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「これ以上・・・増やしたくないんだ。・・・・オシエテほし・・・・・」
うるさい。
――――――イナカッタ癖に。
あの時・・・母さまの目が、死んでいたときに・・・・・・・いなかった癖に!!!
何が今更「知らないことを増やしたくない。」だ。
ああ・・・・うるさい!!あなたに何がわかるというのですか。母さまをあんなに苦しめていたくせに。今だって、今だって。少し考えればわかることを何一つ考えようともしないで。何が、なにが、ナニガ・・・!!
ばきっ!
小さな破壊音が、樫緒の意識を現実に引きずり戻した。手のひらに痛みを感じ己の手を見た樫緒は、ため息をついた。
(・・・なさけないですね。あんな言葉に動揺するようでは、僕もまだ修行不足といったところですか。)
樫緒の手のひらには深い傷ができ、そして、机の上には壊れたペンが転がっていた。
その傷から溢れる紅をハンカチでぬぐい、傷自体を消そうと精神を集中した樫緒だったが・・・ふいに、目を開くと机の上にあるベルに手を伸ばした。
自分の傷ぐらい、自分で治す。今までだったらそれが普通だった。
現に今も、治せた。
だが・・・誰かにそばにいて欲しかった。たとえ、開いてしまった傷についてなにか小言を言われるとしても。誰かにいて欲しかった。
やがて来た優秀な執事が、想像どうり説教を始めた。
しかし・・・鉛を抱いたように重い胸は、さらに重くなっただけだった。
「君たちの・・・・お母さんに・・・・・・・・花束を・・教えてほし・・・オシエテ・・・・・・・」
鷲士くんの声が頭から離れない。
――――――どうしよう。・・・どうしたらいいんだろう。
迂闊だった。何時かは今日のような日が来ると判っていたはずなのに。
それに・・・樫緒。あの子があんなに声を荒げるなんて、そうある事じゃない。
・・・・・・・とにかく。絶対に美貴ちゃんには黙ってなきゃ!そう。絶対に・・・・・
「・・・・・さ!美沙ってば!!ちょっと、人の話聞いてるの?」
何時の間にか思考の海に沈んでいたらしい美沙が、ハッとしたように顔を上げた。目線の先には、おかーさんがいる。
「あ・・ごめ・・ん。また、考え事してた。」
とっさに言いつくろえたことは、奇跡に近い。美沙はそう感じていた。
――――全然、思考と行動が一致しない。
どんなにおかーさんとの買い物に集中しようとしても・・・何時の間にか深く思考の海に潜ってしまう。
(私は、まだ弱い。・・・だけど、こんなことで揺らぐわけにはいかない。)
奇しくも弟と同じような決意を胸に秘め、美沙はきっと首を上げた。
そんな美沙をいつもと違うと感じた美貴が覗き込んでくる。
「大丈夫?さっきから気が付くと何か考え事してるし。それに、樫緒も何か態度がヘンだったぞ?
・・・・ねぇ、何か私に隠してないか?二人して!」
美沙は、痛い所をつかれ思わず汗ジトになったが、そんなことはおくびにも出さず、見た目は平然と言い繕った。
「だからぁ、さっきも言ったでしょ。鷲士くんをどうやってごまかすか、コレって結構大変なんだよ。それでなくても、ここのとこ鷲士くんってばやけにカンが良くなってきたし。」
この言葉に納得したのか、はたまたバツが悪くなったのか。美貴は聞こえない振りをして後ろを向くと、再びプレゼントする洋服をあさり始めた。
そのむきになっているようにも、また、幸せそうにも見える後姿に、美沙は先ほどの決意を反芻した。
(・・・何があっても、おかーさんに気取られない。私が、揺れたらダメなんだ)
そして大きく深呼吸をすると、美貴の横に立って服を手にとり。
「その柄よりあっちの方が良いと思うけど。鷲士くんには、あっちのほうが絶っ対似合うって!!」
・・・そう笑顔で話し掛けた。
「う〜ん。こっちだとしゅーくんには合わないかなぁ?でも、こっちだとちょっと地味だし。・・・ねぇ、美沙。ミサ?みーさっ!聞いてるの?」
プレゼントするからには、最高のものを。
これは全ての人が思うことだろう。その例にもれず、選び始めた美貴だったが・・・はや2時間を超えてしまい、お追従を言う店員さえも居なくなってしまったころ、美沙に話し掛けた。
反応がないので、まじめに聞いてないのかと思い振り返れば。美沙は少し青い顔をして、その場に立っていた。
呼びかけても、なんだか元気がない。
美貴は・・・心配になった。そう・・・誰だって自分の子どもが元気をなくしていれば、気にするものだ。
心配したのだ、かなり。・・・・なのに、美沙ったら!
「だからぁ、さっきも言ったでしょ。鷲士くんをどうやってごまかすか、コレって結構大変なんだよ。それでなくても、ここのとこ鷲士くんってばやけにカンが良くなってきたし。」
・・・・・だって!親をからかうにもほどがある!!
美貴は自分の子にからかわれることの気恥ずかしさに、自棄になったように服をかき回した。
そうしたら、いつものように元気な美沙が話し掛けてきた。
「・・・あっちのほうが絶っ対似合うって!!」
心配しすぎかな?
だけどやっぱり、元気な美沙が一番!
そう思いながらも、なぜか・・・美貴の心には軽いわだかまりが残った。
何事もなかったように時は流れていく。
さっきまで、美沙ちゃんたちと電話で話していたのに・・・・・もう、夜になってる。
あんなに辛かったのに、僕は今バイトをしている。
そう、久しぶりに・・・・・辛かった、な。
もっこで土を運んでいた鷲士は、不意に立ち止まった。
(僕は今、何を、考えた?辛かった?久しぶり?・・・・なんで!なんでだ!!ゆうちゃんのことはまだ過去のことじゃないだろう!?)
