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とりあえず気分を落ち着かせ──シャツを着込んだ雪人は、リビングのソファに腰を下ろした。
並んで座る美緒は、心なしか、顔色も青ざめている。
無理もない。事態が事態だ。
愛しい少年の子とはいえ、12歳で身篭ったとなれば、平静ではいられないだろう。ましてや、本人の話から察するに、またく予期せぬ懐妊だったようであるし。
雪人は、大きく息をついた。
9つも年下の妹が既に男を知っていたということも驚きだったが、掛けて加えて、妊娠とは。まったく、幾ら母娘だからといって、そんなところまで似なくてもいいだろうに。
吐いた息に込められた感情が、怒りなのか、焦りなのか、呆れなのか、それは自分でも分からない。あまり軽いものでなかったことは確かだが。
こんなとき、喫煙の習慣でもあれば、間が持たなくて参るなんて思いをしなくても済むのだろうか……
どうでもいい方向へと流れて行こうとする思考を、無理矢理本筋へと引きずり戻し、雪人は美緒へと問いかけた。
「……で? どうするつもりだ?」
兄からの問い掛けに、美緒は顔を俯かせたままで答える。
「う、うん……。父上母上に相談して、麟太郎くんにも……あ、小吉さんにも話して……。学校は、どしよう……」
「──そうじゃなくて」
美緒自身も、まだ事態について行けていないのだろう。何処か呆然としたままぶつぶつと呟くように言う妹の言葉を、雪人の声が遮った。不思議そうにこちらを見上げてくる美緒に、彼は静かな眼差しを向け、告げる。
「選択肢は──1つじゃないってことだ」
美緒は、その言葉の意味を、理解し損ねたようだった。
きょとんとした様子の妹を、ちらりと横目で見やってから、雪人は気だるそうに前髪をかきあげて、言った。
「今なら──まだ、どうとでもなる。俺にだって独自のコネの一つや二つあるからな。誰にも知られず病院に行って──『ここだけの話』ってことにしちまえるってことだ」
雪人の言葉を聞いて、美緒はきょとんとした顔で固まってしまった。パチクリと、瞬きを一つ。
そして次の瞬間、兄が言わんとするところを悟り、彼女は思わず声を張り上げた。
「ちょっ……そ、それって──!!」
ここだけの話。
誰にも知らせず、全てを無かったことにする。
雪人に相談したことも、自分が悩んでいることも──自分の胎内に命が宿ったという事実さえも。自らの胎内に宿った命を、殺すことによって。
──堕胎。
それが、雪人の示した『選択肢』。
「じょ……! 冗談じゃないわよ、そんなコト!」
テーブルを叩き、美緒は怒鳴り声を張り上げた。
病気の患部を切除するのとは訳が違う。いかに未成熟であろうとも、胎内に宿った時点で、それは「命」だ。それを、殺す? 間違いだったから、都合が悪かったからと言って?
