外には聞こえなかったようだ。鷲士は、言葉の中にほんの少しだけ日本に対する嫌悪感が薄れてきたのを感じ、微笑んだ。
それに気づいたノイエは少し不審そうな顔になると、鷲士をにらみつけた。
「なにか可笑しいことでもあった?」
咎められた鷲士は、引きつりながらも思い切っていった。
「いや、だいぶ日本にも慣れてきたんだなって思ったから、つい・・・ね。」
鷲士としては小声で言ったのだが、少しだけ響いてしまった。慌てて辺りを見回しても時は遅く。
「・・・・・・・(むか)」
といった、嫉妬と好奇心の混じった視線が飛んできた。
その中にある(なんでてめえだけが・・・)というオーラに笑顔も凍ってしまった鷲士は棒立ちとなり、ノイエは静かに微笑を浮かべた。そしておもむろに、
「どじ。」
と言い残して立ち去ろうとした。しかし、そこは“礼節”を知るノイエのこと、鷲士に聞こえるか否かというぐらいの大きさだったが。
「あはは・・・・ごめんなさい。」
三度目の正直といったところか、鷲士は小声でノイエに答え、道を譲った。
驚いた表情を一瞬浮かべたノイエであったが、余裕で礼を返すと本を返す場所を探しながら呟いた。
「こんなところで会うなんて珍しいわね、シュージ。」
何かないかと背中合わせで調べていた鷲士は、(そんなことは・・・)と内心首をひねった。
「ん〜、結構前は来てたんだけどね。・・・そういえば最近はあんまり、うん、来てなかったから。会うことがなかったんだろうね。」
ぼんやりと答えながら、目は背表紙に集中していた鷲士だったが、ふと、思った。
(ノイエは知らないだろうか?)
思いつくと大層いい考えに思えてきて、鷲士は考えをまとめていった。ノイエは美貴ちゃんとも親しいし、第一同じ女の子だし。こういうことに詳しいかもしれない・・・
意を決し、鷲士はノイエにいった。
「ねえ、ノイエちょっといいかな?聞きたいことがあるんだけど。」
「??いい・・けど。」
<鷲士が図書館で困っていたちょうどその頃。>
美貴のマンションでは、美沙と樫緒の二人が美貴に詰め寄っていた。
「さて、話してもらいましょうか?」
「早くしていただきたいもの。この後に一つ会見の予定が入っているのですが。」
美沙は呆れと苛立ちを隠そうともせず、樫緒はあまりにも静かな表情のままで。
いくら母親といえど、この状態の二人は苦手なのか、それともほかに理由があるのか、美貴は俯いたまま涙を流していた。
これには二人も慌て・・・・・てはいない。美沙は美貴に冷たい視線を浴びせ。樫緒は、そんな美沙の様子に気づきながら、美貴に近づいてハンカチを渡した。
そんなこんなで5分後。
やっと落ち着いた様子の美貴が口火を切った。
「うん・・・それが、それがさあっ!鷲士がひどいんだっ!!」
が、そういったきりうつむいてしまった。
今までに何度も繰り返されてきたその光景に、美沙と樫緒は呆れ返った。
「また、ですか。しかし、あの男は何度母さまを傷つければ・・・・」
「ちょ〜っと落ち着きなさいよ、樫緒。そーでもないと思うよ。今回ばかりは半分は美貴ちゃんが悪いから。」
少し暴走しがちな弟に、注意をする美沙。どうやら、さっきの怒りはまだ燻っているようだ。しかし、これがまずかったのか樫緒ははっきりと怒りを顔に出し、語気荒く言い捨てた。
「姉さまはあんな男の肩を持つのですか?よしんば母さまに非が在ったとしても、『ひどい』のは、あのおとこ・・・っ」
それを聞いて、美沙は静かに樫緒の頭に手を 伸ばした。
「イタタタ、痛いです。姉さまっ。」
耳をつかまれた樫緒は必死にもがいたが、美沙は樫緒を許せなかった。
「あんな男〜!?よくもそんなことが言えるわね。あんたにだって鷲士くんのDNAは、半分入ってるのよ!!」
怒りに任せて樫緒の耳をつまんだ美沙だったが、事情の説明を求める樫緒の声にしぶし
ぶ指を離した。
「いい、樫緒。事情を聞きなさい。そしたらアンタにもどっちが悪いのかわかるから。」
そして美沙はさっきまでの怒りなどどこに行ったのやら、不思議なほど静かに自分が鷲士と出した結論とそれにいたるまでの経緯を話した。
すなわち、「今日が何の日なのか」がすべての元凶であるということを。
「はあ、そんなことで?」
そんな樫緒の当然な一言に美沙は大きくうなずいた。
「そうよ、カレンダーにも載ってない『今日』なんか無視すれば?って言ったのに、鷲士くんったら真面目に調べに行ったのよ。」