立ち止まったまま、鷲士は固まっていた。傾いたもっこから土が落ちるのをみていた仲間が、ため息をつきながら声をかけた。
「オイ、兄ちゃんよぉ。どっかわりいんじゃねえのかい?もう今日は帰ったらどうだ?」
この言葉にハッと現実に引き戻された鷲士は、笑顔を作ると相手に答えた。
「そんなんじゃないです。スイマセン。家にかわいい子どもが待ってるし、休めませんよ。」
彼の返事も待たずに、落ちた土を拾い上げ再び運び出した鷲士だったが。2・3分もすると、またねじが切れたように立ち止まってしまった。
先ほどから、鷲士はこれを延々と繰り返していたのだった。
「けどよう・・・ああ、まただ。あんなんじゃ、怪我するぞ。」
それを眺めていた、回りの男たちは顔を見合わせていた。そして、さっき声をかけた人物が周りに促され、再び鷲士に声をかけた。
「今日は休めや。そんな状態で仕事して、怪我でもしたら子供さん悲しむぞ。」
子供のことを出されては、鷲士に反論できるはずもなかった。鷲士は、首にかけていたタオルを取ると、その場で静かに頭を下げた。
「・・・それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます。本当にすいません。」
結果として予定よりも早く終わったバイトに戸惑いながら、鷲士は家路についていた。
もう梅雨に入ったのだろうか、あたりには強い湿気が漂っていた。知らず知らずのうちに体を冷やすその湿気に、鷲士は不快感と違和感から軽く眉をひそめ、左足を見た。
「ゆうちゃん・・・あいたかったなぁ。あの子達と一緒に話したいな」
何につけても、鷲士の頭を支配しているのは「ゆうちゃん」のことだった。
鷲士はまた、ゆうちゃんとの思い出に浸りながらふらふらと歩き出した。
何かの拍子に、ふっと顔を上げた鷲士の目に飛び込んできたもの・・・・それは一軒の花屋だった。
店頭に置かれた名前も知らないきれいな花々を見て、鷲士は微笑んだ。
「お花・・・買って帰ろうかな。美沙ちゃんと樫緒くんに、プレゼントしよう。」
なんとなくそう呟いたその瞬間、頭の中に樫緒の言葉がフラッシュバックした。
・・・・・・辛いのは、あなただけではありません!!
「そうか、そうだよね・・・二人とも辛かったよね。ごめんね。助けてあげられなくて。」
一旦流れ始めた涙は止まることを知らなかった。声をあげ、まるで子供のように泣きじゃくりながら、鷲士は一人で生きているのではない実感を感じていた。
そんな姿を、空の月だけがじっと見つめていた。
涙は心を洗う
誰かがむかし、そんなことを言っていた
その言葉が示すように、ひとしきり泣いたあと鷲士の心は幾分・・・普段の穏やかさを取り戻していた
どれだけこうしていたんだろう。そんなことを考えながら、鷲士は花屋に向かっていた。
身体は6月の湿気を吸い込んでしまったかのように重たかったが、鷲士の足取りは軽かった。
「すいません。ちょっと花を見繕って欲しいんですが・・・」
店のガラス戸を引き開け、鷲士は明るく話し掛けた。その声に反応した店員が振り返り、少し驚いた顔で尋ねてきた。
「あの・・・どうかなさったんですか?目・・・・・ものすごく赤くなってますけど。」
「えっ?そんなに赤いですか?・・・うわぁ、すごいなぁ。このまま帰ったら美沙ちゃん驚いちゃうよ。」
店員の言葉で慌てて温室のガラスに自分を映した鷲士は、思わずそんなことを口にしていた。泣き腫らしたあと特有の、白目だけではなく目のふちまでもが真っ赤になっている状態だ。確かにコレでは、周りの人たちに不信感を抱かれてしまうだろう。
温室に手を付け、情けない声をあげる鷲士にくすくすと笑いかけながら。店員のお姉さんは花をいくつか手に取り出した。
「贈り物でしたら思い切って、薔薇なんか如何でしょう?今日は大分いいのが残ってるんですよ。」
その言葉に、鷲士は背中が冷えていくのを感じながら振り返った。今月といわず、いつも金欠の鷲士にとって、薔薇の花なぞ文字どおり「高嶺の花」なのだ。
鷲士は、このまま薔薇のみで花束を作ってしまいそうなお姉さんを必死で制した。
「あ・あの、ごめんなさい。今月ピンチなんで、そんなに大きなやつじゃなくていいです。えっと・・・もっと小さいかわいいやつを2つ・・・いえ、3つ、頂けますか?」
ハイ、かしこまりました。とお姉さんはにこり。それを見て、鷲士は財布を取り出して中を覗き込む。
目に入ったのは、1000円札が3枚と小銭が少しの中身。この中で、幾らまでなら払えるだろうか?鷲士は静かにそれを考えた。
「で、ご予算は?」
お姉さんが、何も言わなくなった鷲士にそう聞く。
鷲士は幾ら眺めても、増えたりなんて絶対にしない財布から目を離し顔を上げると言った。
「一つ1000円でお願いします。」
(今月は厳しいな・・・・)と鷲士は言いながら思った。この財布から3000円出してしまえば、今月お昼は食べられないのは必至。それどころか、家賃も危ないかもしれない。ガス代は?電気代はどうしよう・・・・・鷲士は、頭の中でぐるぐると回るそんな埒のあかない考え事を無理やりに押し込めた。
花束が出来るまで花を見ていよう。結果としてそう思った鷲士は、小さな店内に所狭しと置かれた花々に目をやった。
カスミソウ・スイートピー・紫陽花・・・・たくさんの花があるなかで、鷲士の目が、止まった。
―――――向日葵
まだ時期的にはかなり早いにもかかわらず、小ぶりながらも美しく咲くその花に鷲士の目は釘付けになった。
艶やかなその姿が、“ゆうちゃん”そっくりだと感じたために・・・
何も言わず、ただじっと眺める鷲士に気づいたお姉さんが尋ねた。
「その花も入れましょうか?」
鷲士はその声に頷き、手近にあったベンチに座ると静かに目を閉じた。
がさり、がさがさ。ばさっ。しゃき、ちょきん☆
包み紙とはさみのたてる音が店内を埋めていく。その何とも言えない心地よさは鷲士の心もやさしく包んでいった。
「出来ましたよ、お客様。」
店員の声で鷲士は目を開け、振り返った。そして、軽い驚きに目を開いた。
「こちら3つで、3000円におまけしときます♪大事に持って帰ってくださいねっ。」
鷲士の目の前にあったのは2つのかわいらしいブーケと・・・1つの大きな向日葵の花束だった。
「あの・・3000円でいいんですか?こえ、絶対オーバーしてますよ!」
驚愕から回復し、やっとのことでそういった鷲士に、店員は微笑んだ。
「いいんです。そのお花・・・あなたに買って貰いたいみたいだし。それに・・・大事な人にあげるんでしょ?だから、おまけです。」
あの、とか。その、とか。あうあう言っている鷲士に、店員は「当たりました?」と悪戯っぽく笑った。
そして店員は、なおも言い募ろうとする鷲士に背を向けてしまった。
その背中に一礼すると、鷲士は店を後にした。
「ありがとうございました〜次もどうぞうちの店で〜〜〜〜」
という声が鷲士の背中に当たって、地面に軽くはねた。
向日葵の花束。
青い花が中心になったスマートな花束。
ピンクと白で纏まった可愛らしい花束。
鷲士の腕の中で3つの花束が揺れている。どれも鷲士の(ごめんね)がたくさん詰まった代物だ。
その花束を下に向け、鷲士は走り出した。愛しい我が子の待つ我が家へと・・・・・
「これにしよっかな?それともこっちかな?」
真剣に悩む美貴の背中を眺めながら、美沙はこの後のことを考えていた。
(迷ってる時間はないわ。確実に決めなきゃ。チャンスは・・・・・・あって1度。)
そう己に言い聞かせると、美沙は元気よく美貴に話し掛けた。
「あ〜鷲士くんだったら、その色より・・・・うん、こっちがいいわ。なあに、美貴ちゃんってば私の見立てが気に入らないの?