そんなコトが、許されるはず無い。許されていいはずが無い。
「この子を、堕ろせって言うの!? ──サイッッッテー!! 雪人兄上が、そんなコト言う人だなんて思わなかった!!」
「──黙って聴け!」
予想していた反応だったのだろう。怒りに任せてソファを立とうとする美緒を、雪人は強引に引き留めた。暴れようとする彼女を押さえつけ、両の目を見つめてはっきりと言う。
「──子どもを産んで育てるってコトはな、奇麗事じゃ済まないんだよ……!!」
「…………!!」
美緒の軽蔑混じりの怒りの眼差しが、雪人を射貫く。しかし、兄は怯むことなく言った。
「いいか、良く聴けよ……? 子どもを産むってコトは──母親に成るってコトはな、お前が思っている以上に厳しい現実なんだ。……お前は、まだ12歳だ。幸い、うちは経済的に豊かだし、親父やお袋も、お前が本気だと分かれば、理解してくれるだろう。麟太郎も、お前に対する責任から逃げ出すような男じゃない。……だけどな、世間は、間違いなくお前を──お前だけじゃない、父親の麟太郎も、生まれてくる子どもたちも、好奇の目で見るぞ?」
兄の言葉は、いちいちもっともだった。
言われるまでも無い。そんなことは分かってる。
だが、そんなコトは、この身体に宿った「命」を殺す理由になどなりはしない。
自分と麟太郎は、本当に愛し合っている。それ故に、互いを求め合った。
しかし、世間はそうは見てくれないだろう。若さゆえの過ち。情欲にかられての愚行。自分の方が年下だから、最悪、麟太郎だけが「何も知らない少女に淫らなことをした」と、一方的に悪者にされる可能性だってある。
でも、そんなのは、物事の表面しか見ようとしない、下世話な野次馬たちの見解だ。そんなものをいちいち気にするほど、自分はヤワじゃない。そんな連中なんか関係無い。麟太郎だって、生まれてくる子どもだって、自分が護ってみせる。
美緒の揺るぎない眼差しを受けながら、雪人は続けて言った。
「それだけじゃない。お前──ほんとに母親になるだけの覚悟があるのか……?」
その一言が、再び美緒の逆鱗に触れる。
「──兄上!」
「……『侮辱』か?」
美緒の眼差しは、その言葉を肯定していた。
「わたしは……馬鹿じゃない。子どもを産むってことがどれだけ大変かは分かってるし、それに対する覚悟だって……」
歳の離れた兄は、それ故に、「キョウダイ」というよりも「保護者」といった感がある存在だが──時々、鬱陶しい。わたしは、彼が思っているほど子どもではないのに。
覚悟は、ある。どんな苦難でも乗り越えて見せる。わたしは、立派に「母親」になってみせる。
そんなことも、この兄には分からないのだろうか? 伝わらないのだろうか? わたしは──わたしは、そこまで見くびられているのだろうか?
しかし、雪人が口にした言葉は、そんな美緒の考えを、いともあっさりと覆してしまった。
「──まぁ、そうだろうな。お前なら、子どもを「産む」覚悟は有るだろうさ」
さらっと言った彼の真意が掴み取れず、美緒は口をつぐんだ。
兄は、既に自分の「覚悟」を知っている。ならば、何故あんな問い掛けをしたのだろう?
解けない疑問を抱いたことが、美緒に僅かばかりの冷静さを取り戻させた。
妹の身体から力が抜け、とりあえず自分の話を聴く気になったのだと悟ったのだろう。雪人は彼女を捕まえていた手を放し、ソファに座りなおす。
戸惑いと怒りの狭間で揺れるような目でこちらを見やってくる妹に向かって、雪人は静かな口調で語り始めた。
「お前なら……意地でも親父やお袋を納得させて、世間の目なんざ物ともせず、立派に子どもを産むだろうさ」
例え鷲士や美貴に何と言われようとも、美緒は己の意志を変えはしないだろう。
世間からの誹謗中傷や、好奇や軽蔑に満ちた眼差しも、彼女は鼻先で笑い飛ばすことが出来るに違いない。
生みの苦しみ? 望むところだ。それが「母」になるための試練だというのなら、受けて立ってやる。
さぁ、他に何がある? いや、何があろうとも、『愛しい我が子』の為ならば、耐え抜いて見せようじゃないか。
「だけどな、俺が訊いてるのは『産む覚悟』じゃない。『育てる覚悟』だ。──これは、似ているようで決定的に違う。それを……お前は、ちゃんと判ってるのか?」
「……………………」
──判らなかった。
子どもを産めば、それを育てるのは当たり前だ。「生む覚悟」と「育てる覚悟」──そこに何故、別々の「覚悟」が要るのか、美緒には判らない。
無言になった美緒の様子から、彼女の内心を察したのだろう。雪人は諭すような口調で、彼女に語り始めた。
いいか? 母親になるってことは、お前が思っている以上に厳しい現実なんだ。
子どもが生まれれば、それまでの生活は一変する。全てが子ども中心になる──ならざるを得ない。遊びに行けないとか自由な時間が減るとかいう、そんなちっぽけな問題じゃねえぞ? それこそ、食事から睡眠時間まで、一切の例外無しに、子どものきまぐれに振り回されるようになる──お前の人生を、子どもに侵食されるんだ。
相手は赤ん坊だ。遠慮なんかしてくれない。お前が疲れきっていようが、容赦無く泣き喚くぞ? それに、お前は耐えられるのか?
