Parts Tools Tonkin Cane How to Order Rod & Reel School WFFJ Event


 

今はおそらく廃版になっているだろうこの本と出会ったのは10年位前の話だ。 中国のトンキンケーンに
対する私の興味は募るばかりで、何時か機会があった折には現地でこの目で確かめたいという気持ちに
なったのでした。 暇な時には辞書を片手に解読した内容の中から、興味ある部分を抜粋してここに解説
してみました。 また同時に私自身のトンキンケーン探訪記も併せて記してみたいと思います。 紺色の字
で書いた部分は翻訳であり、茶色字の部分が私の体験記というスタイルを取らさせていただきました。 
ご参考になれば幸甚です。

ANGLER'S BAMBOO

ANGLER’S BAMBOO
LUIS MARDEN著
LYONS & BURFORD、PUBLISHERS
1997年 出版


<ANGLER’S BAMBOO プロローグ概略>
釣りに関する書物は古くまた多岐に及んでいて、いかなるスポーツよりも多くの書物が書き残されてきた。
ハーバード大学の図書室には、西暦1500年以前の書物も含め釣りに関する書籍は15,500冊を超える。
釣りに関する最古の論文はイギリスで刷られ、最初に印刷業を始めた人物の後継者による物である。
人の釣りへの思い入れは遠く西洋出版史の原点までさかのぼる。この時期に莫大な量の釣りに関する書籍
が印刷されたが、内容の殆どは、毛バリ釣りのロッド、リール、ライン、フック等に関するものに限られ、莫大な
書籍の中に釣竿用としては最も高貴である竹について書かれた本は無く、竹竿作りに関する幾冊かが存在する
程度である。竹辺を接着してバンブーロッドを製作する技術が開発されてから200年が経過した今、空白の時
をを埋めるべくその素材を取り上げた書物を今こそ釣り文学史に残す時期ではないだろうか。 
竹素材を使い始めた当時のロッドメーカーも、その産地がインド(後に中国)であることは知っていても、それが
どんな種類であるかは全く知らないしまた無関心であった。 その特性について科学的に研究する動きは
1931年に入ってからである。

私(著者)は以前、Dr.George Parkerの”The Idyl Of The Split−Banboo”を読みロッドを自作する
ことに興味を持ち、自分で使っている竹という素材についてもっと知りたくなりました。 特に”トンキンケーン”と
いう間違った名称を与えられた釣り人の竹について博学のある世界的権威である人物を知ることになりました。
後に、先生役を務めて頂きご教授いただいたスミソニアン大学のDr.Floyd Alonze McClureである。
Dr.McClureは1925年にトンキンケーンの正確な繁殖地を見つけ、後に学名を授けた方で、数年間中国
に在籍し、現地大学で教鞭をとった異色の植物学者でした。 私は中国とアメリカの国交回復後、念願の広東省
への旅の許可され、Angler’s Bamboo(釣り人用の竹=釣竿用の竹)を見、写真を撮ることが可能になっ
たのは1974年のことでDr.McClureの死去から4年後のことでした。 中国の旅の間は、Dr.McClureと
共に旅をしている気持ちになったものです。 またご協力頂いた中国政府と関係者のお陰で、Sui川上流部
への旅のビザを取ることができ大変感謝しております。 後に多くのバンブーロッドメーカーやアマチュア
ビィルダーにトンキンバンブーを提供してきた、故Charles H.Demarestは正にバンブーロッド界では
トンキンケーンの父と呼ばれるに値する功績を残してきましたが、その後継者Halorod.H.Demarest
氏からもこの本の制作にあたりご協力を頂ました。 (プロローグ概略終わり)


<ANGLER’S BAMBOO>
私(著者)はロッド製作をする上で、その素材であるトンキンケーンを現地視察したいという願望の末、
ついに中国に行くビザを取得することになります。 1974年、米国が中国と国交復活したばかりの状況下
ではビザを取るだけでも大変な時代に、内陸部への旅の許可を得るなどとても困難な時代でした。 許可
されたビザの期間は3週間。 しかし内陸部への許可は降りないまま日は過ぎ、ついに期限切れの2日前
を迎える。 諦めかけたその時、突然北京から許可がおりた知らせ を受けた私は早々懐集へと向った。
後に知った話では、ワシントン州に住む知人が幼少時代に周恩来元主相の父親と交友があり、彼の働き
かけが実を結び許可が下りたことを知った。 

