Motivation Agency and Public Policy
 
 洋書を読んだのは久しぶりでした。社会保障論の授業に出るようになって、先生のHPを見ていると、なにやら院の授業で輪読してたらしいので、興味津々、読んでみました。面白かった。今の「競争原理を取り得れよ!」みたいな風潮を作り出している学者様とかは、この本を知っているのだろうか?と真剣に考えてしまった。

 
 重要な考え方だけまとめてみようと思います。まず第一部は「KightとKnaveの理論」と題されています。これは公的セクターで働く人のモチベーションのあり方を表した言葉です。Kightは日本語で騎士。世のため人のために身を削ってつくします。利他的な人間のことです。一方Knaveは下男。経済学で言う「合理的個人」です。学校とか病院でも、そこで働いている人は多種多様。騎士的な人もいれば、文字通りの合理的個人もいる。モチベーションを考えるうえで、このことは非常に重要で、筆者はまず始めにこの正反対のモチベーションのあり方を論じています。わたくしもこの言い回しは適切だと思うし、何より教養を感じさせます。というのも、筆者が思い浮かべているのはおそらくドン・キホーテとサンチョ・パンサでしょう。

 そして第二部は「QueenとPawnの理論」。これは主に消費者主権にまつわる話だったと記憶してます。「教師がプロだからといって、親は子供の教育をすべて彼らにゆだねていいのか?」とか「医者のいうことなら何でも聞かなくちゃいけないのか?」とか・・・・情報の非対称性がある場合に消費者の立場はどのように理解されうるのか論じています。ちなみにQueenはチェスの一番強い駒、Pawnは将棋で言う「歩」にあたります。

 とても面白かったのが学校選択制とか教育バウチャー制についての部分。今の、政策担当者は絶対この本を読んでから教育について論じるべきだと思いました。新聞紙上で論じられていることとはまったく違う。結論から言うとこの二つの制度はプラスにもマイナスにもならないらしい。ベルギーとかオランダとかでは学校が選べる伝統があるらしいけど、費用対効果の面から大した成果はない。かといって大した問題が起きているわけでもない。代わりに筆者は所得の低い人だけにバウチャーを交付する制度を提案しています。これを導入すれば学校は貧しい人たち、それゆえ家庭での教育環境が整っていない人たちを集めようというインセンティブを持つようになるらしい。

 あと日本では有名ではないけどデモグラントっていう制度を推奨していました。これは18歳になった人が誰でも国から資産をもらえるという制度。財源は相続税とかそのほかいろいろ。単純に「誰もが遺産相続を出来る制度」というわけです。欧米ではけっこうメジャーのなのかなと思った。あのA・B・アトキンソンも研究してるらしい。
現代マクロ経済学

 ケインズを読んだので、日本のケインジアン、吉川先生の本を紐解いてみました。でも読み物ではなくれっきとした教科書。しかもかなり難しい。中谷巌の入門書と経済数学の教科書を片手に、1ヶ月くらいかかってなんとか理解しました。何年ぶりかに触れた数学にも、かなり慣れることが出来ました。というか最近毎日のように読んでるので・・・。でもラムゼイ・モデルとか、定常状態における最適経路の問題とか、論文にはよくでてるし、こういう教科書で見慣れておいて損はなかったと思います。
 
 ソローモデルに始まり、合理的期待、リアルビジネスサイクル、内政的成長理論といったメインストリームがどういう問題意識でモデルをつくっていったのか、非常に分かりやすくまとめられています。数式はむずかしいけど・・・。またそれらとまったく異なるケインズ理論の特徴も興味深かった。個人的にはソローモデルでも(技術革新はもちろんだけど、)貯蓄性向とかまで外征変数として扱われていて、なんとなく重要な部分が抜け落ちている気がしてしまった。人的資本を重視した内政的成長モデルでも、人的資本蓄積の効率性は外正的に与えられる変数としていて、これまたしっくりこない感じがのこってしまう。

 何ゆえに貯蓄性向が変化するか・・・これはケインズ的な経済学のほうが自然に答えられる気がしてならないです。やはり吉川先生も指摘されていたけど、次から次へと新しい財が誕生するという期待(つまり財へのリアルな需要)が貯蓄となって現れると考えるのが自然です。また人的資本蓄積の効率性についても、より多く財を購入したいという(消費者としての)需要が、一生懸命働こうという「やる気」を引き出し、人的資本の蓄積をより効率的にするのでしょう。これは日本の高度経済成長期とかを振り返ってみれば、ごく自然な流れだと思います。

 まだまだ勉強不足なのは確かだけれども、ケインズ経済学のほうが、ミクロの個人における様々な行動を、より簡明に景気変動と結び付けられるのでは?と思いました。
日本経済と制度分析
 
青木・吉川モデルの青木さんの本でした。日本の雇用慣行をとても経済学的に分析していました。雇用慣行も制度だよな!と当たり前のことに目から鱗でした。
選択の自由

 新古典派でフリードマンはもっとも有名な経済学者でしょう。とても面白かったです。普段慣れ親しんだ考え方とは、まったく違うので、新鮮でした。それと、読んでるとものすごく説得されてしまうのです。とてもぎらぎらと、ハングリーな感じで、少しばかり危険な思想という雰囲気があるのも多くの読者を得た理由のひとつでしょう。

 負の所得税という考え方にとても驚いてしまいました。たしかに、このやり方ならスティグマを最小限にして貧しい人に所得扶助をすることが出来ます。そのほか負の所得税には現行の税制にないメリットがいくつもあります。

 「何のための平等か」なんていう章もあるくらいで、結果の平等には断固として反対。でも読み終わるころには「たしかに多少リスクはあったって、みんなが競い合うなかで、最大限の努力をすることって大事だよな・・・」と考え込んでしまいました。いやぁ、あの強気の論調は一種の天才だと思いました。
貧困と飢餓

 非常に面白かったです。開発経済学をやる人なら、絶対読んだほうが良いでしょう。論旨は単純で、飢餓が発生するのは食べ物がないからではなく、食べ物にありつけない人が増えるからだ、ということです。実際、センはベンガルやバングラデシュ、エチオピアなどの悲惨な飢饉を研究し、食料供給量の低下は起こっていないか、または微々たるものだったと述べています。それにもかかわらず、飢えて死ぬ人が何人もでるのは、例えば政府の金融政策の失敗によるインフレや、突発的な米への投機(つまり来期に値上がりすることを期待して売り渋ること)、農業労働者の失業など、多岐にわたる原因によるものです。また中国の例では、対立政党や報道機関の欠如も重大な要因として挙げています。