こーみえても、ここんとこ私が鷲士くんのトータルコーディネートしてるんだからね。」
美沙はそう一気に捲し立てると、半ば強引に美貴の買い物を切り上げさせた。
「え〜、だけどさ、もうちょっと選ばせてくれても・・・・」
美貴も抵抗を試みたが、自分の分身――美沙に睨まれて黙ってしまった。
「ハイ、わかりました。これにします。・・・だ、だけど美沙!その代わり、渡すのはキミがやってよ!お願いだからね。」
真っ赤になって捲くし立てる美貴に、美沙はため息を吐くとうなずいた。
「・・・・・・・わかってる。美貴ちゃんってば、ほんっとに面倒なことしてくれたもんね〜」
何時まで立っても煮え切らない己が母親に、ちくりと釘を刺すのは忘れなかったが。
「さ、時間も頃合いだし。そろそろ最終作戦を始めたほうがよさそうね。」
誰に語り掛けるとはなしに、美沙はつぶやいた。その瞳には、さっきまでとは比べ物にならないほどの決意が滲んでいた。
(鷲士くん次第で、バッドエンドもありえるんだから。)
美沙が決意を新たにしているとき、美貴は「きれいに包装してくださいね」と店員に凄んでいた。
ペンを走らせる音だけが響く静かな部屋。全てにおいて『重厚さ』の強調された空間に少年が一人いた。
本来ならば、その重厚さの中で浮いてしまうような年頃の少年。・・・そう、結城 樫緒である。
樫緒はふとペンを止め、机の上に置かれた時計に目をやった。
「あと4時間と少し・・・・・・ですか。母さまと姉さまの買い物は終わったでしょうか。」
意図せずに零れた声に、樫緒は苦く表情を歪めた。
(どんなにここで気をもんでも、あの男にその気がなければ何の意味も成さないのに。)
単調な作業を続けようと、机の上に目をやったその時・・・・・白い包帯を巻いた手が目に入った。
我知らず激昂しつけてしまったその傷は、自分の未熟さと父親たるあの男の意外なまでの脆かった心を表しているようだった。
「父さん、あなたはいったいどうなさるお積もりですか・・・・・?」
彼の呟きに答えるものは、この部屋にはいない。
心が急いていた。
早く早くと叫んでいる。
急げ、と。お前の家族のもとへ、と。
鷲士は走っていた。
花束に金をかけたせいで、ここから家までバスに乗るお金もなかったから。
だけど、鷲士は早くは走れなかった。
3つの大事な花束を抱えていたから。
早く帰りたいのに、そうすれば意味がなくなってしまう。
鷲士は今、ひどく焦りながらも・・・・・・・幸せだった。
制限時速ぎりぎりのスピードで、黒いカウンタックは走っていた。青信号にぎりぎりで飛び込み、周囲の車両からのクラクションに何の関心も払わずに飛ばしていく。
「邪魔よ・・・・」
運転席の美沙の唇から言葉が漏れる。と、同時にカウンタックは無理矢理に前の車を追い抜いていく。その乱暴な運転に当然、助手席に座る美貴が悲鳴を上げる。
「うわ〜っ、美沙、あんたおかーさんを殺す気なの?」
もはや美貴の顔色は青を通り越して、真っ白になっていた。
無理もあるまい。デパートを出てからこっち、美沙の乱暴な運転にずっと耐えてきたのだから。
そんな美貴の悲痛な叫び声も聞こえないのか、美沙は静かにアクセルを踏み込んだ。
(さっき寄って覗いたバイト先には、鷲士くんはいなかった。「なんかボーッとしてたから先に帰らせたよ。」そうおじさんは教えてくれた。・・・・なら、もう帰り着いててもおかしくない。)
「・・急がなきゃいけないの、四の五のいわずにシートにしがみ付いててよ、おかーさん!!飛ばすからねっ!!」
「ええええええっ、きゃあああっ・・・・・」
美沙の焦りと、美貴の悲鳴を乗せたカウンタックは、アスファルトを軋ませながら家路を急いでいった。
「安心して、美貴ちゃんはちゃんと送ってあげるから!!」
後ろのほうで聞こえていたサイレンも何時しか聞こえなくなるほど、美沙は飛ばした。
時計が9時を告げるベルを鳴らした。樫緒は立ち上がると窓辺に落ち着かない様子で歩いていった。
「姉さま、母さま。せめて連絡の一つぐらい入れていただきたいものです。」
そして、ため息を一つ。 さっきから口を衝くのはため息か愚痴ばかり、その現実に美しい顔を軽くしかめ樫緒は山岡の訪れを待った。
今自分のやるべきことは、結城の御曹司としての「義務」を果たすこと。
大事な母さまの事とはいえ、やるべき事すらできないようなら・・・・逆に母さまや姉さまに心配をかけると、樫緒は解っていた。
埒もない物思いにふけっていた樫緒の耳に、軽いノックの音が届く。
「入れ。」
自らの孫にも等しい主の、必要最小限の言葉に山岡銅助は礼を取り扉を開けた。
「ぼっちゃま、お車の用意が整いました。」
その言葉に頷き、樫緒は歩き出す。
(今、無理を通して姉さまの元にいくよりは、これを済ませてからのほうが問題は少ないでしょう。)
心の中で自分に言い聞かせ、樫緒ははやる気持ちを押え込んだ。
「ふい〜間に合ったよう。」