多少育ってからだって同じだ。
お前が大切な絵を仕上げるために集中したいときに、遊んでくれと邪魔をする。
お前が麟太郎と二人で恋人気分に浸っていたいときに、かまって欲しいと纏わりつく。
外に行けば人前で駄々をこねてお前に恥をかかせるし、食事を作ってやれば食べたくないと文句を言う。
ムカツクし、手は掛かるし、煩わしいし……そんな時、お前は、本当に子どもを愛せるのか? 愛し続けてやれるのか?
『自分の子どもだから愛せるに決まってる』なんて思うんじゃねえぞ? 愛情ってやつは、決して万能じゃない。血が繋がっていようが、腹をいためて産んでようが、愛せないときには愛せない。そして、そうなったらお終いだ。その子どもは、母親を失うんだ。
もう一度いうぞ? これは、お前が思ってる以上に厳しい現実なんだ。
親ってやつは、自分の人生を削って、子どもに与えてやらなきゃならない。
草刈美緒の人生を──これから先の全ての時間を──まるごとくれてやるだけの覚悟が、お前には本当に有るのか?
『産まなければ良かった』と後悔しないでいてやることが──本当に、出来るのか?
妥協を許さぬ雪人の問い掛けに、美緒は答えることが出来なかった。
人生を、まるごと。
産みの苦しみは、覚悟していた。
世間の好奇の目も、耐えられる自信があった。
だが、しかし。
自分の人生の全てを投げ打つ覚悟が──“赤ん坊”という一人の人間の人生を、一生背負っていくだけの覚悟が──自分にはあるのだろうか。
出来ると、思う。思っている。だが、そう“思い続ける”ことは──果たして、出来るのだろうか。
「わ……わたしは……」
声が、震えた。
「生む覚悟」と「育てる覚悟」──兄に言われるまで、考えもしなかった。
どんな困難にも立ち向かえると思っていた。どんな苦しみにも耐えられると思っていた。だが、それもこれも、『子どもを愛しているなら』という前提での話だ。自分が、自分と麟太郎との間に生まれる子どもを愛せないかも知れないなどとは、思っても見なかった。
愛情ってやつは、決して万能じゃない。
万能だと思っていた。
自分の子どもなら、愛することが出来て当たり前だと思っていた。
それは、自分が愛されていたから。あまりにも当り前に愛されていたから。愛されることが当り前で、その事に疑問を覚えることも無い──子どもだったから。
──涙が、零れ落ちた。
「わた、わたし……は……」
美緒は、止め処もなく零れ落ちる涙を、拭うことも出来なかった。
決断しなければならない。でもそれは、重すぎる決断だった。
誤る事も、途中で放棄することも許されない決断。自分自身ではなく、“生まれてくる子ども”という別の人間の人生を決定してしまう責任。
下せない。下せるわけが無い。そんな決断など。
『産まなければ良かった』と後悔しないでいてやることが出来るのか?
分からない。
ついさっきまでは──雪人に問われるまでは、自信が漲っていた。誰に対しても、胸を張って答えただろう。「後悔なんてするもんですか!」と。
だけど、だけど……
わたしには、まだまだやりたいことが沢山ある。目標もある。夢だってある。
もしも、もしもいつの日か、“夢”と“子ども”を天秤に掛けなくてはいけなくなったとき──わたしは、本当に“子ども”を選ぶことが出来るだろうか。あるいは、その時は“子ども”を選んだとして、“夢”を諦めざるを得なかった自分を、悔やまずにいられるだろうか。
お前、ほんとに母親になるだけの覚悟があるのか……?