 センのこうした論考の応用範囲は、おそらく相当に広いでしょう。貧困や飢餓は、社会全体にあるモノの絶対量の低下によるのではなく、ある所得層の人たちが、市場における交換権原を失ってしまうことによるものなのです。ぎりぎり生活できるくらいの所得層が大半を占めている国でのインフレーションがどれだけその国に致命的な結果をもたらすか・・・恐ろしい気がします。今の日本は、ようやくデフレを脱却したばかりですけれど、これがインフレに転じたときにどういう結果がおこるか・・・たぶん現在の「格差」は、もっともっと顕著になるでしょう。賃金が硬直的だとしたら、インフレでも低所得層の賃金はすぐには伸びません。そして、その間にも物価は上昇します。彼らの市場における購買力は、めざましく悪化するでしょう。
制度・制度変化・経済効果

 これは革新的な本だと思います。ショッキングなくらいです。かなりアカデミックで抽象的な本ですが、題名の通り、新古典派の雰囲気は全くありません。著者のダグラス・C・ノースはノーベル賞経済学者なのだそうです。まさにそれに値すると思います。問題意識としては、やはり開発経済学的なものでしょうか。ソローなどの新古典派は、「経済成長は長期的には収斂する」と言っていたのだけれども、現実には貧しい国は貧しいままで、豊かな国はどんどん富を増やしています。収斂どころか格差は増す一方です。なぜこんなことが起こるのでしょうか???

 ノースによれば、これは所有権の問題なのだそうです。所有権という概念は法学部のものだと思っていたわたくしにとって、まさに目から鱗が落ちる思いでした。個人や法人の所有権を保証する政府の有無が、これらの国々における成長率の違いとなっている・・・のだそうです(たしか・・・)。彼は有名な「コースの定理」を盛んに引用しています。取引費用がゼロならば市場に任せても上手くいくけど、取引費用が存在するときは制度(つまりゲームのルール)が必要になる、のです。

 制度とはゲームのルールなのです。例えば、略奪を罰する政府のない途上国では、商取引そのものに莫大な費用が掛かってしまう(略奪から商品を守る費用、契約の履行を相手に義務づける費用などなど・・・)ために、貨幣を介した交換が行われなくなってしまうでしょう。しかしその商取引というゲームに一定のルールを設けてやればどうでしょう?交換にあたる2者は、いちいち相手を監視しなくとも、商品の価格だけを見て取引を行うことが出来ます。つまり新古典派的な価格の理論が成立する世界が生まれるのです。なるほどと思います。ゲーム理論はこうやって使うのかと感心してしまいました。

 クーリンングオフなどの制度も、やはり取引費用を下げることによって、商取引を活発化させます。そのほか奴隷制などの制度の分析にも、取引費用という視点はまったく新しい切り口を与えると思いました。
雇用・利子、および貨幣の一般理論
 
 いわずとしれたケインズの『一般理論』。しかし率直に、これほどイメージとかけ離れた本はありませんでした。第一「政府が積極的に投資すべき」なんて書いていません。かなり婉曲な言い方で「私は、投資のやや広範な社会化が完全雇用に近い状態を確保する唯一の方法になるだろうと考える」と述べるにとどまっています。もっと意外だったのが、一読して分かるように、ケインズの理論が相当部分「期待」の役割にウェイトを置いていることです。有名な有効需要の原理にしても、総供給関数は、売り上げ金額の「期待」とそれを実現するのに必要な雇用との関係として表現されています。また投資や貯蓄についても「期待」がいかに大きな影響を与えるかということが繰り返し説かれています。

 詳しいことは一度読んだくらいでは分かりませんが、それでもケインズの書いている文章を読むと、彼がいかに古典派の非現実的な理論を越えようと願っていたかが、なんとなく分かります。期待や心理的要因や不確実性、といった言葉がいたるところに出てきますが、これらの言葉でケインズの目指したものは、より現実的な理論の構築ということだと思います。読んでいると「あぁ、確かに世の中そういうことってあるなぁ」と納得してしまうところが多かった。ケインズの解明しようとしている事柄や、用いている事例は、すべて現在、わたしたちの身の回りでも起こっているようなことばかりです。

 「非自発的失業」について。失業というものを考えるにあたって、本当に「非自発的失業」がありうるのか、という点は、永遠のテーマになるだろうと思います。わたくしの実感では、厳密な意味での「非自発的失業」はやはり存在しないような気がします。すくなくとも長期にわたって職に就きたくとも就けない人がいるということは、あまり信じられません。もっとありえそうなのは、職に就こうという長期の努力を断念するという事態です。しかし「長期的には我々はみな死んでしまう」のですから、その前になんとかしなくてはなりません。よって「非自発的失業」の存在を信じることは、より現実的です。また失業という事態の悲惨さを経済学の冷たい論理に取り込むためにも。やはり「非自発的失業」はなくてはならないでしょう。

 あと非常に驚いたのが、有名な「大蔵省が古いつぼに銀行券をつめ〜」(10章)という一節。この一節は通常、不況期に政府が積極的に支出を行うことで失業を減らせる、という風に読まれます。しかし文脈を読むと、すぐ後ろに「この方策と現実世界の金鉱とは完全に類似している」とあるのです。つまり、政府による支出と金鉱からの金の採掘は同じだと言っているわけです。ここで金鉱からの金の採掘とは何か考えたいです。それは現在の何にあたるか・・・。すぐに思い浮かぶのは、少し前に解除された量的緩和政策です。あの政策はわたくしの思い違いでなければ、それこそ金を採掘して市場にばら撒くに等しい政策でしょう。確か量的緩和はマネタリストのフリードマンも熱心に推奨していた政策だった気がします。もちろん、フリードマンはアンチ・ケインズとして有名な学者・・・。しかしその同じ政策をケインズもまた支持していたように、わたくしには思われるのです。

 思うに、ケインズは国債の発行による財政政策と中央銀行による貨幣供給政策をあまり区別していなかったのでは??という気がします。政府が国債を日銀に買ってもらって財政政策を行うことと、日銀が直接民間銀行が持ってる国債を買い上げて預金残高を増やすコト(量的緩和)の違いは何なのでしょうか?どちらでも結局マネーサプライは同じように増える気がします。金融政策は難しい・・・・。しかし従来の金利の上げ下げによる政策でなくとも、量的緩和にもケインズ政策といえる側面がある気がします。何しろケインズは「金鉱の採掘と財政政策は同じだ」と言っているのですから。もちろんケインズは消費性向の安定性を説き、「雇用は投資と同じ速度でのみ変化しうる」と述べているのだけれど・・・そして民間の「期待」が冷え込んでいる不況期には政府がその投資を引き受けなければならない、と考えていた??ようななのだけれど・・・。しかしケインズの理論によれば、マネーサプライの増加は利子率を低下させ、それゆえ投資の誘引になるのだから、マネタリストの支持している量的緩和政策は、そんなに「非ケインズ的」ではない?と思われます。