まだ鷲士の帰っていない部屋に飛び込むなり美沙は大きくため息を吐いた。
「あ〜よかった。さて、と。おかーさんからの預かりものはちゃぶ台の上でいいよね。」
独り言を言いながら、美沙は作業を続けていった。
そうしてでもないと、「ぼ〜っとしていた」鷲士が帰ってきて何を言うのか・・・・美沙は考える事が恐かった。
何時もなら、「これを利用して、おかーさんに説明させよう」などと考えたかもしれない。しかし、それをするには鷲士の精神状態が悪すぎる。下手にあの状態の鷲士くんにおかーさんを会せたりしたら・・・美貴が余計に傷つくだけだ。
一人で鷲士の帰りを待つ美沙は、ひどく寂しく、そして、恐かった。
「鷲士くん、早く帰ってきてよう。」
「あ〜また信号だ。急いでるのに・・・・」
交差点でひっかかってしまった鷲士は、いらだたしげに足踏みをしていた。
そのとき、誰かに呼ばれた気がして鷲士は空を見上げた。珍しく奇麗に見えた満月に美沙の顔がダブって見え、鷲士は周りを見まわすとタイミングを計った。
「ほんとはいけないんだけど・・・・ごめんなさい」
小さく呟くと、赤信号を横断した。そのままの勢いで歩を進めた鷲士が、アパートに帰ってきたのはそれから15分後の事だった。
「ただいま〜美沙ちゃん、帰ってるみたいだね・・・・・」
何でもないようにただいまを言いながら、鷲士は美沙と樫緒にどう謝ろうかと必死に考えていた。
(なるようになるしかない、だろうな)
覚悟を決めた鷲士が、茶の間に入って見たものは。ちゃぶ台の上に置かれたプレゼントらしき包みと、ちゃぶ台に突っ伏してうたた寝をしている美沙の姿だった。
「美沙ちゃん?こんな床で寝てると風邪ひくよ?」
鷲士は軽く肩を揺さ振ってみたが、美沙は起きそうにない。しょうがない、と思った鷲士は花束をちゃぶ台の上に置き、美沙を部屋に連れて行こうと抱き上げた。
「よい・・・しょっ。ふふ・・・よく寝てるなあ。やっぱり疲れが溜まってるのかな?」
そうつぶやいた鷲士は、美沙の頬がぬれていることに気づいた。無言で頬の涙の跡をぬぐい、鷲士は美沙をベッドにおろした。
「お休みなさい、美沙ちゃん。」
その声に反応するように、美沙が小さく身じろぎをして目を開けた。寝ぼけてるいるのかあたりをぼんやりとした目で見渡し、鷲士に視線を合わせ尋ねてきた。
「あたし、寝てた・・・・?」
そういって起き上がろうとする美沙を軽く押しとどめながら、鷲士は微笑んだ。
「うん、そうだよ。まだ寝てていいよ、ごはんできたら、起こしてあげるから。」
そういう鷲士に大丈夫というように首を振り、美沙は起き上がった。
(鷲士くんが、いつもの鷲士くんに戻ってる。なら、チャンスは今しかない!!)
「おかえりっ、鷲士くん。なんか今日は帰り早いね。ご飯でしょ?私も手伝う。」
そう言いながら、美沙と鷲士は茶の間にもどった。
夜だというのに明かりの一つもつけていない部屋の中で、美貴は軽く身じろぎをした。開け放したままの窓から、ほのかな月明かりが差し込んでいるのが見えた。
「・・・・・きれいだな・・・・・」
そういえば、あの夜もこんなお月様が出てたな。
口にすることはなかった続きの言葉は、過去を懐かしむためのもの。美貴は、遠いあの日・・・しゅーくんと離れ離れになる前の晩、美沙と樫緒を授かったよ夜のことを思い出していた。
悲しかった。辛かった。だけど・・・・あの夜のことが、私としゅーくんを繋ぐ絆になっている。
美貴は、フローリングの床に横になったままゆっくりと両腕を持ち上げた。
「しゅーくん、大好きだよ。」
そしてそのまま誰かを抱きしめるように自分を抱きしめ、目を閉じた。
「もう、迷わないから。」
呟いた美貴は女神の微笑みを口元に刻んで起き上がった。
(このまま寝たら、きっと風邪引いちゃうな・・・)そう思った美貴が窓を閉めようとしたとき、背後から樫緒が声をかけた。
「是非、そう願いたいものです。母さま。」
「・・・・いっつから、そこにいたんだ!!!」
驚きの余りどもっている美貴を静かに眺めやると、樫緒はあえて平静な声を出した。
「つい、今ですね。もう帰っているはずと思ったのですが、何度チャイムを押しても反応がないので、失礼いたしました。」
それには美貴も返す言葉もなくうつむくしかなかった。そんなまだ、どこか幼さまで感じさせる母親に樫緒は苦笑いをするしかなかった。
「さあ、母さま。このままだと風邪を召されますよ。暖かい紅茶でも飲みながら、姉さまからの連絡を待ちませんか?」
そういって持参したティーセットを出す樫緒を呆気に取られた目で見ながら、美貴は笑顔になり肯いた。
「・・・・・・・・・そうね。あっ、樫緒、私も手伝うよ。」
「当然でしょう。母さま。」
「・・・・・しくしく。樫緒が冷たい。」
ずっと会いたいと思っていた
君に会って 話したいことがたくさんあった
君は本当に死んだの?もう・・・会えないの?