9月の激しい雨は幾つかの道路を通行不能にしたが、懐集までの未舗装道路は幸い乾いていた。舗装
道路は広州から23kmまでで終わり、あとはダートロードが北西へと延びる。両側は何処までも赤い土の
稲田に挟まれていて、黄緑の稲穂は茶色い水田から天を刺して伸びている。 ホワイトグースの一軍が水
を蹴って飛び立ち、それは帯状のデザインとなりあたりの風景を装飾していた。 蓮と灌木が茂った沼地には
水牛がのどかに水と戯れ、どこまでも続く松とユーカリの壮大な植林事業は広州の丘を広く覆い尽くしている。 
道路の横に茎が黄色く色ずいた竹が束状に茂り、その竹の葉はまるでお辞儀をして我々を迎えてくれて
いるように見える。 それはあたかもウェールズ王子の兜の前立てのようにも見えるし、また号令に従い王子に
頭を下げる人々のようでもある。 北京からの連れであるチェン氏は「竹があなたに頭をさげてご挨拶してい
ますよ」と言い、私も頭を下げ、それに返した。 やがて広い西江川に差し掛かり、ボートで対岸に渡る。 
さらに北上を続けると、日暮れ近くには、道は広く早い流れのSUI川の岸沿いに延びるように走り、それまで
ところどころ見かけた束状に生える黄色い茎の竹群は、その数をさらに増やし、終いには密生した状態で川岸を
すっかり蔽いかくすほどになった。 それらのふさふさの葉で覆われた竹の群生の中に、上空にクリスマスツリー
を思わせる程まっすぐ伸びる竹がある。 枝葉は短く、グレーグリーンの幹のそれは、明らかに他の竹とは異
なる見たことも無い種類の竹であることが見てとれた。  ティースティックバンブー、ラブリーバンブー。 
まさに半世紀前に直物学者FLOYD MCCLURE博士が名付けた竹がそこについに姿を現した瞬間であった。
懐集に到着すると私は、グレータイルの屋根が印象的な現地の革命委員会本部にゲストとして滞在することに
なった。 町の標高は海抜50mくらいであるが、SUI川両岸からは直ぐに丘が遥か高くそびえている。 
両岸を密集して蔽う竹は9月の雨のカーテンの向こうで霞んでいた。


<トンキンケーン探訪記>
私(三浦)もバンブーロッド製作者としての観点から自分の使っている竹がどういう種類に属し、どんな風土の
中で育っているのか。 この目で確かめたいというMARDEN氏と全く同じ動機から中国の竹の産地に視察に行
く決心を固めました。 LUIS MARDEN氏の中国訪問より36年後、奇しくも同じ9月、そして同様に雨の出迎え
を受けての初回探訪です。 勿論片手には、ANGLER’S BAMBOOの本を携えて・・・
ただ、ANGLER’S BAMBOOに掲載されている地図は古く36年前と今では道付きも多少違うようだ。
MARDEN氏は西江川を渡ったとなっているが、現在の標準ルートでは別の北江川を渡る。 四会の町を過ぎ
るとやがて道はSUI川に沿って走る。 みごとなカームの竹が現れ川を覆い隠す。枝々は豊かな葉が蔽茂り、
それは確かに頭を下げて私を出迎えてくれているように見えた。 同書によると、川の景観を覆うこれらの竹は
YELLOW BAMBOOと呼ばれ、茶カン竹(TEA STICK BAMBOO)とは違う種類の竹だ。 

■■■■ バスの車窓から 竹の回廊(広寧)

SUI川は両岸とも見事なイエローバンブーに蔽われて
いて竹の回廊と呼ばれている。 このような状態は数10
Kmにも及び、川は殆どその全貌をなかなか現さない。 
ANGLER’S BAMBOOによると、懐集の茶カン竹、広寧
のイエローバンブーと書いてある。 ここは南領山脈より手前
の町だ。 車が町にさしかかるあたりから、荷台にイエロー
バンブーを山積したトラックを数度目撃した。 昔なら船で
竹を下流まで運んでいたそうだが、最近ではトラックが輸送
のメインになっている。 昔と今では運送方法も違うのだ。


近くで見るYELLOW BAMBOO

近距離から見たYELLOW・BAMBOOの新子、しかし
地元ではYELLOW BAMBOOとは呼ばない。竹の
業者に聞いた呼び名では高竹(ゴオズー)である。竹の
名称に関しては村民の間では学名で呼ぶはずもない。
茶カン竹を現地でアランディナリアアマビリスなどと言って
も誰もそんな学名は知らない。 どんな物でもその 地方
特有の固有名詞で呼ばれている。 また現地には色々な
竹が存在するが、字を書いて筆談してみて分かってくれた
のは白竹、苦竹位だった。 また節間が異常に長い竹も
存在する。 チンバンブーと呼んでいたが、それも現地の
呼称で、正しい名称は不明。 

■■■

■■■■ 折抗省紹興のYELLOW BAMBOO?
紹興の魯迅の旧家でみたイエローバンブー?
イエローバンブーを小さくしたような竹だ。 これは
園芸用の別の竹なのか、あるいはイエローバンブー
の若竹なのか。 節は低く竹では無く篠の種類である
のは明白だ。 日本の篠類でも別名丸節と呼ばれる
ものはその種類は数十種あるとのことだ。 中国国
内の竹、篠類に至っては500種ともいわれる。 左の
写真では茎の節の部分に皮が被っている。 成長後
に皮が残っている物は篠類に分類させれる。 日本の
篠の代表は矢竹であるが、オバケと呼ばれる太い矢
竹でもここまで太い物はそうざらに無い。


YELLOW BAMBOOだけでも興味は尽きませんが、目指すは懐集の茶カン竹。 茶カン竹のカンは
干の左に木偏が付いた字だが、日本語に無い漢字なので、カタカナで書いています。 英語ではTEA
STICK BAMBOOと呼ばれている。 本文には茶カン竹は懐集産が一番良いとある。 その理由は
年間平均気温(21℃)、年間降雨量170〜180mm、山の傾斜角度(約30度前後)、海抜500m位の
高度、水はけの良い多孔性(珪藻土のような感じ?)の土壌、ペーハー5という環境が茶カン竹の生育に
相応しいのでしょう。 粘土質のアルカリ性土壌は適していないとのことですが、YELLOW BAMBOO
は粘土質の赤土の川岸にも繁殖している。 竹のカーム(茎の部分)は節が低く、茎だけ見ると茶カン竹
のように見えるが最大の違いはその生え方で、茶カン竹は1本1本真っ直ぐに生えるのに対しYELLOW 
BAMBOOは束状に生えている。 (左上の写真参照) またANGLER’S BAMBOO
に話を戻すとしましょう。