この一言に今まで肩を落としさめざめと泣いていた美貴が反応した。
「え…それほんと?美沙、おかーさんからかってないよね。」
まだ少し焦点が定まっていないものの、美貴に先ほどまでとは違いはっきりとした口調が戻ってきた。そんな母親の様子に美沙と樫緒は安堵の色を浮かべた。
そして美沙が根本の事情を聞こうと、口火を切った。
「あーあ、今ごろ鷲士くん図書館で何調べていいか分からずに困ってんだろうなあ。あ〜かわいそ。」
「姉さま、父さんに資料の選択法について何も教えていないのですか?それでは、さぞ父さんもお困りでしょうね。」
双子のテレパシーか、樫緒は美沙の尻馬に乗って母親を追い込みにかかった。…さぞ不本意であったろうが。
そして美貴の重い口が開かれ、事実が語られた。
ちょうどその時。相模大のとある一角に異様な空気が立ち込めていた。
場所は、図書館裏の雑木林に設置されたベンチ・・・と、面している図書館の窓際。
「くしっ!」
「ちょっ・・と、汚いわねシュージ。何?風邪でもひいてるの?」
そうじゃないんだけど・・・と鷲士は苦笑をしつつ何から切りだそうか考えていた。
(いきなり今日は何の日?って聞いても訳がわからないし。ああっ、ここに来る前に考えておけばよかった。)
何も言えない二人の間を生暖かい風が吹いていった。
鷲士とて何も最初からこんな場所で話そうとしたのではない。ほかの学生に迷惑にならないように廊下で話そうとしたのだが・・・あまりに露骨すぎる好奇と憎悪の視線に、ここへの避難を余儀なくされたのだった。
今現在も図書館には「何であのやローだけ」という思いの男性陣と、明らかに「何か」を期待する女性陣が読みもしない本を片手に窓際を占拠していた。さらに悪いことに、その人間のせいで勉強に集中できない学生の放つ「いらだち」が鷲士を包んでいた。そのせいか、落ち着きのない鷲士に、ノイエはいぶかしげに声をかけた。
「・・・・・・なんなの?本当に。用がないんだったら帰るわよ。」
この一言には鷲士も驚いた。慌てて引き止めようとするがうまく言葉が出てこない。
「ちょっ、ちょっとまって。え・えっと、その、ああっ、いったい何て言ったらいいんだ!?」
雑木林の前でおろおろする鷲士。その姿を冷たく見つめるノイエ。
両者に注がれる視線はますます強くなるばかりだった。
所変わって、麻当美貴嬢の部屋。
「今日が何の日か」(つまりは夫婦喧嘩の原因)を知らされた樫緒&美沙は呆れ返っていた。
「「えっ・・・・!そんな日なの!?」」
見事にハモった2人のリアクションをみて、美貴は不満気にうなずいた。
「知らないと思うわよ〜ってゆーか、言いたいことは分かるけど、絶対に無理!!」
「厳しいのではないでしょうか。母さまのお気持ちは痛いほどよく分かりますが、父さまの性格ではまず望みどうりに行かないでしょう。」
2人のこの言葉を意外に思い、美貴は2人に詰め寄った。美貴にとってはごく当たり前に思えるのに・・・・
「なんでさ?鷲士は私のことを愛してないというの?」
この言葉に樫緒は汗ジトになりながら慎重に言葉を選んで答えた。
「しかしですね、母さま。父さまは『ゆうちゃん』は死んだと思ってらっしゃいます。
ですから余計母さまに対してそのような気持ちにはなれないのではないかと思います
が・・・」
ちらりと送られたアイサインに美沙も汗ジトになりながら、激情の母親に自分の見解を述べた。
「・・・鷲士くんてまじめすぎる所があるじゃない。だからきっと、『君たちのママに申し訳ない』とかいって、逆に沈んじゃうんじゃないかな?」
「そんなあ・・・・・」
この言葉には、美貴もがっかりだ。
「どうしよう・・・・」
といって、凹んでしまった。
美沙と樫緒が一生懸命美貴を説得していたそのころ。
やっとのことで鷲士もノイエに切り出すことができていた。
「ふうん・・・つまり、今日が何の日か分からずに困ってるのね?」
「そうなんだ。悪いけどノイエ、何か心当たりはない?」
しどろもどろになりながらも、それでも一生懸命に聞く鷲士にふとノイエは微笑みかけた。
「そう・・・ね。ヴァレンタイン・デーや、ホワイト・デーのようにメジャーじゃないから。日本
じゃあまり知られていないのかもしれないわね。だけど以外ね、美沙でも知らないことがあるなんて」
「え・・・・・?」
ということは、ヨーロッパのほうでは有名な日なのかな?美貴ちゃんはいったいどこで知ったんだ
ろう?