あいたいよ・・・すごく。
「ご飯にしよっか。鷲士くん。」
美沙はそう言って、襖を開けた。―――今しかない。いつもの鷲士くんに戻ってる、今しかない。
そう思いながら目にしたいつもの風景。座布団にちゃぶ台。その上には美貴ちゃんからのプレゼントが乗っている。
しかし・・・台所に見慣れないものが、あった。
3つの花束だった。
「なぁに、アレ・・・・」
不思議に思ってそう口にしていた。鷲士はその言葉に少し照れながらも答えた。
「ん?。プレゼント。僕から美沙ちゃんと樫緒くんに。本当にさっきはごめんね。」
その言葉を聞いたとたん、美沙は泣きそうになった。嬉しかった。ただ、嬉しかった。
「な・・・によぅ、許さないんだからね・・・っ。心配したんだからね。辛かったんだからね。」
最後には涙声になりながら、美沙は一気に捲し立てた。
(ほんとうに、鷲士くんてば人に散々心配かけて・・・だけど、やっぱり鷲士くんだ。いつものやさしい鷲士くんだ。)
美沙は振り返って、鷲士を睨み付けた。だが、何も言えなかった。
一度決壊した涙腺は、何か言おうとするたびに涙をこぼしてしまい、役に立たない。
そんな美沙を鷲士はそっと抱きしめた。
「ごめんね。寂しい思いさせちゃって。だけど、もうあんな事は言わないから。」
その言葉は、美沙の涙腺を更に壊し・・・しばらく父子は抱き合ったままじっとしていた。
「そういえば母さま、先ほどは何を?」
樫緒と美貴は二人でお茶をしていた。二人の前には湯気を立てるティーカップと、クッキーがあった。
冷たい床に延々と横になっていた美貴の体が冷え切っていたため、樫緒が用意させたのだ。
「ん・・・たいした事じゃないよ。アレ?キミは聞いてたんじゃないのか?」
当然といえば当然な美貴の台詞に、樫緒はいつものように澄まして答えた。
「母さま、人をなんだと思っているのです?盗み聞きなどしておりませんよ。“飛んだ”ときにたまたま聞こえただけです。」
その言葉に頷くと、美貴は月を見上げながらゆっくりと話した。
「ふふ・・・ただなんとなく、今晩みたいな月だったと思ったんだ。・・・あの日、君たちを授かった夜が。」
その幸せそうな声音に、樫緒は静かに微笑んだ。(こんな幸せそうな顔は、久しぶりに見ますね。)
内心のその呟きを声にすることもなく、美貴と樫緒は飽くことなく月を眺めていた。
電話のベルが突然、その時間に終わりを告げた。
「はい・・・姉さま?どうなりましたか。・・・・・そうですか。お疲れさまでした。ええ、母さまなら、今ここに居られます。」
樫緒は満足そうに笑むと、美貴に言った。
「父さまが、今家を出たそうです。」
「・・・・・・!!」
口元を押さえながら立ち上がった美貴の目元にはうっすらと涙が浮かんでいた。
(しゅーくん!!)
美貴の叫び声を樫緒は確かに聴いた気がした。
「ねぇ、鷲士くん。何で花束3つなの?」
「ん?。だって、美沙ちゃんと樫緒くんと、それから、ゆうちゃんの。・・・美沙ちゃん、そこのお醤油とって。」
「わたしとママは分かるけどぉ。何で樫緒まで?・・・ハイ、ここに置いとくね。」
「だってさあ、あの時傷ついたのは樫緒くんもでしょ・・・っと、これ運んで。」
「そうだけどさ・・・・ふう、これでおっけーと。」
「「じゃ、いただきまーす」」
一方こちらは鷲士のアパート。鷲士と美沙の二人が少し遅い夕食を取ろうとしていた。
花束にお金が要ったため、いつもにもまして質素な食事だが美沙は文句を言わない。
その時鷲士が、床に置いてあるかわいくラッピングされたデパートの包みに気づいた。
(何だろう、誰にあげるんだろ。)
その視線に当然美沙も気づき、鷲士に話を振った。
「・・そだ、鷲士くん。コレ美貴ちゃんから。なんか『今日の記念みたいなもの』だって。
その言葉に、しばし鷲士は固まった。
(今日は・・・コイビトの日だ。え?なんで美貴ちゃん・・・?)
その様子を見ながら、美沙は包みを手に取った。
「鷲士くん、開けてみようよ。・・・開けないんなら、私が開けるけどぉ?」
「だめだよ。だって、それは僕宛ての・・・・」
「はい、じゃあ開けてよ。何が入っているのか私もすごい興味があるし。ねえ、早く!」
「う・うん、分かった。」
中身はコムサのTシャツと、一枚のカード。決して派手ではないが、着心地もよさそうで長く着れるオーソドックスなデザインだった。
突然のことに鷲士は戸惑いながら、カードを手にした。その後ろから、美沙がどれどれと覗き込んだ。
鷲士へ
キミに似合いそうだったので、買いました。
ちゃんと着るように
美貴
カードを見ながら鷲士は胸の中が暖かくなるのを感じた。ぶっきらぼうだったが、純粋な思いが胸に響いた。「・・・はぁ??なにコレ!!どこの世界にこんなカードよこすやつがいるって言うのよ。」
美沙は完全にあきれてその場に座り込んだが、鷲士はまだぼんやりとカードを見ていた。
その姿を見て、美沙は背中を押してあげることにした。
「ね、鷲士くん。人に何かしてもらったら『ありがとう』って言わないとだめだよね?」
「・・・・え?あ、うん。そうだね、たしかに。」
未だ衝撃から抜けきらないのか、言語障害を起こしている鷲士に向かって、美沙は言った。
「この向日葵の花束・・・すごいきれいだよね?」
「うん。それって、ゆうちゃんにお供えしようと思って・・・・」
「やっぱりさあ、プレゼントをもらって言葉だけお返し・・・っていうのはマズイよね。」
「そ・そうなのかな?困ったなあ、今月ピンチなんだよね。どうしよっかなあ。」
(かかった!!)