<ANGLER’S BAMBOO> 
CHARLES DEMAREST INC(アメリカ ニューヨーク)は19世紀後半から中国より竹の輸入を開始する。
当時はインドから竹の輸入をしていた時期とも重なり、中国竹の正しい輸入開始時期を特定することは出来ない
そうだが、その頃であることは間違いないらしい。 DEMAREST社の1907年の書類にはTONKIN BAMBOO
の名が記載されていて、その頃既に茶カン竹をTONKIN BAMBOOと呼んでいた。 しかしこれはMISNOMER
(間違った名称)である。 茶カン竹が何故TONKIN CANEという呼称で呼ばれるようになったのか、その経緯は
どういうことであったのだろう。 (注釈:トンキン地方はベトナムである)
1974年、MONTAGUE CITY ROD COMPANYの前役員を務めたSEWELL DANTON氏から聞いた
話によると、MONTAGUE社は1898年よりバンブーロッドの大量生産用に茶カン竹の使用を始めた。 
1905年のカタログには素材名を”WHITE BAMBOO””CHINA CANE”と記していたが、その後のカタログ
ではTONKIN CANEと変更した。 これがTONKIN CANEという名称が世界で最初に使われた瞬間である。
以後、CHARLES H DEMAREST社もTONKIN CANEの呼称を使用し始め、それが定着し今に至っている。

<私の感想>
トンキンケーンと我々が普通に使っている言葉は100年以上前にMONTAGUE社が初めて使用した名称
であり、その的外れな名称のまま現在に至るまで呼ばれ続けていることも驚きであり、また興味深い話だ。
実際、トンキンケーンの産地懐集とトンキン地方(ベトナム)とでは全然無関係な場所だ。 しかし、一体何故
MONTAGUE社は素材名を変更したのだろう。 この点に関してANGLER’S BAMBOOの中では一切
触れられていない。 当時の中国のイメージをを好まない理由でもあったのだろうか。1905年の中国は清の
時代。 まさしくラストエンペラーの時代。 当時は清は列強諸国の思惑に翻弄され、激動の国際情勢の中で
揺れ動かされていた時代だ。 MONTAGUE社だけでなくDEMAREST社も中国のそういうイメージがロッド
という憧れ深き道具に対するイメージに何らかの影響を及ぼすことを嫌い、あたかもベトナム産でもあるかの
ように見せかけたかったのだろうか。 つまり今で言う産地偽装であったのか。 あるいはもっと単純にトンキン
の方が聞こえが良いと考えたのだろうか。 残念ながら今となってはその動機を知る手立てはないが、時代
背景を考慮し、推測するだけでも興味深いではありませんか。 

この件に関して、中国の竹はトンキン湾から輸出されていたからそう呼ばれるようになったのではないか
という意見もある。 ただ、アヘン戦争でイギリスが当時の中国(清)に勝利し、不平等条約を締結した際、
どさくさに紛れアメリカも中国との不平等条約を締結させた。 その締結は広州黄浦で行われたのだ。
 それは当時の中国の港は黄浦港に限られていて、その後中国は多くの港の開港を余義なくされるが、
アメリカの中国貿易に使用された港も黄浦港であると考えるのが妥当だ。 中国のトンキン竹をわざわざ
遠いベトナムまで運びトンキン湾から出荷していたと考えるのは無理がある。 

<ANGLER’S BAMBOO>
1928年、DR.FLOYD ALONZO MCCLUREは茶カン竹に学名”ARUNDINARIA AMABIRIS”
を与えた。 アメリカの若き異色の植物学者博士は1925年中国政府より依頼を受け、竹の分類の分類
の為訪中する。 広東省の大学で教鞭をとりながらの研究を進め、茶カン竹を初めて見た時から3年後に
その種を学会に発表をした。 博士は釣人ではなかったが、米国はまさにその頃バンブーロッド黄金時代
を迎えていたのであった。 


革命委員会副議長のCHI氏によると、懐集はトンキンケーンの輸出では100年(1974年時点で)の歴史
があり、世界40ヶ国に輸出してきた。 広東省では8種類の竹を栽培しているが、中でも茶カン竹は竹の王様
である。 その肉厚、繊維の丈夫さから、家具、スキー ポール、園芸用等そして釣竿などに使用されてきた。
何故懐集が茶カン竹産業の中心であるかと言うと、町を中心に半径24kmにわたり茶カン竹が栽培されて
いて、どこよりも多くの茶カン竹が産出されてきたからである。 ロッド用に輸出される茶カン竹のサイズは
4段階に分かれていて、細いものだと直径2.5cmから太いもので直径5cmくらい。 まれにそれ以上の
6.2cm位の物も稀にある。 茶カン竹はそれ自体の移植も行われている。 国内だと雲南省や広西省
にも移植されている。

懐集は茶カン竹の源産地であり、広寧はYELLOW BAMBOOの産地である。 茶カン竹は世界に輸出
されるが、YELLOW BAMBOOは中国国内用であり、主に建築現場の足場(SCAFFOLDING)として
用いられる。