 その他、ケインズは利子率を資本の限界効率まで下げろ、と言っています。しかしその資本の限界効率が何に依存しているかといえば、資本ストックです。つまり希少な資本は将来に高い収益を上げると期待されるが、資本が増えていくにつれて、資本一単位あたりの限界的な収益は低下していくのです。ここでバブル崩壊後の日本経済の問題を思い出します。すなわち三つの過剰・・・雇用、設備、債務(うろ覚えですが・・・汗)の過剰です。バブル以後、日本において資本が過剰であり、それゆえ資本の限界効率がめざましく低かったことは確かでしょう。そうなったときに、ゼロ金利政策というのは、そんなにも「非ケインズ的」ではないと考えられます。資本の限界効率がゼロというのは、ある一単位の資本が、来期にその費用以上の収益を上げないだろうと期待される状態のことで、たぶん日本の平成不況期にはそれに近い状態があった(全然調べていないので悪しからず)???でしょう。ケインズの言うとおり利子率を資本の限界効率に等しくする、ならば、利子率つまり金利はゼロになってもおかしくはありません。

 逆に「非ケインズ的」なケインズ政策が平成不況期には行われていました。平成不況の初期に行われたケインズ政策(92年〜95年までに不況対策として投資された63兆7000億円)です。常盤(2005、三田学会雑誌)によれば、これらのケインズ政策が何も効果を上げなかったのは、企業の過剰生産の調整(在庫整理と同義???)が終わらないうちに、政府が早まったケインズ政策を講じたからだとなっています。しかしケインズは22章で、ニューディール政策について述べ、「私は、転換点に達したあと、不況からの回復が緩慢なのは、主として過剰の在庫を正常水準まで減らすことのデフレ的効果によるものであると考えたい」と書いているのです。このように論じるケインズが、不況期の政府支出のタイミングとして「企業の在庫整理」を目安としていたことは一目瞭然です。ケインズの乗数効果は企業に過剰な在庫が残っているかぎり、そんなに機能しないのだと思います。
 だからまったく在庫の影響を無視して、過剰の上に過剰を重ねてしまった92年〜95年の政策は「非ケインズ的」と言えます。少なくともケインズが政策担当者担当者だったら、そのようなことはしなかったでしょう。(得票数最大化を目指す政治家たちが、このような早まった行動をとったことは、かなり納得がいきますけれど・・・・)

 というわけで、一般にケインズ的として信じられているものと、「一般理論」でケインズが論じていることは、おそらくだいぶ違います。少なくともわたくしが理解した限りでは、そのような印象を持ちました。賃金の下方硬直性とか、流動性選好とか・・・ケインズによって認知された概念はたくさんあるようですが、わたくしにとって印象に残ったのは、期待と不確実性です。これがあるからこそ、有効需要は完全雇用を達成する水準より低くなってしまう?のだし、古典派がしばしば無視したものでもある?のですから。

 いろいろ難しい部分も多く、とくに利子率や貨幣の話になると、金融ド素人のわたくしには手が出ない感もありました。でも確実にケインズのイメージが変わりました。直感で分かる議論にするために、ケインズは数理的な方法をあえて捨てています。モラルサイエンスである経済学が、凡人の直感で理解できるものであることはとても重要なんだな、と気づかされます。思考の停止した凡人がいかに豊かに暮らせるかを考える学問なのに、論理で割り切ってしまってはダメですよね。失業ひとつにしても、頭のいい人にとっては「努力が足りないんだ!」ということになるでしょうが(たぶんかなりの程度正しいと思う)、失業している本人にとっては確実に「非自発的」なわけです。世紀の切れ者ケインズが「非自発的失業」を定義したのは、彼が warm heartsの持ち主だったことの証でしょう。
 
 
人的資本
 
 教育の経済学の古典。ベッカーはこの本などの功績でノーベル経済学賞の受賞しています。とてもエキサイティングな本でした。簡単な数式がだんだん複雑になり、最後には非常に簡潔な式に収束するのです。ドラマ仕立てといってもいいくらいな展開です。「この人はなんて頭がいいんだろう!」と思わせる本です。

 分からないところも相当に多かったのですが、いくつかの論点はとても鋭かったです。まず人を不動産か何かのように捉えているのが、とても面白かった。収益率という概念がそうですが、これはつぎ込んだ費用と将来の(系列の)収益を等しくさせる割引率のことです。まったく株式の現在価値とかの話と同じです。ベッカーはちょうどわたくしたちがある株式を購入して何年後かに巨額の富を得る、といったように、「教育は人への投資だ」と考えるのです。もちろん教育の評価基準は「何年後にどれくらいの賃金を得られるか」という点になるでしょう。実際にベッカーは1949年の白人男子卒業生の大学教育における収益率を計測して、13%くらいだろうと論じています。

 また教育の費用についての考察が興味深かった。収益率を計測するに当たって、ベッカーは大学教育の費用がどれくらいになるのか考えます。もちろん授業料だけが費用なのではありません、「放棄収入」も費用なのです。ベッカーによれば、アメリカにおいて(1975年の本です)大学教育の費用の4分の3は学生個人の負担です。これには驚きました。どの国でも大学教育の主要な費用は授業料ではなく放棄収入であり、放棄収入が高すぎるために、ある所得層の学生は、喩え無料でも大学に行くことが出来ないのだそうです。これは、大学教育を考える上で、間違いなく重要な論点でしょう。

 しかし、このような観点から教育を捉えても、教育がよりよい方向に行くとは思えません。『人的資本』を突き詰めていくと、「古代ギリシャのスパルタを見習って、子供はすべて親元から離して、小さいときから英才教育を受けさせるべきだ!」とか、非常に堅苦しい教育システムが生まれてしまう気がします。「有能な人材」を作ることは教育のひとつの目的ですが、明らかにそれだけではない。