美沙はにやりとすると、鷲士に向かって言った。
「え?そうなのぉ。しょうがないなあ。あ!でもさ、この花束でいいんじゃない?」
これには鷲士も焦って、美沙を振り返った。当の美沙は、向日葵の花束に手をやってなにやらごそごそやっている。
「ちょっ・・・だから駄目だって!?美沙ちゃん!!」
美沙は、鷲士の必死の説得にも耳を貸さずに、花束から向日葵を一本抜き取った。
そして、残りを差し出して言った。
「ママにはこれで十分。残りを美貴ちゃんに持っていったらいいよ。」
「美沙ちゃん・・・」
いつもとは違った真剣さの美沙に気おされるように、鷲士は残りを受け取った。
そんな鷲士に、美沙は一本だけになった向日葵を抱きしめながら、言った。
「鷲士くん・・・・・美沙のこと、キライ?」
勝負は、決まった。このやりとりの5分後、鷲士は美貴の家に向かって走り出し。美沙は美貴の家に電話をかけた。
空には満月が輝き、地上には家路を急ぐ人の姿も消えつつある午後9:00。
閑静な住宅街に、走る音が聞こえる。
さほど急ぐようではなく、一定のリズムを刻むその音はやがて・・・聞こえなくなった。
がさがさという音が手に持った花束の音だと気づいたものはどれだけいるだろうか。
・・・・・静かに月光が降り注ぐ中、男は走る 愛しい人のもとへと
「こんな時間に、迷惑じゃないかなあ。」
呟く声が夜の空気に触れて冷たく響く。雨でも降るのか街は湿気を帯びていた。
鷲士はひたすらに、走っていた。「美貴ちゃんの家にお礼にいく」ことを約束してしまったから。
「美貴ちゃん、家にいるかなあ。」
美沙ちゃんが連絡を入れるといっていたけど。鷲士の不安は尽きない。
(行くのが嫌なわけじゃない。むしろ、嬉しい・・・んだろうな。)
鷲士は心の中で自らに問うていた。
―――――――僕は、いったいどうすればいいんだろう?何をしたいんだろう?
その思いを誤魔化すように鷲士は道のりを急いだ。考え始めると、また・・・美沙ちゃんと樫緒くんを悲しませることになるから・・
「・・・・雨が降らないうちに、行っちゃおう。」
つぶやいた鷲士は、花を傷つけないスピードで急いだ。
しかし、このとき鷲士は気づいていなかった。自分の中で答えはもう、出ていることに・・・
「母さま。もうすぐですね。支度はよろしいですか?」
樫緒はカップを片付けながら、美貴に聞いた。当の美貴は落ち着かないのか熊のように部屋をうろうろするばかり。
どうも樫尾の声も耳に入っていないようだ。
そんな母親に樫緒はもう一度言った。さっきよりも少し大きな声で美貴の耳元に。
「か・あ・さ・ま!支度は出来ましたね?・・・・もうすぐなんですよ。しっかりなさって下さい。」
「・・・・・うん、出来た。」
その返事に樫緒は頷くと、そっと背後から美貴に抱きついた。ぎゅっ・・・としがみつき、まるで何かをこらえるように唇をかんだ。
「・・・・いい夜になることをお祈りいたします。母さま。僕がいては不自然ですから、これで失礼いたします。」
「樫緒・・・・・ありがとう。ほんとに・・・・・ありがとうっ・・」
温もりがふわりと離れる。その感覚に振り返った美貴は、誰もいない空間に向かいゆっくりと頭を下げた。
「有難う・・・・・・樫緒、美沙。私の子供たち・・・」
「鷲士くん、もう着いたカナ?」
美沙は思わずそう口にしていた。さっきから数学の宿題と格闘しているのだが、どうにも集中できない。
シャーペンを脇にほおって、美沙は一輪の向日葵を手にとった。
――――――なんであんなこと言ったんだろ。
自分でも訳が分からない。「一輪で十分」なんて、美貴ちゃんと「ゆうちゃん」が別人だといってるようなもんじゃない。
手慰みに花瓶に入れた向日葵を弄くってみる。
どうにもいらいらして落ち着かない。
なんでだろう?
美沙は自分の心がつかめないことに苛立ちを隠せなかった。
・・・・・・鷲士にそばにいてほしいと、思った。
あなたは素敵・光輝
あなたは素晴らしい・傲慢
あなたを見つめる
・・・・それは、向日葵の花言葉
美貴の心模様よりも明るい白色灯が、部屋を静かに照らしている。
いつも見慣れている部屋の中が、なんだか違う部屋のように見える。
そんな落ち着かない気持ちのまま美貴は、ずっと座っていた。
「しゅーくん」が鳴らす、チャイムを聞き洩らさない様に。
目を閉じてどんな音も聞き漏らすまいとしていた美貴の耳にある音が飛び込んできた。
・・・こつ・・・・ぽつ・・・・
何かが窓ガラスをたたいているような音。雨だ。道端には紫陽花が咲くこの頃では、めずらしくもなかった。
「あ・・・鷲士、傘持ってるのかな・・・」
美貴は窓をあけて外を見た。何時の間にか空は灰色の雲に覆われ、満月は姿を隠していた。
徐々に強くなる雨足に、美貴は不安になった。
(また風邪をひいたらどうしよう。)
三重に行ったときに古谷から言われたことを思い出し、美貴は軽く震えた。
「しゅーくん。だいじょうぶかな?」
逡巡したのはほんの1・2秒。窓を見ていた美貴は、やおら立ち上がると玄関に向かった。
傘を手にし、ノブに手をかける。ドアを開けて、エントランスに向かう。
「しゅーくんが風邪引いたりしたら、いやだもん・・・・」
誰に言うでもなく呟くその姿は、まるで小さい子供のようだった。
そして玄関の自動ドアから外に出た美貴に、目の前にいた鷲士がそっと微笑んだ。
「しゅう・・・・じ。」
「あ・・ゆう・・・・美貴ちゃん。どこかいくの?」
「雨・・・降るよね。これは。」
足を止め鷲士は思わずといったように呟く。見上げた空には月の姿は無く、ただ、黒雲が立ち込めていた。
(急がなきゃ)
花に雨があたったら一大事、と鷲士は前よりもスピードを上げようとした。
けれど、その刹那にがさりと鳴る花束に思うようには上げられない。
それでも、何とか美貴のマンションが目に入った・・・まさにその時、一粒の雨粒が鷲士の頬を撫ぜた。
「間に合った・・・」
鷲士がエントランスに飛び込んで一息つくその背後で、雨脚は本格的なものに成りつつあった。
「さて・・・、何号室かな?」
鷲士は呟いた。美貴のような裕福な女性が住むマンション、当然のようにオートロック式になっている。
部屋番号を知らなければ、目の前の自動ドアは開かない。
どうしようか・・・と鷲士が考えていると、扉の向こう側から誰かがやってくる足音がした。