イギリスで竹がロッド素材として用いられた当初は、2〜3ピースロッドのティイプセクションのみに限られて
いた。 また全セクションにバンブーが使用された正確な時期は分かっていないが、1801年のイギリスの
書物によると竹を接着材で貼り合わせ、DOUBLE TOOLED PLANEで大まかなテーパーを削り出し、
金ヤスリとサンドぺーパーで仕上げ、シルクスレッドでジョイントを巻きあげたとある。 その本の著者はそう
いう方法でロッド製作を20年も行ってきたとのことから推測すると、オールバンブーメイドのロッドは18世紀
後半に存在したことになる。 竹片(スプリット)を接着してからテーパーを付けるという手法は勿論、現在の
ロッドメイキングのそれとは異なる。 しかし、19世紀半ば、すくなくともイギリスのロッドメーカー3社は竹の
繊維は竹の外周(表面)に近ければ近いほど強く、それらの繊維の強い部分をロッドの表に配することが
重要であると認識していた。 しかし、接着後にテーパーを削りだしたのではこの重要な強い繊維を削り落し
てしまうことになる。 1847年の”A HANDBOOK OF ANGLING”では当時の幾つかのメーカーは竹
の強い繊維部分を表に出さずに、中心に来るように接着し、それからテーパーを削りだしている。 私(著者)
の知る限りでは、竹の強い繊維をロッド表面に配して完璧なソリッドバンブーロッドを作った職人は当時3人
だけであった。 1800年当初のスプリットバンブーロッドは4角ロッド(QUOD ROD)であった。 現在主流
である6角ロッドの登場は1845年までさか昇り、幾つかのロッドメーカーにより製作が行われていた。

<私の感想>
ここで注目すべき点は、竹の表部分を中に入れテーパーを削り出す発想は、正に日本の和竿師が言うと
ころの合わせ穂の技術ではないか。 和竿の穂先は削り穂と言って真竹を削り出した物と、3辺あるいは
4辺の真竹を表皮側を中心に向けて貼り付けてテーパーを削り出し作る合わせ穂とがあるが、竿師の英知
の行く先は期せずして世界が違っても同じなのだ。 毛針で魚を釣るという発想は全然無関係な太古の
世界のあらゆる地域(中国でも毛針釣りの文献がある)で自然発生的に生まれた事実を連想してしまう。


<ANGLER’S BAMBOO>
誰が最初にオールスプリットバンブーを作ったかは資料が無く、分かっていないことは上に述べたが、確か
なのは、1830年にイギリスで3枚合わせの物があったことは事実である。 間も無くアメリカでスプリット
バンブーロッドの父と呼ばれた鉄砲職人SAMUEL PHILLIPEは1839年頃、フォーストリップのロッド
ティプ作り始め、1845年には、ティップセクションだけでなく、バットセクションも含めたホールスプリットの
4角ロッド(QUOD BAMBOO ROD)を世に送り出したのである。 現在主流の6角バンブーロッドに関し
ては、別の鉄砲職人であったHIRAM LEONARDが最初であると言われるが、その真偽は不明である。
PHILLIPE氏がLEONARDの為に作ったのでないかという見方をする人もいる。 というのはPHILLIPE氏
の息子SOLON氏は当時既に6角バンブーロッドを作っていたという事実があるからだ。一方、LEONARD
氏とメイン州で会ったことのあるTHOREAU氏はLEONARD氏はとてもハンサムで紳士的な人柄であり、
彼こそが最初に6角ロッドを作ったのだと主張する。 
HIRAM LEONARDはメイン州に工房を構え、バンブーロッド製作に着手する。 17世紀イタリア クレモナ
の世界的に有名なバイオリンメーカーNICOLO AMATIは二人の優秀な職人を産み出すことになる。
一人はANDREA GUARNIERIであり、もう一人は世界で最も偉大なANTONIO STRADIVARIである。
 LEONARDはロッド界のNICOLO AMATIであり、同様に二人の優秀な職人を育てた。一人はEDWARD
F PAYNEであり、もう一人はFRED E THOMASであった。 彼らのロッドを手にする時、ストラディバリ
ウスのバイオリンを手にしたバイオリニストが抱くであろう畏敬の念を共感することになるはずだ。

イギリスはバンブーロッドのパイオニアであったが、レナードを始めとした優秀なロッドメーカーはその首位の
座をアメリカに譲ことになっていったのである。 イギリスが長い間主張してきたブラス製の重い重厚なフェル
ールに対し、アメリカメーカーのそれは薄く軽いニッケルシルバー製であった。 アメリカ製のロッドは軽く
また早いレスポンスの物としてイギリスロッドとは別の道を歩き始めたのだった。 加えてドライフライフィ
シングの流行である。 カルカッタケーンを使用したコンチネンタルなアクションより、軽快なティップアクション
のロッドが向いていたのである。 ドライフィシングでは、上流に向かっての釣り上がりが主流だが、風は
風下に吹き付けることが多く、上流に向かってキャストするには風を切ったキャストが必要であり、またドライ
フライを乾かす上でのフォールスキャストにおいてもロッドは固く軽快なレスポンスを持ったものに歩があっ
たのである。 第一次世界大戦以前、アメリカのフライフィシャー達はそういったドライフライフィシング向いた
ロッドを望んでおり、CHARLES DEMAREST社は中国から茶カン竹の輸入を始めることとなったのである。
ドライフライアクションにはカルカッタケーンより肉厚で色もライトカラーな茶カン竹のほうがふさわしかったの
である。 当時のカルカッタケーンは全て火による焙り模様が入っていた。 

