1) 艾 提 〔乃/小〕 尓 清 真 寺 (新疆維吾尓自治区喀什)
中国最大の面積を持つ新疆維吾尓自治区、その区都烏魯木斉から直線距離で1200km以上――長距離寝台バスなら1470kmの33時間程、列車なら24時間余、ただわたしの場合は約一週間かけて喀什へ――西南西へ行くと喀什(疏勒)がある。中央アジアから中国へと続く絲綢之路――天山南路(西域北道)――の要衝の一つとして、阿克蘇(姑墨)・庫車(亀茲)へと続いている。ここからはキルギス・タジキスタン・アフガニスタン・パキスタンの国々はもうすぐそこの距離。ガイドブックによると、喀什(カシュガル)とは、ペルシャ語等で「玉の集まる所」、モンゴル語で「緑色の屋根を持つ建物」と言うそうだ。人口の約80%以上が維吾尓(ウイグル)族のイスラム教徒の街。長い東西交易の果ての人種の坩堝か、スカーフを巻いて(みんながみんなじゃないけど)歩く女の人たちの眼の色が碧く――黒眼の人も白目がくっきり――、彫りが深くて鼻筋が通っていて、それまでの沿海部の人たちを見慣れたわたしには実にエキゾチックに映り、綺麗だった。だからと言って、気安く声をかけるなんてことはできません。。。
繁華街の一つ欧尓達希克路(五地西〔上/下〕路)から解放北路を横切り諾尓貝希路と吾斯塘博依路とがぶつかる艾 提 〔乃/小〕広場へ行くと新疆最大規模を誇るイスラム教寺院艾 提 〔乃/小〕尓清真寺(エイティガール寺院)がある。「艾 提 〔乃/小〕尓」とはペルシャ語とアラビア語の合成語で「祭りを行う場所」「祭日の礼拝場」という意味になるそうだ。ローザ祭(ラマダン(断食)の終了[イスラム暦10月1日から3日]を祝い礼拝・説教後に小宴を開いたりする祭日)・クルバン祭(ローザ祭の70日後[イスラム暦12月10日から4日間]、羊を神に捧げて感謝し歌い踊る祭日)には多くのウイグル人で賑わうらしい。
1442年頃(某ガイドブックでは1422年)、カシュガルの王(東チャガタイ・ハン国の藩主)によって創建されてそうで、幾度かの改修と拡張を行い、清末の1872年の大改修を経て、今では約16000uの面積を持つ大寺院となっている。広場からは堂々とした正門と左右の二尖塔――二尖塔は等間隔ではなく向かって左尖塔が右尖塔より離れている――の偉容が見られる。正面の門楼の高さ12m、入り口の高さ約4.7m、入り口の幅約4.3m、上にはコーランを記したアラビア文字の額がある。正門の左右には約18mの円筒形の小尖塔が薄黄色のタイルで飾られていて、全体として美しい形をしている。正門階段前に座るウイグルのおっちゃんたちをよけながら門を潜って中に進み、庭園に入ると池と花木が迎え、小道が礼拝堂へとわたしを導いた。礼拝堂以外にも教経堂等々があるやはり広い。その礼拝堂は長さ約160m、奥行き約16m。花草模様の描かれた天井の屋根は、柱頭に彫刻を施した140本余りの柱が支えている。床には絨毯が敷き詰められ――もちろん偶像はない――、その聖なる空間には、礼拝時には立錐の余地もないほど人々で埋め尽くされるであろうと想像を掻き立てた――礼拝時には異教徒は入れないが、それ以外には見学できたので――。ここにしばらく座っていると、外の暑さに比べてかえって涼しく感じ、時折心地よい風が通るようにも思えた。
2) 阿柏霍加麻扎/阿帆克和卓麻扎
(新疆維吾尓自治区喀什)
南疆の街・喀什から東へ5kmほど行くと鮮やかなタイルで装飾されたアバクホージャー・マザーが見えてくる。1670年(1640年説あり)頃、アバクホージャーが父親ユースフホージャーのために建立した墓(ユースフホージャー・マザー)で、その後一族の5代72人が葬られているイスラム教の陵墓。ユースフホージャーはサマルカンドから喀什へやって来たムハンマドの直系と言われているホージャー(聖者)の孫で、その子アバクホージャーは喀什での宗教的・政治的指導力を発揮したそうだ――1693年にアバクホージャーが亡くなるとそこに葬られ「アバクホージャー・マザー」と呼ばれるようになった――。またアバクホージャー・マザー内には香妃の棺があり、このマザーが「香妃墓」とも呼ばれて、彼女の棺に纏わる幾つかの伝説に彩られている(実際は、歴史的には香妃の一族は新疆にイスラム教をもたらした一聖者の末裔としてもともと莎車に居たが、喀什での清朝への反乱鎮圧に協力した縁で1760年に北京に招聘された際、その一族の娘香妃が26歳で乾隆帝の後宮に入り、1765年には容妃とされる。しかし1788年に亡くなり、河北の清の東陵の裕妃園に葬られていると、ものの本にある)。