そちらを何気なく見た鷲士は、驚いた。右手に傘を持ち、考え事でもしているような女性・・・美貴が歩いてきたのだ。
その姿は、やはり「ゆうちゃん」と似ているように鷲士には思えた。
うつむき加減で、何かをこらえているような、どこか意固地に近いほどのマイペースさ。
今だからこそ理解できる、「ゆうちゃん」がそこにいた・・・・ように感じた。
そして、ドアが開いて美貴と視線が合った。思わず鷲士は笑いかけていた。
「しゅう・・・・じ。」
「あ・・ゆう・・・・美貴ちゃん。どこかいくの?」
あまりの既視感に、一瞬呼び間違えそうになったのはしょうがないことだろう。
ただ、このとき呼んでいれば数多のすれ違いも一気に解決したのだが。これはしょうがあるまい。
雨は降り続く。冴え渡る月を隠して。
白い人工の灯りが照らすマンションのエントランスで、鷲士と美貴はお互いをじっと見ていた。
それは永遠にも感じるほど長く、短かった。
「濡れてない?鷲士・・・・」
ただコレだけを言うのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
「・・・あ、そんなに激しく降ってないし。」
こんなことを言いに来たんじゃないのに。
二人はまた黙り込む。そうする間にも雨は徐々に強くなる。
何も話せない。会話の突破口が見つからない。重苦しい沈黙を破るように、鷲士が持っていた花束に美貴が気づいた。
「どうしたの、それ?」
「あ、美貴ちゃんにあげようと思って。・・ほら、シャツくれたでしょ。そのお礼に・・・」
鷲士はそれだけを言って花束を美貴に差し出す。美貴は頷きながら、それを受け取った。
「きれいだな・・・・。あ!高価くなかった?」
思わずといったように、美貴が聞いた。鷲士はそれに軽く首を振ってみせた。
「実はね・・・それ、最初から美貴ちゃん用に買ったわけじゃないんだ。」
美貴は静かに固まった。私のために買ったんじゃない?絶望で胸が締め付けられるかと思った。
怒りや疑問、そういったものを突き抜けてしまった美貴の表情に鷲士は息を呑んだ。
仕方がないのかもしれなかった。鷲士は嘘をつくことがひどく苦手だった。
それに、上手くつけたとしても美貴に隠し事など出来はしない・・・・・悲しませる。だけなのだから。
そして説明をしようとした鷲士に、美貴は背を向けた。
「・・・・・・って。」
「え?ごめん、今なんて・・・・?」
「帰ってって言ったんだ!!鷲士のバカ。ちょっとでも期待した私が、ばかみたいじゃないかっ!!」
それだけを言い捨て、美貴は部屋へ戻ろうとドアを潜った。
今、鷲士の顔を見てしまったら、何をするか自分でも分からなかった。
ちょうど1階にあったエレベーターに乗り込もうとした時、美貴は自分の腕がつかまれているのに気づいた。
エレベーター内部の大きな鑑に自分の腕を掴む鷲士の姿が映っていた。
「話を聞いてくれないか、美貴ちゃん。」
鷲士はそれだけを言い、強く美貴を抱きしめた。
「・・・美沙ちゃんがね。一本で十分って言うんだ。後は美貴ちゃんにあげなよって。・・・そっくりな顔をしていったんだ。」
抱きしめたまま、鷲士は言った。
後ろから抱きしめているために、美貴の表情は窺い知れない。
悲しんでいるのだろうか?怒っているのだろうか?それとも、呆れてしまっているのだろうか。
―――――分かって欲しい。
それは強烈な衝動だった。鷲士とてこんな暴挙とも言える行動に出るつもりはなかった。
抱きしめる腕にイヤというほど早い鼓動が伝わってきた。それでも、逃げようとはしない美貴に少し安堵して鷲士は続きを話し始めた。
「少し長くなる話なんだ・・・聞いてくれる?」
美貴が頷いたのが腕に伝わってきた。
「・・・・・上に。鷲士、私の部屋で話そう?」
美貴は言った。『誰』に対して買われたのか、分かった。痛くなるほど抱きしめられて、すごく・・・嬉しかった。
自分の手の中にある花束は、乱暴に扱ったせいで少し痛んでしまったけれど。鷲士に対する想いは昔のまま、心のうちにある。今なら、この暖かさを伝えられるような気がした。
愛しい人よ 貴女に聞いてほしい
愛しい人よ 僕の苦しみを
遠い過去に失った愛は 君とのものではない
だけど・・・どちらも愛であることに変わりはない
美貴ちゃんの部屋で、鷲士は話をした。
青葉学園のこと
ゆうちゃんのこと
彼女と別れてからのこと
たくさん話した。
美貴は鷲士が話している間、口をはさまずにずっとおとなしく聞いていた。
鷲士はといえば、筋道をつけて話すのが精一杯で・・・とてもではないが、美貴の表情まで気を配ることはできなかった。
辛いのか 苦しいのか 不愉快なのか
どんな感情をぶつけられてもしょうがない。と、鷲士はおもっていた。
(僕は、ぼくは・・・・ゆうちゃんと美貴ちゃんの二人を傷つけているのだから。)
そして、短くも長い沈黙は終わり、断罪の時間がやってきた。
「それで・・・?」
話が一区切りついたとき、美貴の口から放たれたのはその言葉だった。
そして、美貴自身はまるで女神のように微笑んでいた。
鷲士の前に紅茶のカップを置くと、美貴は向かい合わせに座りまっすぐに鷲士を見て話し始めた。
「私が聞きたかったのは、そんなことじゃない。鷲士が、なんで、私に、花束をあげようと思ったのか。それだけ判れば、ほかは関係ない。たとえ、鷲士と美沙が血の繋がった親子だろうと。私の聞きたい事には、関係ないから。」
その言葉の裏に含まれているのは、「私のことをどう思っているの?」という、意思。
ほとんどの女が、想い人に対して常に抱く感情だった。
そして、それを聞くということはその相手に対して『特別な感情』を抱いていることには他ならない。
・・・そこまで、鷲士が理解しているかどうか甚だ疑問ではあるが。
「・・・」
鷲士は虚を突かれたように黙り込んだ。まったく考えもしないわけではなかったが、今ここで、この状況で聞かれたということに困惑していた。
どう想っているか。美貴ちゃんが自分の中でどんな存在なのか。
これについては、もう答えは出ていた。自信もあった。
ただ、うまく伝えることができるかすこし・・・いや、かなり不安だった。
でも、もうそんなことに構ってはいられない。
チャンスは、今、来ているのだから。
息を吸った。伝えるべき言葉は心の中に用意した。