<トンキンケーンの輸出開始前後の中国近代史>
 ANGLER’S BAMBOOのカバーの写真左の竹には赤い字でマーキングがしてあることにご注目。 
「英大隊に死を!」と書いてあるのだろう。 イギリスの植民地政策に対する当時の中国国民の反感が現
れていて興味深い。 イギリスは中国から茶を輸入したが、予想外にも、イギリス国内ではお茶を飲む習慣
が大流行してしまった。 支払は全て銀であったが、中国は当時イギリスより輸入する物は毛織物が少々
あるだけで、イギリスの銀は中国に流れる一方であった。 カルカッタに本拠地を構えた東インド会社は
赤字解消の為に考えたのがアヘンの中国密輸である。 東インド会社はインドで作らせたアヘンを中国
清朝に密貿易し、アヘンは瞬く間に中国に蔓延し、清朝は内部から頽廃していった。 東インド会社は思惑
どおり銀を取り返すことに成功するのだが、清朝もだまって事態を容認するはずもなく、イギリスとの貿易
中止、アヘン密輸業者の処分などを行った。 これに対してイギリスは清の自由貿易化を促すべく、清に
戦争を仕掛けることにする。 これがアヘン戦争である。 戦争に勝利したイギリスは南京条約を締結
させ、黄浦港以外の4つの港も開港させた。 多額の賠償金を要求し、またこの際に香港を割譲させた。
 しかし、南京条約締結後もイギリスの対清貿易は不調のままで、また清朝も南京条約の履行には積極的
ではなかった為イギリスは再び清に戦争を起こすことを考える。 フランス人宣教師が殺害されたのを機に
フランスのナポレオン3世を誘ってアロー戦争を仕掛ける。 再び戦争に負けた清は天津条約で英仏
軍の北京占領を受諾し、続く1860年の北京条約で沿海州をロシアへの割譲、九龍半島の一部をイギリス
に譲渡し、アヘン貿易の公認などの条件を飲まされる。 こういう時代にアメリカもどさくさにまぎれて清と
不平等条約を結んだ。 当然欧米のそういった行動に愛国的立場で反対する勢力が清の内部に生まれ、
1900年の義和団事件がおこる。 この後、日本、ロシアは中国での権益をめぐり日露戦争が勃発する。
 第2次世界大戦へ序章である。 こんな時代を背景にトンキンケーンは欧米に運ばれることなっていった。
 義和団事件を扱った映画に「北京の55日」チャールトン・ヘストン主役、ニコラス・レイ監督1961年がある。 

<私の感想>
アメリカの場合は、デマレスト社がトンキンケーンの仕入れを行った。 イギリスの仕掛けたアヘン戦争の
結果欧米諸国と不平等条約を締結させられた当時の中国の出荷は黄浦港で、そこからトンキンケーンは
多目的用途でイギリスにも運ばれたはずであるが、それらの竹はロッドにも勿論使用されたはずである。 
ただ、イギリスのロッドでトンキンケーンという言葉は聞いたことが無い。 ANBLER’S BAMBOOにも
書かれているように、トンキンケーンという呼称はアメリカのMONTAGUEとデマレスト社が付けた名称
なので、イギリスでもトンキンケーンという間違った名称で呼ぶ可能性は少ない。 ただハーディーロッドに
フェアリーというのがある。 3ピース9フィートで#5だ。ハーディーのバンブーロッドとしてはかなり軽量な
印象を受ける。 中空構造のロッドでは無いはずなので、その軽さの理由はおそらく茶カン竹である可能
性はある。 勿論茶カン竹だからと言ってロッドが軽くなるということでは無く、あくまでも持ち重り感はその
テーパーデザインによるところが多い。 つまり重心位置、つまり全体のバランスで大きく変化する。 フェア
リーは全体には胴にも加重がかかるデザインではあるが、それは全体の長さからくる重量が胴に乗って
くるが、設計としてはティップは極繊細でティップの曲がるアクションを意図したようだ。 つまりドライフライ
使用をイメージして設計されたような印象をを受けたが、アメリカのドライフライの発展が理由でカルカッタ
ケーンから茶カン竹に移行していった経緯と同様にイギリスでもドライフライアクションのロッドには茶カン竹
を使用したほうが理想的であるという発想が生まれたのであろうか。 イギリスではバンブーロッドが姿を
消して行った理由として、アメリカの優れた茶カン竹によるドライフライロッドの出現があり、軽さを追求した
レナード始めとする優秀なロッドメーカーのロッドは仕上げにおいてもイギリス製に大きな差をつけたことが
挙げられる。 ハーディーロッドの殆どはカルカッタケーン製でトップヘビーなコンチネンタルアクションの為、
重量感があり主にウェットやニンフの為のロッドであった。ご参考まで、カルカッタケーンは東インド会社
の置かれたのがベンガル地方のカルカッタであった為、周辺から容易に入手出来、にロッド素材にも
多用されたのであろう。 重たいブラスフェルール製のロッドはドライフライの発達の中で淘汰される運命
をたどることになったのだ。 

因みにカルカッタケーンが使用される以前のロッド素材としてはランズウッドやグリーンハートなどの
木が使われたが、それらも西インド諸島の植民地から運ばれた物だ。 イギリスは植民地化を進める
中でフライフィシング用のロッド素材、フライタイイングの素材、そして放流可能な場所へファリオ
(ブラウントラウト)の発目卵の放流を行ったのだ。 つまり、イギリスのみならず世界のフライフィシング
の発展の歴史は植民地政策の歴史そのものなのだ。