などど、一人で想像の世界に行きかけた鷲士に、ノイエはきっぱりと言った。
「今日、6月12日は『恋人の日』よ。大事な女性に花のひとつでもプレゼントしてあげたら?シ
ュージ。・・・・まぁ、あなたには、ミキがいるんだし。」
それじゃあね。と言うように、ノイエはきびすを返した。
だから彼女は気づかなかった。その言葉を聞いた鷲士がどんな顔をしたのかに。
立ちすくんだまま、鷲士は慟哭を抑えていた。
本当は今すぐにでも、声をあげて叫びそうだった。
「今日何の日か分かるよね。鷲士。」
「大事な女性に花のひとつでもプレゼントしてあげたら?」
頭の中で2人の声がリフレインする。
どうして視界が歪むんだろう。水の中みたいにゆらゆらしてよく見えない。
・ ・・・ゆう、ちゃん。ゆうちゃん。ゆうちゃん・・・・!!
鷲士は曇っためがねを拭こうと眼鏡を取った。そして気づいた、自分が泣いていることに。
何度も何度も少女の名を呼んだ、叫んだ。
声にならない声で。
・・・・君に会いたい。4にんで話したい。・・・ゆうちゃん、君に花束をあげなきゃ。
そう、今日という日に。君に。
ひとしきり涙を流し、鷲士は座り込んでいたベンチで大きくため息をついた。そして何かを振り切
るように頭を振ると、携帯を取り出しダイヤルした。
「もしもし・・・美沙ちゃん?頼みがあるんだけど、ちょっといいかな?」
そのころ、美貴の部屋では。
樫緒と美沙が、何とかして美貴の願いを叶えようと必死になって考えていた。そして、それに対して、
美貴が文句をつけ、美沙がキレ、樫緒がなだめるというこうけいが延々と繰り広げられていた。
「・・・だから、それじゃ意味がないんだ!!もっとこう・・・・ロマンチックにできないか?」
「無茶言わないでよ。この計画だってそーとー厳しいのよ。これ以上は絶っ対に無理!!ねぇ、樫
緒。アンタもそう思うでしょ?」
「ふええぇぇぇ・・・・美沙はおかーさんの事愛してないんだ。そうなんだ!!」
ここに至ってついに樫緒はこめかみを抑えると、仲介案を提示した。
「母さま、姉さま。議論が徐々にずれてきておりますが。
・・・要は、今日という日を父さまと祝いたいのでしょう?でしたら、母さま。貴女のほうからプレ
ゼントをなされてはいかがですか?」
これには二人とも唖然としたが、すぐに美沙が食いついてきた。
「それいい!!そうしようよ、ねぇ、おかーさん!?」
ところが美貴はよほど驚いたのか、反応がおかしい。
「えっ。あっああ。たしかに・・・・でも・・ええっ?」
見事なまでにパニックになった美貴を横目で見ながら、好都合とばかりに二人は話を進めて言った。
〜〜〜〜〜♪ちゃらり♪〜〜〜〜〜
突然鳴った携帯に悪態をつきながらディスプレーを見た美沙が、小さく声をあげた。
「やった〜鷲士くんだ。らっきー。」
樫緒は会話が聞き取れるようにと、美沙のそばに寄った。
「もっしもーし。わたしだよ〜」
美貴がパニックから覚めることがないように、細心の注意を払いながら対応する美沙の顔が、曇っ
ていった。
「・・・え?『ゆうちゃんのお墓を教えて』って、・・・・ナニよ。それ。」
この言葉には、冷静な樫緒ですら青くなり固まってしまった。
「うん。美沙ちゃん。おしえてくれないかな?・・・ノイエに聞いたらさ今日が『恋人の日』だって教えてくれたから。
遅すぎるかもしれないけど、ゆうちゃんに・・・君たちのお母さんにお花をあげたくなっちゃって。」
ベンチに座ったまま、夕日により茜色に染まった木々を見ながら鷲士はそう話した。
その目に涙はなく、口元に笑みを浮かべながら。
しかし、瞳には生命の輝きと言ったものはなく。また、浮かぶ笑みもどこか虚ろだった。
「・・・・教えてもらってなくても、美沙ちゃんなら。いや、FTIなら調べられるんじゃないかなと思って。どうしても今日、行きたいんだ。」
そこまで言うと、鷲士は不意に言葉を切った。
この時、図書館から野次馬達が消えていて幸いだったのかもしれない。
それ程に鷲士は、真摯で悲しみに満ちた顔をしていた。
「お願いだよ・・・・・美沙ちゃん、樫緒くん・・・っ」
「パパ・・・」