正面の門は上方はアラビア文字で書かれたコーランやさまざな幾何学模様・植物模様が描かれたタイルで飾られている。外から見ると、緑と青のタイルで覆われた直径17m余のドームが墓室を覆い、その四隅には青色が眩しいタイルをはじめ色々なタイルが貼られた高さ26mほどの円形の塔が建っている。喀什の抜けるような青い空に色とりどりのタイルがよく映えていて、ほんとうに綺麗だった。何故だか、周りの静けさとそのマザーの美しさとが合っているような気がした。中に入ると35m・29mの室には白色と黄色の地に青の花模様のタイル等で飾られた大小の棺が安置されていた。初めてイスラム教の陵墓を見た。種々のタイルで装飾された棺を前にして、わたしの周りには、しばしかつての喀什に絶大な力を誇示した一族の栄華の跡を見ている同教徒・異教徒の人たちが佇んでいた――ウイグル語やら漢語やら日語やら飛び交いながら実際はもっと喧しかったけど――。
3) 克 孜 尓 千 仏 洞 (新疆維吾尓自治区庫車)
新疆最大の街烏魯木斉より南西へ約630km、天山山脈南麓西よりに庫車(クチャ)(阿克蘇地区[阿克蘇市・温宿県・拝城県・庫車県・新和県・沙雅県・阿瓦提県・柯坪県・烏什県]第二の街)――長距離バスで約750kmの15、6時間、列車でも15、6時間――がある。漢代より亀茲として名を知られ、天山南路(西域北道)の重要地点だった。中国四大翻訳僧のうち4世紀末の鳩摩羅什生誕地、7世紀前期の玄奘三蔵訪問地と仏教史上著名な仏教国だが、9世紀半ばのウイグル人勢力拡大に伴う亀茲回鶻以降はイスラム化し、現在では90%以上が維吾尓(ウイグル)族のイスラム教徒の街となっている。町にはイスラム教寺院の庫車大寺、イスラム教伝道師の墓・黙拉納額什丁麻扎(モラナエシディン・マザー)、亀茲故城、郊外には克孜尓(キジル)千仏洞、克孜尓〔乃/小〕哈(クズルガハ)千仏洞、庫木吐拉(クムトラ)千仏洞、森木撒姆(シムシム)千仏洞、蘇巴什(スバシ)故城――昭怙釐東寺・昭怙釐西寺(たしか西寺区しか入れなかったと思う)――等々の多数の仏教遺跡がある。
庫車から西北へ約67km(某ガイドブックでは75km)、拝城県克孜尓鎮から7kmのところに庫車地域最大の石窟群がある――阿克蘇への途中に当たる――。ムザルト河(謂干河)北岸断崖の東西2kmに及び、230以上の窟は谷西区(1〜80、新1)、谷内区(81〜135)、谷東区(136〜200)、後山区(東小渓谷西辺崖上の201〜227・背後の崖上の228〜235)の四区(或いは西区・西特区・東区・東特区)に分けられている―― 一般開放窟と特別の有料窟がある――。その断崖上の石窟から辺りを見回してもこれといった緑は見あたらず茶色っぽい低めの山が連なっている。開鑿時期には諸説があるものの保存状態のよい70余窟は概ね後漢から宋代にかけて開鑿・造営されていて――220・222には8世紀後半の年号あり――、残されている壁画には仏教故事に関する本生譚(仏の前世の苦行・善行)・因縁譚(仏の功徳)・仏伝・供養等、経典に関する故事として涅槃、経変・説法・礼拝・伎楽・天象等、、仏・菩薩・飛天・比丘・供養人や山水、動物の画等々があり、また塑像は新1窟以外殆ど破壊されているそうだ――近代探検隊の持ち帰り等々――。
幾つの窟に入っただろうか、今でははっきりしない。仏像を祀り礼拝する支提窟(チャイティヤ窟)と居住・坐禅のための毘訶羅窟(ヴィハーラ窟)とがあり、毘訶羅窟には中央の主室と結ばれる坐禅用の複数の小室があり、そこには竈やベッドが設えられている。