 国家は子供を消費している親を満足させながら、同時に将来の自国をになう人材を作らなければならない・・・そこらへんが難しいところなのかなと思いました。
民冨論
なんとなく手にとってみたこの本。90年代中ごろの著作でした。高齢化が深刻になる前に道路とか公共施設みたいな社会資本を充実させよと説いています。いろんな公共事業とかがやられた背景にはこんな理論があたのでしょうか?
アジアのドラマ・上下
これは非常に面白い本でした。発展途上国の成長がなぜ難しいのか、とても深く掘り下げていました。インドの例が多かったです。例え言語の問題。経済成長のためには多言語の非効率は致命的。インドはどうでしょう?公共語はながらくありませんdした。あまりにいろいろな言語、方言が入り乱れているために政府は統一的な公用語を決めることができないのです。もっとも現在は英語などいくつかの言語が公用語に指定されているようです。が、政治的な取り決めの一方で公用語の制定はその言葉に親しんでいない人の経済機会を奪ってしまいます。とても難しい政治的課題なのです。
 またミュルダールは発展途上国にいわゆる「市場」というものが存在するのか、ということに対しても懐疑的です。途上国の経済成長が進まないのは投資が行われないからだ、と論じてみても、果たしてこれらの国でY=C+I+Gは成立しているのでしょうか?また失業という概念についても同様です。途上国ではしばしば過酷な食糧難が人々の労働意欲を損なっています。つまり市場の原理だけを信奉して雇用を創出しても、必ずしも人々は働かない。逆に政府による食料給付が最適な失業対策でもあったりするのです。また、途上国の人が消費を知らないために不完全就労の状態にあるのだと言っていたのも興味深かったです。
ゆたかな社会
この本にはとてもエキサイティングな議論が含まれていました。需要の不可侵性にメスをいれた「依存効果」、それから「社会的バランス」。特に後者が印象に残りました。社会的バランスというのは私的財と公共財のバランスについての考察です。例えばロサンゼルスではゴミ回収車がなくみんn自宅の庭でごみを燃やしているといいます(今はどうかわかりませんが・・・)その結果大気の汚染は慢性化し、住民の効用水準は目覚ましく下がっています。しかし一方で自動車や雑誌、そのほか宣伝がなければ買いもしないような私的財についてはどこまでも満足度を最大化しようとします。このように、現代社会においては私的財と公共財のバランスは非常に崩れていると考えられます。
 政府の非効率はよく指摘されます。しかし麻薬やタバコといった私的財に比べてたら、どちらが社会的な悪でしょうか?GDPの半分がエロ本の売り上げでもいいのでしょうか?
 とにもかくにも「望ましい社会」についていろんな示唆を与えてくれる本でした。
大暴落
1929年の大暴落を克明に追ったノンフィクション。非常に悲惨な事態ですが、書き手のガルブレイスはとても楽しんで書いています。まるでコメディーを書いているかのような感じです。軽快なタッチ・・・というやつでしょうか。知的なサスペンスを感じさせます。印象に残ったのはレバレッジという株の戦略。公債などを資金として株を大量に購入すれば、とてつもない儲けが期待できるというものです。単純なしくみですが、当時の人はみなこのレバレッジの効果を素朴に信仰していたらしい。
保健医療政策の将来
「カナダではそれをどのようにやっているのだろうか;医師診療」という訳し方が、とても先生らしかったと思いました。実際のところカナダとアメリカは隣同士なのに、ずいぶんと国のカタチが違います。この本ではGDPに占める医療費の割合、それに無保険者の多いあめりかと皆保険のカナダという違いについて書いてあったと思います。(本を返してしまったので詳しくは書けませんが・・・汗)それにしてもとても専門的な内容の本で、医療ド素人のわたくしにはかなり難しい印象がしました。
 またアメリカの子供についての論考が印象に残ってます。また健康と貧困という概念の複雑さも、はじめて気づきました。何をもって健康と言うのか・・・。また何をもって貧困と言うのか・・・。大学者の問題意識はさすがに鋭いです。
新しい女性の経済学
経済のサービス産業化という現象には非常に興味があります。フュックスさんも初期の論考は「ポスト工業化」みたいなことをだったそうです。なぜ女性の社会進出が進んだかといえば、それは産業構造が一次や二次産業からサービス産業に移行してきたからでしょう。その観点から「新しい女性の経済学」は必要になってきます。
君主論
面白かった。特に最後のほうにある「運命の女神は女性だから、組み伏せねばならない。慎重であるよりは果敢であったほうがよい」という洞察は圧巻です。また「運命が変わったのに、人は自分の態度を変えない。だから権力を保持できない」という一説もいい。人としての筋を通す「武士道」みたいな考え方とは対極です。
全体主義の起原
ハンナ・アーレントの主要著書はこの『全体主義の起原』と『人間の条件』。どちらも実証分析的な感じがありますが、この『全体主義』は右腕的に言えば「なぜ全体主義が生まれたのか」となるでしょう。正直そんなことわかるかよ!と思ってしまいます。アーレントもそのことには十分に気づいていたらしい。
 そんなとても壮大な試みに満ちた本。野心的です。しかし「なぜ〜」という問題意識を持ったこの本もやはり「全体主義とは何か」ということに論証のほとんどを割いていました。そのへんは大学者といえども一学生といえどもかわらないのかなと思います。
 ほんとうになにゆえに悲惨な収容所とかが一つの国家的組織として成り立ちえたのでしょうか?殺されて行く彼らはもちろん貴重な人的資源なわけですし、それをたいした理由もなく殺していいことなんてあるはずがない。しかし現実にはなにかしらあの収容所に単なる人種的好みとは違うメリットがあったのでしょう。

 アーレントの問題意識にはたぶん「大衆社会とは何か?」ということがあったと思います。この本も60年前の戦争を分析した本であるにもかかわらず、大衆社会とその問題について書いてある。だからこそ今の学生にも問題意識を共有できるのです。わたくしが読んだ限りではアーレントは大衆の属性として、「自分の身体の保護のためにはすべての道徳や倫理も犠牲にしてしまう」というコトを置いていたでしょう。それと対比されるのが古代ギリシャやローマの政治的人間たち。彼らは自分の信じる信条のためには命など顧みませんでした。これはよく言われることです。でも特別に古代ギリシャ人がすごかったわけではありません。人間は環境の動物ですから、環境の違いがこうしたメンタリティーの違いを生んでいるのです。そして昔の政治的人間と今の人たちを分けている環境が、大衆社会というものなのでしょう。「人間の条件」的に言えば大衆社会というものは労働が圧倒的優位を占めた社会のこと。そして自分自身のwhoを明らかにする場所を人間たちが失ってしまった世界のことです。人間たちが自分がwhat
であるか、だけを気にして生きている世界・・・。例えば大衆社会の住人であるわたくしたちは自分に自信がない、といって資格の取得に励みます。でもつまり自分がwhat(何ものか)でなくては不安なわけです。トイック何百点とか、大手企業に就職とか・・・・。ですがそういう努力をいくらしてもwho(自分が誰なのか)という質問には答えられない。云々・・・・。ということをアーレントは言いたかった??のだと思います。