<トンキンケーン探訪記>
さて、私のMARDEN氏の追体験版とでも言うべき、トンキンケーン探訪の話に戻すことにしましょう。

LUIS MARDEN氏の訪中は1974年。 今から35年も前。 田園地帯が広がり、ホワイトグースが帯状
に飛び立ち、水牛が水に戯れると言ったのどかな風景は見られませんでした。 私もMARDEN氏の時代
に訪れたかった。 今は近代化されていて、道路も良く整備されている。 しかし、四会の町を過ぎ、支流の
北江を渡り、道路がSUI川に沿って走る頃にやっと、ANGLER’S BAMBOOに書かれていた情景の断辺
を思わせる田園景色を見た。 SUI川沿いにはYELLOW BAMBOOが確かにお辞儀をしているかに見える。
竹の回廊のある広寧付近では本の通り竹が川を蔽い隠していて、なかなかSUI川の全貌をを見ることができ
ない。 WIKIPEDIAのニュースによると、建設工事のため農地買収をしようと計画を立てた行政の買収交渉に
農民が反対。 これに対し、行政は工事業者を農地に入れ強引に工事を推し進めた。 怒った農民と行政の
間で紛争となり、怪我人も出ている。 農民に狙われ命の危険を感じた村長は山に逃げ行方がわからない
とあったが、まさにこの町の何処かの村で起こった話ではないか。 そういえば、この付近ではあちこちで工事
が行われている。 その為、道路は凸凹で、対向車はこちらの車線に入ってくるは、クラクションは良く鳴らす
はで慌ただしい運転が続く。 竹の回廊の広寧を過ぎてからさらに1時間北上すると目指す懐集だ。


■■■■ いよいよ茶カン竹の故郷懐集へ

懐集まで来ると道路沿いに竹業者が目立つように
なる。 初回訪問の時はあいにくの雨。 遠い所まで
来てるんだから晴れてほしいもだ。 雨の車窓の向
こうに見えるテント状のものは細いトンキンの若竹。
根茎の太さで竹の太さが決まるので、根幹が太く
なるまでは、太いトンキンが採れないということにだ。
直径5cmのトンキンケーンになるまでは、十数年の
歳月が必要なのだろうか。

<トンキンケーン探訪記>
懐集は広州から130マイル程北西に位置する南領山脈の裾野に位置する山間の町。 観光地で有名な
桂林に続く道も地図で確認できるが、懐集から200km以上北西に位置し、ここから桂林に至るのは容易では
無い。 桂林に行くのであれば、陸路の場合、広州からバスを利用することになる。 所要時間は約6時間位
とのことだ。 懐集の竹業者を訪問するには、町からタクシーをチャーターすることになる。 幸い町にホテル
はあるが、英語は残念ながら殆ど通用しない。 ホテルのフロントなら片言くらい話して欲しいところですが、
外人客は殆ど来ない場所なので必要無いのだろう。 円の両替すら不可能な町だ。 ただショーロンポー
は美味かった。 因みに懐集はMCCLURE教授の時代には広東語でWAITSAPと言っていたとのことだ。


■■■■■ 懐集は茶カン竹の故郷

山は全て茶カン竹の若竹で覆われている。 そんなに遠くない過去に花が
咲いたのであろうか。 茶カン竹のサイクルはMcClure博士の研究では
35年周期ではないかと言う。 それは博士が1925年い訪中した時に幸運
にも花が咲いたということ。 そして、35年後に再び訪中した際に同じ場所
の竹に花が咲いたために、そう推測している。 竹は花がさくと、その竹
林は一旦枯れてしまい。 花の残した種子からまた再生するからだ。
しかし、同じ場所で2回花が咲くのを目撃するのは偶然とは言え、神がか
っているとしか言えません。 求める者にはチャンスも訪れるのであろうか

竹の種の採取は植物学者にとっては貴重な資料である。 茶カン竹のサ
ンプルはアメリカに送られ、その後、南米にも送られ移植に成功している。


ベビートンキン

現地ではトンキンバンブーとも茶カン竹とも呼ぶ。 写真は直径2cm位
の若いトンキンケーン。 写真から分かる通り竹は1本1本真っ直ぐに生え
いる。 茶カン竹の寿命は10年以上とのことだが、竹を10年も放っておく
ことはせず、皆伐採して商品にする。 細い竹は園芸用や昔はスキーの
ストックに利用したりと用途は多岐に及んだ。 またロッド用も直径2cm
位から使用されていたと記述されている。 出荷は当時は香港からも行わ
れていたとある。 茶カン竹は当時から輸出用で外貨獲得の為の貴重な
商品であった。 またアングラーずバンブーにも足場材として使用された
ということは一切書かれていない。 そんな貴重な竹であったが、現在は
どうなのであろう。 現在は昔より竹の需要はなくなっているのは明らかだ。 
園芸用も現在はプラスティックやアルミなどだし、スキーストックなども別
素材が主流である。 バンブーロッド用としても昔ほど重要は多くであろう。
新しい工業素材の出現は竹業者の生活にも変化をもたらせたはずだ。
 