第17窟の弥勒説法図、第47窟の捨身飼虎図等々は芸術性が高く、また第8窟の伎楽天は色彩鮮やかで、往時の亀茲の仏教美術の高さを彷彿とさせ、窟中に入るとまるで妙なる美しい音色を奏でて迎えてくれているようだった。わたしが訪れたときには偶然他に観光客はおらず、まったくの貸し切り状態と化していて、その静けさの中で石窟にいると時間軸に沿い現在と過去とを行ったり来たりしているような感覚にとらわれていた。悠久の時間に亘って開鑿を続けてきた人々はどんな思いで作り続けてきたのだろうと柄にもなく思ったりしていた。
4) 蘇 公 塔 (新疆維吾尓自治区吐魯番)
新疆の区都の烏魯木斉より南東へ約180km弱――バスで2時間半から3時間――行くと天山山脈南麗・ボゴダ山脈南側に位置するトルファン盆地中央部に吐魯番――重慶・武漢・南京の三大火炉に加えて四大にしてもいい位なのにね――がある。漢代には車師前国、5世紀には高昌国があり、天山北路と天山南路(西域北道)とを結ぶ幾つかの道の一つとして、絲綢之路の要衝の一つとなっていた。トルファン盆地は周囲を山に囲まれその北側には、玄奘三蔵の『大唐西域記』や孫悟空の活躍する『西遊記』で有名な平均海抜500m余りの火焔山が南北10kmの幅で東西100kmにわたって連なっている。
市街地より東へ2〜3km程(某ガイドブックでは中心地より6km)行くと、新疆で現存するイスラム教最大規模の塔、吐魯番のシンボル的な蘇公塔がある。清の乾隆四十年代の1777年(1779年説もある)頃にトルファン郡王スレイマンが父親エミンホージャの功績を記念して建立したもので、今ではすぐ横の清真寺(モスク)と一体となっている。
新疆最大の塔は遠くからでもよく見え、見ようによっては長い円錐形の砲弾の形にも見える。上に行くほど窄まっていくその円筒形の塔は、基底部直径約14m、高さ約40m余、種々の模様が彫り込まれた磚によって積み上げられている。その磚の外観は単色ながら工夫された彫り込みのために美しい文様で楽しませてくれた。わたしを含めた参拝客・観光客はそれほど多くなかったが、それぞれにそこ――蘇公塔の横のモスクから――に上って窓から外をのぞき込むでいた。窓から見える風景は、見晴らしがよく遠くの葡萄畑を渡ってくる風が少々気持ちいい――時間帯によるだろうけど――。でも、蘇公塔より10kmほど北東の方向には燃え盛っている山――赤色の襞に陽光があたると火炎が立ち上るように――のような火焔山が連なり、気温の上昇と共にいやが上でも暑さ(熱さ)を体感させられるものの、これもまたここの土地ならではのこと。暑いけど気持ちいい。だけど気持ちいいけど暑い(どっちやねん)。
5) 柏 孜 克 里 克 千 仏 洞 (新疆維吾尓自治区吐魯番)
新疆の中心地烏魯木斉より南東へ約180km弱――バスで2時間半から3時間――進むと天山山脈南麗・ボゴダ山脈南側に位置するトルファン盆地の中央部に吐魯番がある。吐魯番郊外には柏孜克里克(ペゼクリク)千仏洞、勝金口千仏洞、吐峪溝千仏洞、雅尓湖(ヤールホト)千仏洞、高昌故城、交河故城等々の仏教遺跡やら旧都城跡やらといっぱい点在している。車に乗り吐魯番より北東へ約60km弱行くと、火焔山中のムルトウク河西岸(南岸というガイドブックあり)の約40m断崖中腹に南北400m余りに及ぶ上下二層の柏孜克里克(ペゼクリク)千仏洞がある。「柏孜克里克」とはウイグル語で「美しく飾られたところ」という意味だそうだ。開鑿は6世紀の高昌国(麹氏)時代からと言われ、9〜10世紀高昌城を都(866年イディクート王の冬の都から始まる)としていた西州ウイグル王国(天山ウイグル王国)の時期に最盛期を迎え、元代まで続いたそうだ。石窟群はほぼ中央で折れ曲がり南には洞窟に、北には断崖に日干し煉瓦が積み重ねられて造営されている。長方形や方形の窟、アーチ型・ドーム型等々の天井と多様に組み合わされている。青い空に薄茶色の煉瓦が何故かしら合う。