 まぁ、とにかくかっこいいわね。アーレントさんは。男性的な論理と女性的でアーティスティックな甘さが混ざってる・・・。whoという言葉だって誰でも知ってる基本単語ですが、アーレントが使うととても甘美。
人間の条件
とてもおもしろかった。読んでよかったと思える本でした。アーレントがなぜ現在この手の思想家としてこれほどまでに人気があるのか分かる気がしました。非常にお堅い本であることは間違いないのですが、それにもかかわらず本質的にはロマンチック。こういう言い方には語弊があるのかもしれませんが、とても「女性的」です。女性ならではの著作という感じがしました。男勝りの厳しい論理展開が、ある瞬間に変わるのです。圧倒的に男性優位のアカデミックな世界において、アーレントのロマンティックな人間観が熱狂的な支持を得たのは、ある意味当然でしょう。 わたくし自身もミーハーなファンになりそうなくらい、久しぶりに熱くなりました。

 大筋こんな感じ。人間は出会うものすべてを生存の条件として取り込むように条件付けられた存在だそうです。その上でアーレントは人間の活動的生活を条件付ける様式がなんなのか考えます。彼女によればその活動的生活は3つの様態に分類できる。労働、仕事、活動です。この3つの観念を軸に、彼女はギリシア以来の人間の活動的生活がいかなるものであったのか解き明かそうとします。流れとしては「文明論の概略」と同じです。智、徳が労働、仕事、活動になっただけ。軸となる概念をしっかり定義して、その上で議論を進めます。

 3つの概念はその生産物によって分類できます。労働はすぐに消費されてしまうものを作ること。例えば農業は典型的な労働です。逆に仕事はある程度永続するものを作ること。家を建てたり家具を作ったりすることは、「労働」である場合もありますが、基本的には仕事です。仕事はわたくしたちの生存にリアリティーを与える「世界」を作り出します。活動はまったく新しいことを始める人間の能力のことです。必ずしもモノを製作するわけではありませんが、他人との差異を自ら明らかにし他者との間に新しい関係を打ち立てます。

 長くなるので論旨は追いませんが、アーレントの用いたいくつかの概念、例えば「世界」「世界性」「活動」「製作」といった概念は、とても意味深いものだと思いました。ワールドは誰でも知っているありふれた単語にすぎませんが、アーレントの定義するワールドはアナタとワタシが共有している「ワールド」のこと。とても美的な概念です。『世界の中心で愛を叫ぶ』の「世界」とはまったく違います。あの「世界」は要するに観客のことですから。

 全編の白眉は第五章「活動」。あの章は、ほんとうに良かったなぁ・・・。小説なんか読むのがバカらしくなるくらい、味わい深い文章。英語は苦手だけど原文で読んでみたいなぁ・・・。終わりの5ページぐらいに恋愛についてちょっと書いてあるのですが、そこも「なるほど」と思いました。無責任な一読者の意見ですが、最近の小説はセックスばっかりでとても退屈ですからねぇ。サルみたいなカップルが出てきてひたすらセックス(笑)ベッドシーンがなくても、文章はセックスの暗喩であふれんばかり。話は変わりますが、日経新聞の「愛の流刑地」はとても笑えますね。毎日朝刊が楽しみです☆☆

燃えよ剣・下&榎本武揚

 いやはや一本取られました。感動しました。昭和39年ごろの作品らしいのですが、今の若者にも十分に訴えるものがあります。土方歳三がなんといってもかっこいい。いわゆる「男の中の男」というやつでしょう。本のなかほどで、恋人のお雪さんと最後の別れ、みたいなシーン。とてもよかったです。少ない言葉でよくあれだけの表現ができたもんだと驚きました。そして、あのシーンを読んだ瞬間「きっと最後らへんにもう一回、でてくるんだろうな。」と心構えは十分だったのですが、ラスト・・・やはり最愛のお雪っちが遠路はるばる土方に会いにくるところはシビレました。これぞ物語という感じでした。
 戦況が悪くなってくるにつれて、お雪、沖田、近藤、と大切な人が次々に去ってゆくのも良かったです。そして土方は最後、一人死地に赴く・・・。これでもか!というくらい悲劇的な展開でした。やはり男たるものああでなければ!と思いました。郵政解散の時に「おれは死んでもいいんだ」と豪語した小泉首相も、きっと『燃えよ剣』を読んでいたことでしょう。

 さて、これを読んでわたくし、昔ぱらぱらと読んだ安部公房の『榎本武揚』というお芝居を思い出しました。燃えよ剣にも榎本は出てくるのですが、肝っ玉の小さい変節漢として、いささか否定的に書かれています。しかし安部公房は榎本を時代に先んじた聡明な大人物として捉えています。二人の国民的作家が、榎本武揚について全く逆の見解を示しているのです。これはおもしろいと思って、安部公房の榎本をもう一度読んでみることにしました。

昔読んだときは背景知識が何もなかったので、あらすじも追えないような感じだったのですが、今度ははっきり分かりました。『榎本武揚』が上演されたのは昭和42年。そう、この戯曲は司馬遼太郎の『燃えよ剣』を受けて書かれたのです。いたるところに『燃えよ剣』に対する意地の悪い当てこすりがちりばめられていました。司馬遼太郎に個人的な恨みでもあったのかな?と思わせるくらい陰険なやり方でした。登場人物の新撰組組員、浅井十三郎はとんでもなく滑稽な人物として描かれ、反対に榎本はあまりに先進的だったために理解すらされなかった先駆者・・・。司馬遼太郎とはなにから何まで逆です。
 例えばこんな会話があります。時は現在。榎本が新聞記者のインタビューを受けるという設定です。

A・・・  今じゃあなたの評判はさっぱりふるわなくなってしまった。新鮮組の連中かなんかのほうがよっぽど有名なくらいですよ。

B・・・  ニッコリ笑って、人を斬る、なんてね。

榎本   諸君、知ってるの?新撰組ってのは、キミ、とてもそんな後世に名を残すような・・・・

B    そんなもんですよ。人気なんていつだって、中身がなくて、カッコイイものに集まるに決まってるんだ。

 他にも、榎本は土方が最後の戦に出て行ったことについて、「どうしようもない頑迷な主戦論者を、やっとのことで死地に送り込んだ」と笑い飛ばしています。
 もちろん誇張もたぶんにありますが、歴史的事実の解釈をめぐってこれほどまでに、意見が真っ二つに分かれるのは、ほんとうに面白い。どちらの榎本像が、よりもっともらしいか・・・・読んでみる価値は十分にありです。文庫では「友達・棒になった男」と題された本に、収録されてます。『燃えよ剣』に感動しすぎたら、ぜひどうぞ♪
有閑階級の理論