そんなこと、分からない。
分からないけど……だけど……それでも……
「でも……イヤ……なの……」
美緒の呟きを、雪人は黙って訊いていた。
励ますでもなく、叱咤するでもなく──ただ見守りながら。
「イヤなの……絶対……イヤなの……。分からないけど……わたしは子どもで、兄上のいう『覚悟』なんて出来てるかどうかも分からないけど……でも、絶対、イヤなの! 殺したくないの!!」
己が胎内に宿った命を抱き締めるかのように、下腹に両手を当てながら、美緒は絶叫するように言った。
「欲しいと思って宿した命じゃないけど……産んであげたいの! 麟太郎くんと、わたしの子どもを! ……もし、この子を殺しちゃったら──わたし、きっとホントに子どもを愛してあげられないお母さんになっちゃう。大人になって、麟太郎くんと結婚して、欲しいと思ってつくった子どもでも……愛してあげらる自信が無くなっちゃう。そんなの──絶対にイヤ! 絶対に……イヤ……だから……」
覚悟は、無いかも知れない。
後悔、するかも知れない。
だけど──『愛してあげたい』から。
だから……
「……美緒……」
泣き崩れる妹の身体を、雪人はそっと抱きとめた。
自分の胸に縋り付いて泣きじゃくる妹の髪を、何度も何度も撫でてやる。
そして、穏やかに、雪人は妹の耳元で囁いた。
「産む……んだな?」
雪人の胸に顔を埋めながら、美緒は縦に首を振った。「そうか……」そう呟くとともに、雪人は大きな溜息をつく。妹の前途を憂うかのように。或いは──妹の決断に、安堵したかのように。
「ゴメンな……不安にさせるようなことばかり言ってさ……」
今度は、左右に首を振った。
これは、必要なことだった。
わたしは、考えなければならなかった。悩まなければならなかった。
それは、絶対に必要なことだったのだ。子どものままで子どもを産むことは、決して、許されないのだから。
「でもな、お前には、麟太郎がいる。俺なんか大した役にも立たねえけど、親父や、お袋や、姉貴たちだって居る。……沢山のひとたちが、お前を助けてくれる。母親になるなら、お前は覚悟しなくちゃいけないけど……全てを一人で背負う必要は無いから。みんながお前を──愛してくれているから」
「兄……うえ……」
嗚咽混じりの声が、美緒の唇から零れ落ちた。
縋りついた胸の温もりが、髪を撫でてくれる手の優しさが心地いい。
麟太郎の腕に抱かれているときとは、また別の──どこか懐かしい安らぎ。
その温かさに身を委ねながら、美緒は、自らの裡にわだかまっていた不安が、少しだけ、解け消えていくような感覚を抱いた。
わたしは、きっと大丈夫だ。
不安だけど、心配だけど……
わたしは、きっと、わたしの子どもを愛してあげられる。
沢山の愛し方を、父上が、母上が、兄上や姉上たちが、わたしに教えてくれたから。
わたしの子どもも、きっと沢山の愛を受けて育ってくれる。
──「草刈の家」には、それが満ち溢れているのだから。
やがて、泣き止み落ち着きを取り戻した美緒に、雪人は笑顔を向けて言った。
「さて。美緒、お前、顔洗って来い。泣きまくったせいで、スゲェ顔だぞ」
「お、女の子に向かって……『スゲェ顔』ってのは……なによぉ……」
泣き濡れた頬を掌で拭いながら、美緒は席を立って、洗面所に消えていった。
そのタイミングを見計らっていたかのように──いや、実際見計らっていたのだろう。リビングのドアを押し開けて、美月が姿を現した。
草刈家の家事全般を取り仕切っている美月の朝は早い。雪人がリビングのソファに腰を下ろした頃には、既にドアの向こうにいたのだろう。
全てを知っている様子で洗面所へと通じるドアを見やってから、彼女は雪人と微苦笑を交し合う。
「あの娘……いいお母さんになるわよね、きっと」
「ったりまえだろ。あいつは、俺たちの妹だぜ?」
数時間後。
草刈家は、結城、FTI、その他すべての関係者もろもろを巻き込んで──
上へ下への大騒ぎとなる。
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