石窟の多くはイスラム教進入時に破壊されたり、清末にドイツのグリューンウェーデルやル・コック、イギリスのスタイン等々の近代探検隊によりすっかり持ち去られているが、僅かな石窟に残る塑像・壁画からも当時のウイグル人の仏教文化が知られる。ただ、わたしが訪れた時は数窟だけ見学可能だった――最新のガイドブック(『地球の歩き方39』2001年5月刊行)によれば、17・20・21・26・27・31・33・39窟の計8窟が公開されていると言う――。礼拝のための支提窟(チャイティヤ窟)と坐禅・居住等のための毘訶羅窟(ヴィハーラ窟)とからなり、支提窟は主室に中心柱や仏壇がある。壁画のテーマは、仏の前生である王子・若者・商人等が過去仏に供養し、そして将来仏となる授記を得る「誓願図」が多数あるそうで、第27窟にはアーチ型天井に千仏、第33窟には仏涅槃図があって涅槃を悲しむ西域諸国の王子らの顔が描かれている各国王子挙哀図が有名。また最近にマニ教文字銘が発見されマニ寺を仏寺に改変したものもあるとされている。
実際見られた窟は僅かであったが、河の断崖に沿う石窟寺院を作り続けた高昌国や西州ウイグル王国の人たちの真摯な情熱を見る思いがした。窟から外に出て日陰――直射日光は暑いもので――の手すりにもたれ掛かりながら風にあたってムルトウク河や周りの木々をぼ〜と見つめていると、月並みの感想だけど火焔山中によくぞここまでの石窟群を作ったものだと改めて思われてくる。
なお、今では前に西州天聖園や大漠土芸館もある。ますます観光地化しつつあるようだ。
6) 蘇 公 塔 (新疆維吾尓自治区吐魯番)
今年(2001年)の夏、再度吐魯番を訪れ、蘇公塔に足を伸ばした。この前来てからもう何年も季節がめぐっていた。蘇公塔は吐魯番市街地に近い位置にありながら、その道筋の左右の煉瓦の建物と木々がまだまだまるで今砂漠からオアシスに足を踏み入れた感を持たせる。しかし、やがて見えてきた蘇公塔の前に来て、以前とまったく様変わりしていて、正直少し驚いた。
2〜3年前に作られたそれは蘇公塔にぴったりとくっついた恰好になっている。最近できたと思われる入場口のアーチ門横から入ると、左にはお土産物屋(これも以前なかったはず)がある。それを見過ごしてそのまま進むと小さな花壇と池とが拵えられている。さらに行くと蘇公塔に付設する形で、やや広い舞台とそこへの階段が作られている。古き塔に現代建築物をくっつけている状態になっている。花壇・池も問題になるが、たとえ階段と舞台であってもどうして塔に最初から存在しなかった現代的施設を作ってしまったのかと、世界遺産調査のために訪れた人たちが一様に批判したそうで、結局蘇公塔は世界遺産に登録され損なったと現場で聞いた――実際どれだけ世界遺産としての規準を満たすのか等細かいところは知らないんだけど――。初めてみる人にとってはそこまで思わないだろうけど、以前の蘇公塔を見た者の眼からは明らかに違和感を覚える。以前は舞台などなくやや小高いそこへそのまま(入り口の階段は最初からあり)入れたものが、塔の正面を大幅に整地して階段等を作っていたのだ。でも、中国の人は使い勝手のよいように観光地を整備する意味でそのような施設を作ることが他の観光地でもよくあるものだから、残念なことではあるけど作る意識も分かる。
また蘇公塔の内部も改修されていて、礼拝場所モスク内の柱も真新しくなり、その周囲にある信者の泊まる小部屋群も新しくなっている。今でも宗教施設として礼拝時間になると集まる場所であるから当然のことなのだろう――昔の形への修復と最初からなかったものを新たに作るのとでは異なるんだろうな――。再びその横から見晴らし台へと上り、辺りを見回してみると、作られた当時からおそらくそうであったように遠くに火焔山が連なり、近くに葡萄畑が広がる吐魯番の長閑な風景を奏でている。何故かほっとした気持ちになりながら夕方の風に身を晒していた。
参考文献:(関連本を読みたいと言う人のリクエストにお答えして取り敢えず列挙します。別の本も随時挙げてみます)
徐華田・解耀華・陳宏博編集主幹『中国新疆名勝古跡旅游指南』
(新疆人民出版社)
阿布尤素甫馬通『中国西北伊斯蘭教基本特征(修訂本)』(寧夏人民出版)
呉〔火卓〕『佛教東傳与中国佛教芸術』(浙江人民出版社)
方立天『中国佛教与傳統文化』(上海人民出版社)