 これはかなり刺激の多い本でした。速く読み進めることができないので時間がかかってしまいましたが、なんとか読了。誇示的消費で有名なヴェブレンの代表作ですが、この本のなかでは代行的閑暇とか代行的消費という概念も、誇示的消費と同じくらい重要な概念だと思いました。
 代行的閑暇・消費というのは裕福な男の妻は働かなくていいという世間一般の常識をヴェブレン的に表現した言葉です。その意味はこういう感じです。例えば、働く夫と妻のいる家庭。一般に、妻は無能であればあるほど、それは生活の様々な必要から開放されているという証であるわけだから、尊敬されます。彼女は夫の閑暇や消費を代行し、そのことによって夫の名声を高めているのです。また召使がいるとすれば、彼のお仕着せも、着ている本人に有益であるかどうかよりも、彼の主人の名声のためであると考えられます。つまり召使のきらびやかなお仕着せは、主人が本来するべき消費のいくぶんかを代行していると考えることができるのです。
 面白かったです。ですが別に誇示的消費のどこが悪い?という気がしなくもなかったです。野蛮人・・・大いに結構。むしろ野蛮になりたいくらいです。
革命について
ハンナ・アーレントの文章は今現在もいたるところで紹介されている気がします。菊野先生の産業関係論でも確かレジュメで「人間の条件」を長々と引用していました。非常に重要な政治学者なのでしょう。ということで読んでみました。が・・・何しろ抽象的で良く分からなかったです。共和政とか代議制とか・・・大事なのは良く分かるのですが、その制度が現実の社会問題のどれほどの部分を説明するのか、疑問でした。要するに政治体についての議論の重要性が分かりませんでした。

 問題設定としは、なぜ革命で成立した政治体は永続性をもたなかったのか?ということでした。フランス革命をはじめロシア革命、ヨーロッパで起きた革命のほとんどが国民を幸福にしたとはいいがたいものでした。確かに興味の沸く問題設定です。旧体制が転覆した当初は、革命政府は100%に近い支持率を持っていたでしょう。それなのになぜか数年するとその政府はまた次の革命によって崩壊してしまうのです。この間には一体なにがおきていたのでしょうか?

 アーレントはその疑問に対し「貧困」という仮説を提示しています。つまり貧困の克服が出来なかったために、「公的自由」を創設したはずの革命政府は崩壊したのです。
燃えよ剣・上
とても面白かったです。スリリングだし読みやすい。最初の祭りの情景が一番印象に残っています。土のにおいまで漂ってくるような・・・いいシーンだと思います。
 個人的には土方歳三は最高の右腕でです。近藤勇は新撰組の顔ですが、実際に組織を動かしていたのは彼の右腕、土方だったようです。非常に具体的な目標に向かって失心する姿が強調され、まなぶところも大きかったです。政治論などは置いといて、彼は「新撰組を日本一の軍事組織にすること」それだけに集中しました。周りが尊皇攘夷とか観念的なことに夢中になっているのに、土方はひたすら実務の鬼でした。その対比がとても面白かった。

 ただ剣を振りまわすシーンが多くて少し興味がそがれました。チャンバラの楽しさはどうも分かりません。司馬さんの言う「男らしさ」なのでしょうか?どうも私はその手の「男らしさ」に魅力を感じません。「オトコの典型を書いた」小説なのにも拘わらず、その「男らしさ」はひたすら「筋を通す」とか、登場人物のポリシーという側面から書かれていました。女性との関係という面からのアプローチは大幅に削っている気がしました。司馬さんの中ではその点についてもいろいろとアイディアがあったのでしょうが・・・小説の中にはあまり盛り込まれていませんでした。

 しかしながら非常に上手く書かれた小説であることは間違いないでしょう。書き手が自分なりの方法論にのっとって書いているのが良く分かりました。細かい部分も、読者に伝えるべき情報をよく選んで書いています
NPO実践講座
POの一番の問題点は金だと思います。とにかく金がない。阪神大震災とか新潟地震とか、災害が起こった時は有志が集まって、大変な力を発揮しますが、永続する団体を作るのが本当に難しいそうです。資金がなくなって自然消滅してしまうNPOが多いのです。
NPO入門

右腕に備えてってわけではないのですが、NPOとかNGOとかもとも興味があったので読んでみました。言うまでもなくNPOは非営利組織、NGOは非政府組織です。統計によれば1995年段階で、すでにNPOで働く人の数は全就労者の3.5%を占め、経常支出もGDPの4.5%に相当していたそうです。予想よりはるかに大きかったので驚きました。でも先まで読んでみると、NPOには大学や病院も含まれるようで、なるほどと納得。いわゆる「草の根NPO」だけがNPOではないのでした。
 でもNPOらしいNPO(環境NPOとか介護サービスのNPO)とかは日本ではまだまだ発展していないようなので、一応問題アリかな、と思います。GDPの4.5%とかいっても、ほとんどが学校とか病院のもたらす経済効果に拠っているわけで、「市民意識」みたいなものは日本では流行らないようでした。
 私が面白いと思ったのはNPO法が制定されたのにもかかわらず、税の優遇措置が進んでいないために寄付金が集まらない、ということでした。税の優遇とは要するに寄付金にかける税金を減らすことです。減らせば当然、NPOへの寄付が増えます。また政府にとっても税収は減りますが、公共財の支給をNPOに任せられるので、負担もある程度軽減します。
 NPOはあんなに感心な組織なのにもかかわらず、金が集まらない。それは税制が整っていないからだ、というのは早まった議論ですが、右腕的にはおもしろいかなと思いました。NPOは非営利だからあまり事業収入で儲けるわけにはいかないし、かといって政府から貰ってばかりでは非政府を満たしません。NPO,NGOの趣旨を考えれば、民間からの寄付で成り立つのが一番いいに決まってるのです。そしてそれを実現するのが税制改革・・・ 寄付金にかかる税の大幅削減、そして政府の規模の縮小・・自治体ごとに優遇するNPOのタイプを決めれば、地方の特色も出てなお良い、と思いました。
天平の甍