■■■■■


■■■■■ 懐集竹工場内風景

連絡をつけておいた竹業者を訪れる。 中でもくもくと火入れ作業を
している従業員。 梱包をするために曲がった竹を曲げ伸ばしして
いる。 手際よい作業で矯めの終わった竹が綺麗にならんでいる。
写真の竹は園芸用に輸出されるのだと言う。 この工場は懐集で
二番目に大きい所だ。 一番大きい所も親戚が経営している。 彼ら
も日本人とトンキンケーンの取引をするのは当社が初めてである。 
さすがに懐集までは他のバイヤーも来ないのだろう。 何故なら、SUI
川のずっと下流には竹の販売業者が幾つか存在し、懐集以外のトン
キンケーンや色々の種類の竹が集まり、そこで取引されるからだ。

<トンキンケーン探訪記>
懐集の町から竹業者を訪問するには、タクシーを利用するが、近い業者でも30分はかかる。 前もって
コンタクトしていた業者のある村に行く。 この村は懐集の中でも特に茶カン竹の生産が多い場所だ。 
ただ、太い茶カン竹は数が大変少なく、山の高いところに生えているので集めるのは簡単では無いという。
業者も竹を勝手に伐採することは出来ず、政府の許可を申請してから切り出すのだ。 つまり山は政府の
ものでそこに生える竹は業者に管理を委託しているのだ。 自分たちで管理する竹には、自分たちの印を刻む。
これがマーキングであり、国営の竹である証拠でもある。 業者が管理したトンキンケーンの殆どは国営企業
が欧米に輸出するのだ。
 アメリカの往年のバンブーロッドメーカーが使用していた全ての竹も皆この懐集産
である。 何故ならデマレスト社が輸入していた竹は全て懐集産だからである。 現在では雲南省の他には
隣接する広西省まで茶カン竹が移植されていて、その繁殖地はMACCLURE教授の時代からかなり
広範に広がっていると言う。

オンボロタクシーをチャーターして色々な竹業者も訪ねてみた。
「ここで停めてください」という言葉する分からないので運転手と
のコミュニケーションもままならない。 意外だったのは、多くの竹
業者を見て回っても太い茶カン竹を扱っている所は見当たらな
い。 横眼で睨まれ一言「メイヨー」で終わりだ。 中国語でメイヨ
ーは無いの意味だ。 写真の山の緑は全てトンキンケーンである。
どれも皆細い若竹で覆い尽くされている。 十数年前に花が咲き
落ちた種から新しい竹林のサイクルがはじまる。 ただ、全てが同
じサイクルでは無い。 山の奥には別のライフサイクルのトンキン
ケーンの一群があり、太い竹は山の奥の高い場所に行けばあると
いうことだ。
■■■■

<トンキンケーン探訪記>
茶カン竹の竹林の寿命は35年であると言われている。 植物学者McClureは1925年の初訪中で竹の花を
見るという植物学者にとっては幸運な経験をした。 ANGLLER’S BAMBOOには、植物学者の幸運は
竹業者の不運であると記述してある。 一旦花が咲くとかなり広範囲の同世代の竹が死滅するので、竹の
供給が少なくなってしまうからだ。 McClure教授が1960年に2度目の訪中をした際に、偶然にも同地域で
花が咲いていた為、トンキンケーン竹林のサイクルは35年と想定した訳だが、その計算で行けば1995年
にも花が咲いたことになる。 今から(2009年)まる13年前であると予想される。 これら懐集の山は13年目の
竹林であるとすれば、竹もまだまだ細いのであろうか。 しかし、私が見た全ての竹業者は若いトンキンケーン
を伐採して園芸用の出荷に追われていた。 細いなら細なりに商品にして生活しているたくましい村民の姿が
そこにはあった。 因みにMcClure教授は以下の出版物を残している。 

"The Bamboo A Fresh Perspective" Harverd University Press 1967
Floyd Alonzo McClure 著

<ANGLER’S BAMBOOエピローグ概略>
茶カン竹の移植には3つの方法がある。 一つは母体の移植。 1〜2年の直径1〜3cm程度の物で根
が繋がった数本単位で行う。 根茎15〜30cm程を残しておく。 掘り起こしたら素早く、上の部分をカット
する2日以内に移植する場合は、5〜7節残しておく。 2日以降の場合には3〜5節残してカット。根には土が
15〜20kg付いた状態で行う。 移植する穴は深さ20〜30cm程度。 2つ目はトンキンケーンの刺し木。 
芽のある茎を30〜45cm切り取り植える。 この際若い竹とそれより古い竹を同時に植える方法が良い。
それは古い竹は若い竹に水分を補給し、若い竹は芽の発育を助ける働きをするからだ。 土は十分盛る。
3つ目の方法は根の移植。 3ヶ以上の芽をもった2〜3年の根茎を20〜30cmの長さで切り取り、15cm
位掘った穴に並行に植える。 この際、根茎は約30度上に向け、最後の芽が地上に出るようにする。
1935年、Floyd Alonzo McClure教授は茶カン竹の根をアメリカに送っている。 多くはジョージア州
にあるアメリカ農業センターが移植を試みた。 また残りはルイジアナ、プエルトリコの各農業研究施設にも
送られた。 ルイジアナの農業センターでは冬のマイナス11度にも耐えることができた。 またプエルトリコ
では同国のTORO NEGROではすでに直径5cmに達した茶カン竹が既に数千の竹林を形成している。 
そのサンプルを持ち帰りエバリット・ギャリソンに見せ意見を求めたところ、中国産の茶カン竹ほど繊維は
強くないとのことであった。