じっと何も言わずに、いや、言うことなどできずに話を聞いていた美沙は、鷲士の言葉の重さに負けたのか、黙り込んでしまった。
そして、同じく話を聞いていた樫緒もまた・・・何も言うことはできなかった。
樫緒は、考えをまとめる事ができず、ただ口をぱくぱくさせている美沙から携帯を取り上げるとしっかりとした口調で言った。
「・・・父さま。申し訳ありませんが一旦切りますよ。姉さまも戸惑っていらっしゃいますし。」
その言葉にハッとしたように顔をあげた美沙に、樫緒は軽く頷きそのまま通話を切ろうとした。
刹那。鷲士が発した言葉に、樫緒は静かに・・・・しかし怒りを込めて言った。
「貴方だけじゃ、ありません!・・・・・失礼、します。」
「みさちゃん?どうしたの?・・・・あ、樫緒くん。えっ?戸惑うって、そんな・・・
ただ、お墓の場所を教えて欲しいだけなんだけど。」
急に話し相手が樫緒に変わり、鷲士は少し戸惑いながら続けた。
平静になって考えたなら、これほどまでに無神経な質問もないと分かっただろうが。
今の鷲士にそんな余裕はなかった。
だから・・・・・続けて言った。
「樫尾くん・・・僕はゆうちゃんが死んだ事も知らなかったんだ。だからせめて、墓所だけでも教えて欲しい。もっとゆうちゃんの事を知りたいんだ。
これ以上・・・何も知らないなんて、耐えられない・・・すごく嫌なんだ。」
これは鷲士にとって、ごく自然な気持ちだった。知らない事を知っていく事で自分にけじめをつけたいという願いから、思わず口にしたこの一言は・・・確実に樫緒の逆鱗に触れていた。
「あ・・・まって、樫尾くん!!ちょ、ちょっと!!」
いきなり切れた会話に少し呆然としながら、鷲士はぼんやりと(何かいけない事を言ったかな?)と考えていた。
「とり・・あえず、バイトに行かなきゃ。」
そう呟いて、鷲士が立ち上がった頃には辺りはもう真っ暗だった。
そのおかげで、鷲士の幽鬼のような姿は誰にも見られる事はなかった。
「あれ、美沙、樫緒。どうしたの?そんな難しい顔しちゃって。」
パニックが収まった美貴が、携帯を持ったまま固まっている二人に声をかけた。
すると、はじかれたように二人が振り向いて、口々にいった。
「なんでもないよ。おかーさん。」
「別に対したことではありません、母さま。」
美貴はこの態度にちょっとした違和感を感じつつも、頬を染めながら美沙に話し掛けた。
「プレゼントっていってもさ、私からあげるっていうのはなんか恥ずかしいからさ。美沙、お願い。プレゼントもって帰って、キミから鷲士に渡してよ。」
らしくもなく照れながら嬉しそうに話す美貴を見て、美沙と樫緒はさっきの電話のことは黙っておこうと心に決めた。
この母に、さっきの鷲士の言葉を伝えなら…きっとまた悲しんでしまうろう。
もしかしたら、また自分で自分を傷つけてしまうかもしれない。
それだけは、ぜったいにいやだ。
二人の心のうちに気づくことなく、美貴は出かける支度にかかっていた。
「ねぇ、美沙。しゅーくんへのプレゼント一緒に選んでよ。お願い。」
あまつさえそんな事を言いながら、美沙の腕をひっぱっている。
その光景を見て、樫緒は平静を装いながら美沙にいった。
「ねえさま。行かれてはいかがです。今の父さまには何が一番喜ばれるかは、共に暮らす姉さまの方がよくわかるのではありませんか?」
これには、美沙も苦笑いしながら同意をした。
「そうね、最近は私が鷲士君の服装チェックしてるもんね。いいよ、おかーさん。一緒にいこ!」
そして、女二人が(表面上は)楽しげに買い物の話を始めたのを見て、樫緒は腰を上げた。
「それでは…失礼いたします。母さま。姉さま。」
その言葉に美沙が振り返ったとき、すでに樫緒の姿は部屋のどこにもなかった。
そのかわり、樫緒がいた場所に小さな赤い染みができていた。
フローリングの床の上に、小さく血が落ちていた。
(あの子…こんなにまでして、冷静でいたんだ。)
その血を美貴に気取られぬようにぬぐうと、美沙は母親に呼びかけた。
「いこ、おかーさん。早くしないと明日になっちゃうよ。」
拭ったハンカチを握り締めながら………
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