薄いので集計前に一冊読みました。面白かったです。感動したと言ってもいいくらい・・・。遣唐使で唐に行った留学生たちの話。当時はお隣の中国へ行くにも、命がけ。何十年に一回しか船が出ない、そういう状況だったのだなと今更ながら気づきました。つまり行ってしまったらそれっきり・・・帰れる保障なんて何もないのです。
 一番印象に残ったのは業行という修行僧です。彼もまた勉学のために唐にわたった留学生の一人だったのですが、自分で何かを学ぶ、発見する、ということには早々に見切りをつけてしまいます。今の(当時の)日本にとって大切なのは、まずは偉いお坊さんの書いた文献であり、自分の研究ではない。要は考える勉強なんかやめて、日本のためにひたすら書を写そう、と考えるわけです。そうやって自分が一生かかって写した文献を持ち帰ったら、きっと日本の人たちはそれから多くを学ぶであろう・・・云々。彼は生涯をかけて、退屈な写本の作業に打ち込みます。そういう半ば絶望した、孤独な修行僧に対し、我らが井上靖は最高の結末を用意しています。ここからは明かさないほうがいいでしょう。
 あと個人的に好きなのが玄朗という留学生。玄朗は少し弱い性格の人物で、行きの船上ですでにホームシック。唐に着いても結局学問は修めず、土地の女と結婚してしまいます。こう書くとろくでなしみたいですが、留学生に選ばれたのですから日本では超秀才だったのでしょう。その玄朗がやはり年老いて、妻子を連れて日本に帰りたい、彼らに自分の生まれ故郷を見せたい、と言います。私はなぜかこの部分にハッとさせられました。恋愛における孤独・・・二人手を取り合っているみたいで実は一人、二人とも別々のところを見て別々のことを考えている・・・  上手くは言えませんが、玄朗が命の危険を冒してまで(当時は確かにそうです)船に乗り、日本に帰り、愛する人に自分のことをわかってもらおうとする・・・しかもどうせ日本語も知らなければ肌の色も違う、つまり自分と日本を共有するのは不可能だと分かっているのに・・・。人間ただでさえ分かり合えなくて寂しい思いをしがちなのに、母語も通じない異国の地で、異国の女と結ばれ、自分とは似ても似つかない子供をもうけ、帰る見通しさえつかないこの玄朗という男の孤独は想像するにあまりあります。その彼が「せめて妻子を見せたい」と言うのです。友人がいないからって、飼っている犬に好きな映画の話をしたりする人はいないでしょう。ですが玄朗のセリフにはこうした寂しさが漂っています。
奇跡の選択
これまた昨日借りた本です。有名なフリードマンの著作。こちらはやや難しかったです。ただ麻薬の合法化について詳しく書いてあったので読みました。麻薬を合法化すると犯罪が減る、と言うことでした(笑)では彼の論理とは何か。
 アメリカでは麻薬がらみの犯罪が全犯罪の3分の1から2分の1を占めるそうです。そこには一般人が麻薬を買うお金を得るための犯す窃盗、麻薬を財源とするマフィアの犯罪、などが含まれます。この状況を改善するのが麻薬の合法化。市場に麻薬が流通するようになれば、当然その値段は下がります。するとマフィアはこれまでのように中毒者に法外なプレミアムを上乗せして売りつけることができなくなります。中毒者は他のところでもっと安く麻薬を買えるのです。結果、マフィアは資金を得られなくなり小規模化するでしょう。さらに一般市民について言えば麻薬が安くなるので、わざわざコンビニを襲ったりしなくても麻薬を手に入れられるようになります。中毒者数は増えるでしょうが、それでもこれまで麻薬の根絶に費やしてきた莫大な(無駄な)経費を節約し、なおかつマフィアの資金源を断つことができます。

 大体こんな感じでした。奇抜だけど興味深い議論だと思いました。合法化による中毒患者の増加は避けられないですが、それでも麻薬がタバコのような価格で手に入ることはないでしょう。よく分かりませんが、仮に注射一本分で5万円くらいに価格が落ち着くとします。私は中毒でない一般人が、そうそうそんな高いものを一念発起して買うとは思えません。つまり中毒患者の増加は、そんなひどいものではない、という可能性もあるのです。すくなくとも国民経済を揺るがすほどのものにはならないでしょう。モラル上の問題は増えるでしょうが・・・。先日死んだフランスの作家、フランソワーズ・サガンは麻薬でつかまった際に「他人に迷惑をかけない限りにおいて、人間は自由だ」と述べたそうです。私もそう思います。ただ現在の法の下では麻薬を買うことが即マフィアや暴力団への資金提供になってしまうので、必然的に社会の迷惑になってしまいます。だが合法化されればどうでしょうか?まさに誰にも迷惑をかけずに麻薬を楽しむのも可能になるのではないでしょうか?人間みな、自分の人生をだめにする権利だってもっているはずです。
 いずれにしろ法による規制は、それを犯す闇組織へ独占を保障してしまう、という側面があります。もちろん規制によってその害悪を撲滅できればいいのですが、麻薬の場合は誰が考えても不可能でしょう。つまり「麻薬禁止」の法律は、ある面において国家じきじきの闇組織に対する優遇政策になってしまっている、といえるのです。

 その他、教育についても「政府が教育に金を出すほど、教育の質は下がる」とか、社会保障費の増大が国民経済を圧迫する、とか面白かったです。基本的には市場に任せて「小さな政府」を目指せ。ということでした。
バロー教授の経済学
日吉のメディアで偶然見つけた本です。後書きによればバロー教授は新古典派の代表的な経済学者の一人、だそうです。その人の経済についてのエッセイ集。面白かったです。分かりやすかったし、U2のボノと経済について対談した話とか、公的年金については権丈先生と真逆の結論だったりとか・・・見所満載でした。先生は再分配政策のUで積立方式と賦課方式を比べていらっしゃいました。私の理解した限りでは、所得代替率αの維持を考えた場合に、賦課方式では保険料の引き上げが効くのに対し、積立方式ではαは不確実要因に依存しており、もし悪い方向にそれらの変数が向かった場合に年金制度の中では対応ができなくなる、ということだったと思います。著者はエッセイなのでそんなに詳細に述べてはいませんでしたが、積立方式に賛成してました。例えば年金よりも株のほうがいいとなれば株に、株をやらない人は年金に、というように、積み立て方式の方が一人一人自由にポートフォリオの選択ができるからだそうです。
 その他過激な議論も多かったです。韓国をドル化する、とか(笑)麻薬を合法化しようとか!!ビックリでした。韓国のドル化はいかにもアメリカ人らしい発想で笑えました。著者は国際会議でこれを主張して「ヤンキー帝国主義」と揶揄されたそうです。が、当然だと思います。「韓国の銀行は民営化さえされてなく、自国の経済危機に対する防衛力がとても弱い。だから外資の銀行を作ってリスクを軽減するべきだ。」と、そこまでなら分かりますが、だからと言ってドル化することはないだろう、と思います。通貨はその国の大事なアイデンティティーですしね。