鷲士は顔を上げた。じっと見つめていた美貴ちゃんと・・・目が、合った。
「美貴ちゃん。僕は、君のことが、好きです。」
反応はない。いつもは、自分勝手に見えるほど感情を表に出す美貴が、凍りついたように固まっていた。
「・・・美貴ちゃん?」
さすがに不安になった鷲士は、美貴の肩に手を触れ前後に軽く揺さぶってみた。
その衝撃に美貴は顔を茫洋と鷲士に向けた。
―――――――――目線が合わない。
あまりの驚きに彼女の脳がフリーズしてしまっただけなのだが、この状態の美貴を初めて見た鷲士は慌ててしまった。
「ちょ・・・美貴ちゃん?美貴ちゃん?しっかりして!大丈夫?」
盛んに声をかけても、返ってくるのは虚ろな微笑とうなずきだけ。
(どうしよう)
困り果てた鷲士は、美貴をとりあえずそっとソファーに寝かせた。
そして顔を覗き込み、一言。
「・・・・お医者さん呼ぼうか?」
これには、美貴もかぶりを振った。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
こういうと、しっかりと目線を合わせて言った。
「キスして。」
「・・・・・・・・・はい?」
「キスして。って言ったんだ。男だろ、こんな恥ずかしいこと何回も女に言わせるんじゃないっ!!」
さすがに、顔が赤い。対する鷲士は、パニックをおこして固まっていた。
どうしても話の流れが見えない。
(なんで「なにをしたらいい?」って聞いたら、キスしなきゃいけないんだろう)
すでに、しなきゃいけない。と思っているあたり、普段からのパワーバランスが現れていてなにやら切なくなるが・・・・
閑話休題。ともかく、鷲士はパニックが覚めずに凍ってしまい。美貴はがぜん元気になって鷲士に無理難題(?)をふっかけて。
ソファーの周囲はいつもの大学のような不思議な暖かさに包まれはじめた。
そして、しばらくやり取りがあった後。美貴の伝家の宝刀がヌカレタ。
「鷲士?私のことキライ?」
「まさか〜、うん、いいよ」
答えたあとで、口を抑える鷲士。でももう遅い。美貴がほんのり頬を染めながら、眼前に迫っていた。
それになんだか、体が重い。ほんの少しではあるが、体の自由がきかない!!
(ええええええええええ!)
〜〜〜〜〜〜ちゅ?〜〜〜〜〜〜
「えへへ・・・」
そう無気味に笑うと、美貴は鷲士の体の上から身を起こした。
そして、何とか体の自由を取り戻した鷲士は、弾かれたように後ずさった。
―――――――当然である。
「えっと・・・とりあえず、今日は帰るね。美沙ちゃんも待ってるし。」
頭がかなり混乱したまま、鷲士はそうまくし立てた。
一方、美貴は無気味な笑いをまだ続けていた。しかし、鷲士のこの言葉に敏感に反応し。
「帰る!?帰っちゃうの?しゅーくん。」
・・・・・・見事に、墓穴を掘ってしまった。幸いなことに、鷲士の頭もまだまだ煮えていたので。このミスには気づかなかったが。
じわじわと迫ってくる、美貴に背中を見せないようにしながら鷲士は玄関に向かった。目の前には美貴が、獲物を狙う目つきをして迫ってくる。
しかし、美貴が夢見がちに鷲士に迫ろうとしたそのとき、鷲士は毅然とした態度を取り戻すことができた。
切っ掛けは、美貴が「泊まっていけばいいのに。」と言ったことだった。
その言葉に鷲士はやさしく微笑むと、小さな子に言い聞かせるように言った。
「・・・ごめんね。美貴ちゃん。美沙ちゃんが待ってるんだ。あの子、今一人で、待ってるんだ。寂しがってると思う。・・・だから、帰らなきゃ。あの子達を悲しませるわけにはいかないから。」
「・・・・・・・鷲士。」
「判って。美貴ちゃん。」
そう言うと、鷲士は笑った。この笑みを見た美貴は、思わず頷いていた。・・・・好きな男に嫌われたくない。これは、世界の女の子に共通することである。
「それじゃあ、また明日。大学で。」
そう言って鷲士は玄関を出た。そのままエレベーターに乗ろうとしたとき、美貴の声が聞こえた。
「鷲士!!今日はありがとう!!!!向日葵、大事にするから!!」
(あまりにも、身勝手な言い分しか伝えてないのに・・・それでも、ありがとうって言ってくれるんだ。)
だから鷲士も振り返って言った。
「遅くなっちゃって、ごめんね。・・・だ・・大好きだよ!美貴ちゃん!!」
鷲士のほうがつまり気味なのがやや情けないが。ともかく鷲士の気持ちが、美貴に伝わったことは言うまでも無い。
「そうだ。ベランダ!」
鷲士がエレベーターに乗って見えなくなったので、美貴はベランダに出た。
そして・・・街灯の明かりの中、帰っていく鷲士の姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。
<ン年後>
「あ〜あのときは幸せだった〜」
美貴が向日葵の花束を見ながら笑っている。
「あれ?じゃあ美貴ちゃん、今は幸せじゃないの?」
鷲士が笑いながら、そっとたずねた。
今年もまた、6月12日が来た。あれから毎年、どんなに苦しくても鷲士は美貴に向日葵の花束を贈りつづけてきた。
今はもう、「美貴ちゃん」=「ゆうちゃん」だということは判っている。だから、ゆうちゃんにあげる分も含めてかなり大きな花束になってしまってはいるが。
「ホントお二人さんは、いつも仲が良くてうらやましいですね。・・・・ハイ、今年もおまけしときましたよ。」
花屋のお姉さんが笑う。あの年以降、毎年鷲士のために向日葵を仕入れてくれていたのだ。きっとこれからも、ずっと続けるのだろうが。
「「ありがとうございます。」」
二人は笑いながら、花束を受け取った。美貴が両手を使って持つのを鷲士が支えている。そして、軽く礼をして二人は仲良く店を後にした。
「どうもありがとうございました〜来年もお待ちしてますね〜〜」
お姉さんの声がやさしく二人を見送る。これも、毎年の光景だ。
「ねえねえ、鷲士。」
「なに?美貴ちゃん。」
「あのね、私・・・・・・すごく幸せだよ!」
「僕も。・・・大丈夫?大き過ぎたかな?」
花屋から帰る道すがら、ふたりはずっと笑っていた。
もう二人の顔に、悲しみは無い。
今日の晴れ渡った空のように、はればれと二人は歩いていった。
6月12日、はれ。〜Fin〜
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