現時点では原産地懐集と同質の茶カン竹が移植で育ってはいないが、何時の日か、研究者の手により
同質の茶カン竹が遠く離れた異国の地で豊に育つ時が来ないとは言えない。 ただ、確かなのはその時
が来るまで、中国広東省の濁流渦巻くSUI川を抱えた懐集の山々が竹の最高種である茶カン竹、TEA
STICK BAMBOO トンキンケーンを育んでいくことだろう。

茶カン竹の代用の竹として、文理竹、雛(中国語では竹冠)間竹、苦竹、白竹、筆竹がある。 殆どは広東省 
で採れる。 バンブーロッドはそれまで使用されていたカルカッタケーンに変わり茶カン竹が主流となって
いった。 フライ愛好家は保守的な考え方をする傾向の人が多く、最初から茶カン竹のロッドを受け入れず、
インドのカルカッタカーンの方がフライロッドに適しているという先入観を持っていた。 その為、しばらくの間
フライショップではカルカッタケーンのロッドと茶カン竹のロッドの2種類がが併売されていた時期があったが、
やがてドライフライフィシングの流行の中で、軽さと反発力に勝る茶カン竹にその主役を奪われ、やがて
カルカッタケーンロッドは店頭から消していった。 100年以上の長き間トンキンケーンという間違った呼称で
呼ばれ続けてきた茶カン竹を本文では軌道修正の意味合いを込めてANGLER’S BAMBOOという
呼称を多用してみた。 釣り人のロッドに使われる竹、愛すべき竹、それがANGLER’S BAMBOOである。
 



■■■■ このツール何だか分かりますか。 茶カン竹の太さを測る為の
ゲージです。 2つあるからあげるよと言われた時にはつい舞い
上がってしまいました。 昔からこのゲージで竹の太さを測りクラ
ス分けしていた時の物である。 竹の太さを測定する簡単な道具
である。 しかし、大切な道具を簡単にあげて良いのだろうか。私の
素朴な疑問はすぐに解決した。 彼らはもっと良い測定器具を持っ
ていたのだ。 それは何とノギス。 自慢そうに取り出したノギスで
竹の太さを測定していた。



トンキンケーンの里 懐集のとある村から
SUI川の入江で伐採した竹を洗う。 竹の間からはトンキンの里が垣間見
える。 全くしてのどかな風景。 ここでは時はゆったりと静逸に流れている。 


<私の感想>

18世紀後半から19世紀初頭にかけて中国清朝は欧米列強の思うままに操れ、貪欲なまでの略奪を受け
続けた訳だが、その当時のアメリカの紙面ではそれらの蛮行はどう扱われていたのだろう。 ロシア軍が
遼東半島を占領したとか、フランスが広西省を借上したとか、イギリスが香港を手に入れたとか、日本が
ロシアと満州の権益を争いついに日露戦争が勃発したとか、日清戦争が勃発したとか、そんな記事が連日の
ように紙面を賑わしたはずだが、それらはアメリカ民間人に一体どの様に映ったのであろうか。 中国を気の
毒に思う知識人は沢山居たのだろうか。 戦時中はどの国でも思想統制がなされていたはずであるから、
全ては中国に非があるような報道がなされていたのではないだろうか。 そうであったとすれば、そんな悪い
イメージの国から産出された竹から作られたロッドであると思われでもしたら高級バンブーロッドのイメージが
損なわと心配した輩が、敢えてトンキン(ベトナム)という別のアジアの国の竹であると思わせたかったので
はないだろうか。 勿論これはあくまでも私の推測である。 しかし万が一そうであるとすればトンキンケーン
という呼称は大変重い時代背景を背負っていると言わざるを得ない。 一方時代は変わり、私が訪れた懐集
の村では冬でもまばゆい太陽の下で茶カン竹はインディアンのテントのごとく組み上げられ乾燥されていた。 
そこには当然過去の悲惨な時代など微塵も感じさせない。 ベトナムのメコン流域を旅した時もそうであった。
 枯れ葉剤を散布された地域でも傷跡をあえて探さない限りメコン川は何も語ることなく滔々と流れ続けている。 
日本でも広島、長崎の原爆体験は歴史から消え去ることは無いと言っても、普段の日常生活からは遠い昔の
話となってしまっているのが現実であり、アメリカを怨んでいる若者なぞ存在しないと言って良い位だ。 
それは日本も中国もベトナムも全く変わらず皆一緒だ。 皆日々の多忙さに現在を生きることで精一杯だ。
  ただ、私は今回、ANGLER’S BAMBOOを読んで、その時代背景も多少勉強してみて大いに勉強に
なった。 忙しさの中にもバンブーロッドを削る時間が取れたら、そんな遠い時代に思いを馳せながらプレ
ーニングフォームの乗せた茶カン竹にカンナを滑らせてみるのも悪くはないだろう。

次回は出来たらカルカッタケーンの探訪に挑戦してみたいと思います。 中国には500種類の竹があると言われ
れるが、インドでは136種の竹が存在するそうだ。 カルカッタケーンに関しては、その名の通りベンガルのコルコタ
(昔の名はカルカッタ)あたりで繁殖している竹のようだが、136種の中からGigantochloa macrostachaya
を見つけ出すこと自体かなり困難な事のように思われる。 それにベンガル虎も怖いですね。

レオン 三浦

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