 それでも派手な議論の中にはやはり一流の学者だけあって、理屈もある。頭の体操的な面白さがありました。
表徴の王国
ロラン・バルトの日本論です、なんて紹介すると「とんでもない!」って突っ込まれそうですが、そんな感じの本です。日本文化についての考察がとても興味深かったです。簡単に言えば、日本文化というのは「中心のない文化」ということでした。もちろん西欧文化との対比でみるとって前置きはありますが。バルトの頭の中にはなんとなく西欧=意味、象徴vs日本=無、表徴という対立構造があった気がします。都市構造を考えても、西欧の都市というのは真ん中に教会があったり裁判所があったり、そうした何がしかの文化的シンボルを中心に据える傾向があるのですが、日本の都市には全くそれがない。強いて言えば駅が挙げられるそうですが、これは単なる交差点に過ぎず何かを積極的に表しているわけではないのです。そのほか様々な分野において、日本の文化は何かに意味を持たせたり抽象化したりする姿勢がとても希薄なのです。
  もちろんバルトはこのことに否定的ではありません。むしろ西欧が達することの出来ない一つの境地としてとても評価しています。題名にもある「表徴」と言う言葉は解説によれば「牛という字は牛そのものとは何の関連もないにも拘わらず牛という動物ののイメージと、一枚の紙の裏表のように結びついている。このとき「牛」は牛の表徴であると言える」と言うことでした。これはシンボル(象徴)という言葉と対比させると分かりやすいかな、と思います。十字架はキリスト教の象徴ですが、キリスト教は何も十字架に限られたものではありません。つまり、これは私の考えですが、象徴には「1枚の紙の裏表」のような軽さ、簡潔さ、直接さがないといえるのではないでしょうか?そしてバルトが夢見たエクリチュールはそのような軽さや、簡潔さを備えたものだったのでしょう。私なりにはフランス人の美観と日本人の美観はそこら辺でかなり繋がるところがあるんじゃないかな、と思いました。バロー教授の,経済学でここまでできる
チェーザレ・ボルジアと優雅なる冷酷
とても面白かった。「優雅なる冷酷」とはチェーザレだけでなく、塩野七生に文章にもそのまま当てはまると思った。非常に抑制が効いていて、鋭利で、それでいてかすかに甘い・・まさしく「優雅なる冷酷」である。
 この作品ではあの悪名高いチェーザレと妹ルクレツィアの近親相姦には全く触れていない。完全にマキャベリズムの体現者としてのチェーザレに焦点を絞っていたかのようである。
 しかしその分、政治的天才としてのチェーザレについてはよく知ることが出来た。権力のために若干22歳で実の弟を殺したこの男は、28歳までの6年間に中部イタリアを瞬く間に支配下に納めたのだ。相手同盟国の結束のもろさを正確に見抜き、1人ずつ寝返らせる彼の政治手腕はとても老獪なものがあったし、地方行政官ロルカを見せしめに殺すやり口は恐ろしいまでに鮮やかだった。しかしそんなイタリア統一の実現まであとちょっとのところまで迫ったときに彼の政治生命は終わってしまう。父法王が病死し、自らも重態となり、その間にこれまでの味方が次々と反旗を翻すのだ。
 チェーザレ・ボルジアはある種の「男らしさ」の極限だと思う。近頃電車の中で「成功する男はみな非情である」という文句を読んだが、そんな非情さを極限まで高めたのがチェーザレだ。彼はダンディズムの先駆者なのだ。
コンスタンティノープル陥落
ロードス島攻防記よりも一回りスケールが大きい作品。コンスタンティノープルをさして「あの街をください」と言った若きスルタン、モハメッド二世の野心、そのささいな思いつきで歴史が大きく動いてしまう様は、とても感慨深い。大きな歴史の流れとそれに翻弄される人々、ある意味「お決まりの」構図だが、史実に忠実であろうとする作家の誠実さがこの作品を腐敗から救っているように思われた。「コンスタンティノープル最後の日」では大伽藍が崩れ去るような、あるいは限りなく巨大な太陽の落日のような、壮大な効果を挙げていた。しかも、いささかも感傷的ではなかった。
ロードス島攻防記
スレイマン大帝率いるトルコ軍とロードス島に立てこもる聖ヨハネ騎士団との戦いの記録。私は難攻不落と言われたモンサンミッシェルを見たことがあったので中世の城塞についてはかなりイメージが湧いた。
 私は塩野七生さんの小説は読んだことがなかったが、大きな歴史の流れにおける個々の運命を描き出す作家の巧みさには驚いた。アントニオ、オルシーニ、スレイマン大帝、と様々な人物を的確に偏りなく書いていくのはとても難しいことなのだ。しかも非常に抑制された表現だった。普通こういう歴史ものには大げさな恋愛物語を絡めたりするものだが、この小説ではストイックなまでにそうした甘さを拒否していた。唯一主人公二人の同性愛的関係がほのめかされているが、やはりそれが本筋ではない。作者が書きたかったのはどこまでも「歴史」なのだ。
オリエンタリズム・下
この本は異文化理解とは何か?について多くのことを示唆してくれる。論じられているのは歴史的に西欧がいかに「オリエント」を表象してきか、ということだが、このメカニズムはもっと広範な領域までそっくり当てはまる気がする。私とあなたと言った関係においてさえ、だ。
 ではこの本の論旨はなにか。それは私の理解するところでは、西欧がオリエントのことを良く知らないのに「オリエント的なるもの」を勝手に作り上げ自らの言説に組み込んでいった、ということだと思う。西欧は物言わぬオリエントを「他者」に仕立て上げたのだ。それと自らを対比することによって自分自身をより分かるようになる、そんな他者として。この本は「知的領域における西欧帝国主義」への告発の書なのだ。
 例を挙げれば西欧人の理性とオリエントの野蛮、西欧人の勤勉とオリエントの放埓、などなど挙げればきりがないほど現在においてもなお、西欧とオリエントは対比されている。しかも西欧人の勝手な価値観によって、である。
 私が印象に残ったのは西欧人が20世紀初頭、まさにアラブの自由、アラブの平和、のために、植民地支配を実行したことである。彼らはオリエンタルには「自らを代表する能力がない」として、自分たちの手で彼らを代弁しようとしたのだ。「イラクの自由」のために軍隊を送ったブッシュ政権は記憶に新しいが、そのようなことは今に始まった事ではないのだ。
 私は、この本の根底には「言語活動しない人々を知識人はどう扱うべきなのか?」という意識があると感じた。自分の権利を言葉で主張できる知識人は良い。だが、そういう主体性を持たない人々、ホームレスや狂人や教育水準の低いブルーカラーの労働者はどうすればいいのだろう?彼らの意見を勝手に政治家や官僚や知識人が代弁してしまってよいのだろうか?サイイドは問題を提起したのみであまり回答を与えてはくれない。だがとにかくいろいろな問題を提起している本であることは間違いないだろうと思った。
監獄の誕生